第3話 殺意を乗せたタクシー
寝室のベビーベッド。
そのすぐ横のダブルベッドの上で、二つの影が絡み合っている。
一人は健二だ。見間違えるはずがない。
そしてその下にいるのは、間違いなく女だ。顔は健二の背中に隠れて見えないが、長い髪がシーツの上に散らばっている。
二人は激しく動き、行為に耽っていた。
だが、何よりも私を戦慄させたのは、そのすぐそばにあるベビーベッドの様子だった。
春斗が、顔を真っ赤にして泣き叫んでいる。
音声はオフにしているはずなのに、まるで鼓膜を直接叩くような、息子の悲痛な泣き声が聞こえてくるような錯覚に陥った。
春斗は必死に手を伸ばし、何かを訴えるように柵を叩いている。
それなのに。
父親である健二は、すぐ隣で泣き叫ぶ我が子を完全に無視して、女との快楽に溺れている。
「あっ……あ……」
頭の中で、何かがプツリと切れる音がした。
怒りではない。悲しみでもない。
もっと根源的な、どす黒い感情が内臓の底から湧き上がってくる。
私が必死で働いている間、この男は。
私が守りたかった家で。
私が守りたかった息子の目の前で。
「高村部長? そろそろ会議室へ……」
部下が声をかけてきたが、その言葉はもはや私の耳には届かなかった。
私は無言で立ち上がると、資料もパソコンもそのままに、オフィスを飛び出した。
背後で誰かが呼び止める声がしたが、知ったことではない。
ハイヒールで廊下を走り、エレベーターに飛び乗る。一階に到着するまでの数秒が、永遠のように長く感じられた。
エントランスを出て、通りかかったタクシーに向かって手を挙げる。
私の形相がよほど恐ろしかったのか、停車したタクシーの運転手がバックミラー越しにギョッとした視線を向けてきた。
「……大通り沿いの、レジデンス・アルゴスまで」
震える声で告げ、シートに深く身を沈める。
スマホを握りしめる手には、爪が食い込むほどの力がこもっていた。
画面の中では、まだ二人が動いている。春斗はまだ泣いている。
(殺してやる)
人生で初めて抱いた明確な殺意と共に、私はタクシーの窓を流れる景色を睨みつけた。
あの「要塞」は、私と春斗を守るための場所であったはずなのに。
あれは、私の人生を破壊する怪物が潜む巣窟だったのだ。
タクシーを降り、エントランスの自動ドアを抜けるまでの記憶は曖昧だ。
ただ、心臓の鼓動だけが警鐘のように体内で鳴り響いていた。
エレベーターの表示階数が「3」に変わる。チン、という到着音が、ゴングの合図のように聞こえた。
玄関の鍵を開ける。
ガチャリという音が静寂を切り裂いたが、奥の部屋にいる二人には聞こえていないようだ。見知らぬヒールに目が細まる。廊下には、甘ったるい香水の匂いが微かに漂っている気がした。
靴を脱ぎ捨てるのももどかしく、私はリビングのドアを乱暴に開け放った。
「――っ!?」
バン!! と壁にドアノブがぶつかる激しい音が響く。
その瞬間、寝室のベッドの上で弛緩しきっていた空気が凍りついた。
事後の余韻に浸り、だらしなくシーツに沈み込んでいた健二が、弾かれたように飛び起きる。
「あ、あ、麻美……!? な、なんで……今日は残業じゃ……」
健二は蒼白な顔で、慌ててシーツをかき集めて下半身を隠そうとした。その滑稽な姿に、私の中で冷徹な何かが完成していくのを感じた。
隣のベビーベッドでは、春斗が顔を真っ赤にして泣きじゃくっている。喉が枯れるほど泣き叫んだのだろう、声は掠れ、ヒックヒックとしゃくりあげていた。
私は無言でベビーベッドに歩み寄り、春斗を抱き上げた。
温かくて、小さくて、湿った身体。母親の匂いを嗅ぎ取ったのか、春斗が私の胸に顔を埋め、しがみついてくる。
「よしよし、ごめんね。怖かったね……」
背中をさすりながら、私はゆっくりと健二に向き直った。
怒鳴り散らしたい衝動を、理性が必死に抑え込んでいる。ここで感情的になれば、春斗をさらに怖がらせてしまう。
「見守りカメラが異常を検知して、何事かと見たらこの有様。健二。説明」
自分でも驚くほど低い声が出た。
健二はガタガタと震えながら、ベッドの上で土下座の姿勢をとる。
「カメラ?オフにしたはずなのになんで…ご、ごめん! 違うんだ、これは、その……魔が差したというか……ほんの出来心で……!」
「出来心で、自宅に女を連れ込んだの? 息子の目の前で?」
「いや、春斗は鳴くのに飽きたら寝るだろうと…大丈夫だと思って……いや、本当にごめん! もう二度としない! 愛してるのは麻美だけなんだ!」
聞き飽きたセリフ。この男は、借金が発覚した時も同じことを言っていた。
私は冷ややかな視線を、健二の後ろ――掛け布団を頭までかぶり、気配を消している「もう一人の人物」へと向けた。
「……で、そこの泥棒猫は誰なの? 顔を見せなさいよ」
布団がわずかに動いた。
長い沈黙の後、白い手がシーツをゆっくりと下ろしていく。
現れた知っている顔を見て、私は息を呑んだ。




