第5章:失われる繋がり
蓮は、もはや人間らしい生活を送っていなかった。
食事は最低限。睡眠も浅く、悪夢ばかり見る。外出もほとんどせず、ただ部屋の中で時間が過ぎるのを待つだけ。
喜びを失った世界は、色を失った世界だった。
何を見ても、何を聞いても、心が動かない。楽しいという感覚がない。嬉しいという感覚もない。
ただ、後悔と罪悪感だけが、蓮の心を満たしていた。
それでも、蓮には一つだけ、生きる理由があった。
ひなたの真実を、全て知ること。
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ある日、蓮は再び実家を訪れた。
母が玄関で迎えてくれた。
「蓮、また来てくれたのね」
母は嬉しそうに笑った。しかし、すぐに表情が曇る。
「蓮……あなた、大丈夫?顔色が悪いわよ」
「大丈夫」
蓮は、無表情に答えた。
母は、心配そうに蓮の顔を見つめた。
「ちゃんと食べてる?寝てる?」
「食べてる。寝てる」
「嘘……」
母は、涙ぐんだ。
「蓮、あなた……ひなたのことで、まだ自分を責めてるの?」
蓮は、何も答えられなかった。
「ひなたは、あなたのせいで亡くなったんじゃないのよ。事故だったの。誰のせいでもない」
「……わかってる」
「わかってないわよ!」
母が、声を荒げた。
「あなた、ひなたが亡くなってから、ずっとおかしいのよ。仕事も辞めて、友達とも会わなくなって」
母は、蓮の手を握った。
「お願い、蓮。もう自分を責めないで。ひなたも、きっとそんなこと望んでない」
蓮は、母の手を見つめた。
温かい。
しかし、蓮の心は何も感じなかった。
「……ごめん」
蓮は、そう言って手を離した。
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蓮は、ひなたの部屋に入った。
もう何度も来ているこの部屋。ひなたの匂いは、もう消えかけている。
蓮は、机に座った。
引き出しから、あの手帳を取り出す。
何度も読んだページ。ひなたの想いが綴られたページ。
『お兄ちゃん、幸せになってね』
その言葉が、胸に突き刺さる。
蓮は、手帳を閉じた。
そして、机の上に置かれたノートパソコンに目をやった。
ひなたのパソコン。
蓮は、ふとそれを開いた。
電源を入れると、パスワードを求められた。
蓮は、試しに入力してみた。
ひなたの誕生日。
違う。
では、蓮の誕生日。
画面が開いた。
蓮は、デスクトップを見た。
いくつかのフォルダがある。「大学の課題」「写真」「ボランティア資料」。
蓮は、「ボランティア資料」を開いた。
そこには、海外のボランティアプログラムの情報が整理されていた。応募条件、必要な書類、費用の計算。
ひなたは、本気だったのだ。
ただの夢物語ではなく、具体的に計画を立てていた。
そして、もう一つ、ファイルがあった。
「お兄ちゃんへの手紙.txt」
蓮の手が、震えた。
クリックする。
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画面に、文章が表示された。
『お兄ちゃんへ
この手紙を書いているのは、お兄ちゃんに直接話す勇気が出なかった時のため。もしかしたら、これを読むことはないかもしれない。でも、ちゃんと言葉にしておきたくて。
お兄ちゃん、ありがとう。
私が小さい頃から、ずっと守ってくれて。困った時、いつも助けてくれて。お兄ちゃんがいたから、私は安心して生きてこられた。
でもね、最近思うの。
私、お兄ちゃんに守られてばかりじゃダメだって。
お兄ちゃんは優しすぎる。私のことばかり心配して、自分のことは後回しにしてる。それが、私は悲しい。
お兄ちゃんだって、幸せになる権利があるのに。
だから、私は決めた。
自分の力で、何かを成し遂げる。お兄ちゃんに頼らずに、自分の足で歩く。
海外に行って、ボランティアをする。誰かの役に立つ。それが、今の私の夢。
お兄ちゃんは、きっと反対する。危ないって、心配する。
でも、信じてほしい。
私は、もう大人。自分で考えて、自分で決められる。
だから、お兄ちゃんも、自分の人生を生きてほしい。
私のことばかり心配しないで。お兄ちゃん自身の幸せを、ちゃんと考えてほしい。
それが、私の願い。
お兄ちゃんが笑顔で生きている姿を見ること。それが、私にとって一番の幸せだから。
お兄ちゃん、大好き。
いつも、ありがとう。
ひなた』
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蓮は、画面を見つめたまま、動けなかった。
涙が、頬を伝う。
ひなたは、蓮の幸せを願っていた。
蓮が笑顔で生きることを、望んでいた。
しかし、今の蓮は、笑うことすらできない。
喜びを失い、感情を失い、ただ後悔の中で生きている。
「ひなた……」
蓮は、声を震わせた。
「俺は、お前の願いに、何一つ応えられてない」
お前は、俺の幸せを願っていたのに。
俺は、自分を壊している。
「ごめん」
蓮は、何度も呟いた。
「ごめん、ひなた」
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その夜、蓮は再びバス停に向かった。
体は限界に近かった。息が苦しく、足が重い。
しかし、蓮は歩き続けた。
もう少しだ。
あと少しで、全てがわかる。
ひなたが、あの日、なぜあの場所にいたのか。
メールを送った後、どこへ向かおうとしていたのか。
それを知れば、蓮の後悔は終わるのだろうか。
いや、終わらない。
それでも、蓮は知りたかった。
バス停に着くと、すぐにあのエンジン音が聞こえてきた。
深い青色のバス。曇った窓。そして、顔の見えない運転手。
扉が開く。
蓮は、最後の力を振り絞って乗り込んだ。
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バスの中は、いつもより暗かった。
座席に座ると、蓮の体が沈み込むような感覚があった。
運転手が、ゆっくりと振り返った。
相変わらず顔は見えない。しかし、その気配が、何かを語りかけているように感じた。
それは、警告だった。
『もう、限界だ』
蓮は、それを感じた。
次で、最後かもしれない。
次に代償を払えば、もう取り返しのつかないことになるかもしれない。
それでも、蓮は構わなかった。
バスが動き出す。
窓の外の景色が、また歪み始める。
蓮は、目を閉じた。
ひなた、もう少しだけ待っててくれ。
もう少しだけ。
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バスは、やがて止まった。
扉が開く。
蓮は外を見た。
そこは、見覚えのある場所だった。
蓮の勤めていた学校。
いや、正確には、蓮がまだ教師をしていた頃の学校。
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蓮は、バスを降りた。
校舎の前に立つ。放課後の時間帯のようで、生徒たちの声が聞こえる。
蓮は、校舎の中に入った。
廊下を歩いていると、教室から声が聞こえてきた。
蓮は、その教室の前で立ち止まった。
窓から中を覗くと、そこには過去の自分がいた。
生徒たちと話をしている。笑顔で。
蓮は、その光景を見つめた。
あの頃の自分は、まだ笑えていた。
喜びを感じることができた。
生徒たちと話すことが、楽しかった。
しかし、ひなたが亡くなってから、全てが変わった。
蓮は、笑えなくなった。
生徒たちと話すことも、苦痛になった。
そして、休職した。
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その時、廊下の向こうから、誰かが歩いてくる音が聞こえた。
蓮が振り返ると、ひなたがいた。
学校の制服を着て、笑顔で歩いてくる。
「お兄ちゃん!」
ひなたが、手を振った。
蓮の心臓が、跳ねた。
ひなたは、蓮のところまで来た。しかし、やはり蓮の存在には気づかない。
ひなたは、教室の中の蓮(過去の蓮)に向かって手を振った。
過去の蓮が、気づいて廊下に出てくる。
「ひなた?どうしたんだ、こんなところまで」
「えへへ、お兄ちゃんに会いたくて」
ひなたが、照れくさそうに笑った。
「お兄ちゃん、今日忙しい?」
「まあ、そこそこかな。どうした?」
「あのね、相談したいことがあるんだ」
ひなたが、真剣な顔で言った。
蓮(現在の蓮)は、その会話を聞いていた。
この日だ。
ひなたが、海外ボランティアのことを話そうとした日。
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「相談?何?」
過去の蓮が尋ねた。
「えっとね……」
ひなたが、言いかけた時、教室から生徒が出てきた。
「先生、質問があるんですけど」
過去の蓮が、振り返る。
「ああ、ちょっと待ってて」
過去の蓮は、ひなたに言った。
「ごめん、ひなた。ちょっと待っててくれるか?」
「う、うん……」
ひなたは、寂しそうに頷いた。
過去の蓮は、生徒と一緒に教室に戻っていった。
ひなたは、廊下で待っていた。
しかし、過去の蓮は、なかなか戻ってこなかった。
他の生徒が次々と質問に来て、過去の蓮は対応に追われていた。
ひなたは、時計を見た。
そして、スマホを取り出し、メッセージを打った。
『お兄ちゃん、忙しそうだから、また今度にするね。お疲れ様!』
ひなたは、そのメッセージを送信し、学校を後にした。
蓮(現在の蓮)は、ひなたの後ろ姿を見つめた。
ひなたは、話したかったのに。
蓮は、忙しくて気づかなかった。
「……ごめん」
蓮は、呟いた。
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景色が、また変わった。
今度は、駅前の交差点。
ひなたが事故に遭った、あの場所。
蓮は、その光景を見た。
ひなたが、横断歩道の前に立っている。
スマホを見つめている。
メールを打っている。
そして、蓮は気づいた。
ひなたが、どこへ向かおうとしていたのかを。
横断歩道の向こう側には、カフェがあった。
蓮とひなたが、よく一緒に行っていたカフェ。
ひなたは、そこへ向かおうとしていたのだ。
蓮に電話をして、カフェで話をしようとしていたのだ。
しかし、蓮は電話に出なかった。
ひなたは、メールを送った。
『お兄ちゃんへ。今日、ちゃんと話したいことがあるの。夜、電話してもいい?大事な話なんだ。聞いてくれると嬉しいな。ひなた』
そして、ひなたは横断歩道を渡り始めた。
その瞬間。
車が、突っ込んできた。
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蓮は、その光景を見ていた。
何度も見た光景。
しかし、今回は違う。
今回は、全てがわかった。
ひなたは、蓮に話したかった。
何度も、話そうとした。
しかし、蓮は忙しくて、話を聞かなかった。
そして、ひなたは事故に遭った。
全ては、蓮のせいだ。
「ひなた……」
蓮は、叫んだ。
「ごめん……ごめん……」
涙が、止まらない。
「俺のせいだ……全部、俺のせいだ……」
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景色が、揺らいだ。
蓮は、またバスの中に戻っていた。
座席に座り、顔を両手で覆う。
全身が震えていた。
運転手が、ゆっくりと振り返った。
相変わらず顔は見えない。しかし、その気配が、何かを語りかけているように感じた。
それは、問いかけだった。
『もう、わかっただろう』
蓮は、顔を上げた。
「……ああ」
蓮は答えた。
「わかった。全部、わかった」
ひなたは、蓮に話したかった。
海外に行くこと。自分の夢を見つけたこと。そして、蓮に幸せになってほしいということ。
しかし、蓮は聞かなかった。
そして、ひなたは亡くなった。
「全部……俺のせいだ」
蓮は、声を震わせた。
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バスは、元のバス停に戻った。
扉が開く。
蓮は、ふらふらと降りた。
そして、気づいた。
何かが、消えている。
蓮は、自分の記憶を探った。
高橋。
親友の高橋の記憶が、消えかけている。
いや、消えているというより、薄れている。
高橋の顔が、ぼやけている。声も、思い出せない。
そして、蓮は気づいた。
これは、記憶が消えているのではない。
繋がりが、消えているのだ。
高橋との繋がり。友情が、消えている。
蓮は、スマホを取り出した。
連絡先を見る。
高橋の名前がある。しかし、それを見ても、何も感じない。
まるで、知らない人の名前のように。
これが、五度目の代償。
人間関係。
誰かとの繋がりが、消えた。
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翌朝、蓮のスマホに着信があった。
画面を見ると、「高橋」という名前が表示されている。
蓮は、その名前を見つめた。
誰だ?
知り合いだろうか。
蓮は、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「……誰だ?」
電話の向こうから、困惑した声が聞こえてきた。
「は?蓮、お前何言ってんだ?」
「蓮?俺のことか?」
「当たり前だろ!お前、俺のこと忘れたのか?」
蓮は、黙り込んだ。
この声に、覚えがない。
この人は、誰だろう。
「すまない、人違いだったかもしれない」
蓮は、そう言って電話を切った。
画面を見る。
「高橋」という名前。
しかし、蓮の心には、何も響かなかった。
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蓮は、部屋の中で一人、座っていた。
味覚を失った。記憶の一部を失った。寿命を失った。喜びを失った。そして今、繋がりを失った。
自分は、一体何になってしまったのだろうか。
もはや、人間と呼べるのだろうか。
それでも、蓮は思った。
まだ、終わっていない、と。
運転手は、まだ何か隠している。
ひなたの真実には、まだ続きがある。
蓮は、それを確信していた。
もう一度、乗らなければならない。
最後に、全てを知るために。
たとえ、自分が完全に壊れてしまっても。




