第7章:それでも残るもの
ひなたは、目を覚ました。
朝の光が、カーテンの隙間から差し込んでいる。
ひなたは、ベッドから起き上がり、伸びをした。
「今日も、いい天気だな」
窓を開けると、爽やかな風が入ってくる。
ひなたは、鏡の前に立ち、自分の顔を見た。
二十六歳。大学を卒業して、今は小さなNPOで働いている。
海外でのボランティア経験も積み、今は日本で、困っている人たちを支援する仕事をしている。
充実した日々。
やりたいことをやれている実感。
ひなたは、幸せだった。
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リビングに行くと、両親が朝食の準備をしていた。
「おはよう、ひなた」
母が、笑顔で言った。
「おはよう」
ひなたは、テーブルに座った。
父が、新聞を読みながら言った。
「今日は仕事か?」
「うん。午後から、新しいプロジェクトの打ち合わせがあるんだ」
「そうか。頑張ってるな」
父が、優しく笑った。
ひなたは、トーストを食べながら、ふと思った。
自分は、一人っ子だ。
兄弟はいない。
それは、当たり前のことだった。
しかし、時々、不思議な感覚があった。
まるで、誰かが自分を見守ってくれているような。
誰かが、自分のことを応援してくれているような。
そんな気がするのだ。
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仕事に向かう道すがら、ひなたはカフェに立ち寄った。
いつものカフェ。
ひなたは、カウンターで注文をした。
「いつものコーヒーで」
「はい、かしこまりました」
店員が、笑顔で答えた。
ひなたは、窓際の席に座った。
この席が、なぜか好きだった。
ここに座ると、落ち着く。
まるで、誰かと一緒にいるような。
そんな気がするのだ。
ひなたは、スマホを取り出し、海外の支援団体からのメールをチェックした。
来月、また海外に行く予定だ。
アフリカの小さな村で、教育支援のプロジェクトを立ち上げる。
それが、今のひなたの夢だった。
コーヒーが運ばれてきた。
ひなたは、一口飲んで、窓の外を見た。
空は、青く澄んでいた。
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その日の午後、ひなたはオフィスで打ち合わせをしていた。
新しいプロジェクトについて、チームメンバーと議論を交わす。
ひなたは、自分の意見を述べた。
「私は、現地の人たちの声を、もっと聞くべきだと思います」
ひなたは、資料を見せながら続けた。
「支援する側の視点だけじゃなく、支援される側の視点も大切です。彼らが本当に必要としているものを、提供しないと意味がない」
チームメンバーたちは、頷いた。
「さすがひなたさん。現場経験があるから、説得力がありますね」
上司が、笑顔で言った。
ひなたは、少し照れくさそうに笑った。
「いえ、私もまだまだ勉強中です」
打ち合わせが終わり、ひなたは自分のデスクに戻った。
パソコンを開き、メールを確認する。
その時、ふと、デスクの上に置かれた写真に目が止まった。
両親と三人で写った写真。
笑顔の三人。
ひなたは、その写真を見つめた。
なぜだろう。
いつも、この写真を見ると、何かが足りないような気がするのだ。
誰かが、いるべき場所にいないような。
そんな気がするのだ。
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その夜、ひなたは一人で夕食を食べていた。
実家を出て、一人暮らしを始めてから三年が経つ。
最初は寂しかったが、今は慣れた。
むしろ、この自由が心地よかった。
ひなたは、テレビをつけた。
ニュースが流れている。
しかし、ひなたは上の空だった。
また、あの感覚が襲ってきた。
誰かが、自分を見守っているような。
誰かが、自分のことを思ってくれているような。
そんな気がするのだ。
ひなたは、テレビを消した。
そして、ベランダに出た。
夜空を見上げる。
星が、いくつか見えた。
「……誰?」
ひなたは、呟いた。
「誰なの?」
返事はない。
ただ、風が吹くだけ。
しかし、ひなたは感じた。
誰かが、そこにいる。
見えないけれど、確かに、誰かがいる。
「ありがとう」
ひなたは、夜空に向かって言った。
「あなたが誰だかわからないけど……ありがとう」
風が、優しく吹いた。
まるで、応えるように。
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数日後、ひなたは実家を訪れた。
両親は、喜んでひなたを迎えてくれた。
「ひなた、久しぶりね」
母が、嬉しそうに言った。
「うん。ちょっと時間ができたから」
ひなたは、リビングに座った。
父が、お茶を淹れてくれる。
「仕事は順調か?」
「うん。来月、また海外に行くことになったんだ」
「そうか。気をつけてな」
父が、心配そうに言った。
ひなたは、笑顔で頷いた。
「大丈夫。ちゃんと準備するから」
ひなたは、お茶を飲みながら、ふと尋ねた。
「ねえ、お母さん」
「何?」
「私って……昔から一人っ子だったよね?」
母は、不思議そうに顔をした。
「当たり前じゃない。何を今更」
「うん、そうだよね」
ひなたは、笑った。
しかし、心の中では、まだ疑問が残っていた。
なぜ、自分は時々、誰かがいたような気がするのだろう。
まるで、兄か姉がいたような。
そんな気がするのだ。
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その夜、ひなたは自分の部屋で、昔の写真を見ていた。
子供の頃の写真。学生時代の写真。家族旅行の写真。
どの写真にも、両親と自分が写っている。
三人だけ。
それが、当たり前だった。
しかし、ひなたは感じた。
何かが、足りない。
誰かが、いるべき場所にいない。
ひなたは、写真を閉じた。
そして、ベッドに横になった。
目を閉じる。
その時、ひなたは夢を見た。
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夢の中で、ひなたは子供だった。
公園で、誰かと遊んでいる。
その誰かは、顔が見えない。
しかし、優しい声が聞こえる。
「ひなた、危ないから気をつけろよ」
「大丈夫だよ!」
子供のひなたが、笑いながら答える。
ブランコに乗って、高く飛ぶ。
その誰かが、後ろから押してくれる。
「もっと高く!」
「わかった、わかった」
優しい声。
温かい手。
そして、笑顔。
ひなたは、その誰かと一緒にいると、とても幸せだった。
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目が覚めると、朝だった。
ひなたは、涙を流していた。
「……誰だったんだろう」
夢の中の、あの人。
顔は見えなかったけれど、とても大切な人だった気がする。
ひなたは、涙を拭いた。
そして、窓の外を見た。
朝の光が、部屋に差し込んでいる。
「……ありがとう」
ひなたは、呟いた。
「あなたが誰だかわからないけど……ありがとう」
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それから、数ヶ月が過ぎた。
ひなたは、アフリカの小さな村にいた。
教育支援のプロジェクトは、順調に進んでいた。
子供たちは、学校に通うようになり、笑顔が増えた。
ひなたは、その光景を見て、心から嬉しかった。
「これが、私のやりたかったことだ」
ひなたは、呟いた。
誰かの役に立つ。
誰かを幸せにする。
それが、ひなたの夢だった。
そして、その夢を叶えられている今、ひなたは幸せだった。
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ある日、ひなたは村の丘に登った。
そこから、村全体が見渡せる。
夕日が、村を照らしていた。
ひなたは、その景色を見つめた。
美しい。
そして、ふと思った。
今の自分があるのは、誰かのおかげかもしれない。
誰かが、自分を支えてくれたから。
誰かが、自分を見守ってくれたから。
だから、今の自分がいる。
「ありがとう」
ひなたは、夕日に向かって言った。
「あなたが誰だかわからないけど……本当に、ありがとう」
風が、優しく吹いた。
まるで、誰かが微笑んでいるような。
そんな気がした。
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その夜、ひなたはテントの中で、日記を書いていた。
『今日も、充実した一日だった。
子供たちの笑顔を見ると、本当に嬉しい。
私は、正しい道を歩いている。
そう、確信できる。
でも、時々思う。
この道を歩けているのは、誰かのおかげかもしれないって。
誰かが、私を支えてくれている。
誰かが、私を見守ってくれている。
そんな気がするんだ。
あなたが誰だかわからない。
でも、感謝してる。
本当に、ありがとう。
私は、これからも頑張るよ。
あなたが誇れるような、そんな人になりたい。
だから、見守っていてね。』
ひなたは、日記を閉じた。
そして、テントの外を見た。
満天の星空。
その星の一つが、いつもより明るく輝いている気がした。
ひなたは、その星を見つめた。
「……もしかして、あなた?」
星は、何も答えない。
ただ、静かに輝いているだけ。
しかし、ひなたは感じた。
誰かが、そこにいる。
見えないけれど、確かに、誰かがいる。
「おやすみ」
ひなたは、星に向かって言った。
そして、テントに戻り、眠りについた。
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深夜。
とあるバス停に、一台のバスが停まっていた。
深い青色のバス。曇った窓。
運転手は、顔の見えない影だった。
バスの中には、誰も乗っていなかった。
運転手は、窓の外を見つめた。
遠く、アフリカの空。
そこで、一人の女性が眠っている。
幸せそうに。
運転手は、静かに呟いた。
「彼女は、幸せだ」
運転手は、ハンドルを握った。
「彼の選択は、正しかった」
運転手は、前を向いた。
「彼は、後悔を乗り越えた」
運転手は、深く息を吐いた。
「しかし……」
運転手は、バスの中を見渡した。
空っぽの座席。
そこには、かつて多くの者が座った。
後悔を抱え、代償を払い、そして消えていった。
「まだ、終わらない」
運転手は、呟いた。
「後悔を持つ者がいる限り、私は走り続ける」
バスが、動き出した。
次の後悔を持つ者を、探しに。
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そして、世界のどこかで。
一人の男性が、深夜の道を歩いていた。
男性は、深い後悔を抱えていた。
父親を、看取れなかった後悔。
最期に、何も言えなかった後悔。
男性は、夜空を見上げた。
星が、見えない。
ただ、暗闇だけ。
その時、男性の前に、古びたバス停が現れた。
標識には、手書きのような文字でこう書かれている。
『後悔行き』
男性は、その文字を見つめた。
後悔行き。
自分のための、バスだろうか。
遠くから、エンジン音が聞こえてきた。
深い青色のバス。曇った窓。
バスが、ゆっくりと近づいてくる。
男性は、息を呑んだ。
バスが、目の前で止まった。
扉が、開く。
中には、顔の見えない運転手が座っていた。
運転手は、何も言わない。
ただ、バスの奥を指し示した。
乗れ、と。
男性は、迷った。
乗るべきか。
乗らざるべきか。
しかし、男性の足は、勝手にバスのステップを踏んでいた。
そして、男性はバスに乗り込んだ。
扉が、閉まる。
バスが、動き出す。
後悔の果てへと。
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ひなたは、幸せに生きている。
後悔のない人生を。
しかし、時々、不思議な感覚がある。
誰かが、自分を見守ってくれているような。
誰かが、自分のことを応援してくれているような。
そんな気がするのだ。
その誰かの名前も、顔も、ひなたは知らない。
しかし、確かに、誰かがいる。
そして、その誰かは、ひなたの幸せを願っている。
それだけは、確かだった。
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蓮は、消えた。
存在が、消えた。
誰も、蓮のことを覚えていない。
ひなたも、両親も、友人も、誰も。
蓮は、最初からいなかった。
しかし、蓮の想いは、消えなかった。
ひなたを愛する気持ち。
ひなたの幸せを願う気持ち。
それは、形を変えて、残っていた。
風のように。
光のように。
星のように。
蓮は、もういない。
しかし、蓮の想いは、いつもひなたのそばにある。
見えなくても。
聞こえなくても。
触れられなくても。
確かに、そこにある。
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ひなたは、今日も笑顔で生きている。
夢を追いかけ、誰かの役に立ち、幸せに生きている。
それが、蓮が望んだことだった。
蓮の後悔は、消えた。
蓮の存在も、消えた。
しかし、蓮の愛は、残った。
それは、ひなたの人生を照らし続ける。
永遠に。
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後悔行きのバスは、今夜も走る。
深い後悔を抱えた者を乗せて。
代償を求めながら。
そして、彼らに選択を与える。
後悔を乗り越えるのか。
後悔と共に生きるのか。
それは、乗客自身が決めること。
バスは、ただ走るだけ。
終わりのない、夜道を。




