ポドリーのグリエ 旬野菜のエテュペ添え(14)
コンコン。
様子を伺うような、控えめなノックの音がする。
もぞりとオーサはベッドの上に起き上がった。別に眠っていたわけではない。ただ、ベッドに転がっていただけだった。
そして、のろのろと室内を見回した。
オーサが住んでいるのは、ホテル・ディアドラスに勤める男性スタッフが住んでいる寮の一室だ。
独身寮だから、部屋はワンルームだ。シャワールームと洗面はついているが、トイレと浴場は共用で職員食堂も別にある。
ベッドを置いても室内はわりと広い。
こちらに来る時に、必要最低限しか荷物は持ってこなかったから、まだあまり物がない。それに元々趣味らしい趣味もないので物も少なかった。
王都に居たころの狭い部屋だったら気づかなかったことだが、待遇が少し良くなったこの部屋だとどこかガランとした空虚さが際立つ。
それが、まるで自分の心象風景のようにも思えた。
(……何だか、何もない自分みたいだ)
コンコンコン。
さっきよりすこし強めの音が響いた。
誰かはわかっている────ディナンだ。
たぶん、自分よりは二、三歳は年下だろう少年は、いつもどこか落ち着いてて年下であることをあまり感じさせない。
(……孤児……)
すでに親が亡いという彼は、双子の半身であるリアと二人、レストラン・ディアドラスで料理人見習いとして勤務している。ちゃんと戦力として一人前と認められている立派な厨房スタッフだ。
ゴンゴン。
ノックというには乱暴な音がした。
(……これ、絶対足で蹴ってんだろ)
でも、イラだっている様子はない。ただ、少しだけ面倒くさいと思っている音だ。
(……あいつはいつもどっか冷静だもんな)
別に孤児だからといって馬鹿にしているつもりはなかったし、年下だからと舐めてかかっていたわけでもない。
けれど……たぶん、心のどこかで自分は勝手に彼らを下に見ていたように思う。
(……ディナンができることなら、当たり前のように俺もできると思ってた)
ディナンやリアの苦労話や愚痴を聞き流していたわけではない。ちゃんと聞いていた。
でも、自分は二人のように途上で拾われたわけではなく、ちゃんと職人として教育を受けてきていて抜擢を受けて赴任してきたのだから、それくらいのことはすぐにでもやってみせるなんて根拠のない自信を持っていたし、自分にはそんな話は無縁だと思っていた。
(……馬鹿な俺は、勝手に決めつけていた)
俺の実力を知れば、もしかしたらヴィーダは俺を弟子にしたいって言いだすんじゃないか、そうしたらブーランジェリーではなくレストランで働くことになるんじゃないか……なんて夢想もしたことがあった。
実力なんてものは自分にはなかったし、そんな思い込みは……いや、思い上がりは木っ端みじんに打ち砕かれたけれど。
ガンガンガンガン。
たぶん、これも扉を足で蹴っているのだろう。
「あーけーろー。あけないと、水流でぶち破るぞーーー」
予想通りのディナンの声がする。と、同時に、その口から出た言葉のあまりの内容にぎょっとした。
慌てて扉を開く。
「やーっと、開けたな。このサボり野郎」
帽子とエプロンをはずしたコックコート姿のディナンが立っていた。
「……別に、サボリなんかじゃあ……」
「サボりだろ。……ホテルの医者んとこに行くわけじゃなし、食堂には普通に飯食いに行くくせに、仕事には出て来ねえんだから」
はっきりきっぱりとディナンが言う。
オーサとの身長差はほとんどないのにもかかわらず、心なしかディナンの方が大きく見えるのは、自分の中に罪悪感があるせいだろう。
「……………」
「まあ、今は別にそれを責めに来たんじゃない。届け物に来たんだ」
ディナンはあっさりと話を変える。
「届け物?」
「そう。ほら、おししょーから」
押し付けるように手渡されたのは、何度も配ったことのあるレストラン・ディアドラスのモーニングボックスの箱だ。
ディナンから受け取った箱はほんのりとぬくもりを帯びていた。
「これは?」
「おししょーがおまえの為に作ったんだ」
「俺の為に……」
「そう。それで、伝言。『ポドリーの下拵えはまだまだあるわよ』だって」
「ポドリー……」
「……『ディナンの二回目の挑戦はポドリーのグリルだからたくさん必要だから』ってさ」
「おまえの二回目の挑戦?」
「……お客さんに出す料理を作ることに挑戦させてもらうんだ」
ディナンは一瞬口惜し気な表情をして、それからキュッと唇を引き結んだ。
オーサは自分のことでいっぱいいっぱいだったので朧気にしか覚えていないが、自分が何一つ下拵えの役に立っていなかったその横で、ディナンが料理に何度も失敗して賄いの材料を量産していたことがあった。
(……こうして考えて見ると、あれは随分とひどい失敗だったような……)
レストラン・ディアドラスで使っている材料は最高級品ばかりだ。それを、あんなにダメにしてしまったら、どれだけの損害になるのか計り知れない。
「……あんな失敗しても、またやらせてもらえるんだ……」
つい、嫌味な言い方をしてしまう。
「そうだよ。……王宮の厨房だったら絶対にありえないってソーウェルさん言ってたけど」
「……おまえ、ソーウェルさんが誰かわかって、それ言ってる?」
「どういう意味?」
「おまえが、気軽にソーウェルさん、なんて言ってる相手は、ついこの間まで、王宮の総料理長だったんだぞ」
「へえ~~~。ソーウェルさん、タダ者じゃないって思ったけど、そんなにえらかったんだ?」
ディナンはあっさりと感心する。
「王宮の総料理長って言ったら、我が国で最もえらい料理人だぞ」
「おししょーをのぞいて、だろう? おししょーはヴィーダなんだから。……あ、いや、でも、ソーウェルさん、おししょーの押しかけ弟子になりに来たんだから、おししょーのが上かも……」
うーん、とうなるディナンは、オーサの望むような反応は欠片も見せない。
「え? 押しかけ弟子?」
どころか、オーサの知らない事実をぽろりと口にする。
「うん。……でも、今はソーウェルさんのことはどうでもいい。大事なのは、おまえのことだ」
ディナンの瞳がまっすぐとオーサを向く。
「……こんなこと、俺が言ってやる義理なんてないんだけど、でも、縁あってうちのレストランに来たんだし……せっかくおししょーに教えてもらえるのに、こんくらいのことで辞めちゃうのはもったいないから言ってやる。……おまえ、今日にでも出てこないとクビになるから」
「えっ……」
「何、驚いた顔してんの? そもそも、こんだけサボっといてクビにならないほうがおかしいって思わないの?」
「……俺がいなきゃ、ブーランジェリーは……」
「別におまえがいなければ代わりを見つけるよ、プリン殿下は」
「……プリン殿下……」
「あ、えっと、マクシミリアン殿下のこと。……そりゃあ、王宮で抜擢されてきたのかもしれないけど、それは可能性を見込まれたってだけで、別に決定じゃない。それに、ブーランジェリーはまだオープンしてないんだから、できる人間が見つかるまで延期すればいいだけだ」
「……なんでおまえがそんなこと言えるんだよ」
「俺が見てもわかるくらい当たり前の事実の話をしてるだけ。……はっきり言って、おまえじゃなきゃいけない理由なんてない。だって、おまえ、どうせまだ下拵えもできないんだから」
ギリッとオーサは唇を噛んだ。
「……俺も、リアも、最初は何もできなかった。でも、今はできる。……それは、おまえより先にはじめたからだ。おまえより先に始めて……それで、俺たちにはほかになかったからだ」
「……他になかった?」
「俺とリアは、おししょーに拾われてやっと初めて人間らしいくらしができるようになった。他に居場所なんてないし、逃げる場所もない。ここがすべてだ。だから、死に物狂いでしがみついた……いや、今だって変わらない。しがみついてる。何をどうしてもここにいたいし、おししょーの役に立ちたい。……ここだけが俺の場所だ」
そう言うディナンの瞳にはどこかギラついた光がある。
「パン職人だから? ブーランジェリーの責任者になるから? レストランじゃないから、拗ねて引きこもっていれば、じゃあ下拵えなんかしなくていいよって言ってもらえると思ってんの?」
「違うっっっ」
「だったら、とっとと出て来いよ。……おまえのせいで俺らも迷惑してるけど、おししょーだって迷惑してる。……辞めるなら辞めるでちゃんと言いに来るべきだ」
「……辞めるつもりはない」
「だったら、何やってんのさ。引きこもってごろごろしてりゃあできるようになると思ってんの?」
「そんなわけねえだろ! いくら俺が能天気でもそこまで馬鹿じゃねえっ!」
「だったらさっさと出てきて、少しの時間でも練習しろよ。まあ、しばらくは厨房入れてもらえねえかもだけど」
「……え」
「……あのさ、ここまで迷惑かけて、すいません、戻ります、で戻れると思ってんの? そんな甘いわけないだろ」
ばーか、とでもいうような口調でディナンは言って、小さく息を吐いた。
「じーさんに詫び入れて、おししょーに詫び入れて、それで、しばらくは一番最初に来て一番最後までがんばるんだな。しばらくは下拵え専用要員かもだけど」
「……わかった」
「本当に?」
ディナンが疑いの眼差しを向ける。
「ああ」
「……そ。じゃあ、俺、戻るから」
「……うん」
ディナンはあっさりと背を向けた。
躊躇いながらも、オーサはディナンのその背中に礼の言葉を告げる。
「……わざわざ、ありがとな」
小さな声だったが、ちゃんとディナンには届いたらしい。
振り向きはしなかったが、どういたしまして、とでも言うようにひらひらっと手が振られた。




