第3章:消えゆく記憶
## 1
それから数日が経った。
美咲は、いつも通り仕事をしていた。朝七時には出社し、会議をこなし、クライアントと商談をする。誰も、美咲の変化に気づかない。
でも——美咲自身は、変化を感じていた。
味覚が、ない。
昼食に高級フレンチのコースを食べても、何も感じない。接待で寿司屋に行っても、ただ「何かを噛んでいる」だけ。クライアントが「このマグロ、絶品ですね」と笑顔で言っても、美咲は愛想笑いをするしかなかった。
コーヒーを飲んでも、ただの液体。
チョコレートを食べても、ただの塊。
美咲は、食事が苦痛になっていた。
でも——それでも構わない、と美咲は自分に言い聞かせていた。
母のことを知るため。母が何を伝えたかったのかを知るため。これくらい、安いものだ。
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## 2
ある夜、美咲は自宅のキッチンで一人、カップ麺を食べていた。
味がしない。ただ、熱いだけ。
美咲は箸を置き、ため息をついた。
「これが……私の選択」
呟いて、窓の外を見る。
夜景が広がっている。美しい景色。でも、美咲の心は空虚だった。
そのとき——時計が、零時を指した。
美咲は、ハッとした。
窓の外を見ると——そこに、あのバスがあった。
深い青色の、古いバス。
美咲は立ち上がり、急いでマンションを出た。
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## 3
バスは、静かにそこにあった。
ドアは開いている。まるで、美咲を待っていたかのように。
美咲は迷わず、バスに乗り込んだ。
運転席には、あの影がいた。
「また……来たわ」
美咲は言った。
『ええ。待っていました』
影は答えた。
『次の後悔を、見に行きますか?』
「ええ。お願い」
『分かりました。では——』
影がハンドルを握ると、バスが動き出した。
美咲は座席に座り、窓の外を見つめた。景色が流れていく。記憶の断片、時間の欠片。
今度は、どこへ連れて行かれるのだろう。
母の、どんな姿を見せてくれるのだろう。
美咲の胸は、期待と不安で高鳴っていた。
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## 4
バスが停まったのは——見覚えのある場所だった。
古い住宅街。小さな一軒家が並ぶ、静かな街。
美咲は息を呑んだ。
「ここは……」
美咲が子供の頃、家族で暮らしていた家。
父が生きていた頃の、あの家。
美咲はバスを降り、その家に近づいた。
玄関のドアは開いている。中から、声が聞こえる。
女性の声——母の声。
そして、子供の声——美咲自身の声。
美咲は、ゆっくりと家の中に入った。
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## 5
リビングには、母と、幼い美咲がいた。
母は三十代前半。まだ若く、でもどこか疲れた表情をしている。
幼い美咲は、小学生。ランドセルを背負ったまま、リビングに立っていた。
「ただいま」
幼い美咲が言った。
「おかえり、美咲」
母は微笑んだ。でも、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。
「お母さん、今日ね、算数のテストで百点取ったよ!」
幼い美咲が、テストを見せる。
「すごいね、美咲。偉いね」
母は褒めた。でも、その声には力がなかった。
幼い美咲は、母の様子に気づいたのだろう。少し不安そうな顔をした。
「お母さん……大丈夫?」
「ええ、大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」
母は笑顔を作った。
「美咲、宿題やっちゃいなさい。お母さん、ご飯作るから」
「うん……」
幼い美咲は、自分の部屋へ向かった。
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大人の美咲は、その光景を黙って見ていた。
母の疲れた表情。無理をした笑顔。
ああ——美咲は思った。
母は、あの頃からずっと無理をしていたんだ。
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## 6
場面が変わった。
夜のリビング。母が一人、テーブルに座っている。
手には、請求書の束。電気代、ガス代、家賃、学費——。
母は、それを一つ一つ確認しながら、電卓を叩いていた。
「足りない……また足りない」
母は小さく呟いた。
父が亡くなってから、母は一人で家計を支えていた。パートを掛け持ちし、必死に働いていた。
でも、それでも足りない。
母は、深くため息をついた。
「美咲には……辛い思いさせたくない」
母は呟いた。
「お父さんがいなくても、ちゃんと育ててあげなきゃ。強い子に育ててあげなきゃ」
母は、自分に言い聞かせるように何度も繰り返した。
「強くならなきゃ。私が、強くならなきゃ」
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美咲は、胸が締め付けられる思いだった。
母は、あの頃からずっと「強い母」を演じていたんだ。
娘に心配をかけないように。娘に辛い思いをさせないように。
でも——それは、母自身を追い詰めていたんじゃないか。
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## 7
また場面が変わった。
幼い美咲が、母に甘えている場面。
「お母さん、一緒に遊ぼう」
「ごめんね、美咲。お母さん、今から仕事なの」
「えー……」
幼い美咲は、寂しそうな顔をした。
でも、すぐに笑顔を作った。
「分かった。じゃあ、一人で遊ぶね」
「ごめんね……」
母は、申し訳なさそうに美咲の頭を撫でた。
「美咲は、いい子ね。お母さん、美咲のこと、本当に誇りに思ってるわ」
「うん!」
幼い美咲は、元気よく答えた。
でも——その笑顔の奥に、寂しさが隠れていることに、母は気づいていなかった。
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大人の美咲は、その光景を見て、ハッとした。
ああ——私も、あの頃から母と同じだったんだ。
寂しくても、笑顔を作る。
辛くても、我慢する。
感情を押し殺して、「いい子」を演じる。
母がそうだったから、私もそうなった。
親子は、こんなにも似てしまうんだ。
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## 8
場面が、また変わった。
今度は、母が一人で泣いている場面。
夜のリビング。幼い美咲は寝ている。母は、テーブルに顔を伏せて、静かに泣いていた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
母は、何度も呟いた。
「美咲に、もっと優しくしてあげたい。もっと一緒にいてあげたい。でも……できない」
母は、自分を責めていた。
「私、母親失格だわ……」
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美咲は、思わず母に駆け寄ろうとした。
「お母さん、そんなことない! お母さんは、ちゃんと頑張ってたよ!」
でも——声は届かない。手も、触れられない。
美咲は、ただ見ているしかなかった。
母の涙を、母の苦しみを。
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## 9
気づけば、美咲はバスの中に戻っていた。
座席に座り、美咲は顔を覆った。
「お母さん……」
涙が溢れる。
「お母さんも、辛かったんだね。一人で、全部抱え込んで……」
影が、静かに言った。
『あなたのお母様は、強い方でした。でも——強すぎたのかもしれません』
「強すぎた……」
『本当は、もっと弱音を吐きたかった。もっと、娘に甘えたかった。でも、それができなかった』
美咲は頷いた。
「私も……同じだわ」
『ええ。あなたは、お母様によく似ています』
影は言った。
『だからこそ——お互いに、本当の想いを伝えられなかったのでしょう』
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## 10
美咲は、しばらく黙っていた。
そして——影に問いかけた。
「次も……乗せてもらえる?」
『ええ。でも——』
「代償が、必要なのよね」
『そうです。今回の代償は——記憶の一部』
美咲は息を呑んだ。
「記憶……?」
『あなたの記憶の中から、一部が消えます。大切な思い出ではありません。どうでもいい、些細な記憶。でも——』
「でも?」
『記憶が消えることは、あなた自身が少しずつ欠けていくこと。それでも、構いませんか?』
美咲は、少し迷った。
記憶が消える——それは、自分が壊れていくということ。
でも。
「構わないわ」
美咲は答えた。
「お母さんのことを知るためなら、私の記憶なんて……どうでもいい」
『……分かりました』
影が手を振ると、美咲の頭に奇妙な感覚が走った。
何かが、抜け落ちていく感覚。
でも、何が消えたのか——分からない。
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## 11
バスが停まり、美咲は現実の世界に戻った。
気づけば、自分のマンションの前に立っていた。
美咲は、頭を押さえた。
「記憶が……消えた?」
でも、何が消えたのか分からない。全ての記憶は、そこにあるように感じる。
美咲は部屋に戻り、ベッドに座った。
そして——ふと、何かが引っかかった。
高校時代の友人の顔が、思い出せない。
いや、友人がいたことは覚えている。でも、名前が出てこない。顔も、ぼんやりとしか思い出せない。
「あれ……?」
美咲は、スマートフォンを取り出し、連絡先を確認した。
友人の名前がある。でも——この人、誰だっけ?
美咲は戸惑った。
知っているはずなのに、思い出せない。会ったことがあるはずなのに、記憶が曖昧。
「消えた……記憶が、本当に消えたんだ」
美咲は、背筋が寒くなった。
これが、代償。
自分の一部が、欠けていく。
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## 12
美咲は、ベッドに横になった。
天井を見つめながら、考える。
母の姿が、浮かぶ。
強い母。でも、本当は弱かった母。
一人で全てを抱え込んでいた母。
「お母さん……私、もっと知りたい」
美咲は呟いた。
「お母さんが、本当は何を考えていたのか。何を伝えたかったのか」
代償が重くなっていくことは、分かっている。
でも——止められない。
美咲は、もうバスから降りられなくなっていた。
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翌朝、美咲は出社した。
いつも通り、仕事をこなす。でも——時々、奇妙な感覚に襲われた。
「あれ、この人……誰だっけ?」
すれ違った同僚の顔が、思い出せない。名前も出てこない。
でも、その人は美咲に笑顔で挨拶してくる。美咲も、愛想笑いで返す。
誰だっけ、この人——。
美咲は、不安になった。
記憶が、消えていく。
少しずつ、確実に。
でも——美咲は、それでも後悔していなかった。
母のことを知るため。
そのためなら、何を失っても構わない。
美咲は、そう自分に言い聞かせ続けた。
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そして——夜が来る。
また、零時が訪れる。
バスが、また来る。
美咲は、それを待ちわびていた。
次は、何を見せてくれるのだろう。
次は、どんな代償を払うのだろう。
美咲の心は、期待と恐怖で揺れていた。




