第6章:失われる絆
## 1
美咲は、もう笑えなかった。
昇進の祝賀会でも、美咲は無表情だった。同僚たちが笑顔で祝福してくれても、美咲は「ありがとう」と言うだけ。笑顔が、作れない。
「川瀬部長……本当に、大丈夫ですか?」
部下が心配そうに声をかけてくる。
「ええ、大丈夫よ」
美咲は、機械的に答えた。
でも——心の中は、空っぽだった。
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美咲の周りから、人が離れ始めていた。
感情のない美咲と話しても、楽しくない。笑顔のない美咲と一緒にいても、心が通じない。
同僚たちは、少しずつ美咲を避けるようになった。
昼食に誘われることも、減った。
会話をしても、表面的なことだけ。
美咲は、孤立していった。
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でも——美咲は、何も感じなかった。
寂しいとも、悲しいとも思わなかった。
ただ、母のことを知りたい。
それだけが、美咲を動かしていた。
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## 2
ある夜、美咲の元恋人から電話がかかってきた。
「美咲、久しぶり。元気?」
懐かしい声。でも、美咲は何も感じなかった。
「ええ、元気よ」
「そう……よかった。あのさ、最近の美咲、変わったって聞いたんだけど」
「変わった?」
「うん……なんか、元気がないって。大丈夫?」
美咲は、少し黙った。
「大丈夫よ。心配しないで」
「……そっか。じゃあ、また今度ご飯でも行こうよ」
「ええ、また今度」
電話が、切れた。
---
美咲は、スマートフォンを置いた。
元恋人——彼の顔が、ぼんやりとしか思い出せない。
いつ別れたんだっけ? なぜ別れたんだっけ?
記憶が、曖昧だった。
でも——どうでもよかった。
美咲は、もう誰にも興味がなかった。
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## 3
その夜、零時。
美咲は、窓の外を見た。
あのバスが、そこにあった。
美咲は、迷わずバスに乗り込んだ。
運転席の影が、静かに言った。
『五度目の旅です』
「ええ……お願い」
美咲の声は、感情がなかった。
『あなたは、もうほとんど全てを失いました』
「分かってるわ」
『それでも——』
「お母さんのこと、全部知りたい」
影は、しばらく沈黙した。
そして——
『分かりました。では、最後の真実を、お見せしましょう』
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## 4
バスが動き出した。
窓の外の景色が流れていく。
今度は——どこへ行くのだろう。
美咲は、何も感じずに、ただ座っていた。
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バスが停まったのは——病院だった。
母が最期を迎えた、あの病院。
でも、今度は違う時間。
母が亡くなる、数日前。
美咲は、バスを降りた。
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## 5
病室に、母がいた。
ベッドに横たわり、点滴を受けている。
母の顔は、痩せていて、疲れていた。
でも——母は、スマートフォンを手に、何かを見ている。
美咲のSNSだった。
美咲が投稿した、仕事の写真。
母は、それを見つめながら、小さく笑った。
「美咲……頑張ってるのね」
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そのとき、看護師が入ってきた。
「川瀬さん、お加減はいかがですか?」
「ええ……ありがとうございます」
母は、笑顔を作った。
看護師は、母の点滴を確認した。
「娘さん、来てくれるといいですね」
「ええ……でも、忙しいみたいで」
母は、寂しそうに微笑んだ。
「仕方ないわ。美咲は、大事な仕事をしてるから」
「でも……お母さん、寂しいでしょう?」
看護師の言葉に、母は少し黙った。
そして——
「寂しいわ。でも……美咲が幸せなら、それでいいの」
---
美咲は、その会話を聞いて——何も感じなかった。
感情が、ない。
ただ、見ているだけ。
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## 6
場面が変わった。
夜の病室。
母は、一人で横になっている。
母の手には、あの未完の手紙。
母は、それを読み返していた。
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『でも、どうしても伝えたいことがあるの。大事な話——それは、あなたの幸せのこと。
美咲、あなたは仕事をとても頑張っています。それは、お母さんの誇りです。でもね、お母さんが一番願っているのは、あなたが本当に幸せになることなの。
仕事だけが、人生じゃない。
もっと、自分を大切にしてほしい。もっと、笑ってほしい。もっと、誰かと一緒にいる時間を大切にしてほしい。
それから——これは、お母さんからのお願いなんだけど。
美咲、定期検診を受けてね。
実はね、お母さんの病気——遺伝する可能性があるの。お医者さんに言われたの。「娘さんも、定期的に検査を受けた方がいい」って。
だから、美咲。お願い。ちゃんと、検診を受けて。早めに見つかれば、治療もできるから。
お母さんは……もう、手遅れだった。でも、美咲には同じ思いをしてほしくない。』
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母は、そこまで読んで、ペンを取った。
そして——続きを書いた。
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『美咲、お母さんは完璧な母じゃなかった。
あなたに「強くなりなさい」ばかり言って、本当はもっと甘えてほしかったのに。
あなたと一緒にいる時間を、もっと大切にすればよかった。
「忙しい」「後でね」——そんな言葉ばかり言って、ごめんね。
でもね、美咲。
お母さんは、あなたを愛してる。
あなたが生まれてきてくれて、本当に嬉しかった。
あなたがいてくれたから、お母さんは頑張れた。
ありがとう。
そして——最期に、これだけは伝えたい。
美咲、幸せになって。
仕事じゃなくて、あなた自身の幸せを見つけて。
誰かと笑い合える、そんな日々を過ごして。
それが、お母さんの一番の願いです。
愛してるわ、美咲。
ずっと、ずっと、愛してる。
お母さんより』
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母は、手紙を書き終えた。
そして——涙を流した。
「美咲……会いたいな」
母は、小さく呟いた。
「お母さん、美咲に会いたい。この手紙を、渡したい」
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## 7
美咲は、その手紙を見て——
何も感じなかった。
感情が、ない。
母の想いが、全て書かれている。
母の愛が、そこにある。
でも——美咲は、何も感じなかった。
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場面が、また変わった。
母の最期の日。
美咲が病院に到着する、数時間前。
母は、意識が朦朧としている。
看護師が、そばにいた。
「川瀬さん……娘さん、もうすぐ来てくれますよ」
母は、か細い声で答えた。
「みさき……」
「ええ、美咲さん。もうすぐです」
「てがみ……わたしたい……」
「大丈夫。渡せますよ」
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でも——母の容態が、急変した。
モニターの音が、速くなる。
看護師が、慌てて医師を呼ぶ。
母は、苦しそうに息をしている。
「みさき……」
母は、最期まで美咲の名を呼んでいた。
「あいしてる……」
そして——
モニターの音が、止まった。
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美咲は、その光景を見て——
何も感じなかった。
涙も、出ない。
悲しみも、ない。
ただ、空虚。
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## 8
気づけば、美咲はバスの中に戻っていた。
座席に座り、美咲は窓の外を見つめた。
影が、静かに言った。
『全てを、見ましたね』
「ええ」
美咲は、淡々と答えた。
『お母様の想い、全て知りました』
「そうね」
『それでも——あなたは、何も感じませんか?』
「感じないわ。だって、もう感情がないもの」
影は、深くため息をついた。
『あなたは、もう人間ではありません』
「分かってるわ」
『それでも——次に乗りますか?』
美咲は、少し黙った。
そして——
「乗るわ」
『……分かりました。では、今回の代償は——人間関係です』
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## 9
美咲は、息を呑んだ。
「人間関係……?」
『そうです。あなたの周りから、人が消えます』
「消える……?」
『ええ。あなたと繋がっていた人たち——恋人、友人、同僚——彼らは、あなたとの記憶を失います』
美咲は、戸惑った。
「記憶を……失う?」
『そうです。彼らは、あなたのことを忘れます。あなたは、完全に孤独になります』
美咲は、しばらく黙っていた。
孤独——それは、恐ろしいことだ。
でも、美咲は何も感じなかった。
「構わないわ」
美咲は答えた。
「どうせ、もう誰も私のことを理解してない。孤独も、何も変わらない」
『……本当に、それでいいのですか?』
「ええ」
影は、何も言わなかった。
ただ、手を振った。
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## 10
美咲の体に、奇妙な感覚が走った。
胸の奥が、空っぽになる。
何かが、引き剥がされていく。
そして——
美咲は、何も感じなくなった。
「これが……」
『人間関係の喪失です』
影は言った。
『あなたは、もう誰とも繋がっていません』
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## 11
バスが停まり、美咲は現実の世界に戻った。
マンションの前。
美咲は、部屋に戻った。
スマートフォンを取り出し、連絡先を確認した。
そこには——誰もいなかった。
連絡先が、全て消えている。
「消えた……」
美咲は、呟いた。
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翌朝、美咲は出社した。
でも——誰も、美咲を知らなかった。
「あの……すみません、どちら様ですか?」
受付の人が、美咲に尋ねた。
「私、川瀬美咲です。営業部長の——」
「川瀬……? そのような方は、当社にはいらっしゃいませんが」
美咲は、愕然とした。
「え……でも、私はここで働いて——」
「申し訳ございません。何かの間違いではないでしょうか?」
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美咲は、オフィスを出た。
周りを見渡すが——誰も、美咲を知らない。
同僚も、部下も、誰も。
美咲は、完全に「消えた」。
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美咲は、街を歩いた。
元恋人の家に行ってみた。
インターホンを押すと、彼が出てきた。
「はい、どちら様ですか?」
彼は、美咲を見ても——何も思い出さなかった。
「私……」
美咲は、言葉に詰まった。
「私、美咲です。覚えてない……?」
「美咲……? すみません、心当たりがないんですが」
彼は、困惑した顔をした。
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美咲は、その場から去った。
誰も、美咲を知らない。
誰も、美咲を覚えていない。
美咲は、完全に孤独だった。
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## 12
夜、美咲は自分の部屋で一人、座っていた。
味覚がなく、記憶が曖昧で、体は老い、感情はなく、誰とも繋がっていない。
美咲は、もう「人間」ではなかった。
ただの、空っぽの存在。
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でも——美咲は、後悔していなかった。
いや、「後悔」という感情すら、もうなかった。
ただ、母のことを知った。
母の想いを、全て知った。
それで——いいのだろうか?
美咲は、分からなかった。
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そのとき、窓の外を見ると——
あのバスが、そこにあった。
美咲は、立ち上がった。
次が、最後だ。
次に乗れば——全てが終わる。
美咲は、バスに向かって歩き出した。
何も感じずに、ただ歩いた。




