第2話 ペントハウスの住人
仕事が繁忙期に入り、帰宅が深夜になる日が増えていた。
その日も、日付が変わる直前にタクシーで帰宅し、重い足取りでエントランスをくぐった。
石造りの壁に囲まれたロビーには、孔雀の羽を模した巨大なオブジェが飾られている。昼間見れば美しい装飾だが、深夜の静けさの中で見ると、無数の目に見下ろされているようで少し不気味だ。
エレベーターホールに向かい、待っていると、私の背後に誰かが並んだ。
扉が開き、私が乗り込むと、後ろからその人物も続いて入ってくる。
(……誰? 住民?)
その男は、高級マンションにはあまりに似つかわしくない格好をしていた。
ヨレヨレのジャージに、素足にサンダル履き。伸び放題の髪に無精髭を生やし、手にはコンビニの袋をぶら下げている。中身は缶ビールだろうか。
三十代半ばくらいに見えるが、全体から漂う気だるげな雰囲気が、実年齢よりも老けた印象を与えている。
深夜のエレベーターで二人きり。私は本能的に警戒し、バッグを抱え直して距離を取った。
男は私の視線など意に介さず、大きなあくびをした。
そして、操作盤に手を伸ばす――かと思いきや、手首につけたスマートウォッチを操作盤にかざした。
『ピッ』
電子音が鳴り、点灯したのは最上階、「5階」のランプだった。
私は思わず、男の顔を二度見した。
(えっ、五階ってペントハウスよね? オーナー専用の)
入居時の説明を思い出す。最上階はオーナーが住んでおり、専用の認証キーがないとボタンすら押せないはずだ。
ということは、この冴えないジャージの男が、この『レジデンス・アルゴス』のオーナーだというのか。
(こんな頼りなさそうな人で大丈夫なの……?)
先日の厳格な管理人の姿とは対照的すぎる。
男は猫背のままスマホを取り出し、パズルゲームのようなものを操作し始めた。私の存在など、最初からそこになかったかのような無関心さだ。
エレベーターが私の住む三階に到着する。
私は逃げるように降りた。
閉まりゆく扉の向こうで、男は一度も顔を上げることなく、スマホ画面を指でなぞっていた。
その無気力な姿が、妙に心に引っかかった。けれど、疲労困憊の私の頭からは、すぐにそのどうでもいい疑問は消え去っていった。
+++
翌日 午後三時。
オフィスの窓から差し込む西日が、私の焦燥感を煽るように眩しく照りつけていた。
私はデスクで、部下の男性社員の話を聞いていた。彼はまた同じミスを繰り返し、今まさに言い訳を並べ立てている最中だった。
「僕って本当に不器用で……ごめんなさい、高村部長」
彼は眉を八の字にして、情けない声で謝罪する。
その姿に、一瞬だけ夫の健二が重なった。健二もまた、何か失敗するとすぐに「不器用だから」と自虐的に笑って許しを請う癖がある。
「……いいのよ。次は気をつけてくれれば」
私は努めて穏やかな声を出し、笑顔を作った。
内心では、舌打ちしたい衝動を必死に抑え込んでいる。なぜ、男たちはこうも簡単に「不器用」という言葉を免罪符にしようとするのだろう。私が若い頃は、不器用だからといって許されることなど一度もなく、本当に許されるのは映画の中の俳優くらいだった。
「ありがとうございます! 次は頑張ります!」
部下が安堵の表情で席に戻っていく。
私は深いため息をつき、手元の資料に目を落とした。三十分後には、クライアントとの重要な会議が控えている。今回のプレゼンは、私が産休明けから準備してきた大型プロジェクトの正念場だ。失敗は許されない。
気を引き締め直そうとした、その時だった。
ブブブッ、ブブブッ。
デスクの上に置いていたスマホが、不穏な振動音を立てた。
画面を見ると、マンション専用アプリ『アルゴス・アイ』からの通知が表示されている。
《AI警告:ベビーベッド周辺で、登録外の人物による長時間の滞在を検知しました》
思考が一瞬停止した。
今は健二が在宅しているから、レンタルしていた見守りベビーカメラは切っていたはずだが……まあいい。
それより、登録外? どういうこと?
この時間、家には夫の健二と春斗しかいないはずだ。私の両親や義実家が来る予定もない。
もしや、健二が友人でも呼んでいるのか。
嫌な予感が背筋を駆け上がった。
私は震える指で通知をタップし、見守りカメラのライブ映像を開いた。
「……嘘」
喉から、かすれた声が漏れた。
スマホの小さな画面に映し出されたのは、私の理解を遥かに超えた光景だった。




