ロデ豆のシチュー ディルギット風(10)
「こんにちは、ヴィーダ。今日はお招きありがとうございます」
「こんにちは、イシュルカ。お茶会とは言ったものの、試食会のようなものだからのんびりしてね」
今週、栞は大変に忙しかった。
ディルギットの菓子屋を訪れた後の一週間は、馬車馬のように働いた。
やむをえない事情により、いつもの限界人数以上のお客様を受けいれたレストランの通常営業もきつかったが、今週は手のかかる素材の入荷が多くて、それを処理するのも大変だった。
リアとディナンは着実にその技能をのばしていっているが、このまま三人で続けるのはだんだんと無理がでてきている。
ホテルの従業員から日替わりで下働きをまわしてもらっているが、固定ではないために単純作業しかできない。そして、その都度教えなければいけないことが、案外バカにならない負担になってきている。
殿下に、厨房に新しい人員をいれることを提案したが、条件が厳しいのがわかっているのですぐには無理だろう。
(んー、王宮から人手を回してもらうか)
王宮の料理長とは良好な関係を保っている。
最初から良好だったとは言いがたいが、それでも、今では普通にメニューの相談にも乗るし、前もってわかっている団体のお客様がいる場合には、王宮の料理人を回してもらうこともある。
(うん。これは早めに依頼しておこう)
必要なのは下働きではなく、栞が休みでもレストランを回すことができるちゃんとした料理人だ。副料理長となれるくらいの人材が欲しい。
魔力は足りなくてもいいから、こちらの料理の基本をちゃんと知っている人間が必要だ。
(リアとディナンはこちらの料理も知っておいたほうがいい)
それでも、今の人数でできる準備はちゃんとし尽した自信がある。だから、胸を張ってお客様を出迎えることができる。
「紹介するよ。僕の祖母……エリュシュリネア」
イシュルカが口にしたエリュシュリネアという響きに、聞いたことのない音が重なって聞こえる。
(なに?鈴の音?)
「はじめまして、ヴィーダ・シリィ。エリュシュリネア=ヴィレ=ロワゾートです。今日はよろしくお願いしますね」
本人が名乗ったエリュシュリネアという音に、やはり先ほどと同じように言葉としては捉えることのできない音が重なって聞こえた。
ふわりと柔らかに笑みを浮かべる相手は、『絶世の』という単語を冠するにふさわしい美少女だ。
美女、ではない。美少女、である。
外見の推定年齢は十八歳になるか、ならないか、というくらいにしか見えない。
だが、目の前のこの少女は、世界最高齢に数えられるだろう年齢なのだと皆は言う。
実際の所、正確な年齢は皆も知らないのである。
(うーん、美少女なおばあさんってすごい)
ただ、妖精族のメンタリティというのは人間族とはだいぶ違うらしいので、そのあたりで感覚も違うのだろうと思う。
ふわふわとした空気は、とてもじゃないが、彼女が既に何百年も……いや、場合によっては千数百年もの歳月を経ていることなど考えられない。
陽光に透ける金の髪、白い肌はすけるような透明感をもち、瞳は新緑の萌える緑……それは光の加減で色味をかえる。緑から翠、さらに碧へと……かたわらのディナンとリアもうっとりと見ほれて声もない。
妖精族と言われたとき、誰もが想像するそのままの姿である。
(なんだろう、内側から光を放っているような、このキラキラは)
目の錯覚なのか。
あるいは、それは王族とか身分高い人間にあるオーラなのかもしれない、と栞は考える。
「前島……じゃなくて、シオリ=マエジマです。こちらこそよろしくおねがいします」
栞も笑みを浮かべる。
イシュルカがエリュシュリネアをエスコートしている姿はとてもお似合いで大変麗しい。実に目の保養になる。───── そう。当人同士が祖母と孫という関係であっても。
(眼福ってこういうことを言うのよね……)
目の前の情景の一瞬、一瞬がまるで絵画のように美しい。
「私のことはリネアと呼んでくださいね」
ふわりと、エリュシュリネアは微笑う。
向けられる眼差しには、何か、不思議な温かみと気遣いとがあって不思議に思う。
(知らない人のはずなんだけど)
「……どこかでお会いしたことがありますか?」
「いいえ。私が一方的にお話をお聞きしたことがあるだけですの」
(イシュ~、変なこと話してないよね)
栞は他者の目というものをあんまり気にしない方だったが、それでも、エリュシュリネアのような美少女にあまり変なところを見せたくない。
「良い話だといいんですけど」
「うふふふ、自慢話ばかりでしたわ」
「そうですか」
「今日は楽しみにしてきましたの」
「ご期待に沿えるといいんですが」
ディナータイムに差しさわりがあるといけないので、昼をちょっとすぎた14時スタートである。
もちろん、このお茶会の為に、本日の下拵えはすべて完璧に済ませてある。
(和風アフタヌーン・ティーっていうか、これ、プリン殿下の言うとおりにしていたら、絶対に餡子地獄だったね)
イシュルカとマクシミリアンが考えたメニューは、「三色おはぎ・大福・団子」にロデ豆のシチューというもの。それを、栞は「二色おはぎ+磯辺焼き・塩豆大福・あたたかいフェルド餅の黒蜜がけ」にロデ豆のシチューに変更した。どれも一口か二口で食べられるようなサイズであり、量である。
ワンプレートにまとめなかったのは、温かいものを温かいままで食べてもらう為だ。
普段ならそこまでできないのだが、たった二人だけのお客様なので人手がたっぷりとある。
(それに、何か依頼していることがあるらしいし……)
栞はイシュの願いでこのお茶会を開いたが、実は接待をかねているらしい。
一石二鳥はマクシミリアンの好きな言葉の一つだし、雇われている身であるから、注文をつける筋合いでもない。
栞は自分の職分を侵されない限り余計な口出しをするつもりはない。むしろ、少しでも依頼がうまくいく助けになればいいと思う。
「……ずっと、今日を楽しみにして参りました」
美少女がそっと微笑う。目元にはうっすらと涙が浮かんでいるように見えた。
(……涙が浮かぶほどの何があるんだろう……)
思い出の料理なのだとは聞いているが、よほどの思い入れがあるらしい。
「お祖母さま……」
「……ディルギットは、よくご自身の喪われた過去を懐かしみました……特に彼の郷愁を誘ったのは料理でした。彼は、自分がどれほど贅沢なものを口にしていたのか、食べられなくなった時に初めてわかったのだと……その中でも、甘いシチューは、彼にとって特別なものだったのです」
だから、どうしてももう一度食べたかった、とエリュシュリネアは栞にまっすぐな眼差しを向ける。
新緑の淡い緑は光の加減で、金にも翠にも見え、不思議な深みをみせていた。
吸い込まれそうな錯覚を覚え、栞は軽く首を振ってその錯覚を振り払う。
「なぜ特別だったのですか?」
「彼の最も愛するお菓子を、ディルギットは自分でつくりませんでしたし、他の誰にも作らせませんでした。もう思い出の中にしかない味だけどそれを忘れたくない、と。他の試作品や失敗作の記憶で塗り替えたくない、と……気難しい方だったのですが、私達子供にはとてもお優しかった……彼はあまり料理をしたことがなかったそうですが、私達と暮らしているときはよく料理をなさいました。しょっちゅう、失敗されて……複雑な顔をなさっておいででした」
エリュシュリネアはおかしげに小さく笑う。
「そんなディルギットが、『最も本物に近いものができた』と。『成功だ』とおっしゃっていたのが、今日、用意していただいた甘いシチューだったのです」
「あの、正解かはわからないのですけれど……」
「きっと、大丈夫ですわ」
その瞳には、不思議な信頼が浮かんでいる。
初対面の彼女に、そんな信頼を抱かせるような何をイシュルカは話したのだろうか、と栞は心の中で溜息をついた。
「お祖母さまは、ディルギットの作ったそれを食べたのですか?」
「ええ。……幼い私達には素材が何かなんてよくわかっていませんでした。ただ、それには甘い蜂蜜や砂糖が惜しげもなく使われていることだけは知っていましたから……子供だった私達には、もうそれだけでごちそうだったのです」
「当時は甘いものがとても貴重だったと」
「ええ。子供達は、甘いものにいつも飢えていました。だから、私達は春は花の蜜を集め、夏は甘草を探し、秋には甘い果実を探しました……ディルギットの作ってくれる食べ物は、形こそちょっとアレでしたけれど、甘くてとてもおいしかった……」
ほぉともらされるひそやかな吐息。
それは、ひどく柔らかく、そして─────甘い。
その切なくなるような甘さが彼女の味わった甘さなのではないかと他愛もないことを栞は考え、そして、少しだけ気合を入れなおして宣言した。
「では、はじめさせていただきますね」
よろしくおねがいします、とイシュルカとエリュシュリネアは軽く会釈する。
まず、栞は用意されていたティーセットを使って、豆茶をいれた。
エルダにやってもらおうかとも思っていたのだが、この後はもうずっと厨房にこもるので、最初だけは挨拶がてら自身でいれたほうがいい、というのがマクシミリアンの提案だった。
栞的には誰がいれてもさほど変わりはないと思うのだが、それが実は間違いであることをマクシミリアンをはじめ、だいたいの人が知っている。
常にダダ漏れの魔力は、こうして栞自らがお茶をいれるだけでその何の変哲もないただの豆茶さえも特別な物にしてしまう。
今いれているのは、フィルダニアで最も多く生産されているオロ豆をつかったものだ。
「いい香り……」
「ヴィーダのいれたお茶は格別なんですよ、お祖母様」
フィルダニアの食器は基本、あちらでいう洋食器だ。陶器も磁器もあるが、金属器や木器も多い。
今回選んだのは、白地に深い藍と金のラインをあしらった磁器だ。栞はそれほど焼き物に詳しくはないが、この少し透明感のある白はおそらくそうだろう。
「ええ、本当ね」
エリュシュリネアは立ち上る湯気に目を細める。
そのほっそりとした手にあるカップは、あちらのものと形状はほとんど変わらない。
繊細な絵付けというものは技術的にあまりできないらしく、マーブル模様や、今つかっているようなラインをつかったもの、ドットや蔓草を模した曲線、あるいはそれらを組み合わせたパターンというような単純な図柄が多い。
(そういえば、王妃殿下があちらの食器にすごい関心しめしてたっけ)
栞は店の予備用にとこちらに来る前に買い込んだ白一色の廉価な食器ですら、こちらではそのそっくり同じ画一性とムラのない薄さに驚かれた。
もちろん、こちらでも熟練の職人がつくるものは素晴らしいものばかりなのだが、一般庶民が普通にそのような揃った食器を当たり前に使えるというのが彼らには驚きだったらしい。
結局、さまざまな事情から栞が持ち込んだ食器はこのレストランでは使えず、ホテル内のカフェのほうで使っている。
「このティーセットは、王室の窯で焼いているものですね?」
「はい。このティーセットもそうですけど、王室の窯で焼いている食器は地肌が白くてシンプルなので料理を邪魔しない……とても使いやすいんです」
(……ある意味、こっちのほうがブランド信仰根強いよね)
一人前の職人は、必ず自分の作ったものに刻印をいれる。
それこそが、一人前の証だ。
そして、刻印は何かあればその刻印の主が責任をとるという保証である。
見習いのうちはまだ、工房の刻印しかいれさせてもらえないのだ。
客はその刻印を頼りに購入を検討するというし、ものによっては、番付があるというから、なかなか侮れない。
栞が使っている食器は同じ窯のもののうち、ある決まった職人のものばかりだ。別にねらったわけではなかったのだが、自分で選んだらどういうわけかそうなった。
以来、その職人のつくったものが焼きあがったときは見せてもらう約束をしている。
「まあ、そうなのね……イシュ、私も一揃い欲しいわ」
「わかりました。ご用意します」
可愛らしくおねだりするエリュシュリネアに、イシュルカは即座にうなづく。
阿吽の呼吸である。最初から予測されていたのか、あるいは、いつもこんな風にねだられているのかもしれない。
「そういえば、ヴィーダが王妃様におゆずりしたティーセットは、国宝級に素晴らしいものだそうですね……」
「国宝級……?」
語尾に疑問符がつく。
栞があちらから持ち込んだのはヘレンドのバラを描いたティーセットだ。
王宮滞在中に王妃殿下の泣き落としにあってお買い上げされている。
初めてのボーナスで購入した思い出の品ではあったもののあちらに戻れば普通に買える定番品なのでそれほど惜しくはなかったのだが、王妃殿下は申し訳ないと思ったのだろう。対価としての金の他に、もう使わなくなったご自身の娘時代の宝飾品の中から、細い銀の腕環をわざわざくださった。
小さな花のついた蔓草を編んだ輪をそのまま銀でつくったかのような精巧な品で、あちらでもカジュアルにつかえそうな品である。妖精族の作った銀の装身具はお守りなの。これがあなたの身を守ってくれますように、と言われてしまえば、ちょっと断りにくく、今では、栞の数少ないアクセサリーとして活躍している。
「いえ。あちらの世界でも良い品なのですけれど、国宝級というのは言いすぎです。ただ、絵付けがこちらとはちがう技術でなされているので……まだ、こちらでは作れないレベルなのだそうです。そういう意味で珍しいのでしょう」
「そうなんですか?」
「ええ。……お茶の味は大丈夫ですか?豆茶は場所によっては随分味が違いますし、妖精族の方の味覚は繊細だと聞いておりますから」
この世界には、あちらとよく似た茶の木があるのだが、生育条件が難しいらしく茶葉の生産量は安定していない。
なので自然、紅茶や緑茶によく似た翠茶、烏龍茶によく似た黒茶などは高級品になる。手元には、栞がこちらで自作した緑茶もあるにはあったが、それよりも誰もが飲みなれている豆茶の方がこの場には相応しいだろう。
出すお菓子におそらくは初めてになるだろう味があるので、お茶は飲みなれたものがいいと栞は考えたのだ。
豆茶は大陸諸国どこの国でも広く飲まれているし、フィルダニアのものはあまりクセもない。だからたぶん大丈夫だとは思ったのだが、エリュシュリネアは妖精族だ。妖精族の味覚は人にとても近いが、刺激物には弱いという。混血のイシュルカでは大丈夫だったとしても、純血の妖精族であるエリュシュリネアではどうなのか不安な点があった。
(豆の種類が国によって違うらしいから)
「大丈夫です。とても、おいしいわ。ありがとう」
「良かった」
その笑顔を見て、栞は安堵する。
「豆茶は地域によってすごく味がちがいますものね」
「ええ、そうなんです」
以前、ララネイという南の小国の王族だというお客様から栞がもらった豆茶は、ノグル豆という毒々しい紫色の豆をつかっていた。豆そのままだとどうかという色なのだが、これを炒って、お茶をいれると毒々しさが緩和されてほんのりと淡い綺麗なラヴェンダー色のお茶になる。白い薄手の茶碗に映えてとても美しく、肌に良い成分があるということで女性に人気だった。
豆茶の豆というのは、だいたいその国で一番採取しやすいものになるのだとマクシミリアンは言っていたが、お茶一つをとってもやはり違うのだ。
料理はその土地と切っても切り離せない関係があるのだと父はよく言っていたが、こちらにきてからは、つくづくとそう思うことが多い。
栞が今回用意したのは、フィルダニアで豆茶と言った時に使われる一般的なオロ豆だけのものと、オロ豆に二割くらいロデ豆がブレンドされているものの二種類だ。
ロデ豆のシチューを提供するときに、ロデ豆ブレンドのものを出すつもりでいる。
「それでは、また後ほど」
「はい。楽しみにしていますわ」
一礼して下がる栞にかけられたその柔らかな声には、期待と……それ以外の何か強い感情がこめられていた。