1.プレアは逃亡することにした
百合の形を象ったガラスのランプは、粉々に砕け散っても美しい。
シャンデリアの光をはじいてキラキラと輝くガラスが、群青の絨毯の上に夜空の星々のように広がっていた。
しかしプレアはランプのカケラの美しさに目もくれず、散らばったガラスをブーツの踵で力任せに弾き飛ばすと階段の踊り場から階下の人々を睥睨した。
まるで怒りに燃える女王の佇まいである。
今、彼女の中にはマグマのような激しい怒りが渦巻いていた。
嫌い!
嫌い!!
大っ嫌い!!
考えるほどに心底おぞましく、そして心底失望した!!
みんな苦しみながら死ねばいい!
彼女がここまで人を呪ったのは初めてで、怒りの激しさにどうかすると目眩すら感じる。
プレアは蝶よ花よと育てられ、ろくに喧嘩もしたことのない深窓のご令嬢である。
しかし彼女の頬は怒りに血の気を失って青白く、辺りにピリピリとした威圧感を放っていた。
「プレア……どうしてそんな目で私たちを見るの?」
「お前はいつも、明るく素直だったじゃあないか!」
プレアの両親であるホーデン伯爵と伯爵夫人は、怒れる娘を前に困惑しきって声を上げた。
プレア・ホーデンは、ホーデン伯爵家の長女である。
厳しくも頼もしい父と優しく朗らかな母、優秀だが繊細な兄とおしゃまな妹に囲まれて16年間なに不自由なく育った。
しかし、今やその甘やかな記憶もハリボテであり、1年という月日で簡単に塗り替えられるほど取るにたらないものだと思い知らせれたのだ。
そう、たった1年!
16歳の誕生日から17歳までの1年間、プレアはプレアではなかった。
誕生日前夜から続く発熱にうなされ、目を覚ますとプレアの精神は異世界の『日本』という場所の『昴』という女の子の体にあったのだ。
知らない世界、肉体、人間関係に混乱していたプレアだったが、きっかり1年後に元の体に戻ることができた。
プレアの肉体の中には『昴』が入っていたのだろう。
『昴』は、偽プレアとしての生活をそれはそれは満喫していたようで、異世界からやっとの思いで戻ってきたプレアは、今度は偽プレアの生活の残滓に苦しめられることになった。
プレアがプレアではなかったこの1年、婚約者も家族も友達のほとんども、偽プレアに疑いの目を向けなかった。
それどころか本物のプレアがいた時よりも仲が深まっていたのだった。
元の体に戻って、最初の一週間はただ混乱するだけだった。
彼女の好みでパステルカラーで整えられていた身の回りのものが、全てシックな色調で実用的なものに置き換えられている。
知らない交友関係が増え、逆にあれだけ仲の良かった親友たちと縁が切れていた。
プレアが大切にしていたものが塗り変わっていたのだった。
次の一週間、プレアは元の自分に戻ろうとした。
身の回りの品を以前のものに戻し、疎遠になった親友に謝罪の手紙を送る。
いつの間にか仲良くなったらしい元敵対グループの令嬢の茶会には参加を減らし、訳知り顔で馴れ馴れしく接してくるメイドや従僕は遠ざけた。
繊細な兄は何かあるたびに偽プレアに甘やかしてもらっていたらしく、プレアにも同じものを求めるようになったため避けるようになった。
適応するしかないと考えたのは更に一週間経ってからだった。
プレアが元の自分に戻ろうとするほど、周囲は嘆き、時には怒り偽プレアを求め続けた。
特に家族はそれが顕著で、まるで非行に走った娘を嗜めるようでもあった。
自分以外の人間に強制されて自分を貫き通せる人間は少ない。
哀れな令嬢は期待に応えようとして、偽プレアの振る舞いを真似て努力した。
そんな日々を過ごすうちにプレアの精神は見る間に削られていく。
無駄なのだ。
周囲の求めに合わせて媚びたところで、プレアはプレアでしかないのだから。
行動と心のギャップが少女の体調面にも影響を出し始め、白い肌には蕁麻疹が出るようになっていた。
そして一月が経った今日、決定的なことが起こり彼女の怒りは頂点に達したのだ。
「いつも?お父様、いつもとおっしゃいました??そのいつもとは、ここ1年の私を指して言っているのかしら?それって本当に私?」
「何??」
「血を分けた娘とどこの馬の骨ともわからない娘、その見分けもつかないのかと聞いているのです」
「お父様を侮辱するんじゃあありません!」
伯爵夫人から叱責が飛んだ。
少女は母親に視線を移し、鋭く切り返す。
「貴方も同じですよお母様。娘が変わってしまったら母親なら気づくのです。平民でもできるのにどうして貴方は気づかないのです。私は16歳から17歳までの一年間、別人と体が入れ替わっていたのに!」
「プレア、お前が何を言っているのか私達には全くわからないのだが」
「……本当にわからないのですね」
プレアはまるで萎れた百合の花のように悲しげに項垂れた。
この一月、気が触れたのかと疑われてもしつこく状況を説明し続けたのだ。
1年間、他人と体が入れ替わっていたのだと。
しかし両親は決して耳を傾けようとしなかった上に、思春期特有の妄想だと笑った。
最近のお前は素直な娘になって上手くいっていたじゃあないか、それを台無しにするようなことを言うんじゃあないよ、と困った顔で嗜めすらした。
目の前で娘が苦しんでいるにも関わらずである。
階段を上りかけた伯爵夫人に、プレアから短い拒絶がとぶ。
「来ないで!」
「プレア……!」
「もう私のことは死んだと思って、放っておいてください」
「そんな!」
「私の体を使って私より上手く生きていける、皆にも求められる人がいるなら、私という存在は一体何の意味があるのでしょうか」
涙の滲む瞳を揺らすと少女は両親に背を向けて、踊り場から2階へ続く階段を駆け上がった。
ホールには静寂が広がった。
伯爵は震える妻の肩を支えて、強張った彼女を宥めてやる。
「しばらく一人にしてやろう。大丈夫だ。プレアの言うことが変わるのは前にもあったことじゃあないか。きっとそういう年頃なんだ」
「あなた……でもあの時はいい変化だったじゃあない!明るくて素直で、小さい頃からあった口達者なところがなくなってて。私、理想の娘になってくれたのだと思ったのですよ」
痛ましげに眉をひそめる夫人の横顔は、先ほど怒気を振り撒いていた少女の面影があった。
伯爵は親の気持ちもわからず勝手なことを言って自分たちを悲しませる娘に対して憤りを募らせた。
「そうだな。私も残念に思ってるよ。でもプレアもいつかわかってくれるさ。」
「私たちの血の繋がった娘なのだから」
濃紺の絨毯に散らばったガラスはメイド達の手によって片付けられて、まるで諍いなどなかったように跡形もない。
プレアの怒りも伯爵夫妻の嘆きも包み込んで夜はふけていく。
翌朝。
プレアの出奔が判明したのは陽も高く登った頃だった。




