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ソルシエールのコンソメ フィルダニア風(9)

 魔力火を使っているせいで、厨房の中が温まるのが早い。ひんやりとした空気が少しずつぬくもりはじめていた。

「……六十八度になったらかき混ぜないのか?」

「はい。実はこの温度が大事なポイントなんですけど、日本……つまり、私の国とは温度が違っていて……六十八度を見つけるまで結構失敗したんですよね」

「そうなのか?」

「ええ。……幸い、大失敗っていうわけではなかったので、シチューに使ったりソースを作るベースにしたりしてて……コンソメにできると思えるようになったのはここ半年くらいで……。あちらの普通のニワトリの卵とドガドガ鳥の卵の成分が同じわけないのに、失念していたんですよね……」

 栞はゆらゆらとゆらぐスープの表面をじっと見つめている。

「ん? どういうことだ?」

「卵の成分が違えば、当然、凝固温度が違うんです。……六十八度というのが、ドガドガ鳥の卵の白身の成分が固まり始める温度で、完全に固まり切るのが七十八度。その日の気温なんかで多少の違いはありますので、そのあたりは注意深く見て判断しますが……こうやって白身が固まりながら、肉や野菜を巻きこんであがってきます」

 今や、肉や野菜の食欲をそそる香りが厨房中に充満していた。さっきプリンを食べてそれなりに小腹が満たされているというのに、お腹が鳴りそうな気がする。

「……それで表面がこんな風に盛り上がったら、穴をあけます」

 栞は吹きあがってもりあがった表面のちょうど真ん中くらいに、手にしていたレードルで穴をあけた。

 すると、その穴の向こうには、さっきまでの白濁した色が嘘のように思える澄んだ黄金色のスープが顔をのぞかせる。

「……どろどろと汚いのは表面だけなのだな」

「はい。スープを澄ませる方法は幾つかあるんですが、こうやって卵の白身を使って灰汁とかそういうものを全部とってやる……クラリフィエという作業ですね」

 栞は、更に準備していた野菜を投入する。

「それは?」

「香味野菜です。これは、フェイ、アルドナ、ベルガ……どれも、肉の臭みを消したり、独特の旨味を与えてくれます」

「迷宮のものだな?」

「はい。迷宮の肉を使っているので、できるだけ迷宮産かそれに準ずるものを使っています。そうじゃないと、負けるので……」

「……前にしていた、塩や水の話と同じということか」

「はい」

 こくりとうなづく。それから、栞は鍋の底から浮き上がってきた肉の欠片をレードルで掬い上げ、野菜などで覆われた部分に乗せた。ダシ殻となった具材とスープとを分離させているのだ。

 プクリと浮き上がってきたらまたそれも……一つ、また一つと丁寧に掬ってゆく。

 待っていてたまってからまとめて掬えば良いのではないか? とマクシミリアンは思うのに、栞は効率が悪い作業を真剣にしていた。


「……そろそろ、オーサや、リアたちが出てきます。私は、ちょっとこれにかかりきりになるので、昨日の朝と同じメニューで作るように言って下さい。昨日と同じお客様はいませんし、手順もわかっていると思います。……それから、リアンは味見係をお願いします。味見をして少しでも駄目だと思ったら出さないでください。作り直します」

「わかった」

 栞が作業するのをもう少し見ていたい、と思ったが、マクシミリアンは今は見習いの身だ。見習いとしてやるべきことを放棄するわけにはゆかない。

(……それに、私は味見も任されたからな)

 責任重大である。

 まずは材料を揃えに行こうと厨房を出る時に、マクシミリアンは真剣に鍋と向き合っている栞を振り返った。

(……何だっけ? 何かと似ている)

 その姿が何と似ているのだろう? と考えて、思い出した。

(……ああ、魔法使いが薬を作っているのとよく似ているな)

 あるいは、錬金術師が黄金を作っている姿と似ている。

 栞が作っている料理の効果や価値を考えれば、己のその発想もあながち間違いではないだろうとマクシミリアンは思った。

(シリィがあそこまで心血を注いで作ったスープはどんな味がするんだろう?)

 食べるのが楽しみだと思い、同時に少しだけ怖いような気もする。

 自分の舌がこれ以上肥えてしまったら、栞が作らなくなった食事が味気なく感じるに違いない。いや、もう手遅れかもしれないな、と心のどこかでは思っている。

(見た目からして特別なあのスープには、どんな効果があるのだろう……?)

 それは、マクシミリアンにも想像がつかなかった。


       ◆◆◆◆◆◆◆


「…………よし」

 小さな火でトロトロと煮込みながら丁寧に作業すること一時間。ついに火を止める瞬間がやってきた。

 栞はふぅと一息ついた。火を止めても濃厚な匂いが厨房中に満ちている。

(最後には物理的に濾す……)

 レードルでスープをすくい、絹布をひいたボウルに注いで濾してゆく。絹布の上には、粗くひいた胡椒をのせておくのがポイントだ。

 間違ってもここでボウルですくってはいけないし、鍋を傾けて注いでもいけない。

 レードルでそっと上から掬い、濾す……丁寧な作業が基本だ。すでにスープは寸胴の三分の一くらいになっているとはいえ、気の遠くなりそうな作業だった。

 けれど、この手間が大切なのだ。

 一杯、また一杯とレードルですくい、濾してゆくたびに昔のことを思い出す。

(『最初の五分の一はソースに、最後の五分の一はまかないに……』だっけ……)

 父の言葉は、栞の記憶のあちらこちらに刻まれていて、ふとした瞬間に浮かび上がってくる。

 こんな風に、匂いや料理に紐づけされているものもあれば、味に紐づけされているものもある。

「……そして……『真ん中の五分の三だけが、コンソメになる』」

 だから、それぞれ違う鍋に濾してゆくのだ。

 全部をコンソメに使う店もあるだろうが、最初と最後とでは、やはり澄み具合が違う。

(実際には、この最初と最後の味の違いが分かる人なんてほとんどいない)

 栞自身は父のおかげでかなり繊細な舌を得ているからわかるが、自分は特殊な例だということはよく知っている。

 でも、父はそこを徹底的にこだわっていた────コンソメが原因で店を辞めた人もいる。

 それでも、父は絶対に譲らなかった。

(『コンソメはその一皿だけで完璧でなくてはいけない』から……)

 だから、誰も知らなくとも、誰も気づかなくとも、自分が完ぺきではないことをわかっていたらそれはコンソメとしては出せない。

(……だから、いつもポトフにしたり、卵スープにしてしまった)

 『完璧』ではないことを知っていたからだ。

 結局、自分はあの父の娘なのだ、と思うと少しおかしかった。

 この世界に居る人は誰一人として栞の父のことなど知らないし、あの前島一郎の娘だと栞を呼ぶ人は一人もいない────そのプレッシャーから解放されたら、逆に父のことをよく思い出すようになってしまった。

(でも、たぶん、もう平気な気がする)

 鍋を傾けて最後の一杯を掬いながらそう思った。


 この世界では、栞はあの前島一郎の娘ではない。逆に父こそが、栞の父親なのだという認識だ。

 栞は真ん中の鍋からそっとすくった金色のスープを小皿にそそいだ。

 それは、人工的な光の下でさえきらきらと輝いている。

(見た目は、完璧だ)

 それから、祈るような気持ちで口に運ぶ

(……あ……)

 口にした瞬間に、身体の中を風が吹き抜けたような気がした。

 その金色のスープの中には、野菜の旨味と肉の旨味のすべてがぎゅっと凝縮されていた。

(……甘くて、しょっぱくて、すっぱくて……ほんの少しだけ苦みや……辛みもある)

 すべての味がその中にあり、渾然一体となっている。

「……おいし……」

 自分で飲んでも、おいしいと思えた。

(……まだ、パパのコンソメを越えたとは思えない。でも……)

 でも、同じくらいに美味しいと思う。

(……できた……)

 改良の余地はある。

 例えば、香味野菜の種類や量はいろいろな調整が必要だ。

(ドラゴンの肉とオオトカゲの肉の割合も考えないと……)

 研究することは、まだまだたくさんある。

(でも、これが私の味だ)

 これが自分のコンソメだと言えるものができたのだ。

 栞の心の内にじわじわと喜びがしみわたった。

 皆に飲んでもらいたい、と思った。

(……まずはプリン殿下に)

 随分と気にしながらも見習いの仕事を優先してくれたマクシミリアン。

(それから、ソーウェルさん)

 完璧ではなかったコンソメを絶賛してくれていた。だからこそ、絶対にこのコンソメを飲んでもらいたいと思う。

(オーサは、自分では作れないかもしれないけれど……)

 味だけは知っておいてほしいと思う。

(それから……リアとディナン)

 二人にはこの味を絶対に覚えてもらうし、このコンソメを作れるようになってもらう。

 まかない用ではない……完璧なスープを。

 ここでしか作れない……ここだからこそ作れる栞のコンソメを。

 そしていつか……。

(……いつか、二人は自分のコンソメを探せばいい)

 そんな未来のことを思い、栞は小さく笑った。

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