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後悔バス  作者: 月城 リョウ
後悔バス -最期の言葉-

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9/16

第1章:喪失の夜

## 1


秋の雨は、冷たくて容赦がない。


 川瀬美咲は黒い傘を差しながら、母の墓前に立っていた。葬儀が終わって三日。参列者も去り、供えられた花もしおれ始めている。墓石に刻まれた母の名前——川瀬冴子、享年六十二歳——を見つめながら、美咲は何も感じられない自分に戸惑っていた。


 悲しいはずなのに、涙は出ない。

 寂しいはずなのに、実感が湧かない。


 ただ、胸の奥に重たい塊があるだけだった。


「お母さん」


 小さく呟いた声は、雨音に消えていく。


 美咲は IT 企業の営業部長として、毎日激務に追われていた。三十五歳という年齢で部長職に就いたのは、努力の結果だと自負している。朝七時には出社し、夜十時まで働く。休日も接待ゴルフやクライアントとの会食。プライベートな時間など、ほとんどなかった。


 だからこそ——母が入院したときも、すぐには帰れなかった。


 いや、帰らなかった、と言うべきか。


 大型プロジェクトの最中で、海外出張が重なっていた。母からは何度も電話があった。「会いたい」「大事な話がある」そう言われても、美咲は「仕事が落ち着いたら帰るから」と答えるだけだった。


 母は待っていてくれると思っていた。

 いつでも、そこにいてくれると思っていた。


 でも、母は待てなかった。


 美咲が帰国したのは、母の容態が急変してから六時間後。病院に駆けつけたときには、もう母は意識がなく、そのまま息を引き取った。最期の言葉を、何一つ聞けなかった。


 何を伝えたかったのか。

 何がそんなに大事だったのか。


 それを知ることは、もう二度とできない。


---


## 2


 美咲は墓前を後にし、母が暮らしていたアパートへ向かった。遺品整理をしなければならない。一人っ子の自分がやらなければ、誰がやるのだ。


 アパートは古い二階建ての一室。母は質素な暮らしをしていた。美咲が高級マンションに住んでいるのとは対照的だ。


 鍵を開けて部屋に入ると、母の匂いがした。微かに香る柔軟剤の香り、いつも使っていたハンドクリームの香り。美咲は一瞬、足を止めた。


 部屋は綺麗に片付いていた。母らしい、几帳面な部屋。リビングの小さなテーブルには、美咲が送った誕生日プレゼントの花瓶が飾られている。もう花は枯れていたが、母は大切にしていたのだろう。


 美咲は深く息を吐き、遺品整理を始めた。


 クローゼットの中の服、引き出しの中の小物。どれも母の人生が詰まっているようで、捨てることに躊躇する。でも、感傷に浸っている時間はない。美咲は淡々と段ボールに詰めていった。


 そして、母の机の引き出しを開けたとき——美咲の手が止まった。


 そこには、一通の手紙があった。


 便箋に書かれた文字。母の丁寧な筆跡。宛名には『美咲へ』と書かれている。


 美咲は震える手で、その手紙を取り出した。


---


## 3


 便箋を広げると、そこには母の文字が並んでいた。


---


『美咲へ


 元気にしていますか。仕事、忙しいでしょうね。無理しないでね。


 突然こんな手紙を書いて、驚かせてしまうかもしれません。でも、どうしても伝えたいことがあって、この手紙を書くことにしました。


 美咲、あなたは本当に頑張り屋さんです。小さい頃から、何でも一人でできる子でした。お母さんが手を貸そうとしても、「自分でやる」って言って、一生懸命頑張っていましたね。


 その姿を見ていると、誇らしくて、でも少し寂しくもありました。もっと甘えてくれてもいいのに、もっと頼ってくれてもいいのにって。


 でも、それはお母さんのせいかもしれません。


 私はいつも「しっかりしなさい」って言っていました。「強くなりなさい」「泣かないで」「頑張りなさい」——そんな言葉ばかり。


 お父さんが亡くなってから、私は必死でした。あなたを一人で育てなきゃいけない。弱音を吐いている場合じゃない。だから、私も「強い母」を演じていたのかもしれません。


 でもね、美咲。


 本当はもっと、あなたに甘えてほしかった。もっと、一緒に笑いたかった。もっと、たくさん話をしたかった。


 「お母さん、これ見て」「お母さん、聞いて」——そんな言葉を、もっとたくさん聞きたかったの。


 でも、私はあなたに「忙しい」「後でね」ばかり言っていました。それなのに、今になって私が「会いたい」「話したい」なんて、身勝手ですよね。


 ごめんなさい。


 でも、どうしても伝えたいことがあるの。大事な話——』


---


 そこで、手紙は途切れていた。


 美咲は手紙を握りしめた。続きが、ない。母は何を伝えたかったのか。何が「大事な話」だったのか。


「お母さん……」


 声が震える。初めて、涙が溢れそうになった。


 でも、美咲はぐっと堪えた。泣いてはいけない。感情を出してはいけない。それが、美咲が自分に課してきたルールだった。


 手紙を丁寧に畳み、美咲はそれを胸ポケットにしまった。遺品整理を再開する。感傷に浸っている時間は、ない。


---


## 4


 夜、美咲は自分のマンションに戻った。


 都内の高級マンション、二十階。窓からは夜景が一望できる。美咲はソファに座り、缶ビールを開けた。


 喉を通るビールの味が、分からない。いつもなら美味しいと感じるはずなのに、今日は何も感じない。


 美咲はスマートフォンを取り出し、母との最後のメッセージを開いた。


---


**母からのメッセージ(三週間前)**


『美咲、元気? 最近忙しそうだけど、体調崩してない? 少し話したいことがあるんだけど、電話できるかな?』


**美咲の返信**


『ごめん、今海外出張中。来週帰るから、その時に電話するね』


**母からのメッセージ**


『そっか。じゃあ、待ってるね。無理しないでね』


---


 それが最後だった。


 美咲は「来週」と言った。でも、来週になっても電話しなかった。仕事が忙しくて、つい後回しにしてしまった。


 そして母は、二週間後に入院した。


 美咲はスマートフォンを置き、天井を見上げた。


「何が……大事な話だったの」


 誰に問いかけるでもなく、呟く。


 答えは、返ってこない。


---


## 5


 時計の針が、零時を指した。


 美咲はふと、窓の外を見た。


 雨は止んでいた。夜景の光が、静かに街を照らしている。美咲は立ち上がり、窓辺に近づいた。


 そのとき——


 美咲の視界に、奇妙なものが映った。


 マンションの前の通りに、一台のバスが停まっていた。


 深い青色の、古い型のバス。窓ガラスは曇っていて、中が見えない。ヘッドライトだけが、ぼんやりと光っている。


 こんな時間に、バス?


 美咲の住むエリアは、深夜バスの路線ではない。しかも、あのバスは明らかに古い。今時、あんな型のバスが走っているだろうか。


 美咲はバスを見つめた。


 すると——バスのドアが、ゆっくりと開いた。


 まるで、美咲を誘うように。


 美咲は息を呑んだ。心臓が、早鐘を打つ。何かが、おかしい。でも、なぜだか足が動いた。


 気づけば、美咲はマンションを出て、バスの前に立っていた。


---


## 6


 バスは静かに、そこにあった。


 ドアは開いたまま。中から漏れる光は、薄暗く、どこか不気味だった。


 美咲は一歩、足を踏み出した。


 バスの中を覗くと——運転席に、人影があった。


 いや、人影、と呼ぶべきか分からない。それは影のような存在で、顔も姿もはっきりしない。ただ、そこに「誰かがいる」という気配だけがあった。


「……あの」


 美咲は声をかけた。


 影は動かない。ただ、ハンドルを握っているだけ。


「ここは……どこ行きのバスですか?」


 沈黙。


 美咲は不安になった。でも、なぜか引き返せない。何かが、美咲をこのバスに引き寄せている。


 そのとき——影が、ゆっくりと動いた。


 運転席の横にある行き先表示板が、カタカタと音を立てて回る。


 そして、そこに表示された文字。


---


**『後悔行き』**


---


 美咲は息を呑んだ。


「後悔……?」


 影は答えない。ただ、じっと美咲を見ている——ような気がした。


 美咲の胸に、母の手紙の言葉がよぎる。


『でも、どうしても伝えたいことがあるの。大事な話——』


 もし。


 もしこのバスに乗れば——母が何を伝えたかったのか、分かるのだろうか。


 美咲は、ゆっくりとバスに足を踏み入れた。


---


## 7


 バスの中は、薄暗かった。


 座席は古びていて、どこか懐かしい匂いがした。美咲は一番前の席に座る。


 すると——ドアが、静かに閉まった。


 美咲は振り返った。外の景色が、ゆっくりと動き始めている。バスが、動き出した。


「待って、どこに——」


 美咲が声を上げようとした、その瞬間。


 影が、初めて声を発した。


 低く、重く、でもどこか優しい声。


『後悔の、先へ』


 美咲は息を呑んだ。


『あなたが見たいもの。知りたいもの。それを、見せてあげましょう』


「私が……見たいもの?」


『そう。でも——』


 影は、ゆっくりとこちらを振り向いた。顔は見えない。でも、その視線は確かに美咲を捉えていた。


『代償が、必要です』


「代償……?」


『何かを得るには、何かを失う。それが、このバスのルール』


 美咲は戸惑った。


「何を……失うんですか?」


 影は答えなかった。ただ、ハンドルを握り、バスを進めていく。


 窓の外の景色が、どんどん変わっていく。でも、それは美咲の知っている街ではなかった。暗闇の中、ぼんやりと光る何かが見える。記憶の断片のような、曖昧な映像。


 美咲は、震える手で座席を握りしめた。


 怖い。でも、引き返せない。


 母が何を伝えたかったのか——それを知りたい。どうしても、知りたい。


 バスは、静かに闇の中を進んでいく。


 美咲の後悔を乗せて。

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