ポドリーのグリエ 旬野菜のエテュペ添え(8)
栞の朝は早い。
基本的に料理人は早起きだ。早朝から市場に仕入れに行くこともあれば、朝食の提供準備もあるし、ディナーのための下拵えだってある。
総料理長ともなれば、そういったことを弟子や部下たちに任せて寝坊することも可能なのだろうが、少数精鋭で厨房を回している現在、それはまったくもって不可能だ。
(そもそも、私なしでここは通常の営業ができない)
ほんのちょっとの自負とまだまだだという決意と悔しさとともに、栞はそう思う。
自分がいなければ成り立たないということは正直に言って嬉しい。
それは、栞の身につけた技術が特別なものであるということだし、存在意義を認められているということのように思えるからだ。
けれど、矛盾するようだけれど、それはホテルのメインダイニング……一軒のレストランとしてはあってはならないことだ。
(料理人としての『私』は満足だけど、総料理長の『私』としては不満を感じてる)
誰かが抜けたら同じサービスが提供できなくなるというのは、レストランとしては落第点をつけられるということに等しい。
希望していた人員とはやや違うものの、ソーウェルとオーサの加入により、徐々に形は整いつつある。
栞がいなくても『ディアドラス』の料理を提供することができなくてはいけないし、これからの毎日はそれを目指していくことになるだろう。
「おはようございます、ヴィーダ」
厨房脇の準備室のテーブルの隅には既にソーウェルが座っており、豆茶をすすりながら本日のお客様リストを見ている。
お客様のお名前と種族、出身国などが書かれた簡易なリストだったが、厨房では最高に重要な情報の一つだ。
(ソーウェルさんの専用デスクをいれてもらわなきゃ)
「おはようございます、ソーウェルさん。早いですね」
総料理長である栞が目を通したりサインをしなければいけない書類はそれなりにあるし、何よりもレシピの管理のために、栞には専用デスクがある。
今後は厨房関係の書類もソーウェルと一緒に処理していくことになるだろう。
「いや、リアとディナンの方が早かったですよ」
苦笑するソーウェルは、以前の王宮料理長としてのものではなく、この厨房の料理人用のコック服を身につけていた。
ディナータイムだけという話もいつの間にかなしくずしで、だいたい常にここにいる。
趣味も料理なのでぜひ手伝わせてください、と申し訳なさそうに言われればいつでも人手不足の現状なので受け入れざるをえないのだ。
ソーウェルの服装を素早く確認しながら、栞は同じコック服の襟元を整え、手にしていたキャスケット帽の中に編みこんだ髪をきちんと納める。短くしてしまっても良いのだけれど、何となく幼い頃から伸ばし続けてきたのであまり短くすることができない。
(願かけってわけでもないんだけれど)
淡い初恋の記憶のせいかもしれない。
顔も覚えていない初恋の人が、髪をキレイだと褒めてくれたせいで伸ばすようになった。メイクもほとんどできない身なので、髪くらい伸ばしていないと女としての何か大事なものを失くした気がするせいもある。
もちろん、キャスケットをかぶってしまえば髪型など関係なくなるし、厨房の中では性別なんか関係ない、というのが栞の持論である。
「あら……」
テーブル脇の簡易焜炉でくつくつと込まれている鍋に目を留める。
例の魔力炭を使っているせいで常時そばについていなくても煮込んでいられる。
グリエやアヒージョ、ステーキなどの焼き加減に注意が必要なものと違い、煮る系統の料理は細かな火の調整がいらない。つまり、最初に火を熾すことさえできれば、あとは炭にお任せすることができるのだ。
(これって、すごく画期的だと思うんだよね)
魔力の有無に左右される迷宮素材の調理を、魔力が少ない……場合によってはほとんどない人でもできるというのは、たぶん、迷宮素材の調理という限られた世界にこれまでの比ではない革命を起こす可能性がある。
このレストランの調理場という狭い範囲で言っても、これまで一人がつきっきりで火の調整をしなければいけなかった煮込み系の調理に対する手間がとても簡略化される。
(人的コストの圧縮になるのは大きい)
ステーキに次ぐ人気を誇るシチューだったが、これまでは通常のアラカルトメニューには入れていなかった。
この炭がこれだけ使えるものならば、少しメニューの見直しをすることもできるだろう。
「昨日のアレです」
「ああ……朝、もう作ってました?」
「はい。量が量なので、まずは、シチューではなくあっさりとした煮込みを、と言っていましたが」
オーサやディナンという食べ盛りの青年がいるせいで、賄いが残ることはまずない。
けれど、いろいろな味を試すという意味では煮込み半分、シチュー半分というのはいい選択だろう。
鍋をのぞくと、香草類と一緒に火の通りにくい根菜がゴロゴロと入っている。
乾燥ラルダ茸が一掴みたっぷりと入っていて、良い出汁が出ているのが目に見えてわかった。
(あー、賢い、賢い)
一度焼いてあるドラゴンの肉は、中途半端な煮込み方だと硬くて食べられなくなるが、ある一点を越える……注ぎ続けた魔力が浸透して飽和するととても柔らかくなる。
口の中でほろりと崩れる肉の旨さは、ステーキでは味わえないものだ。
おそらく、飽和したところで鍋を半分に分け、半分を煮込みに、半分をシチューにする計算だろう。魔力消費を抑え、更には管理する火口が少なく済む。
栞のようにほぼ無尽蔵ともいえる魔力をもたないリアとディナンは、魔力量の管理が上手い。本人たちに言わせれば、それが生死の分かれ目になりかねない探索者なので当然だというが、魔力の把握が曖昧な栞には未だにわからない感覚だった。
(上手にできていたら、殿下達の夕食に加えてもいいかも)
既にメニューはできていたけれど、組みなおすことは可能だ。
「ヴィーダ、本日の夕食のメインはポドリーのグリエですけれど、ディナンに任せますか?」
「いえ。今日はわたしが見本で作ります。で、今週、滞在のお客様が入れ替わったら一度、ディナンに任せてみようと思っています」
「ポドリーはステーキと違って再利用できませんけど」
煮込むと硬くなるポドリーは別の料理にするリカバリーがきかないと考えられている。
「そんなこともないですよ。まあ、消し炭にしたら無理ですけど。多少焼きすぎたものは千切りでサラダのトッピングにすればいいし、焼きが足りないものはうまく火をいれてやれば何とかなります……賄いになら十分です」
「ほんと、贅沢ですねぇ」
「料理人の特権ですよ。……王宮でだっていろいろおいしいものいただいていたじゃないですか」
「いえいえ、こちらに比べたらまったくですよ。迷宮素材をこんなにいろいろな形でいただけるなんて、まずありえないので」
「まあ、産地に近いですからね」
迷宮を産地と言っていいのか迷うところだが、つまるところそういうことだ。
いわば『地産地消』である。
「ヴィーダは相変わらず謙虚でらっしゃる」
ソーウェルはどこか生ぬるい笑みを浮かべた。
栞と話していると、わりといろいろな人がよくそういう表情をするのだが、栞には理解できない。謙虚、と言われてもそれが自分をさす意味がわからないのだ。
よもや、ソーウェルが自分の料理が食べられることが最高の贅沢だと思っているだなんて想像もしていない。
とりあえず、傲慢と思われていなくて良かったというのが素直な気持ちだったが、意味がわからないのがちょっとだけもやもやしている。
「おはようございます、ヴィーダ。今朝のパンです」
「おはよう、オーサ」
ベーカリーのオーブンから出してきたばかりのパンをもってきたオーサが、手馴れた動作で作業台をキレイに拭きあげ、ボックスを並べはじめる。
「今日の焼き加減はどうだった?」
「上々です。……どうぞ」
差し出されたパンはパリパリの皮が香ばしい匂いを漂わせていて食欲をそそる。
焼き色も上出来で、二つに割った中の気泡の入り具合も良かった。
「食べてみた?」
「あー、いただきました」
「どう?新しい酵母」
「いいですね。ヴィーダがおっしゃった通り、砂糖をやや多めにしないとだめなんですけど、皮の香ばしさが違います」
栞は、二つに割ったパンの片方にかぶりつく。
ちょっと行儀が悪いかなと思わないこともないが、これも仕事のうちだ。
「うん。……いいね。上出来」
焼きたてのほのかな温みのあるパンは、何もつけなくてもおいしいものだ。
最近、オーサはこの朝食のパンをはじめとするリーン系のシンプルなパンを失敗することがほとんどなくなった。
(もう少ししたらリッチ系教えてもいいかも)
栞は別にパンを専門に学んだわけではなかったが、一通りは修めている。
こちらではシンプルなパンばかりでリッチ系はないようだから、きっと珍しく思われるだろう。
(それはそれで、また売りになるだろうし)
これまではそこまで手が回らなかった。
けれど、ソーウェルが来て、ブーランジェとして専任のオーサが居る。
豊富とまではいえないが、人員が増えたので少しづつ新しい展開をしてゆきたい。
「今朝も全員ボックスでしたね」
朝食の注文は、昨夜のうちに提出されている。
それを見て栞がパンの注文を出しているのだが、そのパンの注文でオーサはそういったこともちゃんと把握しているらしい。
(そういう気が回るのは良いことだ)
「最近、朝はボックスを注文する人ばかりなの」
「ボックスだと、どこでも食べられますからね」
天気の良いこんな日は庭で食べたりするのもいいし、庭に出なくてもベランダで食べるのもいいですよね、と笑う。
「それに、ボックスならば持ち帰ることができます」
少しだけ苦笑するような表情でソーウェルが口を挟んだ。
「それは、それぞれの国に、ということですか?」
「はい。……ここで時々使っている保存の魔方陣ありますよね」
「ええ」
保温、保冷、どちらにも使える便利な魔方陣だ。
このレストランでは、それをランチョンマットに仕込んでいる。
その上に置いた瞬間から、皿が空になるまで、料理は冷めることがないという優れものだ。
「あれの最高レベルになりますと、年単位で保存が可能なんです。まあ、そこまでの陣を描ける使い手というのは稀にしかおりません。が、持ち帰るだけなら一週間も保てばいいわけです」
「持ち帰ってどうするんですか?」
栞はクビをかしげた。
「『分析』という魔術があるのですよ。それで調べるのでしょう」
「何のために?」
「再現の為にです。『分析』は『分析』にかけた対象物の構成要素を調べることができます。そして、完璧に分析しきれたならば、『再現』が可能です」
「……あの、意味がよくわかりませんけど。ようは魔術で同じものが作りたい?」
「ええ」
「できるんですか?」
「……『分析』の分析率にもよりますが、それに基づいて『再現』をすればいいわけです。理論上は可能です」
「へえ」
「あるいは、『複製』というのもありますね」
「……あー、それは無理でしたよ」
「そうなんですか?」
「ええ。殿下がプリンを複製しようとして失敗してました」
「……マクシミリアン殿下が、ですか?」
「はい」
「ならば、この世界の誰一人として『複製』はできないということですね」
「そうなんですか?」
「はい」
(『分析』はできるのかな?)
今度、マクシミリアンに聞いてみようと栞は頭の片隅のメモに記す。
分析ができるのなら分析してもらえれば、レシピを作るのにかなり楽になるだろう。
(特に調味料類の細かな数値とか)
栞は舌で量るので、レシピにするときにどうしてもそのあたりが曖昧になる。
そこが秘伝と言えなくもないが、同じ味を他者に継承することを考えたとき、そこが明確だと便利だ。
(数値が全部一緒だったとしても、同じ味にはならないと思うし……特にこの世界では)
あちらよりもこちらのほうが……より正確に言うならば、迷宮素材を使った料理は、作り手の違いが顕著に現れる。
(仮説だけど、たぶん料理に使用する魔力の違いって結構あると思う)
明確な根拠はないけれど、同じ材料、同じ手順で作っても絶対に同じ皿にならない、と栞は言い切れる。自分でもそうなのだから、他人だったら更にその違いは明らかだろう。
なので、『複製』ができない以上、どれだけ分析されようとも栞は特に気にはしなかった。実のところを言えば、『複製』ができたらできたで何とでもできるとも思っている。
『分析』や『再現』もできるならばやってみろ、くらいの気持ちだった。
(私の皿は私にしか作れない)
今の栞にはその自信があった。
それは、ここに……フィルダニアに来たからこそついた自信だった。




