第9話 セレブ婚への近道
深夜一時。都内の高級住宅街は、時が止まったかのように静まり返っていた。
私はタクシーを降りると、深く被ったキャスケットのつばをさらに引き下げ、大きな黒マスクの位置を直した。
傍から見れば不審者そのものだろうが、顔を見られるよりはマシだ。私は、朝の情報番組『モーニング・ブリーズ』のサブキャスター、東園寺マリ子なのだから。
目の前に聳えるのは、重厚な石造りの低層マンション。
――レジデンス・アルゴス。
ギリシャ神話の巨人の名を冠したその建物は、外灯に照らされ、どこか監獄のような威圧感を放っている。
エントランスには、孔雀の羽を模した巨大な真鍮のオブジェが鎮座していた。無数の「目玉模様」が、通過者をじっと見下ろしているようで、背筋が粟立つ。
けれど、今の私にとって、この堅牢さは頼もしさでしかなかった。
オートロックを解除し、慣れた足取りで上層階へ向かう。
目指す部屋のインターホンを鳴らすと、すぐに解錠された。
重い扉が開くと、そこにはスウェット姿の長身の男が立っている。
「よう、お疲れ」
男の甘いマスクが綻ぶ。
轟春気。プロ野球界の至宝と呼ばれる、国民的エースピッチャー。そして、私の現在進行形の恋人だ。
「春気くん……!」
私は玄関に飛び込み、彼の胸に顔を埋めた。香水の混じった彼独特の匂いを吸い込むと、外での緊張が解けていく。
「大丈夫だったか? 誰かに見られてない?」
「ええ、多分。この格好なら親でも気づかないわ」
マスクを外し、私は彼のリビングへと上がり込んだ。
広々とした3LDK。独身の彼には広すぎる空間だが、窓の外にはハイエンドな夜景が広がっている。
「でもさ、毎回こうやってコソコソ通うのも限界があるよな」
春気は冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出しながら言った。
「マスコミも鼻が利くし、万が一撮られたらマリ子の立場もマズいだろ? 局の方針とかうるさそうだし」
「それは……そうだけど」
私はソファに沈み込み、ため息をついた。
女子アナとプロ野球選手の熱愛。発覚すれば特大スクープだ。いずれは「結婚」という形で発表して世間をあっと言わせたいが、今はまだその時ではない。私の局内での地位が、まだ盤石ではないからだ。
「そこで、提案があるんだ」
春気が私の隣に腰を下ろし、肩を抱き寄せる。
「マリ子も、このマンションに住めよ」
「え?」
「ここ、セキュリティが異常なくらいしっかりしてるんだ。『アルゴス・アイ』とかいう最新システムらしくてさ。住人以外は絶対に侵入できないし、プライバシー保護も完璧。要塞みたいなもんだよ」
彼は自信たっぷりに笑う。
「同じマンション内なら、エレベーター移動だけで会える。週刊誌の記者なんて怖くないだろ?」
魅力的な提案だった。確かにここなら、外の目を気にせず逢瀬を楽しめる。
けれど、現実はシビアだ。
「無理よ。ここの家賃、相場より安いとは言っても高級物件じゃない。私のお給料じゃ、審査以前に毎月の支払いで破綻しちゃう」
女子アナといえば華やかなイメージだが、所詮は会社員。しかも私はハイブランドのバッグや靴に散財する癖があり、貯金なんて雀の涙ほどしかない。
「金のことなら心配すんな」
春気は事も無げに言った。
「初期費用は俺が出す。敷金礼金、全部だ」
「えっ……でも、それって結構な額じゃ……」
「礼金が家賃三ヶ月分とかでちょっと高いんだけどな。まあ、俺にとっちゃ端金だし、マリ子のためなら惜しくない」
彼は私の頬を撫でる。
「家賃だって、今の家を引き払えばなんとかなる額だろ? 俺がそばにいるんだ。困ったら助けるさ」
その言葉に、私の胸中で計算機が弾かれた。
礼金三ヶ月分……普通なら馬鹿げた金額だが、それを彼が負担してくれるなら話は別だ。
引っ越しの初期費用が浮き、国民的スターと同じ屋根の下で暮らせる。これは事実上の半同棲であり、結婚への最短ルート。
外堀を埋める絶好のチャンスだ。
「……ありがとう、春気くん。私、住むわ」
私は彼の首に腕を絡めた。
孔雀の目に見つめられる不気味さなど、甘い未来の前では些細なことだった。
+++
引っ越しは迅速に行われた。
私が契約したのは、春気の部屋より下層にある2階の1LDK。独身向けのフロアだ。
荷物の搬入を終えた日の午後、私はマンションのエントランス付近を歩いていた。
ふと、通用口のあたりで昼間から缶ビールを煽っている男が目に入った。
伸び放題の髪に無精髭、ヨレヨレのジャージにサンダル履き。
この高級マンションには似つかわしくない、薄汚れた男だ。
眉をひそめて見ていると、通りかかった管理人の老人が、その男に頭を下げているのが見えた。
(何あれ……管理人の知り合い?)
「オーナー、また昼間から……。居住者の手前、少しは身なりを整えてください」
「うるせえなあ。俺の家なんだから俺の勝手だろ」
男はゲップをしながら手を振った。
(あれが、オーナー?)
噂には聞いていた。親の遺産でこのマンションを相続したものの、働く気のないドラ息子だと。
私は内心で嘲笑する。
あんな底辺のような人間がオーナーだなんて。まあいい、関わることもないだろう。
私は彼を一瞥もしないまま、エレベーターホールへと向かった。
新生活は快適そのものだった。
春気の言葉通り、セキュリティは完璧だ。
エントランスの外、公道の植え込み付近には、今日も週刊誌の記者が張り込んでいるのが窓から見える。
だが、彼らは絶対に中には入れない。
私は部屋着のまま、内廊下とエレベーターを使って春気の部屋へ行き、愛を育み、また自分の部屋へ戻る。
望遠レンズを構えて寒空の下で震えている記者たちを想像すると、優越感で笑いが止まらなかった。
「ざまあみろ、って感じね」
+++
翌日、テレビ局のメイク室。
鏡の前で化粧を直していると、背後から甘ったるい声が掛かった。
「あら、マリ子ちゃん。おはよう」
鏡越しに目が合ったのは、番組のメインキャスター、霧嶋冴子だ。
完璧にセットされた巻き髪と、計算し尽くされたナチュラルメイク。知的で上品な笑顔の裏に、底知れぬ意地悪さを隠し持った天敵だ。




