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ドガドガ鳥の新鮮卵とホロウ牛のミルクを使って作ったプリン(2)

 前島栞にとって、その時が人生のドン底だった。

 天中殺と大殺界を足したくらいでは生ぬるいと思えるほどの最悪な時期だった。

 この先、何があってもあれほどドン底だったときは他にないだろう。


 発端は、父が病に倒れたことだった。


 栞の父は、マスコミにも顔の知られた有名シェフだった。

 『フレンチの達人』とか『ソースの魔術師』なーんていうこっ恥ずかしいキャッチコピー付で紹介され、時々はテレビに出たりなんかもしていたのだ。

 別に出たがりというわけではなくて単にテレビの仕事をしていた知人が困っていたところを助けるためにテレビに出たら世の奥様方に人気になってしまったのだ。父は、最期まで自分は一料理人にすぎないといっていたし、それしかできない人でもあった。


(だから、ああいうことになったんだけど……)


 父が元気なうちは良かったのだ。

 店も活気があり、常にお客さんが絶えなかった。

 けれど、父が入院したころから、父のレストランはだんだんと変わりはじめてしまった。

 父が立たなくなった厨房では、お客様を満足させることができなくなってしまったのだ。『味が変わった』……いや、こう言うのは栞には辛いことだが、『味が落ちた』のだ。


 『あの前島一郎のフレンチレストラン』という名前だけで何とかなっていたのは最初の三ヶ月だけだ。

 父の入院が長引くにつれて、店は閑古鳥が鳴くようになっていた。

 本当だったら、そこで店を閉めるべきだったのだと思う。

 けれど、また店に戻ることだけを心の支えに闘病に励む父のことを考えると、それはできなかった。

 栞自身、いずれ父のレストランを継ぐつもりで別の店で修行を積んでいる身でもあった。


『いつか、パパのレストランを私が継ぐ』


 それが栞の夢だったのだ。その夢をそう簡単に諦められるはずがない。


(けど……)


 従業員の横領が発覚し、その従業員は失踪。ただでさえ傾きかけていた店は、多額の負債を背負うことになり、そして、そんな矢先に闘病の甲斐なく父を亡くした。

 父が従業員の横領を知ることがなかったのはせめてもの心の慰めではあったが、遺された借金はあまりにも多額で、店を手放さざるをえなかった。


(それでも足りなかったんだよね)


 母との数少ない思い出のある自宅を売却し、更には、父の生命保険に、栞が就職して以来コツコツと貯めた貯金を全部吐き出して、それでやっとトントンだった。

 栞の手に残ったのは、父が遺した実に百冊に及ぶレシピノートと父が亡くなった母からもらったというクルーゼの赤い小さなミルクパンが一個だけ。


(その上、別れまで言い出されるし!)


 栞には、結婚を前提で付き合っていたソムリエの恋人がいた。

 けれど、父が倒れて半年もした頃から関係がぎくしゃくしはじめ、葬儀のすぐ後に別れを告げられた。

 支えになれなくてごめん、とかいろいろと言われたけれど、あれは栞の家の内情を知り、逃げ出したというべきだろう。

 確かに億をゆうに越える借金があると知れば誰だって逃げ出す。栞だって、そんな借金を持つ男との結婚なんて無理だ。


(とどめはリストラだったなぁ……)


 料理というのは女性的と思われるかもしれないが、実は男の世界だ。

 パティシエというのなら最近は女性もかなりいると聞くが、純粋に『料理』と言うと、それがフレンチだろうがイタリアンだろうが和食だろうが、いまだに男社会だ。

 昨今、さまざまな業界で女性の進出が著しいといえど、料理界において女性の料理人というのはまだまだ少数であり、異物なのだ。


(だから……)


 栞のように、セクハラされたからといって料理長をぶんなぐったりすると簡単にクビになる。

 理由は『経費節減』と『厨房に女がいるとチームワークが乱れる』から。

 最近の社会情勢を鑑みて人件費を削ることになったと店のマネージャーは言った。そして、真っ先に削られたのは栞だった。

 心無い同僚には、「父親の七光りがなくなれば、そんなものだ」と嘲られたりもした。男の嫉妬というのは、ある意味、女の嫉妬よりも根が深い。


(ほとほと疲れ果ててたんだよね……)


 職場の寮に入っていたけれど、二週間以内に出て行くように言われた。

 引越し先も見つけなければならなかったし、新しい職も探さなければならない。

 弁護士を間に挟んで店や自宅の売却に伴う手続きを進める一方で、ハローワークや組合に通い、新しい職場の面接を受け、その合間に不動産屋巡り……そんなハードスケジュールがそうそううまく運ぶはずもない。

 その張り紙を見つけたのは、そんな時だった。


『急募 あなたも風光明媚なリゾート地で料理人として働いてみませんか?』


 最寄り駅へと続く地下道にあったその張り紙に目が釘付けになった。




(なーんにもなかった)


 幼い頃から料理一筋。

 ちょっと特殊な父子家庭で育った栞には親しい友人もそう多くは居なかったし、その数少ない友人は結婚したばかりとか、子供が生まれたばかりとかで不幸のどん底にいた栞はいろいろと遠慮しないわけにはいかなかった。

 家族もなければ、家もなく、恋人もいなければ、職もなく、いっそないない尽くしで清々しいと思えるほどの状態というのは、一言で言うのならば『孤独』だった。


『孤独』


 この世界で自分が一人ぼっちのように思えていた。

 イヤになるくらいたくさんの人がひしめく東京の真ん中に住んでいるのにも関わらず、栞にはこんな時に相談できる人間が一人もいなかったし、仕事がなくなってしまったら、社会と……あるいは、他人と関わりを持てる何かを栞は持っていなかった。


(だから……)


 その張り紙を見たときに、胡散臭さや怪しさを感じる前に、何かの救いのような気がしてしまったのだ。


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