5.気が重い約束
痛っ! またやっちゃった……。
針を刺した時に指先に痛みを感じた私は、作業を中断して指先を確認する。血が出たかと思ったけれども、幸い針は浅く刺さっただけで、怪我はしなくて済んだみたいだった。
今私は、淑女教育の宿題でハンカチに刺繍をしている。他の事は何とかそれらしくできるようになったのだが、刺繍だけは今も苦手だ。指先が不器用だからだろうか。
自分の部屋で一人でしていると、失敗が続くと苛々してくるので、庭先に出てみて正解だった。ここなら苛立ちが募る前に、花壇の花を見ながら適度に休憩できるし、何より開放感があって良い。
失敗ついでに手を止めた私は、花に目を向けた。こうしていると、お母さんの事を思い出す。
お母さんは縫い物が得意だった。お父さんが仕事で穴を開けてきたズボンも、お転婆な私が木に引っ掛けて破った袖口も、全部お母さんが繕ってくれた。小さい頃はお母さんの傍で、見る見るうちに塞がれていく穴を見ながら、まるで魔法のようだと目を輝かせていたものだ。少し大きくなると、私もできるようになった方が良い、と針と糸を持たされたが、針に糸を通す段階で躓き、結局お母さんに泣き付いていた事が、昨日の事のように思い出される。
きっとお母さんも、淑女教育で刺繍をしていたのだろう。今の私みたいに、庭先の椅子に腰掛けて、花を見ながら刺繍した事もあったんだろうか? ……できないからと投げ出さないで、もっと色々教えてもらっていれば良かったな……。
昨夜は両親の夢を見てしまったせいか、感傷に浸りそうになってしまった私は、首を横に振って作業を再開した。この刺繍は明日までに終えなければならないのだ。後少しなんだから頑張ろう。私は気合を入れて、またチクチクと針を進めた。
時間はかかってしまったけれども、何とか最後まで縫い終えて、完成品を確認する。うん、相変わらずの腕前だけど、私にしては、まあ上出来な方だ。
お昼過ぎから始めたのに、もう日が傾きかけてしまった。リリーが淹れてくれていた紅茶も、すっかり冷めてしまったかな、とテーブルに視線を移した時だった。
「ゲッ!?」
思わず淑女らしからぬ声を出してしまった私は悪くないと思う。私と同じテーブルの席に、あの男が何時の間にか座っていたのだ。しかも優雅に紅茶まで飲んでいる。私は一度集中したら、周りが見えなくなってしまう性質だから、男が何時来たのか全然気付かなかった。
「あんた、何でここに……!?」
「漸く気付いたか。それ、できたみたいだな。見せてみろよ」
「え!? あ!」
動揺のあまり、私は手元の完成品を簡単に奪われてしまった。
「……個性的な出来だが、悪くは無いな」
「下手で悪かったわね。ってか、何勝手に見ているのよ! 返しなさいよ!」
慌ててハンカチを取り返そうとするけれども、男に簡単に躱されてしまう。
「別に下手とは言っていないだろう」
「今更気を遣ってくれなくても結構よ。返して!」
「なあ、このハンカチ俺にくれよ」
「はあ!?」
突拍子もない男の言葉に、私は大声を出してしまった。
「何であんたなんかにあげなきゃいけないのよ! 返してってば!」
再三催促するも、男は眉間に皺を寄せると、ハンカチを自分のポケットの中に入れてしまった。
「ちょっと! 何するのよ、返しなさい!」
何度抗議しても、男は一向に取り合おうとしない。再び優雅に紅茶を飲み出す始末だ。
何なんだもう。嫌がらせにも程がある。
「……それは先生から出された宿題で、明日には見てもらわなきゃいけないの。だから返して」
喚くばかりでは一向に返してくれそうにないので、一呼吸おいて頭を冷まし、きちんと理由を述べて極力穏やかに男に頼む。男は戸惑ったように視線を彷徨わせたが、ハンカチをポケットから取り出した。素直に渡してくれるのかと思いきや、男はじっとハンカチを見つめている。
「じゃあこれの代わりに、別のやつをくれよ」
「は? 何であんたにあげなきゃいけないのよ」
「嫌ならこれは返さない」
「え!? ちょっと……!」
この男は何がしたいんだ。何故私の不格好な刺繍が入ったハンカチにそこまで拘る必要がある?
頑なな男の態度に、私はほとほと困り果ててしまった。
「……せめて理由を言いなさいよ」
「……お前が刺繍したハンカチを、俺にプレゼントしたと分かれば、俺達は完全に仲直りしたんだろうと、周囲に思わせる事ができる。お前が刺繍が苦手なら、尚更な」
「あ、そう」
本当にこの男は計算高い。外面だけは良いみたいだし、体裁を整える事に関しては天才的だと言えるだろう。内面は本当に最低だけどね!
「……分かったわよ。だけど私の腕じゃ、まだ人にあげられるような物はできないから、少し時間を頂戴」
「……本当か? 本当に俺にくれるんだな?」
「でなきゃ、それ返してくれないんでしょう?」
「ああ。じゃあ、約束だからな。忘れるなよ!」
今まで渋っていたのは何なんだ、と思うくらい、男は意外にもあっさりとハンカチを返してくれた。返ってきたのは嬉しいが、男と約束してしまった事を考えると、気が重い。つい溜息が出てしまう。
「言っておくが、市販品を購入したり、他の奴が刺繍した物を自分がやったと言って渡してきたりするのは無しだからな」
私の溜息に気付いたのか、男が釘を刺してきた。
「そんな事しないわよ。目的は周囲への仲直りアピールなんだから、私がやった物じゃないと意味がない事くらい分かっているわ。私が作ったかどうかなんて、お兄様なら一発で見抜いてしまうもの」
「……そうなのか?」
「ええ。今までの私の練習品、全部コレクションしているくらいだから」
「え!?」
そうなのだ。
私の今までの作品は、全てお兄様に引き取られている。失敗したからと言って捨ててしまうのは勿体ないし、欲しいと言われるままにお兄様に渡していたけれど、それらが全て大切に保管されていると知ったのは最近の事。今まで何枚何十枚と渡しているのにいつも強請られるので、今まで渡した分の行方が気になって尋ねてみたら、お兄様の部屋に招かれ、見るも無残な練習品第一号から順に並べられて、クリスも大分上手くなったよねー、なんて恥ずかし過ぎる作品鑑賞会を開かれてしまった。勿体ない、という感情など羞恥が軽く超越した。もし私が火魔法を使えていたら、間違いなくその場で全部燃やしていた事だろう。
「……じゃあ、まさかこれも……」
「ええ。先生に見てもらった後は、またお兄様のコレクションに追加されてしまうでしょうね」
既に諦めの境地に至っている私は、ハンカチを見つめて溜息をつく。
顔を真っ赤にしてコレクションされた作品全てを回収して処分すると主張する私に対し、お兄様は半泣きで絶対に人には見せないからと約束してくれたので、仕方なく見逃す事にした。そして相変わらず、私の拙い作品をしつこく強請りにくるので、お兄様のコレクションは増える一方なのである。
「それくらいならこれも俺にくれ」
「何でよ。あんたには別に作るって約束したんだからそれで良いじゃない」
「一枚くらい俺にくれたって罰は当たらないだろう!?」
「まだ人様にあげられるレベルじゃないって言っているでしょう!? 絶対に人目に付かないお兄様のコレクションに加わるなら兎も角、誰かに見せる事前提のあんたになんてあげられないわ!」
「ぐっ……!」
私が抗議すると、男は頭を抱えて何かブツブツ言っていた。
本当に何なんだこの男。一緒に居ると碌な目に遭わないから、もうさっさと帰って欲しい。