第14話 幽霊入居者
東京の高級住宅街に鎮座する、要塞のごとき低層マンション『レジデンス・アルゴス』。
その最上階、オーナー専用ペントハウス501号室にある通称コクピットで、私は琥珀色の液体が揺れるグラスを傾けていた。
ヴィンテージもののウィスキー……ではない。近所のコンビニでまとめ買いした、第三のビールだ。
昼下がりのアンニュイな時間、私は壁一面に広がるモニター群を眺めながら、深いため息をついた。
「……今日も始めますか」
私の本業は、マンションオーナーである。
だが、ただのオーナーではない。
入居者の生活を徹底的に監視し、弱みを握り、契約違反をでっち上げて短期間で追い出す。そして高額な礼金と違約金、原状回復費をせしめる。
いわば、合法的な回転寿司ならぬ、回転住人ビジネスだ。
住民が定着してしまっては、礼金が入らない。私にとっての優良入居者とは、「金払いが良く、かつ半年以内に破滅して出ていくモノ」のことである。
現在の稼働率は満室。
一〇二号室のパパ活女子大生は、そろそろ大学に密告する頃合いだ。
三〇五号室の社畜サラリーマンは、不法薬物の使用販売している証拠を警察と職場へ送信するタイミングを見ている。
順調に『収穫』の時期が近づいている中、たった一つだけ、私の頭を悩ませる部屋があった。
二〇二号室。
契約者の名は、相馬武次。
職業はフリーランスのコンサルタントと申告されている。
「相馬さんよぉ……。あんた、いつになったら住んでくれるんだい?」
私はモニターの一つを指先で弾いた。
そこに映っているのは、無機質なワンルームの映像だ。
家具一つない。カーテンすら、入居時に備え付けられていたレースのものが掛かっているだけ。
生活感が皆無なのだ。
それもそのはず、彼は半年前に契約して以来、一度もこの部屋を訪れていないのである。
これが通常の大家であれば、泣いて喜ぶ優良入居者だろう。
家賃の滞納は一度もない。
騒音も出さない。
ゴミも出さない。
水回りも汚さない。
近隣トラブルも皆無。
だが、私にとっては悪夢だ。
住んでいなければ、監視のしようがない。
傍受アプリを使わせることも、醜態を盗撮することも、Wi-Fiの通信ログから性癖を暴くこともできない。
つまり、追い出すための口実が作れないのだ。
「家賃だけ払って空気しか住んでない部屋なんて、資産の無駄遣いだろうが……」
普通に解約してくれれば、また礼金三ヶ月分を乗せて次のカモを募集できる。
だが、向こうから解約を申し出てこない以上、こちらから契約解除するには正当な事由が必要だ。
家賃を払っている幽霊を追い出す法律は、残念ながらこの国にはない。
私は空の缶をゴミ箱に放り投げ、新しいプルタブに指をかけた。
その時だった。
ブブッ。
手首に巻いたスマートウォッチが短く振動する。
それは、私の開発した裏管理システム『アルゴス・アイ・脱獄』からの通知だった。
『二〇二号室 玄関ドア 解錠検知』
『二〇二号室 人感センサー 反応あり』
「……来たか!」
私はガバリと身を起こし、キーボードを叩いた。
メインモニターに、二〇二号室の映像が大きく映し出される。
半年間、空気の淀みしか映していなかった玄関ホールに、男の姿があった。
年齢は三〇代後半から四〇代。
中肉中背だが、ジャケットの下の筋肉は引き締まっているように見える。
だが、その様子は尋常ではなかった。
肩で息をし、顔色は蒼白。額には脂汗が滲んでいる。
彼は靴を履いたままリビングに入り込むと、窓際の壁に背中を預け、ずるずると崩れ落ちた。
「……おいおい、随分とやつれてるな」
まるで、地獄の釜の底から這い上がってきたような形相だ。
単なる多忙なビジネスマンには見えない。
夜逃げか? それとも借金取りから逃げてきたのか?
どちらにせよ、私の大好物である『ワケあり』の匂いがプンプンする。
「ようこそ、レジデンス・アルゴスへ。待ちくたびれたぞ、相馬さん」
私は口元を歪め、獲物を見つけた猛禽類のような笑みを浮かべた。
さあ、まずはそのスマホを専用Wi-Fiに繋いでくれ。
その瞬間、あんたの秘密はすべて私のものだ。
どんな弱みが出てくるか、今から楽しみで仕方がない。
+++
壁に掛けられた時計の針が、無機質な音を刻んでいる。
俺は、カーテンの隙間から這うようにして離れると、部屋の中央で大の字になった。
ここ、『レジデンス・アルゴス』の二〇二号室。
半年前に契約し、一度も足を踏み入れていなかった「空箱」だ。
契約当時、俺はまだ組織の内部深くに潜入しており、いつ身元が割れるかわからない極限の緊張状態にあった。だからこそ、万が一の逃走経路として、組織とも警察とも関わりのない、この一般向けの賃貸マンションを確保しておいたのだ。
隠れ家として。
皮肉な話だ。
ここが「要塞」を謳うマンションだというキャッチコピーを信じて選んだが、まさか自分の墓場になるとはな。
俺は上着の内ポケットから、命よりも重いSSDを取り出し、目の前にかざした。
この数センチ四方のチップの中には、巨大犯罪組織『ウロボロス』の心臓部が記録されている 。
麻薬取引のルート、人身売買の顧客リスト、そして――組織から裏金を受け取っていた現職大臣や警察幹部の実名入り帳簿 。
これを公表すれば、日本中がひっくり返る。
腐敗した権力構造を一掃し、殺された仲間たちの無念を晴らすことができる。
だが、今の俺にはそれを成す術がない。
「……クソッ」
悪態をつきながら、俺は部屋の壁にあるコンセント付近に目をやった。
そこには、入居時に渡された案内ステッカーが貼られている。
『入居者専用・爆速フリーWi-Fi完備。面倒な設定不要で、すぐに繋がります』
甘い誘惑だ。
今すぐこの回線を使って、SSDのデータをマスコミ各社に一斉送信できれば、俺の勝利だ。
だが、俺は首を横に振った。
罠だ。
いや、マンション側が悪意を持っているわけではないだろう。だが、セキュリティフリーのWi-Fiなど、今の俺にとっては「ここにいます」と大声で叫ぶ狼煙に等しい。
組織のサイバー部隊は、都内の通信トラフィックを常時監視している。特定のキーワードや大容量データの送信があれば、瞬時に発信源を特定し、回線を遮断した上で、物理的な「消去班」を送り込んでくるだろう。
俺は持っていたスマートフォンとノートPCのSIMカードを抜き取って、床に置いた。
外部との通信手段を、自ら絶ったのだ。
これで俺は、デジタルな海の中でも孤島になった。
助けは呼べない。
情報も発信できない。
ただ、酸素が尽きるのを待つ潜水艦のように、ここで息を潜めるしかない。
グゥ、と腹が鳴った。
そういえば、丸二日何も食べていない。水も飲んでいない。
この部屋には家具もなければ、冷蔵庫もない。
水道の蛇口を捻れば水くらいは出るだろうが、配管に何が仕込まれているかも疑わなければならない状況だ。神経過敏になりすぎている自覚はあるが、相手は国家権力すら操る『ウロボロス』だ。用心しすぎるということはない。
俺は再び、窓の方へ視線を向けた。
直接見ることはできないが、気配でわかる。包囲網は狭まっている。
向かいのビルの屋上にはスナイパー 。
路上の配送トラックの中には、武装した突入部隊 。
植え込みの陰に潜む作業員風の男たちは、おそらく爆発物のプロだ 。
奴らはなぜ、すぐに突入してこない?
理由は明白だ。俺が持っているデータを警戒しているのだ。
下手に刺激して、俺がデータをばら撒く(ブラフだとしても)リスクを恐れている。あるいは、俺が精神的に摩耗し、自ら出てくるのを待っているのかもしれない。
「持久戦か……」
だが、分が悪い。
俺には食料も水もない。弾丸はたったの三発。
対して奴らは無尽蔵の人員と時間を費やせる。
俺は膝を抱え、薄暗くなり始めた部屋の隅にうずくまった。
孤独だ。
公安の潜入捜査官として選ばれた時から、覚悟はしていた。名前を捨て、過去を捨て、誰も信用せず、闇の中で生きていくと誓った。
だが、俺を送り出した上司が組織の人間だったなんて。
帰る場所がなくなり、最期までこんな一人ぼっちだとはな。
「……誰か、見ていてくれる奴はいないのかよ」
誰に言うでもなく、弱音が漏れた。
神様でも仏様でもいい。俺がここに生きていて、正義のために戦ったということを、誰か一人でも知っていてくれたら。それだけで、引き金に指をかける勇気が湧くのに。
部屋は静まり返っている。
聞こえるのは、自分の心音だけ。
世界から孤立した俺は、無駄死にへのカウントダウンを始めた。




