冷蔵の魔法
彼の、凍結の魔術師の友人として、私はここに伝えなければならないことがある。一部で噂されている彼の発狂と、妻の殺害についてこの場を借りて説明を行いたい。
いや、今の表現はいささか誤解を招く表現だった。彼の妻は厳密な意味ではまだ死んではいないし、彼もまたまだ生きているのだから。
彼に初めて出会ったのは、私が二十歳の頃だった。そのころ私は帝大の魔法学部物理学科の学生で彼もまたそうだった。
ある小規模な学会で私が第二種永久機関の研究について発表している時、別の研究室に所属しいた彼が口を挟んできた。
「そんなこと不可能だ。少し考えればわかることだよ」
いかにも人を小馬鹿にした態度だった。金銭的成功が彼を高慢にしたという者がいるが、彼と長い付き合いのある私が断言しよう、彼は成功する前から高慢だった。彼に礼節を持って返答した私は、褒められてしかるべきだろう。
「失礼ですが、あなたは第一種永久機関と、第二種永久機関を混同しているのではありませんか? たしかに、第一種永久機関はエネルギー保存則に反しています。しかし、今私が話しているのは……」
「あー、あー、分かってる」彼は私の言葉を遮った「海水だとかから、熱を回収するんだろう。せっかく気持ちよく話しているところ悪いが不可能だ。エントロピー増大の法則を知らないのかい?」
彼の態度に、私の我慢も限界に近づいてきた。
「エントロピー増大の法則は経験則にしか過ぎません。確かに、自然界では低温の物体から高温の物体に熱が移動することはありません。しかし、魔法を使えば別です。熱は所詮分子の運動にすぎないのですから、力学的エネルギー変換の魔法陣によって利用可能な形で取り出すことができます」
彼はよどみなく答えた。
「力学的エネルギー変換の魔法陣は、水流など分子が秩序だった運動をしている時しか使えない。あるいは温度差が……」
「高温の熱源からしかエネルギーを取り出せない? ええ、その通り」今度は私が彼の言葉を遮ってやった。ざまあみろ。そして私は「今まではね」と続けた。
「私はすでに、温度の低い物体から高い物体にエネルギーを移動させることに成功しています」
幻影機を操作し、実験結果のグラフを空中に写しだした。
私は自信満々だった、しかし彼はもっと自信満々だった。
「確かに、二つの物体の温度差は離れていっている。だが、実験システム全体のエネルギー収支はどうなのかな? この資料ではそこが巧妙に隠されているように見えるが」
私はとうとう我慢の限界を迎えた。
「いい加減にしてください! さっきから人を馬鹿にして! 実験段階でエネルギー収支が黒字になるわけがないでしょう。今後効率が上がるに連れて、黒字になっていきますよ!」
彼は意地の悪い笑みを浮かべていた。
「まあ。君が早く夢から醒めることを祈ってるよ。研究室の品位を落としたくないなら、君はしばらく学会に出ないほうがいいね」
そういうと、彼は部屋から出て行った。
次に彼にあったのは三日後だった。私は二度と会いたくなかったのだが、彼が研究室に押しかけてきたのだ。
研究室の扉を開けるなり、彼は言った。
「この研究室で一番バカな奴はどいつだ」
後輩が困惑していると、彼は自分で私を見つけて、無遠慮に歩み寄ってきた。
「おお、探したぞ。まさか同じ大学だったとわな。今更ながら恥ずかしい気分だ」
私は寛大な心で彼を許した。
「いえ、間違いは誰にでもあることですから」
「全くだ、お前のような奴が入学できる所と知っていたら、帝大に入学なんぞしなかった。今後は帝大に入ったことを一生恥じて生きていこう」
彼はいつも通りの彼だった。
私も負けるわけには行かない。
「そうですか、私の間違いは、一瞬とはいえあなたを許す気になったことです」
彼は私の言葉を笑い飛ばした後、ひとつの論文を差し出した。
「これはお前の論文だな」
私は頷いた。彼は満足気な笑みを浮かべた。
「よし、じゃあ俺と商売を始めないか」
話が飛躍している! 私は彼の正気を疑いつつ、尋ねた。
「何の商売です?」
「冷蔵庫だ」
私はしばし黙考した。
「……。私の作った装置を、エネルギーを取り出すためではなく、冷却するために使う、ということですか?」
彼は、はしゃいだ声で答えた。
「その通り。思っていたより、馬鹿じゃないみたいだな。共同経営者として嬉しいぞ!」
私は首を横に降った。
「せっかくですが、私は学術的興味で研究を続けています。商売には興味がありません」
彼は信じられないという顔で私を見つめた。
「おいおい、本来、論文公開した時点で、特許権はなくなってるんだぜ。俺は、お前に黙って、商売を始めることだってできたんだ。ここに来たのは、ピエロにだって謝礼金を受け取る権利はあるという、親切心からだ。
自分の作った物の価値がわかってないお前に変わって、俺が使い方を提示してやろうと言ってるんだぞ」
私は彼を手で追い払った。
「どうぞ、黙って商売を始めてください。というか黙ってください」
彼は大げさに肩をすくめた後、部屋から出て行った。
彼はその週の内に会社を立ち上げ、工場にパーツを発注した。その月が終わる頃には最初の冷蔵庫を出荷し、その年が終わる頃には億万長者になっていた。
別に、彼の誘いを断ったことを悔やんでなどいないし、真の冷蔵の魔術師は私だなどと言うつもりもない。
また、彼の名誉のために言っておくと、彼はアイディア料だといって、私に多額のお金を振り込んでいる。意地でも手を付けないつもりだ。
彼は彼なりのやり方で学問を愛していたようで、億万長者になった後も普通に大学に通っていた。後で知ったが特待生だったらしい。天は二物を与えずというが、彼は例外のようだ。
もっとも、彼が大学に来る理由は、学問のためだけではなく、彼女と一緒の時間をすごすためでもあったようだ。
彼に冷蔵の魔法の最初のアイディアを与えたのが私なら、完成させたのは彼女ということになる。幸運にも、私はその瞬間に立ち会うことができた。
あれは夏の日、大学内のカフェでの出来事だった。その日私はアイス・チャイを飲みながらベランダで涼んでいた。そこに彼が自分の彼女と一緒にやってきた。
「お! ピエロじゃないか。金は持ってるはずなのに、なんでこんな安いカフェにいるんだ」
彼が私に話しかけてきた。私は逃げ道を探した。しかし、ここは二階のベランダだ。飛び降りるのは怖い。
「その呼び方はやめろ。金ならお前の方が持ってるだろ!」
やむをえず、返事をした。
彼は気取った表情で
「高い店に行くことはできるが、この子の料理にはかなわないさ」
と答えた。
彼の横にいた女性は少しはにかんだ笑みを浮かべた。美人に分類される顔だが、彼の横に立つには派手さが足りないように思えた。
(ちなみに彼は、美形であると一部で噂になっている、という話を聞いたことがないような気がしないでもない。)
この瞬間が、私の彼女の初対面であった。彼は彼女のことを化学科の学生と紹介した。
「女性は人文系のイメージが強い」
と私がいうと彼は
「意外と古臭い考えを持ってるんだな、最近は魔女も多い」と答えた。
その後しばらく、雑談と罵倒が続き、いつしか話題は冷蔵の魔法についてになった。
「野菜を凍らせた時、汁が出て困っている」
彼が相談とも雑談ともとれる、話を始めた。
私は、あまり深く考えずに答えた。
「凍らせずに五度あたりでキープすればいい」
「そんなことは分かってるさ」彼は言った。「フィードバック回路による温度管理は最初に作った部分だ。冷蔵はすでにできてるんだ。しかし、冷蔵と冷凍じゃ食品の持ちが全く違う。冷凍では雑菌の繁殖を完全に止めることができるが、冷蔵では抑制するだけだ。もし、野菜を綺麗に冷凍・解凍する技術があれば、年単位の保存も可能になるはずだ」
それまで、話を聞くばかりだった彼女が、ここに来て遠慮がちに発言した。
「あの、野菜から汁が出るのは、氷の結晶によって細胞壁が破壊されてしまうからです。凍らせた場合、汁は避けようがないですよ」
彼はしばし顎に手を当てて考えた。
「氷になると体積が増えるので、細胞壁が破裂してしまう?」
彼女は頷いた。
彼はさらに考えた後、独り言を言い始めた。
「水が固相で堆積を増やすのは、水素結合で六角形の結晶を作るからだ。逆に言えば、結晶化を阻害しつつ、分子の動きを少なくすればいいのか?」
「ガラスは結晶をつくらずに個体になりますね」
彼女がつぶやいた。
彼が先を続けた。
「水素結合を阻害したければ、分子中の電荷の偏りを無くしてやればすむか。そんなこと可能なのか?」
どうでもいいことかもしれないが、先程から二人は互いに目を合わせず、空中を見つめたまま話している。不気味だ。
「魔素を利用すればいけるか?」
彼が小声で言った。
年少の読者のために言っておくと、魔素は電化-1、魔化+1、質量が電子の二倍の素子だ。自然界では金属、水、炭素、無機質の順で多くの魔素を含んでいる。
「えーいダメだ。煮詰まった!」
彼は突然立ち上がっると、カフェを出て行った。彼女は私と、店員に謝罪しつつ後を追って出て行った。
彼が水のガラス転移に成功したのは、一ヶ月後の事だった。
大学を卒業した後、私は軍の研究所に就職した。当時、優秀な魔系の学生はみんなそうだった。徴兵は嫌だったし、魔術師として働くことが国への一番の貢献だという気持ちが当時の私にはあった。
私が配属されたのは第三エネルギー研究所だった。研究所では原子核の研究をしていた。当時は、いや今でもそうだが、魔法で直接そうさできるのは、化学反応と電磁気力だけだ。電子の代わりに入り込んだ魔素を魔力で操作しているのだから、当然といえば当然だが。
しかし、当時はすでに、質量エネルギー変換により、原子核から化学反応とは比べ物にならないほどのエネルギーを取り出せることがわかっていた。分かっていなかったのは、連鎖反応の起こし方だけだった。
五年の研究の末、私達はついに連鎖反応を起こすことに成功した。最初の実験は南の砂漠で行われた。実験で溶けてガラスになった爆心地の砂は、今も首都の博物館に保管されているそうだ。
結局、あの兵器が実戦で使われることはなかった。実験が成功してから二日後に戦争が終わったからだ。
終戦の喜びを研究所のメンバーと分かち合っている時、私の元に彼から念話が届いた。彼女がガンになった、ということだった。
私の実験と彼女のガンとの因果関係はわかっていない。彼女の住んでいた街は、砂漠の風下にあったが、統計上、実験後前後で発ガン率の有意な差は出て無い。しかし、私の心は未だに罪悪感に苛まれている。
彼は、軍の食料輸送を一手に引き受けていて、当時はすでに国で二番目の金持ちだった。
しかし、彼の幸せにとって必要なのはお金ではなく彼女だった。
彼がこの世を去る直前、私は彼に呼ばれて家を尋ねた。私は彼の自宅の研究室に通された。そこで私が見たのは、氷のようなクリスタルに包まれた、彼女の姿だった。その時、私が何と言ったのかは覚えていない。何も言えず、呆然と立ち尽くしていたようにも思う。
覚えているのは、彼の独白だけだ。
「色々と、手をつくしたんだ」
張りのない、力尽きた男の声だった。
「だが、ダメだった。あと一年早く気づいていれば何とかなったかもしれない。私が、戦場に行かず、もっと家とどまっていれば助けられたかもしれない。だが、現実はそうではなかった」
彼はゆっくりと手を伸ばし、クリスタルに触った。
「私に出来たのは、彼女の時間を止めることだけだった。水のガラス転移については知っているな。結晶を作らせず固相に持って行くことは、水以外の分子に対しても可能だ。だがそれだけでは、不足だ。死んだ細胞なら構わないが、生物を保存する場合、それだけでは不足だ」
横を見ると、ミイラ化した猿や、腐敗を始めたマウスの死体が転がっていた。
「解凍の前後で、分子の運動ベクトルを揃える必要がある。それが出来なければ、解凍しても、心臓は動かず、血液は流れず、やがて酸欠で脳が腐り始める」
彼は愛おしそうにクリスタルを撫でた。
「このクリスタルは、彼女を構成している全分子の運動に関する情報を保存している。適切な方法さえわかれば、再び復活させることができるだろう」
私は尋ねた。
「復活の方法は分かっているのか」
彼は首を横に降った。
「分からない。しかし、彼女はこれ以上待つことが出来なかった」
彼は、ゆっくりと彼女の横に身を横たえた。
「最後に頼みがある、そこのスイッチを押して私の時も止めてくれないか」
私は彼を引きずりおこした。
「何を弱気になってるんだ。お前は世紀の天才だろう。冷蔵の魔術師だろう!」
彼は自嘲の笑みを浮かべながら言った。
「何が天才なものか、少なくとも私には、私の望みを叶えることができるほどの才能はなかった」
彼は立ち上がり私を引っ張って玄関に向かった。
「協力する気がないなら帰ってくれ。太陽の火を盗んだ魔術師さん」
彼が最後に言った言葉は、未だに私の中で反響している。彼はきっと、私を永遠に許さないだろう。
私が家を去ってすぐ、彼は時限装置を使って、自分を凍結した。凍結状態の人間が生きているのか死んでいるのかは未だに結論の出ない問題だが。私は生きていると信じている。
かつては、心臓の停止イコール死だったが、現在では適切な処置さえ行えば八十パーセントの人間がリカバリーに成功している。技術の進歩によって死の定義は変わっていくものだ。今はまだ、彼らを復活させる方法は見つかっていないが、原理上それが不可能である理由は何もない。復活の魔法はいずれ発見されるだろう。
あの日から、人生のすべてを凍結の魔法の研究に当ててきたし、財産の大部分を彼が残したガン研究基金に寄付してきたが、どちらも思わしい結果は出ていない。
私はもうすぐ、この世を去るだろう。原因が彼女と同じというのは、神の皮肉かあるいは、冥界の王の名を冠するあの物質を扱っていたものに訪れる必然だろう。
私の遺体は凍結ではなく火葬にしてくれ。
凍結の魔術師よ、君が早く夢から醒めることを祈ってる。