ソルシエールのコンソメ フィルダニア風(5)
「たっだいまー。でん……じゃねえ、リアン、はい。おまたせ」
転送陣から帰ってきたディナンは、まず真っ先にマクシミリアンのところに行き、小さな紙袋を渡した。
「ああ、ありがとう。……茶は飲むか?」
「おー、ありがとー。……あれ? もうボックス配りに行っちまった?」
「ああ。リアとオーサで配りに行った」
事情が事情なのでマクシミリアンはできるだけ外部と接触しないように心がけている。よって、この先もおつかいやボックスの配布などには行くつもりはない。
「間に合わなかったか~」
ディナンはがっかり、というように長い溜息をついた。
「おかえり、ディナン」
「ただいまかえりました~。えっと、水クラゲとポワ葱はちゃんと箱で買ってきた。これ伝票」
「中見た?」
「うん。水クラゲは三十センチくらいの奴で大きさ揃ってた。とれたてだってさ。あと、ポワ葱は泥付きのまま買ってきた。前におししょーが言ってた、根っこの髭が太かったから二箱もらってきた」
「へえ。それは嬉しいな。んー、夜のポワール鯛のバターソテーにポワ葱添えてもいいかも。……あ、うがい手洗いしてきて~。お茶飲むのはそれからね」
「はーい」
ディナンは、厨房の片隅の野菜を洗う水栓のある場所で手を洗う。こういう時、いちいち水栓を作動させる必要なく、水を招んで手を洗えるのは地味に便利だ。水属性の魔法に適性があって良かったなと思う瞬間だ。
「おししょー、今日って急ぎの下拵えとかあんの?」
手を拭いながら、ごく自然と皆が集まってくる小部屋に足を向けた。
別に誰の席という決まりはないが、だいたい好きな席は決まっている。
タイミングを見計らっていたのか、マクシミリアンがすかさず茶をもってきた。
「おー、ありがと~」
ぬるめのロンド茶はどこか甘味がある。ほっとするような柔らかい味だった。
「みんなが頑張ってくれたから、今日の下拵えはもう終わってるよ。あとは、いつも通りの時間からはじめるから」
「朝ごはんは~?」
「朝食は、お客様と同じメニューに、野菜スープ付」
栞がコンソメの試作を繰り返しているせいで、ここのところのまかないにはいつもスープがつく。
毎回、毎回、これでもか! というくらいにおいしいスープなのだが、栞はまだこれぞと思うようなものができないらしい。
「あー、俺、スープに卵おとしてほしい」
「いいよ~。リアンもそうする?」
「ああ。ぜひに頼む!」
マクシミリアンは期待感いっぱいの表情で、こくこくとうなづいた。
「……それで? ディナン、これはこのまま飲めばいいのか?」
マクシミリアンは紙袋からとりだした丸い粒を掌の上で転がし、矯めつ眇めつ眺めている。
大きさはちょうど大人の親指の頭ほどの丸薬状で、見る角度によっては黒にも見える草色をしている。
「うん。別に特に味はない……あ、水、いる?」
「いや、いらない」
あっさりと断り、マクシミリアンはその丸い粒を口にいれた。王子殿下がそれでいいんだろうかと栞がつい心配になるほど警戒心がない。
(……いや、警戒心がないというよりはディナンを信じてるってことかな。それに、確か毒とかほとんどきかないって言ってたしな)
「……これ、噛み砕いていいのか?」
飴玉のように七色玉を口に含んだマクシミリアンは、軽く眉根を寄せた。
確かに言う通りに味はしない。けれど、強い魔力を感じる。こんな小さなものに込められているとは思えない量で、それは口の中で唾液と反応しはじめている。
「いや、噛まないで丸ごとのみこむ」
「ん」
マクシミリアンはうなづいて、それをごくりと呑み込んだ。
丸いその粒が喉からゆっくりと食道を通って行くのがわかる。
「……あ……」
腹のあたりで、それは弾けた。
マクシミリアンは、軽い衝撃を受けて目を瞑った────眩暈にも似た感覚がぐらりと世界を揺らす。
だが、それは呼吸を一つする間だけで元に戻った。
ゆっくり目を見開くと、ディナンが軽く目を見開いている。
「お、紫~~。すげえ、俺、紫、初めて見た」
「あ? 紫?」
「うん。綺麗な葡萄の紫。……そっちの奥に鏡があるよ。自分でも見てごらん」
栞もついついまじまじと見入ってしまう。
こちらの世界にはいろいろな髪の色や目の色があるけれど、紫というのはとても珍しい色だ。少なくとも栞は他に見たことがない。
「そうする」
ロッカーの設置してあるあたり、邪魔にならないように壁にくっつけておかれている姿見に、己の姿を映し出したマクシミリアンは何度か目をしばたたかせた。
「……確かに紫だな」
髪色に出るには極めて珍しい色だ。
普段、鏡などまじまじと見つたりはしないのだが、つい、鏡の中の自分の姿に目を凝らしてしまう。
「だろ~。黒とそんなかわんないかな~と思わないでもないけど、珍しい色だから髪の毛のほうに意識がいってあんまり顔とか気にされないかも」
「そうなればいいが……とはいえ、明日もこの色になるとは限らないんだろう?」
「うん。……でも、もしかしたらリアンはあんまり薄い色にはならないかもな」
「なぜだ?」
「魔力量が多すぎるから薄い色には変わらないんじゃないかなって思った」
「ああ……そうかもしれない」
それは少しだけ残念な気がした。こうして髪色が少し変わっただけでもマクシミリアンは何だか新鮮な気分になっていたから、どうせだったら絶対あり得ないような色にもなってみたかった。
「七色玉ってそもそもは、ディルギットの菓子屋のメリィさんの作った失敗アイテムが元になっているんだって……失敗アイテムだからまったく害はないってローレンが言ってた」
「元レシピがメリィか……先に教えられていたら、ちょっと口にするのをためらったかもしれない」
「メリィさんはねぇ……」
ははは、とディナンが乾いた笑いを漏らす。どうやらメリィはこんなところでも順調に被害者を増やしているらしい。マクシミリアンの側近たちの間ではすでにメリィの恐怖は一周きれいに回って知らぬ者がない。
「ただいまもどりましたー」
「ただいまー。あー、リアン、髪が紫!」
さすがリアは目敏い。キャスケットの下の髪色が変わっていることにすぐに気づいた。
「ああ。……どうだ? 似合うか?」
マクシミリアンは、キャスケットをぬいで髪色を見せた。
「えー、いいなー、いいなー、私もその色になりたい~」
「飲むか?」
マクシミリアンは七色玉の入った紙袋を差し出す。
ディナンはだいぶ多めに買ってきてくれたので、一つや二つ遊びでリアが使ってもまったく問題がない。
「ううん。残念だけどやめておく。自分の思う色には絶対になれないんだもん。……変な色になったら一日中気持ちが凹むし」
「そういうものか?」
「そういうものだよ~。……あのね、髪型がうまくセットできなかっただけで、一日気分がブルーなんだからね。髪色が変な色になったらもっと落ち込むよ」
「ふーん」
賢明なマクシミリアンはそれ以上の論評を避けた。この話題には何やら危険な匂いがしている。
「おまたせしました。バケットサンドできましたよ。……せっかくなのでホットにしてみました」
ソーウェルがパンを盛った大皿を運んできた。
小麦粉の香ばしい匂いの中に強くチーズが香っている。
「あ、机の上あけて~、スープですよ~」
栞が運んできた湯気の中に、何とも言えぬおいしそうな香りが混じっている。
それに合わせるかのように、誰かのおなかがぐーっと大きく鳴り、誰かが噴き出した。
暖かで、やわらかで、どこか懐かしいような……マクシミリアンは、何とも表現しがたい不思議な気持ちに囚われる。
だが、きっと栞たちにとってはこれがいつもの朝の光景なのだ。
「リアン? 冷めるよ?」
早めに召し上がれ、と栞がとり分けてくれた皿を差し出す。
「ああ。……いただこう」
彼らの当たり前の中に自分もいるのだということが、マクシミリアンには少しだけ嬉しかった。