第4章:真実の断片
蓮の体は、日に日に衰えていった。
五年分の寿命を失った代償は、想像以上に重かった。朝起きるだけで息が切れる。階段を上るだけで足が震える。まるで、老いが一気に押し寄せてきたかのように。
それでも、蓮は止まらなかった。
いや、止まれなかった。
ひなたの真実を知ることが、今の蓮にとって唯一の生きる理由だった。
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ある日、蓮は再び実家を訪れた。
両親は不在だった。仕事に出ているのだろう。
蓮は、鍵を開けて中に入った。久しぶりに帰ってきた実家は、懐かしいというより、痛々しく感じた。
ひなたの写真が、リビングに飾られている。笑顔のひなた。その笑顔を見るたび、蓮の胸は締め付けられる。
蓮は、ひなたの部屋に向かった。
机の引き出しを開け、あの手帳を取り出す。
前回は母に邪魔されて、最後まで読めなかった。今度こそ、ちゃんと読もう。
蓮は、手帳の最後のページを開いた。
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『お兄ちゃんへ』
いつもありがとう。
お兄ちゃんは、私が小さい頃からずっと守ってくれた。
私が困った時、いつも助けてくれた。
お兄ちゃんがいたから、私は安心して生きてこられた。
でもね、最近思うんだ。
私、お兄ちゃんに守られてばかりじゃダメだって。
お兄ちゃんは優しいけど、優しすぎるから。
私のことを心配しすぎて、自分のこと後回しにしてる。
それが、私は嫌なんだ。
だから、私は決めた。
自分の力で、何かを成し遂げたい。
お兄ちゃんに頼らずに、自分の足で歩きたい。
海外に行って、ボランティアをする。
誰かの役に立つ。
それが、今の私の夢。
お兄ちゃんは反対するかもしれない。
危ないって、心配するかもしれない。
でも、お願い。
信じてほしい。
私は、もう子供じゃない。
自分で考えて、自分で決められる。
だから、お兄ちゃんも、自分の人生を生きてほしい。
私のことばかり心配しないで、お兄ちゃん自身の幸せを考えてほしい。
それが、私の本当のお願い。
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蓮は、手帳を握りしめた。
涙が、止まらなかった。
ひなたは、蓮のことを心配していた。
蓮が、ひなたを心配しすぎていることを。
蓮が、自分のことを後回しにしていることを。
「……ひなた」
蓮は、声を震わせた。
「お前は、そんなことを考えてたのか」
ひなたは、自立したかった。
蓮に頼らず、自分の力で生きたかった。
そして、蓮にも、自分の人生を生きてほしかった。
「俺は……」
蓮は、顔を覆った。
「俺は、お前の想いに、全然気づいてなかった」
ひなたの優しさに、甘えていた。
ひなたが「大事な話」として伝えようとしていたのは、この想いだったのか。
しかし、蓮は聞かなかった。
「また今度」と言って、先延ばしにした。
そして、ひなたは事故に遭った。
「ごめん」
蓮は、何度も呟いた。
「ごめん、ひなた」
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その夜、蓮は再びバス停に向かった。
体は重く、足取りはおぼつかなかった。しかし、蓮は歩き続けた。
まだ、知りたいことがある。
ひなたが、あの日、なぜあの場所にいたのか。
事故に遭う直前、何をしていたのか。
蓮は、その答えを知るまで、決して諦めない。
バス停に着くと、すぐにあのエンジン音が聞こえてきた。
まるで、蓮を待っていたかのように。
深い青色のバス。曇った窓。そして、顔の見えない運転手。
扉が開く。
蓮は、迷わず乗り込んだ。
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バスの中は、いつもと同じだった。
しかし、何かが違う。
空気が、重い。
まるで、何か重大なことが起きる前兆のように。
蓮は、いつもの席に座った。
運転手は、黙ってハンドルを握っている。
バスが動き出す。
窓の外の景色が、また歪み始める。
今度は、どこへ連れて行かれるのだろうか。
蓮の心臓が、激しく鳴り始めた。
バスは、やがて止まった。
扉が開く。
蓮は外を見た。
そこは、駅前の交差点。
ひなたが事故に遭った、あの場所。
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蓮は、バスを降りた。
そこは、あの日だった。
三年前、ひなたが亡くなった日。
蓮は、交差点を見渡した。
そして、見つけた。
ひなたがいた。
スマホを見つめながら、横断歩道の前に立っている。
蓮は、走り寄ろうとした。しかし、やはり足が進まない。透明な壁に阻まれているかのように。
「ひなた!」
叫んだ。しかし、声は届かない。
ひなたは、スマホの画面を見つめている。
蓮は、必死にひなたに近づこうとした。
そして、ひなたのスマホの画面が見えた。
メールだった。
送信先は、「お兄ちゃん」。
蓮だ。
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ひなたは、メールを打っていた。
『お兄ちゃんへ
今日、ちゃんと話したいことがあるの。
夜、電話してもいい?
大事な話なんだ。
聞いてくれると嬉しいな。
ひなた』
ひなたは、送信ボタンを押した。
そして、スマホをポケットにしまい、横断歩道を渡り始めた。
その瞬間。
スピードを出した車が、突っ込んできた。
ブレーキ音。
鈍い衝撃音。
倒れるひなた。
「ひなた!!」
蓮は叫んだ。しかし、声は届かない。体も動かない。
ひなたは、血を流して倒れていた。
周囲の人々が駆け寄る。誰かが救急車を呼んでいる。
蓮は、ひなたに近づいた。
ひなたの目は、開いている。
まだ、意識がある。
ひなたは、何かを呟いていた。
蓮は、耳を近づけた。
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「……お兄ちゃん」
ひなたが、か細い声で呟いた。
「お兄ちゃん……ごめんね」
なぜ、謝るんだ。
悪いのは、蓮だ。
お前の話を聞かなかった蓮だ。
「私……お兄ちゃんに、ちゃんと……伝えたかった」
ひなたの目から、涙が流れた。
「お兄ちゃん……幸せに、なってね」
それが、ひなたの最後の言葉だった。
ひなたの目が、ゆっくりと閉じた。
「ひなた!!」
蓮は叫んだ。しかし、届かない。
蓮は、その場に膝をついた。
救急車が到着し、ひなたが運ばれていく。
しかし、蓮は知っている。
ひなたは、もう助からない。
あの日、ひなたは亡くなった。
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景色が、揺らいだ。
蓮は、またバスの中に戻っていた。
座席に座り、顔を両手で覆う。
全身が震えていた。
涙が止まらない。
「ひなた……」
蓮は、何度も呟いた。
「ごめん……ごめん……」
ひなたの最後の言葉が、蓮の心に突き刺さる。
『お兄ちゃん、幸せになってね』
ひなたは、最期の瞬間まで、蓮のことを考えていた。
自分が死にかけているのに、蓮の幸せを願っていた。
「俺は……」
蓮は、声を震わせた。
「俺は、お前の想いに、何一つ応えられなかった」
運転手が、ゆっくりと振り返った。
相変わらず顔は見えない。しかし、その気配が、何かを語りかけているように感じた。
それは、問いかけだった。
『まだ、乗り続けるのか』
蓮は、顔を上げた。
「……ああ」
蓮は答えた。
「まだ、知りたいことがある」
ひなたが、なぜあの場所にいたのか。
メールを送った後、どこへ向かおうとしていたのか。
蓮は、全てを知りたかった。
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バスは、元のバス停に戻った。
扉が開く。
蓮は、ふらふらと降りた。
そして、気づいた。
何かが、消えている。
蓮は、自分の心を探った。
喜び。
喜びの感情が、消えていた。
蓮は、試しに笑おうとした。しかし、笑えない。口角が上がらない。
何か嬉しいことを思い出そうとした。しかし、心が反応しない。
喜びという感情が、きれいに消えていた。
これが、四度目の代償。
感情の一部。
蓮は、その場に立ち尽くした。
味覚を失った。記憶の一部を失った。寿命を失った。そして今、喜びを失った。
自分は、一体何になっていくのだろうか。
それでも、蓮は思った。
構わない、と。
ひなたの真実を知るためなら、何を失っても構わない。
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翌朝、蓮は鏡の前に立った。
自分の顔を見る。
表情が、死んでいた。
笑えない。喜べない。楽しめない。
ただ、無表情な顔があるだけ。
蓮は、鏡から目を逸らした。
キッチンに向かい、コーヒーを淹れる。
味はしない。しかし、習慣だから飲む。
窓の外を見ると、晴れていた。
しかし、蓮の心は何も感じなかった。
晴れていようが、雨が降っていようが、どうでもいい。
全てが、灰色に見えた。
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その日、蓮のスマホに再び着信があった。
高橋だった。
蓮は、しばらく画面を見つめた後、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「蓮、久しぶり。元気?」
高橋の明るい声が聞こえてきた。
「……ああ」
「本当に?声、元気なさそうだけど」
「大丈夫」
蓮は、無感情に答えた。
「蓮、お前……本当に大丈夫か?」
高橋の声が、心配そうになった。
「大丈夫だって」
「嘘つくなよ。お前、最近おかしいぞ」
「……何がおかしいんだ」
「全部だよ。連絡も返さないし、会おうって言っても断るし。お前、ちゃんと飯食ってるのか?」
飯。
蓮は、自分のキッチンを見た。
冷蔵庫には、ほとんど何も入っていない。コンビニのおにぎりだけ。
「食ってる」
「嘘だろ。なあ、蓮。俺、本気で心配してるんだ。一回、会わせてくれよ」
蓮は、黙り込んだ。
高橋と会っても、何も楽しめない。笑えない。喜べない。
きっと、高橋は気づくだろう。蓮が、何かおかしいことに。
「……悪い、また今度にしてくれ」
「蓮!」
高橋が叫んだ。
「いい加減にしろよ!いつまで『また今度』なんだ!」
その言葉に、蓮は息を呑んだ。
「お前、ひなたちゃんに同じこと言ってたんだろ?『また今度』って。それで、結局話せずに終わったんだろ?」
高橋の声が、震えていた。
「同じこと、繰り返すのか?今度は俺に対して」
蓮は、何も答えられなかった。
「蓮、俺はお前の友達だ。だから、ちゃんと言うぞ。お前、このままじゃダメだ」
高橋は、深く息を吐いた。
「ひなたちゃんのこと、引きずるのはわかる。でも、お前、自分のこと壊してないか?」
蓮は、スマホを握りしめた。
壊れている。
自分でもわかっている。
でも、止められない。
「……ごめん」
蓮は、そう言って電話を切った。
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部屋の中に、沈黙が戻ってくる。
蓮は、ソファに座り込んだ。
高橋の言葉が、頭の中で繰り返される。
『お前、自分のこと壊してないか?』
壊れている。
味覚も、記憶も、寿命も、喜びも、全て失った。
このまま乗り続ければ、いずれ自分は何もかもを失ってしまうだろう。
それでも、蓮は思った。
構わない、と。
ひなたの想いを、全て知るまで。
蓮は、決して諦めない。
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その夜、蓮は再び夢を見た。
ひなたが、笑顔でこちらを見ている夢。
「お兄ちゃん、もうやめて」
ひなたが言う。
「やめて、お兄ちゃん。そんなに自分を壊さないで」
「でも、ひなた……」
「私のことなんて、もういいの」
ひなたは、悲しそうに笑った。
「私は、お兄ちゃんに幸せになってほしかった。それだけなのに」
「ひなた……」
「お願い、やめて」
ひなたは、涙を流した。
「これ以上、自分を壊さないで」
そう言って、ひなたは消えた。
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目が覚めると、朝だった。
蓮は、ベッドの上で天井を見つめた。
ひなたの声が、まだ耳に残っている。
『お願い、やめて』
しかし、蓮は止まらない。
止まれない。
もう後戻りはできない。
ここまで来たら、最後まで行くしかない。
蓮は、ベッドから起き上がった。
体は重く、心は空っぽだった。
それでも、蓮は歩き続ける。
夜が来れば、また、あのバスに乗る。
何を失っても、構わない。
ひなたの真実を知るまで




