角ウサギのロティ アヴェルデワイン風味(1)
「……『平穏というのは、その中に在る時にはそうと気付くことができない。それが失われて初めて、それが〝平穏〟というものであったのだと知ることができるのだ』か……確かにその通りだな」
マクシミリアンは目の前に広がる光景を目にし、半ば現実逃避しそうになる心を繋ぎ止め、かろうじてその場に踏みとどまった。
目の前に広がるのは、まるで絨毯に見えるほどふさふさと繁茂した一面の緑に覆われたフロアだ。
ほんの数分……いや数十秒前までは、隅々まで磨き抜かれたいつものレストランの見慣れたフロアであったはずなのに、今はもう見る影も無い。
ちょうど大きな飾り柱があった位置には、まるで柱と置き換わったかのように御神木と言われても信じてしまいそうな白銀の金属色の幹を持つ大樹が力強くその枝を広げ、気のせいで無ければ天井を突き抜けていた。
(……あれは、空か?)
おそらくは外にも大きく枝を伸ばしているのだろう。見上げれば鮮やかなまでに青い空が目にしみる。
さっきまで栞と二人で打ち合わせをしていたはずのテーブルは影も形も無く、当然その上にあったカップも皿もどこかに消えていた。
(蝕がおこったのが、プリンを食べた後で良かった……)
とりあえず、そんなことを考えてしまう程度にはマクシミリアンは平静だった。
これが食べかけだったり、まだ手をつけていないプリンが消えていたりしたらこんなにも静かな気分でいられたかはわからない。
「……それ、誰の言葉ですか?」
頭上から声がした────栞だ。突然の出来事にも関わらず驚くほどいつも通りだった。
座っていた椅子ごと木の枝に持ち上げられたらしい栞は、がっちりと枝に絡めとられた椅子を諦めると、枝を滑り台にして器用に降りてきて、マクシミリアンの目の前に美しく着地する。こんな場合でなければ拍手の一つもして軽口をたたいていただろう。
「……ディルギット=オニキスと出会った時を回想した建国王の言葉だ」
栞の頭のてっぺんから足の先までを素早く目を走らせ、異常がないかをチェックした────見たところ、特に怪我をした様子はない。経路が繋がっているのでとりたてて問題がないことはわかっているのに心配してしまうのはもう仕方のないことだった。
「なんで、今、そんな言葉を思い出したんです?」
「……いや、この目の前の惨状からすると、さっきまでの平穏な時間は当分戻ってこないのだろうな、と思えたら急に頭に浮かんだ」
マクシミリアンは、はぁ、と小さな溜め息をつく。
「……確かに、そうかもしれません」
「どういう意味だ、シリィ? 何か知っているのか?」
「いえ、上から見た感じ、『蝕』の痕跡が、こっちからあっちに一直線に走っていて……終わりが見えなかったんです」
『蝕』というのは、通常の空間を大迷宮が浸食することを指す。
迷宮都市の名で呼ばれることもあるアル・ファダルでは特に珍しくない光景だったが、異世界人である栞からすれば、常識をとっくに踏み越えた不思議な現象であり光景であるのだろう。何度見ても不思議そうな顔をしている。
ここが異世界であるというだけで大概のことは受け入れられるけれど、不思議は不思議のままなのだそうだ。
「……いつもより、規模が大きい可能性がある、か」
マクシミリアンの言葉に、栞は真面目な顔でうなづいた。
「わかった。まずは被害状況を調べよう。……シリィ。レストランについては、任せても良いだろうか?」
「もちろんです」
栞は力強くうなづいた。
◆◆◆◆◆◆◆
「……うーんと、これ、たぶんガデニア平原の奥あたりの森と融合しちゃったんじゃないのかなぁ」
白銀の輝く幹を持つ大樹の幹をコンコンと叩いたリアは、自分の手元の古い植物図鑑と周辺の植生とを見比べる。
ガデニア・エリアは、今はもう存在しない小国ガデニアの最後の王子が名付けたエリアだ。
大国の侵攻により国を失ったその王子は、失われたその国の名を世界に轟かせるために大迷宮にやってきて探索者となった。
凄腕の探索者となった彼は、己が発見したものや場所に失われた国の名をつけ、今でもその名が残っている。
「なんでガデニア・エリアってわかるんだよ」
「そこの葉っぱに残っている歯形、それから、幹に残っているこの三本の傷から見て、これをつけたのはたぶんガデニアオオトカゲだと思うの。三本爪って珍しいし……葉っぱのこのギザギザ加減があのトカゲの歯形じゃないかなって……あとは、このうにょうにょ蠢いている蔓がガデニア蛇蔦だと思う」
リアは、床を這う蔓草をぎゅっ地面に押し潰すように踏みつけにした。
気を抜くと襲ってくる────それが、大迷宮の魔生物だ。たとえ、植物といえども油断ならない。
「……なーる」
ディナンも納得した顔になり、リアと同じように蔓草を踏み、それから丁寧に踏みにじって確実にダメージを与えながら歩いて回った。
こういう動いている植物はだいたいが群体で、微弱な思考能力のようなものを持つモノが多い。きちんと思い知らせておけばおとなしくなることを、それなりに探索者としての経験を積んできたリアとディナンは知っていた。
今のところ殲滅する必要はないが、今現在この空間における最上位種が自分たち(人間)であることを思い知らせておく必要がある。
「ガデニア・エリアって何が一番美味しいの?」
うずうずしながらも決して手を出さずにリアの背後にいる栞は、興味深げな顔で尋ねる。こんな時でも栞の一番の興味は料理のことらしい。
(最初は、そういうのすげー能天気だって思ったんだよな……)
かつてのディナンにとって『蝕』は恐ろしい災害だった。
(たぶん、ほとんどの人たちにとって、自分たちではどうしようもない天災だ)
運が悪ければ命を落とすことだってありえる。
だから、その当時のディナンだったら、何が美味しいかなんて聞かれたらきっと腹立たしく思って反発しただろう。
(でも……)
今のディナンは、『蝕』をそこまで恐ろしい物だとは思わないのだ。
腕の立つ魔術師や魔法士たちがいれば軽減できたり、このホテルのようにあらかじめ復元の魔術が施されていればほとんどが元に戻せるからだ。
だからといってすべてが元通りになるわけではない。
復元の魔術が埋め込まれていて、世界最高の魔術師であるマクシミリアンがその魔力を惜しみなく使って直してくれても、『蝕』のたびに少しづつ復元しきれない部分が出てくる。
(……あそこの壁は復元できなくて塗り直したし、あっちの床も全部は直らなかったから貼り直した)
細かい部分は人力で直しているし、隣の倉庫だって崩落して戻らない部分は修繕している。
食器は何度も揃え直しているし、家具だってそうだ。大迷宮と空間が癒着し、それを復元させたときに失われたものも多い。
(人の手に余る災害だってことはわかってる……甘く見てるつもりはない。でも、今はかつてのような恐怖は感じないんだ)
それはもちろん、自分が探索者になったことと無縁ではない。
自分という個が、強くなった……魔生物に対抗しうる手段を持つ存在になり、大迷宮に潜るようになったことが大きく影響しているけれど、一番の理由はたぶん栞だ。
(おししょーにとって魔生物は食材でしかないから…………)
栞は魔生物を恐ろしいものだと思っているし、自分が倒せるとも思っていない。………にも拘わらず、一貫してその認識は『食材』なのだ。
その栞のある意味ブレない強固な認識こそが、いつの間にかディナンやリアの認識を塗り替えてしまった。
「えー、何だろう? ガデニアオオトカゲはまだ食べたことないんでわからないんですけど、この金属みたいに見える樹はシガデって言って、実は甘くて美味しいですよ。……ただ、食べ過ぎるとおなか下します。……ディが一度食べ過ぎで酷い目にあってました」
「バラすなよ~、リア。……でもおししょー、これ、マジでおいしいんだよ。ただ、食べられる期間が本当に短くて、枝からとって十分足らずで腐りはじめるんだよね」
腐り始めたくらいが一番おいしい、と告げると栞が目を輝かせる。
「へえ……時を止める魔法陣を仕込んだ籠とかあれば何とかなるかしら?」
「あー、どうだろう? 果物だから柔らかいし、そこまでして持って帰る価値があるか? って考えるとちょっと疑問だよね。持っていると、甘い臭いがするせいかめっちゃ鳥型の魔生物に追いかけられたりもするし…………えーと、割に合わない? だから、皆、持って帰ろうとか考えたことないんじゃない?」
「今が実のなる季節だったら良かったのに……」
心底残念だという表情でそう言いながら、栞はいいことを思いついた、という顔になった。
「とりあえず、一枝もらおうか」
のこぎりあったよね、と倉庫の方に行こうとする栞の手をディナンはとっさに掴んで止めた。
「待って? 何するの?」
料理に関してはプロでも、大迷宮に関してはほとんど知らない栞だ。何をするのかわからなくて、ディナンは少し焦った。
「葉っぱを乾燥させたら、臭い消しとかに使えるかもしれないし、乾かしたらハーブティーのブレンドに使えるかも知れないし……それに、この木だって調理に使えるかもしれないわ」
「ハーブティー!」
最近、お茶にこだわっているリアの目がきらりと輝いた。
(え? それ、アリなのか? え?)
「……そうね、そうだわ」
思案げに顔を伏せた栞が、何かに気付いたようなはっとした表情で顔を上げた。
「おししょー?」
「……発想を変えよう」
「発想を変えるって?」
異世界人である栞の発想は元々、自分たちとは全然違うのだ……それでいながら、それを変えるとはどういうことだろう? とディナンもリアも思ってしまう。
「せっかくだから、ここで食材を採取しよう」
「はい?」
思わずディナンは聞き返し、双子の片割れの方を振り返った。自分よりも意気投合していることの多い片割れならばわかるのではないか? と思ってのことだ。
だが、リアも意味がわからなかったのだろう。きょとんとした表情で首を横に振った。
「少し不謹慎かもしれないけれど、今回のこれを、『蝕』による災害って考えるんじゃなくて、わざわざ潜らなくても高級素材が取り放題って考えればいいと思うの」
「はぁ? 何それ」
栞がわりと真面目な顔でそんなことを言うものだから、ディナンは反射的に突っ込みをいれてしまった。
「お師匠様! それ、最高!」
リアは栞の言わんとしたことをすぐに理解したのだろう。少し興奮したような表情で栞の両手をとり、ぴょんぴょんと飛び跳ねる。
「……もちろん、素人の私は二人の指示に従うわ。殿下やイシュ達がここの修復をはじめるまでの短い間だけだけど…………普段は諦めるような素材を採取して、殿下の研究室に提供してもいいと思うし」
お小遣い稼ぎになるんじゃないかしら? と栞は笑う。
「そっか…………考えてみれば、大迷宮の草とか葉っぱならすべてハーブティーや調味料になる可能性があるのか?」
「そうだよ。…………大迷宮では持って帰ってくることのできる量に制限があることが多いから、効果がはっきりとしないものは持って帰ってきたりしないけど、今ここにあるものなら? 確か前に、復元される前に採取してしまえばそれは残るって言っていたよね?」
「うん。……ヴィルラードさんが言ってた。たぶん、プリン殿下も似たようなこと言ってたし、イシュルカさんも!」
リアが満面の笑みでこくこくとうなづく。
一番気軽にここに出入りしているくせに、絶対に名前があがらないのがグレンダードの不徳の致すところだ。
「……なるほど」
納得したディナンもニヤリと笑った。
「ブーランジェリーからソーウェルさんが戻ってきたら、二組に分かれて採取をしましょう。私は探索者じゃないから一人で採取は無理だし、何があるかわからないから二人で組んだほうがいいと思う」
「じゃあ、俺がおししょーと組む。室内だと火で処理するのはちょっとあれだから、とっさの時にリアの魔法はあんまりアテにしないほうがいい。俺がおししょーを護衛するよ。ソーウェルさんは探索者資格あるくらいだから、それほど護衛もいらないだろうし」
「わかった」
栞がうなづくとリアもあっさりと賛同した。
「はーい。……本当は私もお師匠様と採取したいけど、ディナンの言うことはもっともだから我慢する~」
リアとしては、栞との採取はきっといい勉強になるだろうから本当は栞と一緒が良かった。でも、考えてみれば勉強になるのはソーウェルでも一緒だ。
「じゃあ、ソーウェルさんが戻ってくるまでに採取の道具を揃えよう」
「りょーかーい」
ディナンはうなづきながら、客席フロアに比べればあまり蝕の影響が及んでいない厨房部分で、まずは籠の物色を始める。
「生の手で触らないで手袋とかあった方がいいんだよね?」
「防具にもなるグローブと、あとは採取用の刃物があるといいと思いまーす。…………小さなのこぎりとか採取用のハサミとか」
「包丁は?」
栞が愛用の包丁を手に取る。
「魔道具ならあり。お師匠のそれは使えるし、マグロ包丁なら無敵じゃねえ? のこぎりとかは、俺が隣の倉庫から持ってくるから、リアはおししょー頼む」
「はーい」
走り出すディナンの後ろ姿を見ながら、あるいは自分の護衛として前に立つリアの背中を見ながら、栞は、二人の成長をしみじみと感じていた。




