ソルシエールのコンソメ フィルダニア風(7)
まだ星が煌めく青と紫の入り混じった空を眺めながら、通いなれた厨房への道を辿る。
コテージから厨房への道のりは、最短の道のりを歩くのならばおよそ十分ほど────距離にするとたぶん一キロくらいで、散歩というにはやや物足りない。
時間をさらに短縮するならば、マクシミリアンが特別に設置してくれた転移陣を使えばコテージの中の部屋から厨房の入り口近くまで一瞬で到達することもできるのだが、栞はできる限り歩くことにしていた。
(こうして歩くのも必要なんだよね……)
健康のためにももちろんだが、たった十分くらいだけど、こうして外の空気に触れることは引きこもり傾向のある栞には大切な時間なのだ。
少しずつ色が変わってくる空を眺めたり、日によってわずかに位置が変わる二つの月を見たり、風の温度や空気の匂いを感じること……それが栞の感性を刺激してくれる。
(肌の感覚じゃないと、季節ってズレるからなぁ……)
暦上の季節と、肌で感じる季節は違う。
それはこちらの方があちらよりもずっと大きいように思える。
アル・ファダルは気候的には、東京よりもずっと北の方の地域に近いように思える。
栞は別にそちらの出身というわけではないので比較対象がないのだが、東京よりも全体的に寒いと感じることが多い。何となく北国だなぁとは思うものの正確にはどのあたりになるかがよくわからなかった。
このあたりは、年が明けてからは雪がよく降るもののほとんど積もることがない────確か、去年もそうだったはずだ。
(でも、今年の冬は去年よりも寒いって言ってたからな……)
一番寒いのは年が変わってから、というのが栞の感覚だが、それはこちらでも変わりがないらしい。
だが、あちらには持って帰れないだろう毛皮の裏打ちのあるコートは優秀で、そんな寒い朝であっても一枚羽織っていればぬくぬくだ。少し寒いのは首筋だが、今はまだ気になるほどではない。
(もうちょっと寒くなったらマフラーすればいいし……)
差し色の綺麗な色のマフラーを買う、と心の中でメモをする。
できれば、肌触りの良いふわふわしたものが欲しい。エルダに相談するか……あるいは、リアやディナンと大門前に買いに行ってもいいかもしれない。
(手袋はこれで問題なし)
今使っている手袋は王宮にいたころに双子姫がくれた薄革の物で、濃紺の深みのある色合いが気に入っている。手にぴったりとした革の原材料名は聞いていないが、これからも聞くつもりはない。素晴らしく気に入っているのに、使えなくなったら哀しいからだ。
(どんなに機能性に優れててとても気に入っていても、例えば、トカゲの内臓の皮だとか言われたら、今のように平然とは使えません……)
実はこの一つ前に使っていた手袋が、アドラース大トカゲの内臓の皮の手袋だった。
用意してくれたのはマクシミリアンの兄のレクサンドル殿下で、こちらでは最高級の素材なのだと言われ、とても気に入ってしばらく使っていたけれど、材料を聞いたら使えなくなってしまった。
どれほど丹念に鞣しても、丁寧な特殊加工を施してあっても、使えないものは使えない。軟弱な神経かもしれないが仕方がない。
だって、手袋をするたびにどうしてもトカゲの生温かい内臓に手を突っ込んでいる気がしてならないのだ────己のこの無駄な想像力が憎いと思わないでもないが、ダメなものはだめなのだ。
「……あれ?」
野菜の貯蔵庫のあたりに人影があったような気がして、栞は目を凝らす。
キラリと何かが光ったようにも見えて、足を止めた。
(……誰だろう? オーサがもう来てるのかな?)
リアもディナンもまだコテージを出ていなかったことは確認しているから、栞より早く来る可能性があるのはオーサくらいだ。
だが、オーサの住んでいる独身寮から来ると貯蔵庫のあたりを通るのは少しおかしい。
「……もしかして、泥棒?」
栞は、そっと足音を忍ばせ、貯蔵庫の方へと歩き出した。
ドサリと音をたてて、最後の一人が倒れる。
「人の家を訪問する時は、昼間に玄関から。……常識だろうが」
マクシミリアンは、ふん、と顎をあげ、地面に倒れ伏した者たちを睥睨した。
「まあ、忍び込んでくるような人間に常識を求めても無駄だろうが……」
厨房や貯蔵庫のあるこの一角は、ホテルの宿泊客を含め、一般の人間が足を踏み入れることができない職員専用の領域だ。
職員以外の認識を避ける特殊な人除けの結界によって領域が区切られているため、偶然迷いこんだとか、間違って足を踏み入れてしまった……ということはまずありえない。
「……お……」
何やら恨み言でも述べようとしたのか、あるいは更に抗おうとしたのかわからないが、マクシミリアンは自身に向って手を伸ばした者の顎を蹴りあげた。
「すまないな。……私はこんなナリなもので、臆病なのだよ」
にこやかに笑う。
実年齢よりも幼い体躯であることは、マクシミリアンの弱みである。
魔法でならばともかく、純粋な力という意味では成人した男に劣ることをよくわかっているから、決してまともに組み合うことはないし、剣を手にした時も力勝負はしないことにしている。
「……さて、こいつらをどうするか」
一、二、三……と、自分が倒した人間の数を数えながら、よく見知った気配が近づいてくるのを感じる。
(……シリィ?)
まだ朝五時になるやならずやの時間だ。結局、昨日は零時過ぎまで厨房にいたから、コテージに戻って就寝したのは一時を過ぎていただろう。
(もう起きているのか? 早すぎるのではないか?)
四時間足らずの睡眠では体力がもたないのではないか? とマクシミリアンは少しだけ心配になった。
だが、それよりも今はこの事態を栞に見られることの方がまずい。
(シリィは、こんな身勝手でどうしようもない奴らのことなど知らずとも良い)
栞を拐わかしに来たか、あるいは、ディアドラスで提供される料理の秘密を盗みに来たか……何にせよ、顔を隠した侵入者の目的などロクなことではあるまい。
マクシミリアンは、こちらの世界での問題に栞を巻きこむつもりはない。
(シリィには、伸び伸びと過ごしていてほしい)
怖がらせたくないし、余計なことに思い悩んでほしくない。
なのに、栞の気配は厨房の方角から逸れて、ゆっくりとこちらに近づいてきている。
マクシミリアンは舌打ちを一つして、コンコンと踵で石張りの小径をノックして鳴らした。
隠蔽工作の開始である。
(時間との勝負だな)
気配はなおも近づいてきていて、そうは見えずとも、マクシミリアンは焦っていた。
何かおかしいとおもったら、そこから遠ざかって安全な場所に行くなり、人を呼ぶなりしてほしいと思うのだが、どうやら栞は自分で確認するつもりらしい。
(……頼むから、こういう時は逃げてくれ……)
後で注意しなければと思いながら、靴の踵に仕込んである簡易術式を呼びだす。
それから、右手の中指にしていた指輪で空間を擦り上げ、宙に灯した青白い炎を自身の指先に灯す。
(……ルーシィか、レクス兄上か…………うん。レクス兄上だな)
悩んだのはほんの一瞬だけで、マクシミリアンはこの十人弱の侵入者の送付先を決断する。
(レクス兄上の方が、彼らの身柄を有意義に使ってくれるだろう)
兄ならとことん利益を搾り取るに違いない。
マクシミリアンは、青白い炎が灯る指先でレクサンドルの名を座標として術式の中に書き込んだ。
それは即座に呪陣として起動を果たす。
(少し時間は早いかもしれないが、まあいいだろう)
指先の炎をその中に落とすと、青白い炎が術式の構成式と呪を辿り、薄闇の中でほの白く輝いた。転移の前兆だ。
「……おっと。あぶない」
呪陣からはみ出している者の身体を陣の中に蹴り入れ、マクシミリアンは一歩後ろへと下がる。
その瞬間、目の前の空気がごっそりと奪い去られ────倒れ伏していた人影は一人残らず消え去った。
「…………殿下? じゃない……えっと、そこにいるの、リアンだよね?」
ほんの少しだけ不安そうな声がした。
「ああ。……随分早いのだな、シリィ」
マクシミリアンが暗がりから出てくると、何か棒のようなものを持って、腰の引けた様子でこちらを見ている栞の姿が目に入る。
「……良かった」
安堵の表情に安心させるように笑みを返した。栞は、その笑みに肩の力を抜く。
「……シリィ、その棒は?」
「あ、うん……来る途中の水場にあったのをちょっと拝借してきた。……いや、あのね、最初は泥棒かなって思って……それで……」
バツが悪いのか、栞はあらぬ方を見て軽く肩を竦める。
「ちょっと待て! 泥棒だと思ったなら、なぜ逃げない!」
マクシミリアンは、思わず額に手をやる。
「だって、貯蔵庫のものとか盗まれたら困るでしょう?」
「困るには困るが、シリィが危険に晒されるくらいなら盗まれたって全然かまわない。……そういう時は、逃げて人を呼ぶんだ。警備員の詰め所は三交代でいつも誰か必ず人がいる」
「あ、うん……でも、途中でリアンの気配だってわかったから、大丈夫だと思って……だって、リアンは絶対に私を守ってくれる約束をしているんだし……」
ケロっとした表情でそんなことを言われると、嬉しいのだが、機嫌をとられたように思えて何だか複雑な気持ちになってしまう。
でも、それ以上の注意もできないのだ。
(……私としたことが……)
つまるところ、マクシミリアンは栞に弱い。自分でも自覚はあったのだが、今更のように思い知って、マクシミリアンは深い深い溜息をついた。
「……何か少し寒いから、中でお茶でも飲みましょう。……朝のおめざにプリン食べる? まだ、いつものプリンあるよ」
そんな風に言われると、マクシミリアンは全面降伏するしかない。
栞は小さく首を傾げ、それからくすっと笑って言った。
「……そういえば、まだ言ってなかったね。……おはよう、リアン」
「……おはよう、シリィ」
おはようと返す声が少しだけ掠れた。
栞はいつもそんな風にしてマクシミリアンを当たり前の日常の中へと連れて行く。
(きっと……)
それが、どんなに特別な事か栞は知らない。
「実はね、昨日のコンソメの続きをしようと思って早起きしたの。……うまくいくといいんだけど」
栞の一番の関心事はいつだって仕事の────料理の事だ。
それが少しだけ口惜しい気がした。
「……シリィ」
だから、言った。
「ん? なぁに?」
「朝からちょっと働いたから、プリンは二つ食べたい」
まるで関心をひきたい子供のようだと思い、自分の見た目ならそう違和感はないだろうとも思う。
「うん。……あ、みんなには内緒だよ。殿下ならともかく、リアンだけ二つっていうのはちょっと問題になるから」
「わかった。……大丈夫だ。食べてしまえば証拠は残らない」
真面目な顔をして言うと、栞は少しおかしげな表情で笑った。
特別ではない普通の日の、何てことないこんな時間が何よりも大切なものであることをマクシミリアンは理解していた────そして、そんな時間が有限であることも。
「器も全部洗って綺麗に拭いて元の場所に戻してね」
「もちろんだ」
遠くの空がゆっくりと白み始めていた。




