第13話 敗残兵の雨
玄関のドアが開いたままの廊下に、数人の男たちが現れた。
先頭に立つのは、このマンションの管理人だ。元刑事だという白髪の男は、冷ややかな目で私たちを見下ろしていた。後ろには、制服警官たちが控えている。
「轟春気。署まで同行してもらおうか」
警官の低く太い声が響く。
「ま、待ってください! 俺はハメられたんです! こいつに! この女に指示されたんです!」
春気は私を指差し、子供のように喚き散らした。
警官たちが春気の腕を掴み、手錠をかける。
「詳しい話は署で聞く。賭博開帳図利、及び詐欺の容疑だ」
「違う! 俺は被害者だ! マリ子、何とか言えよ! お前がやったって言えよ!」
連行されていく春気。彼は最後まで私を睨みつけ、呪いの言葉を吐き続けていた。
私はその場に崩れ落ち、ただ呆然とその光景を見送ることしかできなかった。
愛していた。
利用するつもりだったけれど、それでも、彼との未来を夢見ていた。
なのに、彼は私を一瞬たりとも信じなかった。
八百長をしていたことよりも、彼が私を「金で裏切る女」だと断定したことが、何よりも深く私の心を抉った。
部屋に残されたのは、私と管理人だけ。
重苦しい沈黙が流れる。
私は涙を拭い、ふらつく足で立ち上がった。
ここにいてはいけない。春気が逮捕された今、マスコミが私にも群がってくる。
「八百長犯の恋人」として世間に顔が晒されれば、アナウンサーとしてのキャリアは終わる。
「……管理人さん。私、この部屋を解約します」
私は震える声で言った。
被害者のふりをして逃げるしかない。春気に裏切られた可哀想な女として振る舞うしかない。
けれど、管理人は出口を塞ぐように立ちはだかった。
「おやおや、東園寺さん。退去ですか。では手続きを」
その口調は事務的で、どこか楽しげですらあった。
彼は手元のタブレットを操作し、私に見せた。
「契約書に基づき、即時のご精算をお願いします」
「せ、精算……?」
「ええ。まず、半年未満の解約となりますので、短期解約違約金として家賃二ヶ月分。その他もろもろの手数料を足して…」
淡々と告げられる金額に、私は耳を疑った。
このマンションの家賃は相場より安いとはいえ、それでも高級物件だ。二ヶ月分となれば数十万円になる。
「そ、そんな……急に出ていくことになったのに?」
「契約ですから」
管理人は冷酷に画面をスワイプした。
提示された合計金額は、六十万円を超えていた。
「ろ、六十万!? ふざけないでよ! そんなお金ないわよ!」
「おや、困りましたね。お支払いいただけない場合は、連帯保証人であるご実家、あるいは勤務先のテレビ局に請求させていただきますが」
テレビ局。
その単語が出た瞬間、私は言葉を失った。
局に請求がいけば、私がここに住んでいたこと、そして春気との関係、さらに借金トラブルまで全てが露見する。
そうなれば、今の「清純派」のポジションどころか、会社に居場所がなくなる。
「……そ、それは……」
「どうされますか? 今ここでお支払いいただければ、我々は守秘義務を守りますよ」
管理人の目は笑っていなかった。
これは脅迫だ。
正規の手続きを装った、完全なカツアゲだ。
でも、私に拒否権はない。
私は震える手でスマートフォンを取り出した。
春気との結婚式のために貯めていた定期預金を解約し、なけなしの全財産をかき集める。
それでも足りない分は、クレジットカードのキャッシング枠を使った。
「……これで、文句ないでしょ」
送金完了の画面を見せると、管理人は満足げに頷いた。
「確認いたしました。素晴らしい。立つ鳥跡を濁さず、ですね」
彼は大袈裟に道を空け、出口を指し示した。
私はスーツケース一つを持って、逃げるように部屋を出た。
エレベーターではなく、非常階段を駆け下りる。
涙が止まらなかった。
春気に愛想をつかされ、全財産を毟り取られ、心も懐も空っぽになった。
裏口のドアを開けると、外は冷たい雨が降っていた。
傘もない。フードを目深に被り、私は路地裏へと足を踏み出した。
ふと、背後のマンションを見上げる。
重厚な石造りの外壁。要塞のような威容。
私たちが「完璧な隠れ家」だと信じていた場所。
春気は言っていた。「外部からの盗聴は不可能だ」と。
だからこそ、彼は私を疑った。
でも、もし――。
もし、その前提が間違っていたら?
外部からではなく、この建物そのものが、最初から私たちを監視していたとしたら?
あの鮮明すぎる音声データ。
「……まさか」
背筋に悪寒が走る。
私はエントランスのオブジェを思い出した。孔雀の羽。無数の目。
『百の目が、あなたのすべてを監視する』
そんなキャッチコピーが、幻聴のように脳裏をよぎる。
悔しさと恐怖で足がすくむ。
けれど、もう戻れない。
私は雨に打たれながら、あてもなく歩き出した。
テレビ局に行けば、霧嶋冴子が待っている。
彼女はきっと、今の私の無様なニュースを見て、極上の笑みを浮かべていることだろう。
『あらあらマリ子ちゃん。男を見る目がなかったわねぇ』
その嘲笑が聞こえてくるようだ。
私は唇を噛み締め、雨と涙でぐしゃぐしゃになった顔を上げた。
要塞を追い出された敗残兵は、暗い街の闇へと消えていくしかなかった。
雨音に紛れて、マンションの最上階から誰かの笑い声が聞こえたような気がした。
第3章 完
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