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後悔バス  作者: 月城 リョウ
後悔バス -最期の言葉-

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12/16

第4章:隠された真実

## 1


 美咲の日常は、少しずつ壊れ始めていた。


 味覚がないことには、もう慣れた。食事は「栄養を摂るための作業」になった。高級レストランでの接待も、コンビニ弁当も、美咲にとっては同じだった。


 でも——記憶が消えることには、慣れなかった。


 出社すると、同僚の顔が分からない。名前を呼ばれても、一瞬誰なのか分からない。会話の内容も、時々思い出せない。


「川瀬部長、先週の件、どうなりましたか?」


 部下に聞かれても、美咲は戸惑った。


 先週? 何の件だっけ?


「ああ……ええと」


 美咲は、必死に記憶を探る。でも、出てこない。


「すみません、もう一度確認させてください」


 美咲は愛想笑いでごまかした。


 部下は不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。


---


 美咲は、自分が壊れていくのを感じていた。


 記憶の欠落。味覚の喪失。


 これが、代償。


 でも——美咲は、まだ止められなかった。


 母のことを知りたい。


 その想いが、全てを上回っていた。


---


## 2


 ある夜、美咲は母の遺品を整理していた。


 段ボールの中から、古いアルバムが出てきた。


 美咲は、それをめくった。


 幼い頃の写真。母と、美咲。笑顔で写っている。


 でも——美咲は、その写真の記憶が曖昧だった。


 この写真、いつ撮ったんだっけ?


 どこで撮ったんだっけ?


 分からない。


 美咲は、アルバムを閉じた。胸が苦しくなった。


 記憶が、消えていく。


 母との思い出さえ、少しずつ消えていく。


「お母さん……」


 美咲は、小さく呟いた。


 そのとき——時計が、零時を指した。


 美咲は、窓の外を見た。


 そこに——あのバスが、待っていた。


---


## 3


 美咲は迷わず、バスに乗り込んだ。


 運転席には、いつもの影。


「また……来たわ」


『お待ちしていました』


 影は静かに答えた。


『三度目の旅です。覚悟は、できていますか?』


「ええ」


 美咲は頷いた。


「お母さんのこと、もっと知りたい。お母さんが、何を伝えたかったのか……知りたいの」


『分かりました。では——』


 影がハンドルを握ると、バスが動き出した。


 窓の外の景色が流れていく。時間が、逆行していく。


 美咲は、座席に座り、じっと窓の外を見つめた。


 今度は、何を見せてくれるのだろう。


---


## 4


 バスが停まったのは——病院だった。


 また、あの病院。


 でも、今度は違う。時間が違う。


 美咲はバスを降り、病院の中に入った。


 エントランスのカレンダーを見ると——日付が表示されている。


 母が亡くなる、三ヶ月前。


 美咲は息を呑んだ。


 この日は——母が、病気を告知された日だ。


---


## 5


 診察室の前に、母がいた。


 まだ元気そうな母。でも、その表情は硬く、緊張している。


 診察室のドアが開き、医師が出てきた。


「川瀬さん、こちらへどうぞ」


 母は、ゆっくりと診察室に入った。


 美咲も、その後に続いた。


---


 診察室の中。


 医師は、レントゲン写真を見せながら、静かに説明を始めた。


「川瀬さん……残念ながら、検査の結果、肺に腫瘍が見つかりました」


 母の顔が、こわばった。


「腫瘍……?」


「はい。悪性の腫瘍です。つまり——がんです」


 医師の言葉が、診察室に重く響いた。


 母は、何も言えなかった。ただ、レントゲン写真を見つめている。


「ステージは……三です。進行は早いですが、まだ治療の余地はあります」


「治療……」


「抗がん剤治療、放射線治療、そして手術。いくつかの選択肢があります。ただし——」


 医師は、少し言葉を濁した。


「完治は……難しいかもしれません。延命治療になる可能性が高いです」


 母は、深く息を吸った。


「どれくらい……生きられますか?」


「治療次第ですが……半年から一年、といったところでしょうか」


---


 美咲は、その会話を聞きながら、涙が溢れそうになった。


 母は——この時、自分の余命を知ったんだ。


 あと半年か一年しか、生きられない。


 それを、一人で受け止めたんだ。


---


## 6


 診察が終わり、母は病院を出た。


 美咲は、その後ろをついていく。


 母は、病院の外のベンチに座り込んだ。


 そして——静かに、涙を流した。


「嘘……でしょ」


 母は、小さく呟いた。


「私、まだ……美咲に、何もしてあげてない」


 母は、顔を覆った。


「美咲は、まだ一人なのに。結婚もしてない。子供もいない。私がいなくなったら、美咲はどうするの……?」


 母は、自分のことよりも、娘のことを心配していた。


「美咲……ごめんね。お母さん、もっと一緒にいたかった」


---


 美咲は、母のそばに立ち尽くしていた。


 声をかけたい。抱きしめたい。


 でも——できない。


 ただ、見ているしかない。


---


## 7


 場面が変わった。


 母の自宅。夜のリビング。


 母は、テーブルに座り、便箋に何かを書いていた。


 美咲に宛てた、あの手紙。


 母は、何度も書いては消し、書いては消しを繰り返している。


「何て、書けばいいの……」


 母は、ペンを置いた。


「美咲に、何を伝えればいいの……?」


 母は、深く悩んでいた。


 病気のこと、伝えるべきか。


 でも、美咲は仕事が忙しい。心配をかけたくない。


 それとも——もっと別のことを伝えるべきか。


 母は、便箋を見つめた。


---


『美咲へ


 元気にしていますか。仕事、忙しいでしょうね。無理しないでね。


 突然こんな手紙を書いて、驚かせてしまうかもしれません。でも、どうしても伝えたいことがあって、この手紙を書くことにしました。』


---


 そこまで書いて、母は手を止めた。


「この先……何を書けばいいの」


 母は、涙を拭いた。


「美咲には、幸せになってほしい。仕事だけじゃなくて、本当の幸せを見つけてほしい」


 母は、ペンを取り、また書き始めた。


---


『美咲、あなたは本当に頑張り屋さんです。小さい頃から、何でも一人でできる子でした。お母さんが手を貸そうとしても、「自分でやる」って言って、一生懸命頑張っていましたね。


 その姿を見ていると、誇らしくて、でも少し寂しくもありました。もっと甘えてくれてもいいのに、もっと頼ってくれてもいいのにって。』


---


 母は、また手を止めた。


「でも……これじゃ、伝わらない」


 母は、便箋を見つめた。


「本当に伝えたいことは……もっと、別のこと」


---


## 8


 場面が、また変わった。


 数週間後。母の自宅。


 母は、スマートフォンを手に、美咲に電話をかけていた。


 呼び出し音が鳴る。でも、美咲は出ない。


 留守番電話に切り替わる。


『美咲です。ただいま電話に出られません——』


 母は、電話を切った。


「美咲……忙しいのね」


 母は、寂しそうに微笑んだ。


 そして、もう一度、手紙を書き始めた。


---


『でも、それはお母さんのせいかもしれません。


 私はいつも「しっかりしなさい」って言っていました。「強くなりなさい」「泣かないで」「頑張りなさい」——そんな言葉ばかり。


 お父さんが亡くなってから、私は必死でした。あなたを一人で育てなきゃいけない。弱音を吐いている場合じゃない。だから、私も「強い母」を演じていたのかもしれません。


 でもね、美咲。


 本当はもっと、あなたに甘えてほしかった。もっと、一緒に笑いたかった。もっと、たくさん話をしたかった。』


---


 母は、涙を拭きながら、書き続けた。


---


『「お母さん、これ見て」「お母さん、聞いて」——そんな言葉を、もっとたくさん聞きたかったの。


 でも、私はあなたに「忙しい」「後でね」ばかり言っていました。それなのに、今になって私が「会いたい」「話したい」なんて、身勝手ですよね。


 ごめんなさい。


 でも、どうしても伝えたいことがあるの。大事な話——』


---


 そこで、母は手を止めた。


「この先……どう書けばいいの」


 母は、ペンを握りしめた。


「美咲に、伝えたいことは……」


---


 そのとき、母のスマートフォンが鳴った。


 母は、急いで電話に出た。


「もしもし?」


 電話の向こうから、医師の声。


「川瀬さん、検査結果が出ました。少し……お話ししたいことがあります。明日、病院に来ていただけますか?」


 母の表情が、曇った。


「分かりました……」


 電話を切り、母は深くため息をついた。


「もう……時間がないのね」


---


## 9


 美咲は、その光景を見て、胸が張り裂けそうになった。


 母は、ずっと一人で抱え込んでいた。


 病気のこと。余命のこと。美咲への想い。


 全部、一人で。


「お母さん……」


 美咲は、涙を流した。


「どうして……どうして、私に言ってくれなかったの?」


 でも——美咲は気づいていた。


 母が言えなかったのは、美咲が「忙しい」と言い続けたから。


 母が一人で抱え込んだのは、美咲が母を後回しにしたから。


 全ては、美咲のせいだった。


---


 気づけば、美咲はバスの中に戻っていた。


 座席に座り、美咲は顔を覆った。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 涙が止まらない。


 影が、静かに言った。


『あなたのお母様は、最期まで娘を想っていました』


「分かってる……分かってるわ」


 美咲は泣きながら答えた。


「お母さんは、私に幸せになってほしかったんだ。仕事だけじゃなくて、本当の幸せを……」


『ええ』


---


## 10


 しばらくして、美咲は涙を拭いた。


「次も……乗せてもらえる?」


『ええ。でも——』


「代償……何を失うの?」


 影は、少し沈黙した。


 そして——


『今回の代償は——寿命』


 美咲は、息を呑んだ。


「寿命……?」


『そうです。あなたの寿命が、五年縮まります』


「五年……」


 美咲は、戸惑った。


 五年——それは、決して短くない時間。


『あなたの身体は、五年分老います。白髪が増え、皺が深くなり、体力が衰える。それでも、構いませんか?』


 美咲は、しばらく黙っていた。


 寿命が縮まる——それは、今までの代償とは比べ物にならない。


 でも。


「構わないわ」


 美咲は答えた。


「お母さんのこと、全部知りたい。お母さんが最期に何を伝えたかったのか……知りたいの」


『……あなたは、本当にそれでいいのですか?』


「ええ」


 美咲は、きっぱりと言った。


 影は、深くため息をついた——ような気がした。


『分かりました』


---


## 11


 影が手を振ると、美咲の体に奇妙な感覚が走った。


 体が、重くなる。


 肌が、引っ張られるような感覚。


 髪が、ざわざわと動く。


 そして——


 美咲は、自分の手を見た。


 手の甲に、薄い皺が浮かび上がっている。


「これ……」


『五年分、老いました』


 影は言った。


『あなたは今、四十歳の身体です』


 美咲は、バスの窓に映る自分の顔を見た。


 目の下に、クマ。


 髪に、白髪が混じっている。


 口元に、薄い皺。


「これが……代償」


『そうです。次に乗れば、また寿命が縮まります。それでも——』


「乗るわ」


 美咲は、即答した。


「何を失っても、お母さんのことを知りたい」


---


## 12


 バスが停まり、美咲は現実の世界に戻った。


 マンションの前。


 美咲は、急いで部屋に戻り、鏡を見た。


 そこに映る自分の顔——老けていた。


 白髪。皺。疲れた表情。


「これが……私?」


 美咲は、鏡に映る自分を見つめた。


 三十五歳のはずなのに、四十歳に見える。


 いや、もっと老けて見えるかもしれない。


 美咲は、ため息をついた。


「でも……構わない」


 美咲は、ベッドに横になった。


 体が重い。疲れやすくなった。


 これが、五年分の老化。


 でも——美咲は、後悔していなかった。


 母のことを、もっと知りたい。


 母が何を伝えたかったのか、知りたい。


 そのためなら、何を失っても構わない。


 美咲は、そう自分に言い聞かせた。


---


 翌朝、美咲は出社した。


 同僚たちが、美咲を見て驚いた顔をした。


「川瀬部長……大丈夫ですか? なんだか、お疲れのようですが」


「ああ……ちょっと、寝不足で」


 美咲は、愛想笑いでごまかした。


 でも、鏡を見るたびに、自分の老いた顔が目に入る。


 白髪。皺。


 これが、代償。


 美咲は、それを受け入れるしかなかった。


---


 そして——夜が来る。


 また、零時が訪れる。


 バスが、また来る。


 美咲は、それを待ちわびていた。


 次は、何を見せてくれるのだろう。


 次は、どんな代償を払うのだろう。


 美咲の心は、もう引き返せないところまで来ていた。

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