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後悔バス  作者: 月城 リョウ
後悔バス -最期の言葉-

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11/16

第3章:消えゆく記憶

## 1


 それから数日が経った。


 美咲は、いつも通り仕事をしていた。朝七時には出社し、会議をこなし、クライアントと商談をする。誰も、美咲の変化に気づかない。


 でも——美咲自身は、変化を感じていた。


 味覚が、ない。


 昼食に高級フレンチのコースを食べても、何も感じない。接待で寿司屋に行っても、ただ「何かを噛んでいる」だけ。クライアントが「このマグロ、絶品ですね」と笑顔で言っても、美咲は愛想笑いをするしかなかった。


 コーヒーを飲んでも、ただの液体。


 チョコレートを食べても、ただの塊。


 美咲は、食事が苦痛になっていた。


 でも——それでも構わない、と美咲は自分に言い聞かせていた。


 母のことを知るため。母が何を伝えたかったのかを知るため。これくらい、安いものだ。


---


## 2


 ある夜、美咲は自宅のキッチンで一人、カップ麺を食べていた。


 味がしない。ただ、熱いだけ。


 美咲は箸を置き、ため息をついた。


「これが……私の選択」


 呟いて、窓の外を見る。


 夜景が広がっている。美しい景色。でも、美咲の心は空虚だった。


 そのとき——時計が、零時を指した。


 美咲は、ハッとした。


 窓の外を見ると——そこに、あのバスがあった。


 深い青色の、古いバス。


 美咲は立ち上がり、急いでマンションを出た。


---


## 3


 バスは、静かにそこにあった。


 ドアは開いている。まるで、美咲を待っていたかのように。


 美咲は迷わず、バスに乗り込んだ。


 運転席には、あの影がいた。


「また……来たわ」


 美咲は言った。


『ええ。待っていました』


 影は答えた。


『次の後悔を、見に行きますか?』


「ええ。お願い」


『分かりました。では——』


 影がハンドルを握ると、バスが動き出した。


 美咲は座席に座り、窓の外を見つめた。景色が流れていく。記憶の断片、時間の欠片。


 今度は、どこへ連れて行かれるのだろう。


 母の、どんな姿を見せてくれるのだろう。


 美咲の胸は、期待と不安で高鳴っていた。


---


## 4


 バスが停まったのは——見覚えのある場所だった。


 古い住宅街。小さな一軒家が並ぶ、静かな街。


 美咲は息を呑んだ。


「ここは……」


 美咲が子供の頃、家族で暮らしていた家。


 父が生きていた頃の、あの家。


 美咲はバスを降り、その家に近づいた。


 玄関のドアは開いている。中から、声が聞こえる。


 女性の声——母の声。


 そして、子供の声——美咲自身の声。


 美咲は、ゆっくりと家の中に入った。


---


## 5


 リビングには、母と、幼い美咲がいた。


 母は三十代前半。まだ若く、でもどこか疲れた表情をしている。


 幼い美咲は、小学生。ランドセルを背負ったまま、リビングに立っていた。


「ただいま」


 幼い美咲が言った。


「おかえり、美咲」


 母は微笑んだ。でも、その笑顔はどこか無理をしているように見えた。


「お母さん、今日ね、算数のテストで百点取ったよ!」


 幼い美咲が、テストを見せる。


「すごいね、美咲。偉いね」


 母は褒めた。でも、その声には力がなかった。


 幼い美咲は、母の様子に気づいたのだろう。少し不安そうな顔をした。


「お母さん……大丈夫?」


「ええ、大丈夫よ。ちょっと疲れてるだけ」


 母は笑顔を作った。


「美咲、宿題やっちゃいなさい。お母さん、ご飯作るから」


「うん……」


 幼い美咲は、自分の部屋へ向かった。


---


 大人の美咲は、その光景を黙って見ていた。


 母の疲れた表情。無理をした笑顔。


 ああ——美咲は思った。


 母は、あの頃からずっと無理をしていたんだ。


---


## 6


 場面が変わった。


 夜のリビング。母が一人、テーブルに座っている。


 手には、請求書の束。電気代、ガス代、家賃、学費——。


 母は、それを一つ一つ確認しながら、電卓を叩いていた。


「足りない……また足りない」


 母は小さく呟いた。


 父が亡くなってから、母は一人で家計を支えていた。パートを掛け持ちし、必死に働いていた。


 でも、それでも足りない。


 母は、深くため息をついた。


「美咲には……辛い思いさせたくない」


 母は呟いた。


「お父さんがいなくても、ちゃんと育ててあげなきゃ。強い子に育ててあげなきゃ」


 母は、自分に言い聞かせるように何度も繰り返した。


「強くならなきゃ。私が、強くならなきゃ」


---


 美咲は、胸が締め付けられる思いだった。


 母は、あの頃からずっと「強い母」を演じていたんだ。


 娘に心配をかけないように。娘に辛い思いをさせないように。


 でも——それは、母自身を追い詰めていたんじゃないか。


---


## 7


 また場面が変わった。


 幼い美咲が、母に甘えている場面。


「お母さん、一緒に遊ぼう」


「ごめんね、美咲。お母さん、今から仕事なの」


「えー……」


 幼い美咲は、寂しそうな顔をした。


 でも、すぐに笑顔を作った。


「分かった。じゃあ、一人で遊ぶね」


「ごめんね……」


 母は、申し訳なさそうに美咲の頭を撫でた。


「美咲は、いい子ね。お母さん、美咲のこと、本当に誇りに思ってるわ」


「うん!」


 幼い美咲は、元気よく答えた。


 でも——その笑顔の奥に、寂しさが隠れていることに、母は気づいていなかった。


---


 大人の美咲は、その光景を見て、ハッとした。


 ああ——私も、あの頃から母と同じだったんだ。


 寂しくても、笑顔を作る。


 辛くても、我慢する。


 感情を押し殺して、「いい子」を演じる。


 母がそうだったから、私もそうなった。


 親子は、こんなにも似てしまうんだ。


---


## 8


 場面が、また変わった。


 今度は、母が一人で泣いている場面。


 夜のリビング。幼い美咲は寝ている。母は、テーブルに顔を伏せて、静かに泣いていた。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 母は、何度も呟いた。


「美咲に、もっと優しくしてあげたい。もっと一緒にいてあげたい。でも……できない」


 母は、自分を責めていた。


「私、母親失格だわ……」


---


 美咲は、思わず母に駆け寄ろうとした。


「お母さん、そんなことない! お母さんは、ちゃんと頑張ってたよ!」


 でも——声は届かない。手も、触れられない。


 美咲は、ただ見ているしかなかった。


 母の涙を、母の苦しみを。


---


## 9


 気づけば、美咲はバスの中に戻っていた。


 座席に座り、美咲は顔を覆った。


「お母さん……」


 涙が溢れる。


「お母さんも、辛かったんだね。一人で、全部抱え込んで……」


 影が、静かに言った。


『あなたのお母様は、強い方でした。でも——強すぎたのかもしれません』


「強すぎた……」


『本当は、もっと弱音を吐きたかった。もっと、娘に甘えたかった。でも、それができなかった』


 美咲は頷いた。


「私も……同じだわ」


『ええ。あなたは、お母様によく似ています』


 影は言った。


『だからこそ——お互いに、本当の想いを伝えられなかったのでしょう』


---


## 10


 美咲は、しばらく黙っていた。


 そして——影に問いかけた。


「次も……乗せてもらえる?」


『ええ。でも——』


「代償が、必要なのよね」


『そうです。今回の代償は——記憶の一部』


 美咲は息を呑んだ。


「記憶……?」


『あなたの記憶の中から、一部が消えます。大切な思い出ではありません。どうでもいい、些細な記憶。でも——』


「でも?」


『記憶が消えることは、あなた自身が少しずつ欠けていくこと。それでも、構いませんか?』


 美咲は、少し迷った。


 記憶が消える——それは、自分が壊れていくということ。


 でも。


「構わないわ」


 美咲は答えた。


「お母さんのことを知るためなら、私の記憶なんて……どうでもいい」


『……分かりました』


 影が手を振ると、美咲の頭に奇妙な感覚が走った。


 何かが、抜け落ちていく感覚。


 でも、何が消えたのか——分からない。


---


## 11


 バスが停まり、美咲は現実の世界に戻った。


 気づけば、自分のマンションの前に立っていた。


 美咲は、頭を押さえた。


「記憶が……消えた?」


 でも、何が消えたのか分からない。全ての記憶は、そこにあるように感じる。


 美咲は部屋に戻り、ベッドに座った。


 そして——ふと、何かが引っかかった。


 高校時代の友人の顔が、思い出せない。


 いや、友人がいたことは覚えている。でも、名前が出てこない。顔も、ぼんやりとしか思い出せない。


「あれ……?」


 美咲は、スマートフォンを取り出し、連絡先を確認した。


 友人の名前がある。でも——この人、誰だっけ?


 美咲は戸惑った。


 知っているはずなのに、思い出せない。会ったことがあるはずなのに、記憶が曖昧。


「消えた……記憶が、本当に消えたんだ」


 美咲は、背筋が寒くなった。


 これが、代償。


 自分の一部が、欠けていく。


---


## 12


 美咲は、ベッドに横になった。


 天井を見つめながら、考える。


 母の姿が、浮かぶ。


 強い母。でも、本当は弱かった母。


 一人で全てを抱え込んでいた母。


「お母さん……私、もっと知りたい」


 美咲は呟いた。


「お母さんが、本当は何を考えていたのか。何を伝えたかったのか」


 代償が重くなっていくことは、分かっている。


 でも——止められない。


 美咲は、もうバスから降りられなくなっていた。


---


 翌朝、美咲は出社した。


 いつも通り、仕事をこなす。でも——時々、奇妙な感覚に襲われた。


「あれ、この人……誰だっけ?」


 すれ違った同僚の顔が、思い出せない。名前も出てこない。


 でも、その人は美咲に笑顔で挨拶してくる。美咲も、愛想笑いで返す。


 誰だっけ、この人——。


 美咲は、不安になった。


 記憶が、消えていく。


 少しずつ、確実に。


 でも——美咲は、それでも後悔していなかった。


 母のことを知るため。


 そのためなら、何を失っても構わない。


 美咲は、そう自分に言い聞かせ続けた。


---


 そして——夜が来る。


 また、零時が訪れる。


 バスが、また来る。


 美咲は、それを待ちわびていた。


 次は、何を見せてくれるのだろう。


 次は、どんな代償を払うのだろう。


 美咲の心は、期待と恐怖で揺れていた。

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