第7話 十億円の隠し場所
ミナが帰った後の部屋は、再び静寂を取り戻した。
深夜2時。
都市の喧騒が眠りにつく刻。
ここからが、私だけの「儀式」の時間だ。
私はすべての照明を落とし、遮光カーテンが完璧に閉ざされていることを確認してから、キングサイズのベッドに横たわった。
暗闇の中、天井を見上げる。
そこには何もない。ただの闇だ。
だが、私の脳内には、黄金に輝く巨大な金庫が鎮座している。
現在、私が不正取引で積み上げた資産は、日本円にして約10億円。
そのすべては、追跡不可能な仮想通貨に換金され、ブロックチェーンの海に漂っている。
その金を引き出すための「秘密鍵・プライベートキー」。
24個の英単語からなるリカバリーフレーズ。
私はそれを、紙切れ一枚、電子データ1バイトたりとも残していない。
クラウド上にも、USBメモリにも、銀行の貸金庫にもない。
すべては、私の「脳」の中にだけある。
「……Apple」
唇を動かさず、頭の中で反芻する。
「……River」
一つひとつの単語を、脳の海馬に刻み込むように。
「……Sky, Justice, Monster, Silver……」
毎晩、寝る前にこの24の単語を呪文のように唱え、記憶をリフレッシュする。
これが私の鉄壁の防御だ。
たとえ明日、金融庁の強制調査が入ろうとも。
警視庁の家宅捜索で床板を剥がされようとも。
彼らは何一つ証拠を見つけることはできない。
10億円の在り処を知りたいと、私の頭蓋骨を叩き割って、脳漿の中から記憶を抽出しようとした、とてだ。
「……Elephant, Crisis, Tomorrow……」
順調だ。記憶に欠損はない。
完璧だ。
私はこのシステムを構築した自分自身の才能に陶酔しそうになる。
その時だった。
ふと、背筋に冷たいものが走った。
視線。
誰かに見られているような、粘着質な気配。
私は弾かれたように上半身を起こし、暗闇を見回した。
当然、部屋には私以外誰もいない。
間接照明のLEDが、無機質に光っているだけだ。
気のせいか……?
いや、このマンションに入居してから、時折この感覚に襲われることがある。
まるで壁の向こう側から、天井の隙間から、無数の目で見下ろされているような不気味な感覚。
「……神経過敏になっているな」
私は自嘲気味に呟き、再び枕に頭を沈めた。
大金を抱えた人間特有のパラノイアだ。
あるいは、ここが「完璧すぎる」がゆえの副作用かもしれない。
静かすぎる部屋は、己の心音すら騒音に変える。
「大丈夫だ。俺は完璧だ」
自分に言い聞かせるように呟き、私は目を閉じた。
そう、私は安全圏にいる。
ミナというトカゲの尻尾を切り離す準備もできている。
10億の資産は、私の脳内金庫で厳重に守られている。
誰にも奪えはしない。
+++
翌日の夕方。
私の完璧な計画に、不意の一撃が加えられた。
いつものように、市場の動向をチェックするために大型モニターの電源を入れた瞬間だった。
ニュース番組のテロップが、私の網膜を焼き尽くした。
『速報 インサイダー取引疑惑で会社役員の女を逮捕』
心臓が早鐘を打つ。
画面には、コートを頭から被せられ、捜査員に連行される女の姿。
その派手な服装。特徴的な歩き方。
間違いない。ミナだ。
「馬鹿な……」
呻き声が漏れた。
早すぎる。
まだ昨夜、会ったばかりだぞ?
なぜ警察が動けた? 内偵が進んでいたとしても、逮捕状が出るタイミングが不自然だ。
まさか、昨日の取引が引き金になったのか?
ニュースキャスターが淡々と事実を告げる。
『金融商品取引法違反の疑いで逮捕されたのは、港区在住の会社役員・倉持ミナ容疑者です。容疑者は、未公表のTOB情報を元に株の売買を行い、多額の不正利益を得ていた疑いが持たれています。警察は、情報の入手ルートや共犯者の有無について詳しく調べる方針です……』
私は震える手でリモコンを握りしめ、音量を上げた。
画面の中のミナは、うなだれることもなく、むしろどこか興奮した様子でパトカーに乗り込んでいく。
あの馬鹿女……!
SNSだ。絶対にSNSだ。
あれほど豪遊をひけらかすなと言ったのに、自己顕示欲に負けて墓穴を掘ったのだ。
だが、慌てるな。
私は深呼吸を繰り返し、暴れ出しそうな心臓を強引に鎮める。
冷静になれ。葛城誠三。
想定の範囲内だ。遅かれ早かれ、彼女はこうなる運命だった。
問題は「どこまで喋るか」だが、彼女は私のことを何も知らない。
本名も教えていない。
「シンさん」という偽名と、連絡用のプリペイド携帯。
そして何より、10億円の仮想通貨にアクセスするための秘密鍵は、私の頭の中にしかない。
彼女が知っているのは、私が指示した銘柄コードと、情事の記憶だけだ。
物証はない。
私に繋がる線は、すべて切断されている。
このマンションで合っていた事さえ話さなければいい。
「……大丈夫だ。逃げ切れる」
ソファに崩れ落ちるように座り込み、額に滲んだ脂汗を拭う。
しかし、拭いきれない不安が胸の奥で燻り続けていた。
タイミングが良すぎる。
ミナのSNSが特定されたのが発端だとしても、逮捕までの手際が鮮やかすぎる。
まるで、誰かが警察に「決定的な証拠」をリークしたかのような……。
私はふと、視線を上げた。
壁に埋め込まれた、AIコンシェルジュ用のタブレット端末。
そして、その横にあるスマートスピーカー。
昨日感じた「視線」の記憶が蘇る。
このマンション。
何かが、おかしい。
管理会社の「イオ・トラスト」。
そして、一度も顔を合わせたことのないオーナー。
入居審査の時に感じた、あの奇妙な違和感。
「独自の審査基準」という名の、あまりにも緩い受け入れ態勢。
私は手帳を取り出し、震えるペン先で走り書きをした。
『管理会社および物件オーナーについて要調査』
もしや、この部屋そのものが罠なのか?
私の行動は、すべて筒抜けだったのではないか?
いや、考えすぎだ。
そんなSF映画のような話があるわけがない。
これは単なるミナの不始末だ。私の計画に瑕疵はない。
「まずは火消しだ……この件が片付いたら、裏を洗ってやる」
私はそう呟き、手帳を閉じた。
TV画面の向こうで、パトカーの赤い回転灯が、嘲笑うかのように明滅していた。




