第6章:最後の選択
蓮は、もはや生きているとは言えなかった。
味覚がない。喜びがない。繋がりがない。
食事は機械的に摂取するだけ。感情は後悔と罪悪感だけ。人との関わりは、すべて意味を失った。
部屋の中で、蓮はただ時間が過ぎるのを待っていた。
夜が来るのを。
あのバスが来るのを。
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ある日、蓮のアパートのドアがノックされた。
蓮は、ドアを開けた。
そこには、見知らぬ男性が立っていた。
「……誰だ?」
「蓮、俺だよ。高橋」
男性が、困惑した顔で言った。
高橋。
その名前に、蓮は何も感じなかった。
「すまない、人違いだと思う」
蓮は、ドアを閉めようとした。しかし、高橋が手でドアを押さえた。
「待ってくれ!蓮、お前、本当に俺のこと忘れたのか?」
「忘れたというより、知らない」
蓮は、無表情に答えた。
高橋は、愕然とした顔をした。
「嘘だろ……俺たち、高校の時からの友達じゃないか」
「そうなのか」
「そうなのかって……」
高橋は、蓮の顔をじっと見つめた。
「蓮、お前……何があったんだ?」
「別に何も」
「嘘つけ!お前、おかしいぞ!顔色も悪いし、目も死んでる!」
高橋が、蓮の肩を掴んだ。
「なあ、教えてくれよ。何があったんだ?」
蓮は、高橋の手を払った。
「もう帰ってくれ。俺は忙しい」
「忙しいって、何が忙しいんだよ!お前、ずっと部屋に引きこもってるだけだろ!」
高橋が、声を荒げた。
「俺は、お前のことが心配なんだよ!友達だから!」
友達。
その言葉に、蓮は何も感じなかった。
友達とは、何だろうか。
もう、わからない。
「すまない。でも、俺には関係ない」
蓮は、そう言ってドアを閉めた。
高橋の叫び声が、ドアの向こうから聞こえた。
「蓮!蓮!!」
しかし、蓮は何も感じなかった。
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その夜、蓮は再びバス停に向かった。
体は限界だった。歩くたびに息が切れる。視界がぼやける。
しかし、蓮は歩き続けた。
もう、これが最後だと感じていた。
次にバスに乗れば、全てが終わる。
ひなたの真実を知り、そして蓮も終わる。
それでいい、と蓮は思った。
バス停に着くと、すでにバスが停まっていた。
深い青色のバス。曇った窓。そして、顔の見えない運転手。
扉が、開いている。
まるで、蓮を待っていたかのように。
蓮は、バスに乗り込んだ。
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バスの中は、今までとは違った。
座席に座ると、運転手が振り返った。
相変わらず顔は見えない。しかし、今回は、何かが違った。
運転手が、初めて口を開いた。
声は、低く、静かで、まるで風のようだった。
「最後だ」
蓮は、息を呑んだ。
運転手が、話した。
「お前は、もう限界だ。これ以上は、耐えられない」
「……わかっている」
蓮は答えた。
「それでも、乗りたい」
運転手は、しばらく沈黙した。
そして、また口を開いた。
「今回、お前に選択を与える」
「選択?」
「ああ。お前は、妹を生き返らせることができる」
蓮の心臓が、跳ねた。
ひなたを、生き返らせる?
「本当か?」
「ああ。しかし、代償がある」
「代償……」
蓮は、身構えた。
「何だ?」
運転手は、ゆっくりと答えた。
「お前の存在だ」
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蓮は、その言葉の意味を理解するのに、しばらく時間がかかった。
「存在……?」
「ああ。お前が、この世界から消える。お前の記憶、お前の痕跡、全てが消える」
運転手は、静かに続けた。
「妹は生き返る。事故に遭わず、夢を追いかけ、幸せに生きる。しかし、お前は存在しなかったことになる」
「存在しなかった……」
「ああ。妹の記憶からも、両親の記憶からも、全ての人の記憶から、お前は消える。お前は、最初からいなかったことになる」
蓮は、呼吸が止まるような思いだった。
自分が、消える。
最初から、いなかったことになる。
それは、死ぬことよりも重い代償だった。
「もちろん、拒否することもできる」
運転手が言った。
「このまま、後悔を抱えて生きる。それも、一つの選択だ」
蓮は、黙り込んだ。
ひなたを生き返らせることができる。
しかし、自分は消える。
ひなたの記憶からも、消える。
ひなたは、蓮の存在を知らずに生きる。
兄がいたことも、知らない。
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蓮は、考えた。
もし、自分が消えれば、ひなたは生き返る。
ひなたは、夢を追いかける。海外に行き、ボランティアをする。誰かの役に立ち、笑顔で生きる。
それは、ひなたが望んでいたことだ。
しかし、ひなたは蓮のことを知らない。
蓮が、ひなたを守ってきたことも知らない。
蓮が、ひなたを愛していたことも知らない。
それでも、いいのだろうか。
蓮は、ふと思い出した。
ひなたの手紙。
『お兄ちゃん、幸せになってね』
ひなたは、蓮の幸せを願っていた。
蓮が笑顔で生きることを、望んでいた。
しかし、蓮は今、笑えない。
喜びを失い、繋がりを失い、ただ後悔の中で生きている。
これは、幸せではない。
ひなたが望んだものではない。
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蓮は、顔を上げた。
「一つ、聞きたい」
「何だ」
「もし、俺が消えて、ひなたが生き返ったら……ひなたは、幸せになれるのか?」
運転手は、しばらく沈黙した。
そして、答えた。
「それは、わからない」
「わからない?」
「ああ。幸せかどうかは、本人が決めることだ。私には、わからない」
蓮は、息を吐いた。
「そうか」
蓮は、目を閉じた。
ひなたの顔が浮かぶ。
笑顔のひなた。
夢を語るひなた。
蓮に心配をかけまいとするひなた。
そして、最期に言った言葉。
『お兄ちゃん、幸せになってね』
蓮は、涙を流した。
「ひなた……」
蓮は、呟いた。
「俺は、お前の願いに応えられなかった」
お前は、俺の幸せを願っていたのに。
俺は、自分を壊した。
「だから、せめて……」
蓮は、目を開けた。
「せめて、お前だけは幸せになってほしい」
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蓮は、運転手を見た。
「決めた」
「選択は?」
「ひなたを、生き返らせてくれ」
運転手は、沈黙した。
「お前は、消えるぞ」
「わかっている」
「妹は、お前のことを知らない」
「それでもいい」
蓮は、笑った。
喜びを失った蓮が、初めて笑った。
それは、悲しい笑顔だった。
「ひなたが生きていれば、それでいい」
運転手は、ゆっくりと頷いた。
「わかった」
運転手が、ハンドルを握った。
「では、行こう」
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バスが動き出した。
窓の外の景色が、激しく歪み始める。
蓮は、座席に座ったまま、窓の外を見つめた。
景色が、流れていく。
そして、やがて、光に包まれた。
蓮は、目を閉じた。
ひなた、さようなら。
お前に会えて、良かった。
お前の兄でいられて、幸せだった。
たとえ、お前が俺のことを忘れても。
たとえ、俺が存在しなかったことになっても。
お前が笑顔で生きていれば、それでいい。
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光が、消えた。
蓮は、目を開けた。
そこは、駅前の交差点だった。
三年前、ひなたが事故に遭った場所。
しかし、今回は違った。
ひなたが、横断歩道の前に立っている。
スマホを見つめている。
そして、信号が変わる。
ひなたが、横断歩道を渡り始める。
蓮は、息を呑んだ。
車が来る。
あの車が。
しかし、その瞬間。
車が、止まった。
運転手が、ブレーキを踏んだのだ。
ひなたは、無事に横断歩道を渡り切った。
そして、カフェに入っていった。
蓮は、その光景を見つめた。
ひなたは、生きている。
事故に遭わず、生きている。
「良かった……」
蓮は、呟いた。
涙が、止まらない。
「良かった、ひなた……」
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その時、蓮の体が、透けて見えるようになった。
蓮は、自分の手を見た。
透明になっていく。
消えていく。
これが、代償だ。
蓮は、最後にもう一度、カフェの中のひなたを見た。
ひなたは、スマホを見ながら、笑顔でいた。
その笑顔を見て、蓮は安心した。
「ひなた……幸せになれよ」
蓮は、そう言った。
そして、蓮の体は、完全に透明になった。
蓮は、消えた。
存在が、消えた。
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世界は、続いていた。
ひなたは、カフェでコーヒーを飲んでいた。
スマホを見ながら、海外ボランティアの情報を調べている。
ひなたは、一人っ子だった。
兄も、姉も、いなかった。
両親と三人で、幸せに暮らしていた。
ひなたは、夢を追いかけていた。
海外に行き、誰かの役に立ちたい。
そのために、今日も一歩ずつ、前に進んでいた。
ひなたの人生には、後悔はなかった。
ただ、時々、不思議な感覚があった。
まるで、誰かが自分を見守ってくれているような。
誰かが、自分のことを応援してくれているような。
そんな気がした。
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深夜。
とあるバス停に、一台のバスが停まっていた。
深い青色のバス。曇った窓。
運転手は、顔の見えない影だった。
バスの中には、誰も乗っていなかった。
ただ、一つの席に、何かが残されていた。
それは、涙の痕だった。
運転手は、それを見つめた。
そして、静かに呟いた。
「また、一人……消えた」
運転手は、前を向いた。
バスは、再び動き出した。
次の後悔を持つ者を、探しに。
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そして、世界のどこかで。
深い後悔を抱えた者が、夜道を歩いていた。
その者の前に、古びたバス停が現れた。
標識には、手書きのような文字でこう書かれている。
『後悔行き』
バスの音が、聞こえてくる。
深い青色のバス。曇った窓。顔の見えない運転手。
扉が、開く。
その者は、迷いながらも、バスに乗り込んだ。
そして、バスは走り出す。
後悔の果てへと。




