第4章:隠された真実
## 1
美咲の日常は、少しずつ壊れ始めていた。
味覚がないことには、もう慣れた。食事は「栄養を摂るための作業」になった。高級レストランでの接待も、コンビニ弁当も、美咲にとっては同じだった。
でも——記憶が消えることには、慣れなかった。
出社すると、同僚の顔が分からない。名前を呼ばれても、一瞬誰なのか分からない。会話の内容も、時々思い出せない。
「川瀬部長、先週の件、どうなりましたか?」
部下に聞かれても、美咲は戸惑った。
先週? 何の件だっけ?
「ああ……ええと」
美咲は、必死に記憶を探る。でも、出てこない。
「すみません、もう一度確認させてください」
美咲は愛想笑いでごまかした。
部下は不思議そうな顔をしたが、何も言わなかった。
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美咲は、自分が壊れていくのを感じていた。
記憶の欠落。味覚の喪失。
これが、代償。
でも——美咲は、まだ止められなかった。
母のことを知りたい。
その想いが、全てを上回っていた。
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## 2
ある夜、美咲は母の遺品を整理していた。
段ボールの中から、古いアルバムが出てきた。
美咲は、それをめくった。
幼い頃の写真。母と、美咲。笑顔で写っている。
でも——美咲は、その写真の記憶が曖昧だった。
この写真、いつ撮ったんだっけ?
どこで撮ったんだっけ?
分からない。
美咲は、アルバムを閉じた。胸が苦しくなった。
記憶が、消えていく。
母との思い出さえ、少しずつ消えていく。
「お母さん……」
美咲は、小さく呟いた。
そのとき——時計が、零時を指した。
美咲は、窓の外を見た。
そこに——あのバスが、待っていた。
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## 3
美咲は迷わず、バスに乗り込んだ。
運転席には、いつもの影。
「また……来たわ」
『お待ちしていました』
影は静かに答えた。
『三度目の旅です。覚悟は、できていますか?』
「ええ」
美咲は頷いた。
「お母さんのこと、もっと知りたい。お母さんが、何を伝えたかったのか……知りたいの」
『分かりました。では——』
影がハンドルを握ると、バスが動き出した。
窓の外の景色が流れていく。時間が、逆行していく。
美咲は、座席に座り、じっと窓の外を見つめた。
今度は、何を見せてくれるのだろう。
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## 4
バスが停まったのは——病院だった。
また、あの病院。
でも、今度は違う。時間が違う。
美咲はバスを降り、病院の中に入った。
エントランスのカレンダーを見ると——日付が表示されている。
母が亡くなる、三ヶ月前。
美咲は息を呑んだ。
この日は——母が、病気を告知された日だ。
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## 5
診察室の前に、母がいた。
まだ元気そうな母。でも、その表情は硬く、緊張している。
診察室のドアが開き、医師が出てきた。
「川瀬さん、こちらへどうぞ」
母は、ゆっくりと診察室に入った。
美咲も、その後に続いた。
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診察室の中。
医師は、レントゲン写真を見せながら、静かに説明を始めた。
「川瀬さん……残念ながら、検査の結果、肺に腫瘍が見つかりました」
母の顔が、こわばった。
「腫瘍……?」
「はい。悪性の腫瘍です。つまり——がんです」
医師の言葉が、診察室に重く響いた。
母は、何も言えなかった。ただ、レントゲン写真を見つめている。
「ステージは……三です。進行は早いですが、まだ治療の余地はあります」
「治療……」
「抗がん剤治療、放射線治療、そして手術。いくつかの選択肢があります。ただし——」
医師は、少し言葉を濁した。
「完治は……難しいかもしれません。延命治療になる可能性が高いです」
母は、深く息を吸った。
「どれくらい……生きられますか?」
「治療次第ですが……半年から一年、といったところでしょうか」
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美咲は、その会話を聞きながら、涙が溢れそうになった。
母は——この時、自分の余命を知ったんだ。
あと半年か一年しか、生きられない。
それを、一人で受け止めたんだ。
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## 6
診察が終わり、母は病院を出た。
美咲は、その後ろをついていく。
母は、病院の外のベンチに座り込んだ。
そして——静かに、涙を流した。
「嘘……でしょ」
母は、小さく呟いた。
「私、まだ……美咲に、何もしてあげてない」
母は、顔を覆った。
「美咲は、まだ一人なのに。結婚もしてない。子供もいない。私がいなくなったら、美咲はどうするの……?」
母は、自分のことよりも、娘のことを心配していた。
「美咲……ごめんね。お母さん、もっと一緒にいたかった」
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美咲は、母のそばに立ち尽くしていた。
声をかけたい。抱きしめたい。
でも——できない。
ただ、見ているしかない。
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## 7
場面が変わった。
母の自宅。夜のリビング。
母は、テーブルに座り、便箋に何かを書いていた。
美咲に宛てた、あの手紙。
母は、何度も書いては消し、書いては消しを繰り返している。
「何て、書けばいいの……」
母は、ペンを置いた。
「美咲に、何を伝えればいいの……?」
母は、深く悩んでいた。
病気のこと、伝えるべきか。
でも、美咲は仕事が忙しい。心配をかけたくない。
それとも——もっと別のことを伝えるべきか。
母は、便箋を見つめた。
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『美咲へ
元気にしていますか。仕事、忙しいでしょうね。無理しないでね。
突然こんな手紙を書いて、驚かせてしまうかもしれません。でも、どうしても伝えたいことがあって、この手紙を書くことにしました。』
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そこまで書いて、母は手を止めた。
「この先……何を書けばいいの」
母は、涙を拭いた。
「美咲には、幸せになってほしい。仕事だけじゃなくて、本当の幸せを見つけてほしい」
母は、ペンを取り、また書き始めた。
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『美咲、あなたは本当に頑張り屋さんです。小さい頃から、何でも一人でできる子でした。お母さんが手を貸そうとしても、「自分でやる」って言って、一生懸命頑張っていましたね。
その姿を見ていると、誇らしくて、でも少し寂しくもありました。もっと甘えてくれてもいいのに、もっと頼ってくれてもいいのにって。』
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母は、また手を止めた。
「でも……これじゃ、伝わらない」
母は、便箋を見つめた。
「本当に伝えたいことは……もっと、別のこと」
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## 8
場面が、また変わった。
数週間後。母の自宅。
母は、スマートフォンを手に、美咲に電話をかけていた。
呼び出し音が鳴る。でも、美咲は出ない。
留守番電話に切り替わる。
『美咲です。ただいま電話に出られません——』
母は、電話を切った。
「美咲……忙しいのね」
母は、寂しそうに微笑んだ。
そして、もう一度、手紙を書き始めた。
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『でも、それはお母さんのせいかもしれません。
私はいつも「しっかりしなさい」って言っていました。「強くなりなさい」「泣かないで」「頑張りなさい」——そんな言葉ばかり。
お父さんが亡くなってから、私は必死でした。あなたを一人で育てなきゃいけない。弱音を吐いている場合じゃない。だから、私も「強い母」を演じていたのかもしれません。
でもね、美咲。
本当はもっと、あなたに甘えてほしかった。もっと、一緒に笑いたかった。もっと、たくさん話をしたかった。』
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母は、涙を拭きながら、書き続けた。
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『「お母さん、これ見て」「お母さん、聞いて」——そんな言葉を、もっとたくさん聞きたかったの。
でも、私はあなたに「忙しい」「後でね」ばかり言っていました。それなのに、今になって私が「会いたい」「話したい」なんて、身勝手ですよね。
ごめんなさい。
でも、どうしても伝えたいことがあるの。大事な話——』
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そこで、母は手を止めた。
「この先……どう書けばいいの」
母は、ペンを握りしめた。
「美咲に、伝えたいことは……」
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そのとき、母のスマートフォンが鳴った。
母は、急いで電話に出た。
「もしもし?」
電話の向こうから、医師の声。
「川瀬さん、検査結果が出ました。少し……お話ししたいことがあります。明日、病院に来ていただけますか?」
母の表情が、曇った。
「分かりました……」
電話を切り、母は深くため息をついた。
「もう……時間がないのね」
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## 9
美咲は、その光景を見て、胸が張り裂けそうになった。
母は、ずっと一人で抱え込んでいた。
病気のこと。余命のこと。美咲への想い。
全部、一人で。
「お母さん……」
美咲は、涙を流した。
「どうして……どうして、私に言ってくれなかったの?」
でも——美咲は気づいていた。
母が言えなかったのは、美咲が「忙しい」と言い続けたから。
母が一人で抱え込んだのは、美咲が母を後回しにしたから。
全ては、美咲のせいだった。
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気づけば、美咲はバスの中に戻っていた。
座席に座り、美咲は顔を覆った。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
涙が止まらない。
影が、静かに言った。
『あなたのお母様は、最期まで娘を想っていました』
「分かってる……分かってるわ」
美咲は泣きながら答えた。
「お母さんは、私に幸せになってほしかったんだ。仕事だけじゃなくて、本当の幸せを……」
『ええ』
---
## 10
しばらくして、美咲は涙を拭いた。
「次も……乗せてもらえる?」
『ええ。でも——』
「代償……何を失うの?」
影は、少し沈黙した。
そして——
『今回の代償は——寿命』
美咲は、息を呑んだ。
「寿命……?」
『そうです。あなたの寿命が、五年縮まります』
「五年……」
美咲は、戸惑った。
五年——それは、決して短くない時間。
『あなたの身体は、五年分老います。白髪が増え、皺が深くなり、体力が衰える。それでも、構いませんか?』
美咲は、しばらく黙っていた。
寿命が縮まる——それは、今までの代償とは比べ物にならない。
でも。
「構わないわ」
美咲は答えた。
「お母さんのこと、全部知りたい。お母さんが最期に何を伝えたかったのか……知りたいの」
『……あなたは、本当にそれでいいのですか?』
「ええ」
美咲は、きっぱりと言った。
影は、深くため息をついた——ような気がした。
『分かりました』
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## 11
影が手を振ると、美咲の体に奇妙な感覚が走った。
体が、重くなる。
肌が、引っ張られるような感覚。
髪が、ざわざわと動く。
そして——
美咲は、自分の手を見た。
手の甲に、薄い皺が浮かび上がっている。
「これ……」
『五年分、老いました』
影は言った。
『あなたは今、四十歳の身体です』
美咲は、バスの窓に映る自分の顔を見た。
目の下に、クマ。
髪に、白髪が混じっている。
口元に、薄い皺。
「これが……代償」
『そうです。次に乗れば、また寿命が縮まります。それでも——』
「乗るわ」
美咲は、即答した。
「何を失っても、お母さんのことを知りたい」
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## 12
バスが停まり、美咲は現実の世界に戻った。
マンションの前。
美咲は、急いで部屋に戻り、鏡を見た。
そこに映る自分の顔——老けていた。
白髪。皺。疲れた表情。
「これが……私?」
美咲は、鏡に映る自分を見つめた。
三十五歳のはずなのに、四十歳に見える。
いや、もっと老けて見えるかもしれない。
美咲は、ため息をついた。
「でも……構わない」
美咲は、ベッドに横になった。
体が重い。疲れやすくなった。
これが、五年分の老化。
でも——美咲は、後悔していなかった。
母のことを、もっと知りたい。
母が何を伝えたかったのか、知りたい。
そのためなら、何を失っても構わない。
美咲は、そう自分に言い聞かせた。
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翌朝、美咲は出社した。
同僚たちが、美咲を見て驚いた顔をした。
「川瀬部長……大丈夫ですか? なんだか、お疲れのようですが」
「ああ……ちょっと、寝不足で」
美咲は、愛想笑いでごまかした。
でも、鏡を見るたびに、自分の老いた顔が目に入る。
白髪。皺。
これが、代償。
美咲は、それを受け入れるしかなかった。
---
そして——夜が来る。
また、零時が訪れる。
バスが、また来る。
美咲は、それを待ちわびていた。
次は、何を見せてくれるのだろう。
次は、どんな代償を払うのだろう。
美咲の心は、もう引き返せないところまで来ていた。




