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ソルシエールのコンソメ フィルダニア風(8)

 日中の厨房はホテル内でも一、二を争うくらいに暖かくなる場所なので、休憩時間中はフロアスタッフもよく顔を出す人気スポットだ。

 でも静まり返った朝の厨房は、火の気がないせいで恐ろしいくらいに冷え込んでいる。栞は半ば冗談交じりに冷蔵庫の中と表現することがあるが、本当にそれくらい寒い。

 そんな中で温かなロンド茶を飲みながら、プリンを食すのは幸せなひとときだった。

 マクシミリアンが満面の笑みでプリンを頬張っているのを見ると、栞は、己がプリンが作れる料理人で良かったなぁと思う。

「……リアン、良ければこれも食べない?」

 半分ほど食べたプリンの皿をそっとマクシミリアンの方へ押しやった。

 ほぼどんぶりサイズのプリンだったため、栞には量が多すぎた。確かに甘いものは別腹だし、無理をすれば入らないこともないが、これから大切な……気合をいれてやらねばならぬ作業があるため、おなか一杯にしてしまうのはちょっと困る。

「ん? いいのか?」

 恐るべきことに、マクシミリアンは既に二個目にとりかかっていた。しかも、みるみるうちにその量が減っていて、あとはもう二口か三口を残すのみだ。

「……確かにもっと食べたいとは思ったが、シリィのプリンを奪うつもりはないのだぞ?」

 スプーンを手に、マクシミリアンは言った。

 嬉しいんだけど、本当に良いのだろうか? という表情だ。二個目のラスト近くを惜しみつつ食べていた手を止めてそわそわしている様子は何だかかわいい。

 もちろん、中身が既に成人済の男性だということは教えてもらったから知っているが、それでもかわいいものはかわいいじゃないか、と、心の中でもう一人の自分が開き直って主張している。

「いいんですよ。……私にこの殿下サイズのプリンは大きすぎるし」

「……私サイズ?」

「このプリンの型、特注サイズなの。……普通のサイズはこれだから」

 栞はたまたま台の上に重ねてあった、いたって標準的なプリン型を手に取って見せる。

「……それはミニサイズだろう?」

 マクシミリアンはとても真面目な表情で、当たり前の顔をしてさらりと言った。

「違います。これは、正真正銘の普通サイズ。で、これの型は特注品です。ちなみに、鍛冶屋さんではこれはマクシミリアン・サイズって名前がついたみたい」

 ちなみに半分しかないプリンであっても、普通サイズの倍の容量はあるから、マクシミリアン・サイズがどれほど大きいかは察して欲しい。

「まあ、大きいのは良いことだな」

 外見のせいで、大概の人間を見上げることになっている状態を地味に腹立たしく思っているマクシミリアンはうんうんとうなづいた。

「……さて、では私は仕事にかかりますので、証拠隠滅はお願いしますね」

「わかった」

 思いがけず新たなプリンを得ることができたマクシミリアンは、緩む頬を何とかひきしめ、きりっとしたつもりの表情でうなづいた。


       ◆◆◆◆◆◆◆


 寸胴の蓋をあけて中を覗き込めば、スープの表面には固まった脂やゼラチンが浮いてくる。

 それをおたま────レードルでそっと掬い取っていく。

『……ゆっくりと、脂だけをとるんだよ』

 父の声が、耳の奥で響く。

(……少しづつ、声の記憶が薄れてきたような気がする)

 亡くなった人は声から失われていくのだと何かで読んだことを思いだす。面影よりも何よりも、声から忘れていくのだと。

(忘れたくないとは思うけれど……)

 でも、生きていく以上、忘れてゆくのが当たり前だ。

(きっと、声は忘れても、教えられたことは忘れない)

 そして、その味も。

『いいかい、栞。コンソメはすべての基本だ』

 浮いていた脂やゼラチン質をとり除いた最初のコンソメ……ブイヨンは、時折きらっとした輝きの片鱗をみせる。

(すべての料理の基になるブイヨン……)

 それを基にして、コンソメ・ドゥーブルは作られる。

『そして、基本でありながら、すべての到達点なんだ』

(……パパの一番の得意料理で、私の一番好きな……きらきらの黄金のスープ)

 父が作る金色のスープの中には、すべての味がつまっていた。

 いろんな野菜の甘さにおいしい脂の甘さ、胡椒のピリッとした辛さに、塩のしょっぱさ……それから、上手に煮込んだ肉や骨の髄のふくよかな旨味があって、それらのすべてのハーモニーがあった。

(私も、コンソメが一番の得意料理だと言えるようになりたい)

「……ううん。違う……」

 ふと、口をついて出た。

「なりたい、じゃなくて、なる、だ……」

 マクシミリアンが用意してくれたシェルノリア大トカゲの肉はざっと五キロ近く。皮や骨から削ぎ落した部分も合わせて、粗みじんに刻んでミンチにしてゆく。

(腱や筋の部分は特に細かくして……)

 いつもの国宝級の包丁ほどではなくとも、この厨房にある包丁はとてもよく切れる。きっと何らかの魔法の働きのおかげなのだろう。五キロの肉をミンチにすることも、それほど重労働とは感じることはない。

 スープより二回りほど大きな寸胴の中に、大きなボウル二つ分の粗びき肉やざく切りのラグラ人参をはじめとする香味野菜をたっぷりといれてよく煉り合せた。

(このままハンバーグにもできそうだけど……)

 そこにメイレル・トマトのピューレや、ドガドガ鳥の卵白を加え、さらに混ぜる。

 手がすごく冷たかったが、更に冷水を加えてよく混ぜる。

(……手が……凍りそう)

「……シリィ? 私に手伝えることはあるか?」

 そこに後片付けを終わったマクシミリアンがやってきた。しっかりと帽子をかぶり、制服をきちんと着ている。 

「……合図をしたら、そちらの寸胴のスープをこの中に入れてもらっていいですか?」

「わかった」

 指先の感覚がなくなりそうだったけれど、尚も練り続けた。

 どこまで練るか、というのは、言葉ではうまく説明できない。何度も試行錯誤するうちに掴んだ自分だけの感覚だ。

(……よし)

「リアン、お願いします」

「わかった」

 マクシミリアンは、かなり重いだろう寸胴をあっさりともちあげる。

「このまま、いれてしまっていいのか?」

「はい。大丈夫です。全部いれたら、そっちの鍋をここの焜炉にかけてもらっていいですか?」

「わかった。……火加減は?」

「あ、私が点けます。……そうしないと、火加減が自分で制御できないですよね?」

「ああ……いや、私とシリィなら大丈夫のような気がする」

 焜炉の制御は、火をつけた人間がする。火をつけた人間の魔力を燃やしているので、他の人間は火加減の変更などができない。途中で他の人間が代わるときは一度、火を消すことになる。

 火を消さないで制御を代わることができるのは、よほど息が合っているか、あるいは魔力の波長が似ているかのどちらかだ。

「そうなんですか?」

「……私とシリィは繋がっているだろう? だから、たぶん」

「へえ。……でも、自分でやらないと不安なので自分でやります」

 他の料理ならいざ知らず、まだこのコンソメは誰かに任せる気にはなれない。

「……かき混ぜてしまっていいのか?」

 やや強火で温めながら、大きな木べらでゆっくりとかき混ぜた。

「ええ、大丈夫です。むしろ、底にへばりついた肉や野菜でうっかり鍋を焦がしたら悲劇ですね」

 それから、卵白を焦がしたりしてもその時点で大失敗が決定する。

 だから、丁寧に、祈るようにかき混ぜる。

 ぐるぐるとかき混ぜる鍋の中、スープの海で浮き沈みしながら野菜や肉の切れ端が踊っているのを見ていると少しずつ楽しくなってくるから不思議だ。

 だんだんと温まってくるにつれて、心持ちスープの色が濁ってきたように見える。

「……リアン、そこの温度計でちょっと温度を測ってもらえますか?」

「わかった」

 温度計は日本から持ち込んだものだ。二本あったのだが、こちらには同じような働きをするものがなくて、一本は同じものを作る研究材料としてマクシミリアンの研究室に買い上げられた。

「……六十八度だ」

 ほぉっと息を吐いた栞は、静かに木べらを回す手を止める。

「ここからが勝負です」

 真剣な表情で鍋の中を見つめるその横顔から、マクシミリアンは目を離せなかった。


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