ポドリーのグリエ 旬野菜のエテュペ添え(7)
殿下達が召し上がるデザートの最後の皿の余白のクリームをマーブル模様にし、フロア担当者に運んでいいと合図をする。
「いただいてまいりますね」
「お願いします」
ふぅと一息ついたところで思いつめたようなリアの表情に直面した。
「……お師匠さま、ごめんなさい」
「リア?」
栞には謝罪の意味がわからなかった。
「いっぱい、いっぱい失敗しちゃって」
言いながら、泣きそうな表情になる。
「ああ……別に無駄になるわけじゃないから」
振り返った台の上の二枚の大皿に積み上げられているのは、今日、リアが作った失敗作である。
失敗作といっても食べられないほどひどいとかそういうわけではない。
ただ、このレストランの一皿として出すことはできない。
表面がちょっと焦げているとか、焼き加減がまだらだとかそういう失敗作の山を、ディナンは直視するのがはばかられるというように目を逸らした。
何も言わないのは、次は我が身であることを理解しているのだろう。
「でも……」
「大丈夫。これは再利用するから。ちょっと試したいこともあるし」
「ヴィーダ、私からも謝罪を。リアをうまく導けなくて申し訳ありません」
「ソーウェルさんまで。……できると判断したのはわたしですから」
「そのご期待を裏切ったことが申しわけないです」
「いえ。ある程度の失敗は想定内でもありますから」
栞とて、今日の今日で全部ちゃんとお客様に出せるレベルに焼けるなんて思っていなかった。
ソーウェルもそれはわかってはいただろう。ただ、予想以上にうまくいかなかったというところだろうか。
(でも、私の想定では三日くらいは全滅かもって思ってたからなぁ)
その予想に較べれば、リアの出来は予想以上に良かった。
(ちゃんとステーキとして合格なものが半数近くある)
きっと初めてのお客様ならば違和感なく、普通においしく食べてくれるだろう。
魔力的な効果はよくわからないが、そもそもの素材の含有する魔力と『多量の魔力で調理する』という基本を押さえているから、栞と殿下の考えている理論が正しければ、炭を使っているとはいえ、おそらくそれほど大幅な減少はしていないはずだ。
「失敗しただけじゃなくて、結局、お師匠様に作ってもらわないと間に合わなかった」
フルコースは音楽だよ、と、かつて父の一郎は言った。
前菜からデザート、食後の飲み物に至るまでの一連の流れを、音楽に例えた。
今日は情熱的なタンゴの気分だから全体的にちょっとスパイシーなものでまとめてみようとか、これから最高にエキサイティングクライマックスだから、メインディッシュの鴨のためにスープは優しいやや薄く感じられる味でおいしさを期待させるにとどめておこうとか……一連の流れ、というものを重視していた。
ディアドラスで料理長となって、すべての皿に責任を持つようになって、一郎の言っていたことがよくわかるようになった。
すべての皿がおいしいことは基本中の基本だ。
その『おいしい』をどう組み合わせ、どのタイミングでお客様の前に出すのか……料理長というのはその責任者だ。
責任者として決めているのは、コースメニューの順番を崩すことはしないことと適切なタイミングで最高の状態でおだしすること……お待たせすることは厳禁だ。
だから、一度失敗したら、二度目は栞が作る。
(それ以上は待てない……)
それは、一郎言うところの『音楽が途切れてしまう』状態だからだ。
リアの目は潤んでいた。
それでも泣きたくはないのだろう。ぐっと奥歯を噛み締めてこらえているのがよくわかる。
「初めてなんだから失敗するのは当たり前だよ。どれだけ練習してても、そうそう最初から上手になんてできない。ましてや、ここの基準はかなり厳しいから」
栞の言葉に、ソーウェルが得心がいったというようにうなづいている。
王宮の厨房でだったら充分に出せると判断するだろう出来の皿も、栞ははねたのだ。
イルベリードラゴンのステーキとしては合格点でも、このレストランの皿としては基準に満たないという判断だった。
「でも、こんなに高い素材をだめにして……」
ぼんやりとしか金額が把握できないのだが、たぶん、この大皿二枚分のドラゴン肉だけでリアの一か月分のお給料をゆうに上回るだろう。
(二か月分か、三か月分か……)
でも、だから何なのだと栞は思う。
「駄目になんかしていないよ。大丈夫。ちゃんと再利用するから。……それに、最初に焼いた一枚よりも、最後に殿下達にお出ししたものはずっとずっと上手になっていたよ」
リアは首を横に振る。
「殿下のお好きな血のしたたらないレア気味なミディアムよりもちょっと焼きすぎました」
「えらい、えらい。ちゃんとわかってたね」
「なんではねなかったんですか」
何度失敗しても、栞は最初にリアに挑戦させた。
それこそ、最後のお客様まで毎回、だ。
失敗したステーキの枚数は、マクシミリアンたちをのぞいたお客様の数と等しい。
リアは、殿下達のものもはねられる覚悟をしていた。
「殿下達はお客様であってお客様ではないからね。実験台というか……協力者というか……食べてもらって感想をもらうのも大事だからね」
目に見えて落ち込んでいるリアに栞は一瞬迷って、口を開く。
「あのね、リア」
「はい」
リアは顔をあげた。
栞のいう事を一言も聞き漏らすまいという表情だ。
叱責も注意も全部聞いて、自分で反省し、改めるのだという姿勢がそこにある。
(この子は、大丈夫だ)
リアがこういう表情をしている限り……この目をしている限り、決してくじけないし負けないだろう。
「賄いとか試作とかとは全然違ったでしょう?」
「……はい」
こくりとうなづく。
栞が大丈夫だといってくれたからできると思った。
簡単だとは思っていなかった。
でも、こんなにも違うだなんて思ってもみなかったのだ。
「どうだった?」
「……こわかったです」
賄いでも、試作でもない……お客様の口に直接届く皿を自分が作るという事、それが怖かったとリアは告白する。
栞の味を望むお客様に、このレストランの品として、自分の作ったものを出す……そのことに、リアは少しだけ怯えた。
失敗して傷がつくのは、リアではない。
栞の名であり、このレストランの築いてきた名声であり、このホテルであり、ひいては、このフィルダニアだ。
それが、リアには理解できてしまった。
「それでいいんだよ」
栞は柔らかく笑う。
「こっちの皿が不合格。こっちの皿はステーキとしては合格。殿下達にお出しした皿はもちろん、ステーキとしては合格だったよ。……お客様にお出しするには何が足りなかったか、考えてみて。もちろん、味見をしても良いよ。それで、味見が終わったなら、このお肉は全部シチュー用に切ること。ドド芋と玉ネギとポワソンを炒めて、お肉をいれてスープを注いで火をいれておいて。明日使うから」
「はい」
こくりとリアはうなづく。
「俺も手伝う」
「そうだね。ディナンは明後日やるよ」
「……はい」
ディナンは覚悟を決めていたのだろう。栞の目をはっきりと見てうなづく。
「ディナンはステーキじゃなくて、魚介の方から一品選ぶから。材料と相談だから何にするかまだ決めていないけど」
イルベリードラゴンのステーキは定番の一皿でもあり、常時、肉のストックがあるが、魚介はその都度仕入れるものを使うことが多い。
明日のトトヤからの仕入れ状況と応相談というところで、何もなければ倉庫にある魚の中から選ぶことになる。
「あの、私は」
リアが躊躇いながら問う。
「明日は連泊の方ばかりだから、たぶんステーキの注文はあまりないと思う。だから、来週、またやるよ」
フロアを取り仕切るエルダに頼んで、今日のメインはできるだけステーキを選ぶお客様が増えるように誘導したが、ものの見事に全員ステーキを選んでくれた。
明日は、逆にポドリーを選ぶお客様ばかりになるだろう。
栞の言葉に、リアの表情はほころぶ。
「はい」
見捨てられなかった、という安堵、そして、もう一度チャンスが与えられたのだという喜び……そういったものがないまぜになった表情で、リアは目頭を押さえた。
「ソーウェルさんは、ちょっと明日のメニューの相談にのってください」
「はい」
「では、後はよろしく」
リアとディナンが、はいと元気よく返事をし、お疲れ様でした、と頭を下げた。
(あー、ここからもう一仕事あるんだけど)
二人が後片付けをしている間にメニューを決めて、明日の下ごしらえの指示をしなければいけない。
(とはいえ、とりあえず一山越えたよね……)
夕食戦争はほぼほぼ終わりが見えた。片づけが終わるまでが戦争のうちではあるものの、栞のすることはもうない。
道具の手入れなどもリアとディナンが自分たちから望んだので、任せることにしている。
「お疲れ様でした、ヴィーダ」
「ありがとうございます。ソーウェルさんもお疲れ様です」
厨房脇の準備室の丸テーブルの席を栞は視線で薦めた。
そして、あらかじめいれてあるロヴ茶をグラスに注いで互いの目の前に置く。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
帽子をとってテーブルの上に置く。
同じようにソーウェルも帽子をとった。
あちらで言うコック帽ではなくキャスケットのような帽子だ。頭をすっぽり覆ってくれる。編みこんでまとめていても、やはり髪が落ちるかもしれないと心配なのでこのタイプの帽子が一番安心できる。
出されたロヴ茶を一口のみ、ほぅと息を吐いた。
「ヴィーダは、意外に手厳しいですな」
「はい?」
「私はあのステーキとして合格の皿は、お客様にお出しするかと思いました」
「……ちょっと迷いましたが、別に無駄にはしませんから」
「シチューになさるおつもりで?」
「はい。ちょっと贅沢ですが、賄いで皆でいただきましょう」
「……おやおや、そんな賄いがいただけるなんて、それだけでもここに来た甲斐がありますな」
ソーウェルはくすくすと笑う。
「大丈夫です。殿下は何もおっしゃいませんよ」
「そうですね。殿下はヴィーダのなさることは反対なされないでしょう」
もし、栞が男であれば、マクシミリアンは間違いなく側近に加えただろう。
フィルダニアは多民族国家だ。異国人を受け入れることに一番抵抗が少ないし、それは異世界人であっても変わらない。
何よりも、栞はマクシミリアンのヴィーダだ。
誓約で結ばれ、運命を分け合う半身。
マクシミリアンと栞の間に甘やかな恋の絆はないが、それを上回る信頼で結ばれている二人だとソーウェルは見ている。
「私の師であった父はよく言いました。おいしいものを作り出す料理人を一人作り上げるには途方もないお金がかかるものなのだと」
「それは、それは」
軽く目を見張りはするものの、ソーウェルは別に驚いていたわけではない。
「おいしいものをとことん舌で覚えなければ、自分がおいしいものを作り出すことなど不可能だから……料理人は食べるものに贅沢をしなきゃダメだというのが持論の人でした」
「ああ、それはそうですね」
「どんな高価でおいしい素材であっても、自分がそれを知らなければ、無意味です。食べたことのないものの調理は難しいですし、その素材が一番おいしい味を知らないとおいしいものは作れません。……私はこちらに来たばかりの時に、それで随分と愉快なものを作り出しましたので」
愉快、と評したのはある意味、栞の自虐だ。
とてもじゃないが、口にできないもの、口が曲がるようなものを作り出したこともある。
ある程度の知識は、マクシミリアンの持つそれから引き出すことも出来たが、マクシミリアンは料理人ではない。なので、それは曖昧なものになりがちで、最初の頃はだいぶ苦労したものだ。
王宮の厨房でこっそり下働きをしたり、王宮の食堂で食事をとり、あるいは、マクシミリアンの側近に伴われて夜会にもぐりこんだりしていろいろな味を知る中で、初見のものでも、見た目からだいたいどういうものなのか判断できる能力を身につけた。
何とかというスキルかもしれない、などといわれたけれど、栞にそのあたりはよくわからない。
「リアもディナンもここからが正念場ですから。ソーウェルさんもお力添えをお願いいたします」
栞は頭を下げる。
「顔をおあげください。こちらこそ、今日は素晴らしい勉強をさせていただきました。……こちらこそ、お願いをさせていただく立場です」
どうか、これからもよろしくお願いいたします、とソーウェルも頭を下げた。
きっとリアとディナンの師として残る名前は栞のものだけだろう。
けれども、ソーウェルは自身のもてるすべてを二人に教えようと決めた。
ソーウェルは栞のように、自身のレシピを公開することを考えたことがない。
栞の公開したドドフラはアル・ファダルの名物としてだけでなく、広く、フィルダニアの名物ともなろうとしていて、その名はきっと歴史にも記憶にも残ることだろう。
対して自分は『王宮料理長』という肩書きの中にうずもれるだろう。
けれど、自分の味は、技術は、これまで育ててきた料理人たちの中に残る。
そして、その最後に、リアとディナンという迷宮素材を調理することのできる料理人に、これまで自分が受け継いできた味を、あるいは技を伝えることができるのはとてつもない喜びだと思えるのだ。
「私は自分もまだ修行中なので、師として未熟です。なので、ソーウェルさんにはそこのところフォローしてもらえると有難いです」
「ヴィーダ、それを言ったら私もまだ修行中でして……」
ソーウェルは器用に方目を瞑り、ウインクする。
「ああ、そうですね」
栞は軽く目を見開いて、そして笑った。
「料理人は、一生修行の身ですものね」
「ええ、そうです」
くすくすという密やかな笑い声が重なる。
それは、夜の中に静かに響いた。




