角ウサギのロティ アヴェルデワイン風味(11)
「お師匠様、二時間経ちましたーーー」
「もう食べれるよな!」
角ウサギの肉の包みを持って走り込んできた二人に、栞は目を丸くする。
「そこまで、食べたかったの?」
「だっておなか減っちゃったし……それに、実はこの角ウサギ、私には初めての大物なんです!」
「…………ああ、だから尻尾をとっておいたの?」
「はい。それに、ウサギの尻尾って幸運のお守りなんですって」
「へえ」
栞は、二人が運んできた包みを開く。
とある魔生物の腸にぴっちりと詰めた肉は、ほぼ真空状態が保たれている。
これは、新鮮さを保ちつつも肉を熟成させるための工夫の一つだ。
「……うん、大丈夫そうだね」
腸を綺麗に破り、肉質を確認する。持ち上げた肉からはドリップと呼ばれる肉汁が滴った。
熟成が足りなければここからもう一度再熟成をするつもりだったが、これはもう充分だろう。
「……ドリップが少し出るくらいで調度いいということですか?」
ソーウェルが栞の手元を注視している。
「ええ」
栞は、肉から滴った汁に触れぬよう、網の上に肉をのせる。
「見てください。……熟成したことで肉も脂もほどよく締まりました」
「綺麗なお肉~!」
「すげえ美味そう!」
双子の目が輝いている。
「……残ったら残ったでどうとでもなるので、腿肉を一本焼きましょう」
「グリエ? それとも、ソテー?」
「じゃなきゃ、ポワレ? とか?」
しっかりとこれまでの知識が身についているリアとディナンに、栞は思わず笑みを浮かべた。
こういう何でもないときに、確かな手応えを感じる。
「今回は、『ロティ』────オーブンで焼きます」
「ロティ」
「ロティ?」
二人は異口同音にその単語を繰り返した。
「まずはフライパンで焼き色をつけてから、オーブンでじっくり焼きます。ウサギは脂が少ないからあんまり向かないって言いますけど、そうでもないんですよ。ウサギはいろいろ凝った料理もできるけど、今日はシンプルに肉の旨みを堪能したいと思います」
とりあえずは下拵えを教えますね、と栞は三人に告げる。
「まずは肉の筋を外しておきます。外せなかったら切るときに避けるようにしてください。それで、バッドに赤ワインたっぷりとタマネギの串切り……これは楊子を指しておきます。これ、あとで付け合わせにします」
栞の手はてきぱきと素早く動き、調理台の上でどんどんと作業が進んで行く。
「ポワ葱、それから、干しぶどうを一掴みに、臭い消しに香草を入れてその中につけ込みます。……それから、さっきの魔方陣の下の方だけ使って約三十分。その間に付け合わせを用意します。別に付け合わせに決まりはありませんから、旬の野菜を好きなように用意すればいいです。私は今回はジャガイモのグラタンを用意します……うちのオーブンは二段なんで、焼くときに一気に焼けるので! ちなみに、上段に肉ですよ」
「はーい」
上段に肉、上段に肉、とリアは忘れないように何度も呟いている。
その場でメモをとるような暇はない。後でまとめて記録して、ディナンと比べて正確なレシピを残すのだ。
ベシャメルソースとスライスしたドド芋、それから、チーズもたっぷりのせる。
(お肉に臭みがあるから、チーズはまろやかなもの)
カーディリアチーズというあちらでいうモッツァレラチーズに良く似たチーズを選んだ。
「ソースはどのようなソースを使いますか?」
「今回は、この間王太子殿下にいただいたワインのソースを作ります。……といっても、焼いて出た肉汁にワインを加え、ロンバート醤と塩胡椒で調味するだけです」
リアはベシャメルソースを作り、ディナンはドド芋をスライスしている。スライスしたドド芋は天板の上に綺麗に並べてもらった。
「この時、お芋の厚みができるだけ一緒になる方が美味しくできるよ。焦げちゃったり、火が通っていないっていうことが少なくなるからね」
「はい」
ディナンが素直にうなづく。
「あちらの世界だとスライサーっていう便利な道具があるんだけど、最初から道具に頼っちゃうと手が覚えないから、まずは手に包丁を覚えさせようね」
「はい」
真剣な表情でディナンは自分の包丁を見る。
先日、栞はリアとディナンに専用の包丁を一式プレゼントしたばかりで、ディナンの手にあるものはそのうちの一本だ。
これから二人は、それらの包丁を自分の相棒として使いこなしてゆかなければならない。
「……お師匠様、できました」
リアが作ったソースを、味見用スプーンで口に運ぶ。
「……うん。いいね」
ミルクとバターの旨みが絶妙で、しかもちょうど良いとろみがある。
「この分量と素材を覚えておくといいよ。これ、使うミルクや生クリームで味が変わってくるから、いろいろ試してみてね」
「はい」
嬉しそうに笑うリアに、ディナンが後で俺にも教えてと声をかける。うなづくリアに、ソーウェルも私にもお願いします、と真面目な顔で言った。
「はい」
そこでリアに教えてくださいと言えるのがソーウェルの素晴らしいところだ。
「これ、付け合わせって揚げ芋とかでもいいの?」
「もちろん。……今の季節だと青つぶれ豆を素揚げにしてもいいかも」
「それは彩りが美しいでしょうな」
「はい。今回は、青みはブッシュレールですね。これは肉と一緒にオーブンで焼きます」
ブッシュレールというのは、あちらでいうブロッコリーに良く似た野菜だ。色といい形といいとてもよく似ているけれど、味はぴりっとした辛みがあって、肉の付け合わせによく合う。
「…………おししょー、だいたい三十分経ったよ」
「ありがとう」
よく浸かったウサギの腿肉を脂をたっぷりひいたフライパンでさっと焼く。こんがりになりすぎない程度に焼き色をつけてから天板の上に載せ、周囲を野菜で囲んだら上からフライパンに残った油を回しかけた。
先ほど注意点として教えたように上の段に肉の天板をを、下の段に準備したグラタンの天板を置いて火を入れる。オーブンに火をつけたソーウェルは、とても嬉しそうだった。
「これでしばらく放置します」
「オーブンだと直火ですから、水分が飛んでしまうのでは?」
「そうなんです。特にウサギは脂身が全然ないんで……なので、焼いている途中に天板の底にたまった脂をスプーンですくって、肉にかけてやります────何度も、何度も。これを、あちらではアロゼといいます。名前は忘れてもいいけど、どういうことするかは覚えておいてね」
「はーい」
「途中でオーブン開けちゃっていいの?」
「いいですよ。焦げないように様子を見ながら、脂をかけなければいけないんで…………脂の少ない肉だったら、今、私がやったみたいに普通の油を使って大丈夫です」
「へえ、自由なんですね」
「というよりは、臨機応変かな。一番大事なのは課程じゃなくて結果だから」
「…………でも、へたに臨機応変なことばっかりやってるとできあがりが酷いよね」
わりと常習犯のディナンが、軽く肩を竦める。
「賄いや自分のものを作るときにいっぱい失敗して、そういうセンスを磨いてください。……ルール通りにはいかないことばっかりだから、そこはもう個人のセンスしかないから」
もちろん、それは基本を押さえた上でのことだ。
そのあたりのことは、目の前の三人には言わずともわかっているだろうという信頼がある。
「あ、油じゅわじゅわしてる」
「最初の二十分はじっと我慢の子しててください」
「焦げちゃわないですか?」
「焦げそうだったら、ひっくり返してもいいです。満遍なく焼くのが大事!」
「…………ヴィーダ!」
ふと、調味料を並べた台に目をやったソーウェルが驚きの声をあげた。
「はい?」
「あ、あの瓶は…………」
ほとんど黒に見えるほどの緑の瓶をソーウェルはわななく指で指し示した。
「ああ……王太子殿下にいただいたワインなんです」
「王太子殿下から!!」
「おいしいワインだったので、いろいろ料理にも使ってたんですけどもうちょっとしかないので今回使い切ってしまおうかと……。すごく肉料理に合うんですよ」
「…………そのワインの名前をご存じですか?」
いつもうっすら笑みを浮かべていたソーウェルが真顔だった。
「確か、アヴェルデ・ワインというそうですよ」
「…………やっぱり。……あ、アヴェルデ・ワインは、王室直轄領で作られるワインです。年間、百本程度しか生産されない稀少なものなんです」
ソーウェルの声は掠れていた。
アヴェルデ・ワインは好事家なら一度は飲みたいと願う幻のワインだ。
「珍しいワインだとは王太子殿下もおっしゃっていました。……ゼリーを作ったりもしましたけど、確かにとてもおいしかったです」
栞は満足そうに笑う。
「……もしかして、それを仕上げのソースに使うんですか?」
「はい。……もう飲むほどありませんし」
栞は事もなげに言う。
「幻のワインなんですが……」
「らしいですね。……珍しいと聞いたときにプリン殿下に飲むか聞いたんですけど、私がもらったのだから料理にでも使えば良いと言われまして……そうすれば皆の口に入るから、と」
「……なるほど、マクシミリアン殿下が……」
ソーウェルはそこでマクシミリアンが決して口にはしなかった思惑をぼんやりと察した。
兄弟であろうと、自分の誓約者に対して気をひくような贈り物をする兄が気に入らなかったのだろう。
だが、そんなことを口にすれば自分の株が下がるから、決して口にはしなかった…………でも、意趣返しはちゃんとしたというわけだ。
マクシミリアンらしい、と思いながら、ソーウェルもまたそれについては何も言わないことを心に決めた。