6.母の思い出
数日後、私は伯父様と馬車に揺られて、ブラッド侯爵家へと向かっていた。今回の目的は、前回の顔合わせの際、体調を崩されて不参加だったブラッド侯爵夫人のお見舞いと顔合わせである。
流石は侯爵家、と言うべき立派なお屋敷の前で馬車を止め、広い庭園やシンプルだけど重厚感のある内装に感心しながら、案内されるままに足を進める。広い客室に通されると、すぐにブラッド侯爵一家が姿を現した。
「やあジーク。今日は来てくれてありがとう」
「ショーン。こちらこそ、先日はありがとう。ご夫人の体調は如何かな?」
「もうすっかり良くなりましたわ。ご心配いただきありがとうございます」
仲が良さそうに挨拶を交わす伯父様方に、私も少しばかり緊張を和らげた。ウェーブがかかった長い金の髪と、緑の目がお美しい侯爵夫人も、お元気そうで何よりだ。
「クリス嬢、紹介しよう。こちらが妻のアンジェラだ」
「アンジェラ・ブラッドですわ。どうぞ宜しくお願いします」
「クリス・シルヴァランスと申します。こちらこそ、どうぞ宜しくお願い致します」
丁寧に淑女の礼を披露すると、侯爵夫人は悪戯っぽく笑みを浮かべた。
「私、一度貴女とゆっくりとお話をしてみたかったのよ。殿方はお仕事のお話がお有りでしたわね? ジーク様、少しの間、可愛い姪御様をお借り致しますわ」
「勿論、構いませんよ」
と言う訳で、私だけ侯爵夫人と一緒に別室に案内された。
侯爵夫人とは初対面の筈なのに、お話って何だろう? 何だか凄く緊張する。
「ふふ、こうして見ると、クリス様はソフィア様に良く似ているのですね」
テーブルの向かいの席に座り、ティーカップを手にした侯爵夫人の言葉に、私は目を丸くした。ソフィア、はお母さんの名前だ。
「母を、ご存知なのですか?」
「ええ。私はソフィア様とは仲良くしていただいていましたの。私がまだ若い頃は、こうして二人でお茶を飲みながら、取り留めもなくお喋りしたりもして。今となっては、とても懐かしいですわ」
一口喉を潤した侯爵夫人が私を見る目は、とても優しかった。友人だと言う事もあってか、侯爵夫人の雰囲気は、何だかお母さんに似ている気がする。私は思わず身を乗り出していた。
「あの、もし宜しければ、母の事を教えていただけませんか? 私は母の若い頃の事は、あまりよく知らないもので」
「勿論ですわ」
それから私達は、お母さんの思い出話に花を咲かせた。お母さんは貴族令嬢らしくたおやかだったが、時に芯の強さを見せる女性だったらしい。それは私の記憶の中に生き続ける、時に優しく、時に厳しかったお母さんの面影と合致し、懐かしさで胸が一杯になった。お互いに話したい事も、聞きたい事もまだまだ沢山あって、私達は時間が経つのを忘れるくらい、思い出話に夢中になっていた。
だから。
「失礼。母上、そろそろ俺にもクリス嬢をお貸し願いたいのですが」
あの男が無粋なノックを響かせて入室し、楽しい時間を中断された時には、危うく淑女の仮面が外れて素が出てしまいそうな程腹が立った。
「あらライアン、もうお終いなの? まだまだ話し足りないのに」
「私もですわ、ブラッド侯爵夫人。宜しければ、もっと母の話をお聞かせいただきたいですわ」
「ほら、クリス様もこう仰っている事だし、ね?」
「クリス嬢とお話ししたいのは、母上だけではないのですよ。またの機会にしてください」
あんたがまたの機会にしなさいよ! と、うっかり怒鳴る所だった。
何故初めてお話しする侯爵夫人との楽しい時間よりも、何度か顔を合わしているこの男との苛立たしい時間の方が優先されなければならないのだ。
理不尽に思いながらも、仕方なく庭を案内すると言う男の後に付いて行く。庭園に出て人気が無くなった所で、私は淑女の仮面を引っ剥がした。
「折角侯爵夫人と楽しくお喋りしていたのに、何であんたに邪魔されなきゃならないのよ」
「分からないのか? 俺達は婚約した仲だぞ。相手の家族とばかり話をして、当の本人を疎かにしてどうする。やっぱり仲が悪いのかと疑われかねないだろうが」
本当にこの男は、毎度毎度世間体の事ばかり!
「そうね。世間体は大事よね。でも今日くらいは遠慮して欲しかったわ!」
折角、お母さんの話をしていたのに。懐かしい思い出に浸っていたのに。
怒りのあまり、気を緩めれば涙が零れてしまいそうになって、私は密かに唇を噛み締めながら、男の後に付いて庭園を回った。来た時には素晴らしく感じた庭園も、伯爵家よりも種類が多く、可憐に咲き誇る花々も、何故か色褪せて見えて、私の心には入って来なかった。
「……お前、何怒っているんだよ」
男に促され、庭園の中にあるベンチに腰掛けると、隣に腰を下ろした男が顔を覗き込んで来た。
「別に。私に愛想が無いのは、いつもの事でしょ」
男の顔など見たくもなくて、顔を逸らしながら答える。
「そうだけど、今日のお前は何か違う。いつもより元気が無いって言うか……。何に怒っているのか、話してみろよ」
気遣わしげに尋ねてくる男。意外と鋭いのかも知れない。
「あんたに話したって、仕方ないでしょ。大体、原因を作ったのもあんたなんだし」
「それは……悪かった」
素直に謝る男が意外で、私は思わず男に目を向けた。
「あんた、私が何で怒っているのか、ちゃんと分かっているの?」
「いや、分からない。けど、俺が原因なのは確かだろうから」
本当にこの男は……。鋭いのか鈍いのか分からない。
「原因が分かっていないのなら、謝られても意味が無いわ」
「それはそうかも知れないが、謝らないよりは良いだろう。何に怒っているのか言ってくれ。次からは善処する」
「自分の胸に手を当てて聞いてみる事ね」
「……」
顰め面で自分の胸に手を当てる男を尻目に、私は庭園に目を向けた。心地良いそよ風が、私の頬を撫で、草木や花を揺らしていく。少しずつ、心が穏やかになっていくのを感じた。侯爵家の庭園も、先程よりも色鮮やかに見えてくる。
何時までも、こんな男に腹を立てていても仕方がない。それよりも、お母さんの友人だった侯爵夫人との素晴らしい出会いに感謝して、次にお話しできる時を楽しみに、幸せな気分に浸る方が余程良い。
男が静かにしているのを良い事に、私は侯爵夫人との語らいを、お母さんとの思い出を思い返していた。私が知らなかったお母さんを知る事ができて、懐かしくて、嬉しくなった。
暫くして、完全に気持ちが切り替わった私は立ち上がり、目を閉じて深呼吸した。景色が綺麗だからか、空気も美味しい気がする。日も傾いて来たし、そろそろお暇する頃だろうか。一度、伯父様の所に戻ってみよう。
「あ、おい!」
後ろから声が掛かって、私は渋々振り返る。
「何よ」
「その……ずっと考えていたが、やっぱり分からないんだ」
男は深刻な表情で見つめてきた。
え。
やけに静かだと思ったら、今の今まで、ずっと考え込んでいたって言うの?
「……心当たりが、多過ぎて」
私は頭を抱えたくなった。
まあ、この短期間でも、色々あったものね。へえ、一応自覚はあったんだ。
「だったら全部改善して」
取り敢えず、男に要望だけは告げておいた。期待は全くしていない。