第15話 管理人の日常
ペントハウスにあるオーナー専用スペース《コクピット》。
私は複数のモニターに囲まれ、眉間に深いシワを寄せていた。
「……こいつは、厄介だな」
メインモニターには、二〇二号室で死人のように転がっている相馬武次の姿。
そしてサブモニターには、彼が持ち込んだスマートフォンとノートPCの解析データが表示されている。
彼が部屋に入った瞬間、我がマンションご自慢の「入居者専用爆速Wi-Fi」が、彼の端末から漏れる微弱なパケット信号をキャッチしていた。
彼自身は接続したつもりはないだろうが、最新鋭のルーターは、半径五メートル以内のデバイス情報を自動的に吸い上げる設定になっているのだ。
その断片的なログと、外部のデータベース――主にダークウェブ上のブラックリスト――を照合した結果、驚愕の事実が浮かび上がった。
相馬武次。現職の公安警察官。
国際犯罪シンジケート『ウロボロス』に潜入して情報の引き出しに成功したが、身元がバレて命を狙われている「最重要排除対象」。
彼が抱えているSSDには、国家転覆レベルの汚職データが眠っている……。
そしてそのデータの中には、彼を組織へ潜入させた上司の名前もあった。
つまり、帰るべき場所も無い。
「冗談じゃないぞ」
私は舌打ちした。
正義とか悪とか、国家の危機とか、そんなことはどうでもいい。
問題は、このマンションが「戦場」になりかけていることだ。
モニターを切り替え、マンション周辺の監視カメラ映像を映し出す。
向かいのビル、路上のトラック、植え込みの影。
プロの暗殺部隊が、蟻の這い出る隙間もないほどに包囲網を敷いている。
このままでは、遅かれ早かれ強行突入が始まる。
銃撃戦になれば、外壁の高級石材は穴だらけ。エントランスのガラスは粉砕。
最悪の場合、死人が出る。
そうなれば「暴力団抗争の舞台になったマンション」として、資産価値は大暴落だ。
「かといって、ただ追い出せば……」
玄関前で蜂の巣にされるのがオチだ。
敷地境界線ギリギリで殺人が起きれば、やはり「事故物件」扱いされ、例の事故物件サイトに炎のアイコンが灯ることになる。
住まわせても地獄、追い出しても地獄。
「私の礼金高速回転スキームが機能しない」
私はぬるい缶ビールをあおりながら、思考を巡らせた。
武力衝突を回避し、かつ、相馬を無傷で退去させる方法。
そんな魔法のような手があるだろうか。
その時、モニターの隅に、ある男の姿が映り込んだ。
ほうきとちりとりを手に、エントランスから出てくる背筋の伸びた初老男性。
「……そうだ。私には『彼』がいたな」
思わずニヤリと笑った。
我がマンションが誇る、最新鋭セキュリティシステム以上の鉄壁。
空気を読まないがゆえに最強の、物理的防衛システムがいた。
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午前八時。
レジデンス・アルゴスのエントランス前。
管理人の荒矢吹翔龍は、鬼のような形相で地面を睨みつけていた。
「……嘆かわしい」
彼の朝は早い。
元刑事である彼は、退職後もその厳格な規律を崩していない。
マンションの美観を損なうものは、塵一つ許さない。それが彼の正義であり、生きがいだった。
その鋭い眼光が、植え込みの植栽の間に止まる。
ツツジの枝の間に、不自然な黒い物体が挟まっていた。
タバコの箱くらいのサイズで、先端にはレンズのようなものが光り、小さなアンテナが伸びている。
「またか……。最近の若いもんは、こんな所におもちゃを捨ておって」
荒矢吹は、それを躊躇なく鷲掴みにした。
それは『ウロボロス』が設置した、軍用レベルの超小型高性能監視カメラ兼盗聴マイクだ。
一台数百万円は下らない、闇ルートでしか手に入らない代物である。
だが、荒矢吹にとってそれは、ただの「燃えないゴミ」だった。
「分別もできんのか!」
バキッ!
彼は怒りに任せ、その高性能デバイスを足裏で踏み抜いた。
精密なレンズが砕け散り、基盤がひしゃげる音が響く。
さらに彼は、慣れた手つきで残骸をちりとりに回収し、持参していた「不燃ごみ用」の袋に無造作に放り込んだ。
彼がゴミ拾いを再開すると、今度は向かいの電柱の陰に、同様の小型カメラを見つけた。
バキッ。回収。
さらに、エントランスの装飾の裏にも。
グシャッ。回収。
ものの五分で、組織が徹夜で設置した監視網の「目」と「耳」は、行政指定の黄色いゴミ袋の中で永遠の眠りについた。
「よし、これでスッキリした」
満足げに頷く荒矢吹。
しかし、彼の正義感はまだ満たされていなかった。
視線の先、マンションの敷地に接する公道に、一台の黒いワンボックスカーが停車していたからだ。
エンジンをかけたまま、スモークガラスで中の様子は窺えない。
組織の現場指揮車両であり、通信傍受の拠点となっているバンである。
荒矢吹は、ほうきを「警杖」のように構え、スタスタとバンに歩み寄った。
そして、コンコンと強めに運転席の窓を叩く。
「おい! ここは 消火栓の近くで駐停車禁止のスペースだぞ!」
窓が数センチだけ開き、中からサングラスをかけた男が凄みを利かせた。
「……あァ? うっせえな、ジジイ。関係ねえだろ、あっち行け」
男は懐に手を伸ばしていた。そこには消音器付きの拳銃がある。
一般人なら恐怖で縮み上がる場面だ。
だが、相手が悪かった。
「あっち行け、だと?」
荒矢吹の眉がピクリと跳ね上がった。
瞬間、彼の全身から放たれる空気が変わった。
それは、昭和の暴対法以前の現場で、凶悪犯と素手で渡り合ってきた「鬼のデカ」の殺気だった。
「貴様、道路交通法第四十五条を知らんのか。ここは駐停車禁止場所だ。しかもエンジンをかけっぱなしで、近隣への騒音公害も甚だしい」
荒矢吹は腰のベルトに手をやった。
そこには、オーナーから渡された業務用の無線機がぶら下がっている。
だが、車内の男たちには、それが「警察無線」に見えた。
さらに、荒矢吹の眼光と立ち振る舞いは、どう見てもカタギのそれではない。
(ヤバい、変装した刑事か!? たまたま別件でここにいたのか!?)
組織の男たちは戦慄した。
彼らは「隠密行動」を命じられている。警察沙汰になり、身元を洗われることだけは避けなければならない。ましてや、こんな昼日中に職務質問でもされれば、車内に積んだ銃火器や盗聴機材が露見してしまう。
「い、移動しますよ! すぐ動かせばいいんだろ!」
「『しますよ』ではない。『直ちに移動します、申し訳ありませんでした』だ!」
「ひっ……! す、すみません!」
運転手はパニックになり、慌ててギアを入れた。
黒いバンはタイヤを鳴らし、逃げるように走り去っていく。
「ふん。口ほどにもない」
荒矢吹は遠ざかる車を見送り、無線機で誰かと通話するフリ(実際は電源すら入れていない)をして威圧した。
路上には、静寂と平和が戻った。
彼は綺麗になった路面を見て、満足そうに頷いた。
ちりとりの中には、数千万円分の破壊されたスパイ機材。
そして追い払ったのは、国際指名手配中のテロリスト集団。
だが、荒矢吹翔龍は、自分が世界的な犯罪組織の包囲網を一時的に無力化したことになど、露ほども気づいていない。
彼にとっては、「マナーの悪い若者を叱り、ゴミを片付けた」という、ごく日常的な朝の風景に過ぎなかったのだ。
「さて、コーヒーでも淹れるか」
最強の防波堤は、鼻歌交じりに管理人室へと戻っていった。




