第4話 私を蝕む寄生虫
「……瑠奈?」
そこにいたのは、私の元部下、川島瑠奈だった。
2年ほど前まで私のチームにいた、大人しそうで目立たない社員。仕事のミスが多く、何度か厳しく指導した末に、「私には向いていません」と言って退職していったはずだ。
その瑠奈が、なぜここに。
瑠奈は悪びれる様子もなく、ゆっくりと体を起こした。裸の肩を隠そうともせず、乱れた髪を指でかき上げる。
その唇には、薄ら笑いが張り付いていた。
「お久しぶりですねえ、高村部長。あ、今はもっと偉くなっちゃいました? たくさんの部下を踏みつけて」
「あなたが……どうして……」
「どうして、ですって?」
瑠奈は鼻で笑うと、私を睨めつけるように見上げた。その目には、かつての弱々しい部下の面影はなく、暗く濁った敵意が渦巻いていた。
「あんたのせいよ。あんたが私を追い詰めたんじゃない。皆の前で恥かかせて、無能扱いして。私のプライドをズタズタにしたくせに、自分は仕事も家庭も順風満帆? ふざけないでよ」
「それは……あなたが何度も同じミスをして、取引先に迷惑をかけたからでしょう。私は指導として――」
「うるさい!!」
瑠奈がヒステリックに叫んだ。
「正論なんてどうでもいいのよ! 私はあんたが憎かった。だから、あんたの大事なものを壊してやりたかったの。一番幸せなタイミングで、一番惨めな思いをさせてやりたかった」
彼女は隣で青ざめている健二の腕に、わざとらしく絡みついた。
「健二さんは優しかったわあ。あんたみたいにキツくないし、私の話を何でも聞いてくれた。ねえ、健二さん?」
「えっ、あ、いや……」
「壊してあげましたよ、高村部長。完璧な家庭も、信頼していた夫も。悔しいですか? 部下に旦那を寝取られて、惨めですか?」
勝ち誇ったように笑う瑠奈。
その歪んだ表情を見て、私の中で煮えくり返っていた怒りの温度が、ふっと下がっていくのを感じた。
呆れ、に近い感情だった。
(ああ、なんだ。そんなことか)
逆恨みもいいところだ。けれど、今の彼女に何を言っても無駄だろう。彼女は私を怒らせ、泣き叫ばせたいのだ。その期待に応えてやる義理はない。
「……そう。ご苦労さま」
私は短く吐き捨てた。
「私の古着がお望みなら、あげるわよ。サイズが合うか知らないけど」
瑠奈の笑顔がピクリと引きつる。
「はあ? 何よその態度。強がってんじゃないわよ」
「強がりじゃないわ。汚れたものはいらないって言ってるの」
私は視線を健二に戻した。
健二は瑠奈と私の間でオロオロと視線を彷徨わせている。どうやら、瑠奈の「復讐」という動機を知らなかったらしい。
彼は瑠奈の手を振りほどき、すがりつくような目で私を見た。
「あ、麻美、聞いてくれ! 俺は騙されてたんだ! この子と偶然カフェで何度か会って、どうしても相談があるって言うから……ただ話を聞いてあげるつもりだったのに、誘惑されて……」
「最低……」
瑠奈が小さく呟くのが聞こえたが、健二は構わず続ける。
「俺も被害者なんだよ! 麻美が忙しくて構ってくれないから、寂しくて……つい魔が差しただけで、心は麻美にあるんだ! 信じてくれ!」
健二はベッドから這い降り、私の足元に膝行しようとする。
その姿は、あまりにも情けなかった。
自分の意思で不貞を働いたくせに、都合が悪くなると女のせいにし、被害者ぶる。
「それに、俺……困っている人を見捨てたりできなくって、本当に不器用で……ごめんなさい」
その言葉を聞いた瞬間。
私の脳裏に、数時間前のオフィスの光景がフラッシュバックした。
ミスをした部下が言った言葉。
『僕って本当に不器用で、ごめんなさい』
プツン。
私の中で、最後の理性の糸が切れた。
「――ふざけるなッ!!」
近くにあった見守りカメラを蹴り上げてメンチを切った。
私が叫ぶと、春斗がビクリと震えて再び泣き出した。
けれど、もう止まらなかった。
「不器用なら何をしても許されると思ってるの!? あんた三十過ぎた大人でしょ!? 父親でしょ!? 不器用なんじゃなくて、ただの無責任なクズよ!!」
「あ、麻美……?」
「もういい。顔も見たくない」
私は踵を返した。
寝室を出て、リビングにあるマザーズバッグを掴む。財布とスマホ、春斗のオムツやミルクが入っている最低限の荷物だ。
「ま、待ってくれ! 出て行くなんて言わないでくれ! 話し合おう!」
全裸にシーツを巻き付けた健二が追いかけてくるが、私は振り返りもしなかった。
「話し合うことなんてないわ。私の家から出て行ってほしいけど、今すぐあんたたちの顔を視界から消したいから、私が一度出る。……明日までに荷物まとめて出て行ってちょうだい」
玄関のドアを開け、外の空気を吸い込む。
夜風が熱を持った頬に冷たかった。
背後で健二が叫ぶ声を無視して、私は重たいドアを叩きつけるように閉めた。
+++
マンションを出て、近くのビジネスホテルにチェックインした頃には、夜はすっかり更けていた。
春斗はようやく泣き止み、疲れ果てて私の腕の中で眠っている。
狭いシングルルームのベッドに息子を寝かせ、私は椅子に座り込んで深く息を吐いた。
静寂が訪れると、アドレナリンで麻痺していた思考が冷静さを取り戻していく。
手元には、契約したばかりの『レジデンス・アルゴス』の鍵がある。
(……はあ。どうしよう)
勢いで飛び出してきてしまったけれど、あのマンションは私が契約者だ。敷金も礼金も引っ越し費用でさえも、結構な額を私が払った。
なんで被害者の私がホテル暮らしで、加害者のあいつらが私の借りた部屋でぬくぬくしているのよ。
考えれば考えるほど腹が立ってくる。
(離婚という道しか残ってないのだろうか)
夫が浮気してもそれを許した友人の話をいくつか聞いたことがある。私もいずれ時間が経ち、健二の誠実な謝罪があれば彼を許す時がくるのだろうか。
それに、引っ越したばかりですぐに退去というのは、金銭的にも労力的にも痛手だ。違約金だってかかるかもしれない。
(ねぇ、どうしたらいい? 春斗)
健やかに眠る息子の顔を見てため息を漏らした。
スマホを手に取る。
時刻は深夜二時を回っていた。
画面には、健二からの着信履歴とLINEのメッセージが山のように届いている。『本当にごめん』『瑠奈には帰ってもらった』『許してほしい』という定型文のような謝罪の羅列。
一旦すべて無視して画面を閉じようとした時、また通知が来た。
『アルゴス・アイ』
《AI通知:本システムにて、未登録者の検知後にアクションがありません。あなたの身を案じております。問題ありませんか?》
どうやら、私の生命の危機を案じてフィードバッグを求めているようだ。よくできたシステムだ。
私が「問題ない」という回答ボタンを押そうとした時だった。
見守りカメラは起動したままらしく、画面には家の中の映像が流れていた。
それも、私が怒りでカメラを蹴り上げてしまったため、むなしく床に横たわり、リビングを映す画角だ。
そして、そこには、まだ、瑠奈が、いた。




