第6話 盤石の要塞と肉の帳簿
このマンションを選んだ理由は、ただ一つ。
『完璧なセキュリティ』だ。
重厚な石造りの外壁は、外界の喧騒を完全に遮断する。窓は防弾ガラスに匹敵する強度を持ち、隣室の生活音など微塵も聞こえない。エントランスには最新鋭の不審者監視システム。
ここは要塞だ。
私が手を染めた「インサイダー取引」の拠点として、これ以上の場所は存在しなかった。
リビングのソファに深く沈み込み、私はグラスの中で琥珀色に輝くウイスキーを揺らす。
氷が触れ合う澄んだ音が、静寂の支配する室内に響く。
この『レジデンス・アルゴス』の謳い文句は、「百の瞳が、あなたの眠りを守る」だったか。
実に結構だ。
私の眠りを妨げるものは、国家権力であれ、裏社会の有象無象であれ、何人たりとも許さない。この閉鎖的な威圧感こそが、今の私には心地よかった。
かつて、私は「市場の番人」だった。
金融庁・証券取引等監視委員会、課長補佐。それが私の肩書きだった。
日々、市場の公正を守るために目を光らせ、不正を働く輩を摘発する。それが正義だと信じていた。
だが、現実はどうだ?
法改正の隙間を縫うようなスキームで、巨万の富を得る若造たち。
明らかな詐欺まがいのICOで投資家から金を巻き上げ、ドバイへ高飛びするインフルエンサー。
私が必死に追いかけ、証拠を固め、ようやく逮捕までこぎつけたとしても、彼らが失うのはトカゲの尻尾だけだ。隠し持った資産で執行猶予中も豪遊し、法の網を嘲笑うかのように生き延びる。
「正直者が馬鹿を見る」
使い古されたその言葉が、私の心臓をどす黒い錆で覆い尽くしていった。
長年の奉仕、安月給、身を削るような激務。その対価がこれか?
ルサンチマン。
そう、これは復讐なのだ。
まともに機能しない社会システムと、私をただの「歯車」として使い潰そうとした組織への。
「俺ならできる」
ある夜、押収した資料を整理していた時に、ふと囁く声が聞こえた。
それは悪魔の誘惑ではなく、プロフェッショナルとしての冷徹な分析結果だった。
彼らの手口は稚拙だ。脇が甘い。
情報の入手ルート、資金洗浄のプロセス、そして実行犯の選定。どこかに必ず綻びがあるから、私のような人間に捕まるのだ。
ならば、市場の裏側を知り尽くした私が計画すればどうなる?
法の抜け穴、捜査の限界点、監視アルゴリズムの癖。すべてを熟知した私が指揮を執れば。
答えは明白だ。
「完全犯罪」が成立する。
私は闇に堕ちたのではない。
より高次なステージへと進化したのだ。
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シャワールームから、水音が止んだ気配がした。
しばらくして、バスタオルすら巻かずに全裸のままで、ミナがリビングへと戻ってくる。
濡れた髪から滴る水滴が、磨き上げられたフローリングに小さな染みを作った。
彼女は私の愛人であり、そして私の犯罪における「実行犯」だ。
「誠三さん、終わったよぉ。……あ、またお酒飲んでるぅ」
甘ったるい声。緩みきった表情。
彼女は自分が何をしているのか、その重大さをこれっぽっちも理解していない。
だが、それでいい。
賢い人間は疑念を持つ。恐怖を抱く。裏切りを画策する。
ミナのように、承認欲求だけが肥大化し、私の指示通りに動けばブランド品が手に入ると信じ込んでいる「空っぽな人形」こそが、この計画には最適なのだ。
「こっちへ来い」
私はソファに座ったまま、顎で目の前を指し示した。
ミナは媚びるような笑みを浮かべ、子猫のように四つん這いで近づいてくる。
私はサイドテーブルに置いてあった、真っ赤なルージュを手に取った。シャネルの新作。彼女に買い与えたものだ。
「うつ伏せだ」
「えぇ? もう、誠三さんったら。今日は激しいのがいいの?」
的外れな期待を含んだ声を無視し、私は彼女の背中を平手で軽く叩いた。
ミナは大人しくうつ伏せになり、白い背中を晒す。
私はルージュのキャップを外し、その滑らかな肌に、真紅の先端を押し当てた。
『86493』
背骨に沿って、数字を書き殴る。
芯が折れそうなほど強く押し当てたせいで、ミナが「んっ、くすぐったいよぉ」と身じろぎした。
「動くな」
私は氷のような声で言った。
「書き損じたら損失が出る。いいか、これが明日の『銘柄コード』だ」
続けて、その下に目標株価と、売却のタイミングを書き込んでいく。
彼女の背中は、最高のホワイトボードだ。
紙に残せば証拠になる。
デジタルデータで送れば、どんなに暗号化してもログが残るリスクがある。
だが、彼女の肌なら、シャワーを浴びれば消える。
記憶する必要すらない。彼女は明日、この背中に書かれた数字をスマホで撮影し、証券アプリに入力し、その後すぐに洗い流す。
それだけで、数千万円の利益が私の懐に転がり込むのだ。
書き終えた私は、ルージュを持ったまま、彼女の身体を品定めするように視線を這わせた。
豊胸手術を受けた胸のライン。高くした鼻筋。
かつては美しかったのかもしれないが、今の私には「減価償却の終わった資産」にしか見えなかった。
「……肌の質が落ちているな」
独り言のように呟きながら、私は彼女の太腿に赤い線を引く。
「えっ? そ、そうかな? 最近エステサボっちゃってて……」
「資産価値としては暴落気味だ。メンテナンスコストが見合わなくなってきている」
「なにそれぇ、難しい言葉わかんないよぉ」
ミナはケラケラと笑い、身体を反転させて私の膝に縋り付いてきた。
「ねえ、今回のあがりが出たらさ、バーキン買っていい? 約束だったでしょ?」
上目遣いでねだる彼女の瞳には、欲望しか映っていない。
私は冷ややかな目で、その整形された二重まぶたを見下ろした。
この女も、そろそろ潮時か。
承認欲求が強すぎる。最近、私の忠告を無視してSNSでの投稿が増えているのが気になっていた。
いくら匿名アカウントとはいえ、生活レベルの急激な上昇は、鼻の利く税務署や捜査員の目を引きつける。
『損切り』脳裏にその単語が浮かぶ。
情などない。あるのはリスク管理だけだ。
「ああ、好きにしろ。ただし、目立つ行動は慎めと言ったはずだぞ」
「わかってるってばぁ。私だって捕まりたくないもん」
捕まる?
お前が捕まるのは勝手だ。
問題は、私に火の粉が降りかかるかどうか、それだけだ。




