第3章:二度目の乗車
一週間が過ぎた。
蓮は、味覚を失った生活に慣れ始めていた。いや、慣れたというより、諦めたと言った方が正しいかもしれない。
食事は、ただ生きるための作業になった。栄養を摂取するためだけの行為。何を食べても同じだから、蓮はコンビニのおにぎりとサラダだけで済ませるようになった。
料理をする意味がない。味わう楽しみがないのだから。
記憶の喪失については、未だに何を失ったのかわからなかった。ただ、時々、妙な違和感を覚える。何かを思い出そうとして、思い出せない。その「何か」が何だったのかも、わからない。
それでも、蓮は生きていた。
いや、生きているというより、ただ存在しているだけだった。
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ある日、蓮のスマホに着信があった。
画面を見ると、「高橋」という名前が表示されている。高校時代からの親友だ。
蓮は、しばらく画面を見つめた後、通話ボタンを押した。
「もしもし」
「蓮!久しぶり!元気してる?」
高橋の明るい声が聞こえてきた。
「……ああ、まあ」
「まあって、何だよそれ。最近全然連絡ないから心配してたんだぞ」
高橋は心配そうに言った。
「悪い、ちょっと色々あって」
「色々って……まさか、まだひなたちゃんのこと引きずってるのか?」
その言葉に、蓮は黙り込んだ。
高橋は、ため息をついた。
「蓮、もう三年経ってるんだぞ。いつまでもそうしてたら、ひなたちゃんも悲しむよ」
「……わかってる」
「わかってないだろ。なあ、今度飯でも行こうよ。久しぶりに話したいし」
飯。
蓮は、一瞬躊躇した。今の自分は、食事を楽しむことができない。高橋と一緒に食事をしても、何も感じられない。
「……ごめん、また今度にしてくれ」
「また今度って……蓮、お前」
「悪い、また連絡する」
蓮は、そう言って電話を切った。
部屋の中に、沈黙が戻ってくる。
蓮は、スマホを握りしめた。
また今度。
ひなたに言った、あの言葉。そして今、自分も同じことを繰り返している。
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その夜、蓮は再びバス停に向かった。
もう、これは習慣になりつつあった。深夜になると、自然と足がそこへ向かう。まるで、何かに呼ばれているかのように。
バス停には、相変わらず『後悔行き』の標識があった。
蓮は、ベンチに座った。
どれくらい待っただろうか。やがて、あのエンジン音が聞こえてきた。
深い青色のバス。曇った窓。そして、顔の見えない運転手。
扉が開く。
蓮は、何の迷いもなく乗り込んだ。
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バスの中は、いつもと同じだった。
古びた座席。静寂。そして、ただ一人の乗客。
蓮は、同じ席に座った。運転手は、黙ってハンドルを握っている。
バスが動き出す。
窓の外の景色が、また歪み始める。
今度は、どこへ連れて行かれるのだろうか。蓮は考えた。ひなたの「大事な話」に、少しでも近づけるだろうか。
バスは、やがて止まった。
扉が開く。
蓮は外を見た。そこは、見覚えのある場所だった。
駅前のカフェ。
蓮とひなたが、よく一緒に来ていた場所。
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蓮は、バスを降りた。
カフェの前に立つ。ガラス越しに、中の様子が見える。
そこには、ひなたがいた。
そして、もう一人。
若い男性が、ひなたの向かいに座っている。
蓮は、心臓が跳ねるのを感じた。
あの男性は誰だ?
蓮は、カフェの中に入った。しかし、やはり誰にも気づかれない。ひなたも、その男性も、蓮の存在に気づかない。
蓮は、二人のテーブルに近づいた。
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「ごめんね、急に呼び出して」
ひなたが、申し訳なさそうに言った。
「いや、全然大丈夫だよ。久しぶりに会えて嬉しいし」
男性が、優しく笑った。
蓮は、その男性の顔を見た。見覚えがある。確か、ひなたの大学の同級生だったはずだ。名前は……思い出せない。
「実は、相談があって」
ひなたが、真剣な顔で言った。
「相談?何?」
「……私、最近ずっと考えてたんだ。将来のこと」
ひなたは、コーヒーカップを両手で包み込んだ。
「将来?」
「うん。私、今まで何となく生きてきたけど、ちゃんと自分のやりたいことを見つけたいって思ってて」
ひなたの声は、少し震えていた。
「それで、色々調べてたんだ。海外のボランティアプログラムとか、NPOの活動とか」
蓮は、息を呑んだ。
海外?ひなたが?
「すごいじゃん。ひなたらしいよ」
男性が、励ますように言った。
「でもね、お兄ちゃんに話すのが怖くて」
ひなたが、俯いた。
「お兄ちゃん?」
「うん。お兄ちゃん、私のこと心配しすぎるから。海外に行くなんて言ったら、絶対反対すると思う」
ひなたは、寂しそうに笑った。
「だから、まずはちゃんと調べて、計画を立ててから話そうと思ってるんだ。お兄ちゃんを安心させられるように」
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蓮は、その場に立ち尽くしていた。
ひなたが、海外に行こうとしていた。
自分のやりたいことを見つけようとしていた。
そして、それを蓮に相談したかった。
しかし、蓮は忙しくて、話を聞かなかった。「また今度」と言って、先延ばしにした。
ひなたは、事故に遭った。
あの「大事な話」を、二度と話すことはなかった。
「ひなた……」
蓮は、声を出した。しかし、届かない。
ひなたは、男性と笑顔で話し続けている。
「応援してくれる?」
「もちろん!ひなたなら、きっと素敵なことができるよ」
「ありがとう。勇気が出た」
ひなたは、本当に嬉しそうに笑った。
その笑顔を、蓮は知っていた。
何かに挑戦しようとする時の、希望に満ちた笑顔。
しかし、その笑顔を見ることは、もう二度とない。
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景色が、揺らいだ。
蓮は、またバスの中に戻っていた。
座席に座り、顔を両手で覆う。
「……そうだったのか」
蓮は呟いた。
「ひなたは、夢を見つけてたんだな」
海外に行って、ボランティアをする。誰かの役に立つ。それが、ひなたのやりたいことだった。
そして、それを蓮に話そうとしていた。
しかし、蓮は聞かなかった。
「俺のせいだ」
蓮は、声を絞り出した。
「俺が、ちゃんと話を聞いていれば……」
運転手が、ゆっくりと振り返った。
相変わらず顔は見えない。しかし、何かを語りかけているような気配がある。
それは、慰めでも、責めでもなく。
ただ、静かな観察のようだった。
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バスは、元のバス停に戻った。
扉が開く。
蓮は、ふらふらと降りた。
そして、気づいた。
体が、重い。
まるで、何年分もの疲労が一気に押し寄せてきたかのように。
蓮は、その場に膝をついた。
「……何だ、これ」
息が苦しい。心臓が、激しく鳴っている。
そして、ようやく理解した。
これが、三度目の代償。
寿命。
五年分の寿命を、失った。
蓮の体は、一瞬で五年分老いた。細胞が、骨が、筋肉が、全てが五年分の時間を失った。
「……くそ」
蓮は、立ち上がろうとした。しかし、足に力が入らない。
しばらくの間、蓮はその場にうずくまっていた。
やがて、何とか立ち上がり、アパートへと歩き始めた。
一歩一歩が、重い。
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アパートに戻り、蓮は鏡を見た。
顔は、変わっていない。しかし、目の下にうっすらとクマができている。肌の張りも、少し失われた気がする。
五年。
自分の命の五年分を、失った。
蓮は、ベッドに倒れ込んだ。
体中が痛む。まるで、長距離を走った後のように。
それでも、蓮の心は、あのカフェでのひなたの笑顔を思い出していた。
ひなたは、夢を見つけていた。
そして、それを蓮に話したかった。
「ごめん、ひなた」
蓮は、天井を見つめながら呟いた。
「俺は、お前の話を聞かなかった」
涙が、頬を伝う。
「お前の夢を、知ろうともしなかった」
蓮は、腕で顔を覆った。
「俺は、最低の兄だ」
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その夜、蓮は再び夢を見た。
ひなたが、カフェで笑っている夢。
「お兄ちゃん、私ね、やりたいことが見つかったの」
ひなたが、嬉しそうに言う。
「そうか、良かったな」
蓮は答える。
「聞いてくれる?私の夢」
「ああ、聞かせてくれ」
しかし、ひなたの声は聞こえない。
ひなたの口が動いている。何かを話している。しかし、音が消えている。
「ひなた、聞こえない!」
蓮は叫ぶ。
ひなたは、悲しそうに笑った。
「もう遅いよ、お兄ちゃん」
そう言って、ひなたは消えた。
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目が覚めると、朝だった。
蓮は、ベッドの上で動けなかった。
体が重すぎる。起き上がる気力もない。
それでも、蓮の心は決まっていた。
また、乗る。
何度でも、あのバスに乗る。
味覚を失った。記憶を失った。寿命を失った。
それでも、まだ足りない。
ひなたの「大事な話」の全てを知るまで。
あの日、何があったのかを知るまで。
蓮は、決して諦めない。
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数日後、蓮は再び外出した。
体は相変わらず重かったが、無理やり動かした。
向かったのは、実家だった。
両親は驚いた顔で蓮を迎えた。
「蓮、どうしたの?急に」
母が、心配そうに尋ねた。
「ちょっと、ひなたの部屋を見せてほしくて」
蓮は言った。
両親は、顔を見合わせた。
「……いいけど、大丈夫?」
父が、優しく尋ねた。
「大丈夫」
蓮は、無理に笑顔を作った。
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ひなたの部屋は、あの日のまま保存されていた。
本棚、机、ベッド。全てがそのまま。
蓮は、机の引き出しを開けた。
そこには、ノート、ペン、そして手帳があった。
あの手帳だ。
バスで見た、ひなたが何かを書いていた手帳。
蓮は、手帳を手に取った。
ページをめくる。
そこには、ひなたの文字で、こう書かれていた。
『海外ボランティアプログラム調べ』
『必要な準備:語学、資金、ビザ』
『お兄ちゃんに話すタイミング』
『説得できるように、しっかり計画を立てる』
そして、最後のページには。
『お兄ちゃんへ』
その下に、文章が続いていた。
しかし、蓮がそれを読もうとした瞬間、母が部屋に入ってきた。
「蓮、お茶入れたわよ」
蓮は、慌てて手帳を閉じた。
「……ありがとう」
蓮は、手帳を引き出しに戻し、部屋を出た。
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その夜、蓮は考えていた。
手帳の最後のページ。
『お兄ちゃんへ』
そこに、何が書かれていたのだろうか。
ひなたは、蓮に何を伝えようとしていたのだろうか。
蓮は、スマホを取り出し、カレンダーを見た。
あの日まで、あと少し。
次にバスに乗れば、もっと真実に近づけるかもしれない。
代償は、さらに重くなるだろう。
それでも、蓮は構わなかった。
ひなたの想いを知るためなら、何を失っても構わない。
蓮は、窓の外を見た。
夜が、深くなっていく。
もうすぐ、あのバスが来る時間だ。




