第2章:最期の病室
## 1
バスは闇の中を進んでいた。
窓の外に広がるのは、現実の景色ではなかった。ぼんやりと光る記憶の断片、流れていく時間の欠片。美咲は座席に座ったまま、ただ窓の外を見つめていた。
心臓が早鐘を打っている。怖い。でも、引き返せない。
どれくらい時間が経ったのだろう。数分か、それとも数時間か。時間の感覚が曖昧になっていく。
そのとき——バスが、ゆっくりと速度を落とした。
美咲は顔を上げた。窓の外の景色が、はっきりとしてきている。
そこは——病院だった。
見覚えのある建物。母が入院していた、あの総合病院。美咲は息を呑んだ。
「ここ……」
影は何も言わない。ただ、バスを停めた。
そして、ドアが開く。
美咲は立ち上がり、ゆっくりとバスを降りた。
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## 2
病院の入り口は、すぐそこにあった。
でも、何かが違う。建物は同じなのに、空気が違う。時間が違う。
美咲は気づいた——ここは、過去だ。
母が亡くなった、あの日。
美咲が間に合わなかった、あの日。
足が震える。でも、美咲は一歩ずつ、病院の中へ歩いた。
エントランスには、数人の人がいた。看護師、患者、見舞客。でも、誰も美咲を見ない。まるで、美咲がそこにいないかのように。
美咲は自分の手を見た。透けているわけではない。でも、この世界に「存在していない」ような感覚。
ああ、そうか——美咲は理解した。
私は、ただの「観察者」なんだ。見ることはできても、触れることはできない。声をかけることも、できない。
美咲はエレベーターに乗り、母の病室がある階へ向かった。
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## 3
病室の前に立つと、美咲は一瞬、足を止めた。
ドアの向こうに、母がいる。
まだ生きている、母が。
美咲は深く息を吸い、ドアを開けた。
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病室は静かだった。
窓から差し込む午後の光が、ベッドを照らしている。そこに、母が横たわっていた。
川瀬冴子。
美咲の母。
母は眠っているようだった。でも、その顔は痩せていて、頬はこけ、唇は乾いている。点滴のチューブが腕に刺さり、モニターが心拍を示している。
美咲は、ベッドの横に立った。
「お母さん……」
声をかけても、母は反応しない。当たり前だ。美咲は、ここには「いない」のだから。
美咲は母の手を取ろうとした。でも——手が、すり抜けた。
触れられない。
美咲は愕然とした。目の前に母がいるのに、触れることができない。声をかけることも、手を握ることもできない。
ただ、見ることしかできない。
「お母さん……ごめんなさい」
美咲の声は震えていた。
「私、間に合わなくて……。仕事ばっかりで、お母さんのこと、後回しにして……」
涙が溢れそうになる。でも、美咲はぐっと堪えた。
そのとき——病室のドアが開いた。
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## 4
入ってきたのは、看護師だった。
若い女性の看護師。美咲は彼女を覚えている。母の担当だった人だ。
看護師は母のそばに来て、点滴を確認した。そして、母の額にそっと手を当てた。
「川瀬さん……」
看護師は小さく呟いた。
「娘さん、来てくれるといいですね」
美咲は息を呑んだ。
看護師は母の手を取り、優しく声をかけた。
「川瀬さん、もう少しだけ頑張ってください。娘さん、きっと来てくれますから」
母は、目を閉じたまま。でも——その唇が、わずかに動いた。
「……さき」
か細い声。
「みさき……」
美咲は胸を掴まれるような思いがした。
母は、美咲を呼んでいる。美咲を待っている。
でも、美咲は——あのとき、ここにいなかった。
海外にいた。仕事をしていた。母の「会いたい」という言葉を、後回しにしていた。
「お母さん……!」
美咲は叫んだ。でも、声は届かない。
看護師は母の手を握ったまま、静かに言った。
「大丈夫ですよ、川瀬さん。娘さんに、ちゃんと伝わりますから。あなたの想い、きっと伝わります」
母の唇が、また動いた。
「つたえ……たい……」
「伝えたいこと、たくさんあるんですね」
看護師は優しく微笑んだ。
「大丈夫。娘さんが来たら、ちゃんと伝えてください」
母は、小さく頷いた——ような気がした。
でも、その後、母は何も言わなかった。
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## 5
看護師が病室を出た後、美咲は母のそばに立ち尽くしていた。
母は静かに眠っている。心拍のモニターが、規則的に音を立てている。
美咲は、自分の無力さに打ちのめされていた。
目の前に母がいる。まだ生きている。でも、何もできない。
声をかけることも、手を握ることも、できない。
「お母さん……何を、伝えたかったの?」
美咲は呟いた。
「お母さんが、そんなに私に会いたがってたなんて……知らなかった。いや、知ってたのに……無視したんだ、私」
母の顔を見つめる。穏やかな顔。でも、その奥に、どれだけの想いが隠されているのだろう。
そのとき——モニターの音が、変わった。
ピッ、ピッ、ピッ——
心拍が、速くなっている。
美咲は慌てて母を見た。母の表情が、苦しそうに歪んでいる。
「お母さん!」
美咲は叫んだ。でも、何もできない。
すぐに、ナースコールの音が響き、看護師たちが駆けつけてきた。
「川瀬さん!」
看護師たちが母を囲む。医師も駆けつけ、指示を出している。
美咲は、ただその光景を見ているしかなかった。
母の容態が、急変していく。
モニターの音が、どんどん速くなり——そして、途切れた。
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## 6
ピーーーーーー。
長い、電子音。
美咲は、膝から崩れ落ちそうになった。
医師たちが必死に蘇生を試みている。でも——
「……ご臨終です」
医師の声が、静かに響いた。
時刻は、午後三時二十分。
美咲が病院に到着する、六時間前だった。
看護師の一人が、涙を拭いながら母の体を整えている。
「娘さん……間に合わなかったんですね」
「ええ……海外にいるって聞いてました。きっと、娘さんに会いたかったんでしょうね」
「最期まで、娘さんの名前を呼んでいました……」
看護師たちの会話が、美咲の胸に突き刺さる。
美咲は、その場にしゃがみ込んだ。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
声にならない声で、何度も繰り返す。
「お母さん、ごめんなさい……!」
涙が、溢れて止まらなかった。
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## 7
どれくらいそこにいただろう。
気づけば、病室は静かになっていた。看護師たちも去り、母の遺体だけがベッドに横たわっている。
美咲は立ち上がり、母のそばに歩いた。
母の顔は、穏やかだった。苦しみから解放されたような、安らかな表情。
「お母さん……」
美咲は、母に語りかけた。
「私、何も分かってなかった。お母さんが、どれだけ私に会いたかったか。どれだけ伝えたいことがあったか」
母は、もう答えない。
「ごめんね。ごめんなさい……」
美咲は、そっと母の額に手を伸ばした。でも——やはり、触れることはできなかった。
そのとき、背後から声がした。
『見ましたね』
美咲は振り返った。
そこに、あの影が立っていた。バスの運転手。
「あなた……」
『これが、あなたの後悔です』
影は静かに言った。
『あなたが見たかったもの。知りたかったもの。でも——』
「でも……?」
『見ても、何も変えられない。それが、このバスのルールです』
美咲は唇を噛んだ。
「分かってる……分かってるわ。でも……!」
『もっと見たいですか?』
影は問いかけた。
『もっと、お母様のことを知りたいですか? 何を伝えたかったのか、知りたいですか?』
美咲は頷いた。
「知りたい……知りたいわ」
『では——』
影は、ゆっくりと手を差し出した。
『代償を、いただきます』
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## 8
美咲は影を見つめた。
「代償って……何を失うの?」
『あなたの一部です』
影は淡々と答えた。
『今回は——味覚』
「味覚……?」
『そう。あなたは、もう何も味を感じなくなります』
美咲は戸惑った。味覚を失う? それは、どういうことだ?
「それだけ……?」
『それだけ、と思いますか?』
影は静かに笑った——ような気がした。
『味覚を失えば、食事の喜びも失います。美味しいものを食べても、何も感じない。友人との食事も、接待の席も、全て無意味になります』
美咲は息を呑んだ。
「でも……それくらいなら」
『構わない、と?』
「ええ。母が何を伝えたかったのか知るためなら……味覚くらい、失ってもいいわ」
影は、しばらく美咲を見つめていた。
そして——
『分かりました』
影が手を振ると、美咲の体に奇妙な感覚が走った。
舌が、痺れるような感覚。そして——何も感じなくなった。
味覚が、消えた。
「これが……」
『代償です』
影は言った。
『次に乗るとき、また代償が必要になります。それでも、乗りますか?』
美咲は頷いた。
「乗るわ。何度でも」
『では——』
影は、病室のドアを指差した。
『バスに、お戻りください』
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## 9
美咲がバスに戻ると、景色が再び動き始めた。
病院が遠ざかり、闇の中へ。美咲は座席に座り、窓の外を見つめた。
母の最期の顔が、まぶたに焼き付いている。
「みさき……」
母が呟いた、美咲の名前。
母は、最期まで美咲を待っていた。美咲に会いたかった。伝えたいことがあった。
でも、美咲は間に合わなかった。
「お母さん……」
美咲は、小さく呟いた。
「次は、もっと知りたい。お母さんが、何を考えていたのか。何を伝えたかったのか」
バスは、静かに闇の中を進んでいく。
影は、何も言わない。ただ、ハンドルを握っている。
美咲は、自分の唇を舐めた。でも、何も感じない。味覚が、ない。
これが、代償。
でも——美咲は後悔していなかった。
母のことを知るためなら、失ってもいい。何を失っても、構わない。
美咲は、そう思っていた。
まだ、この時は。
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そして——バスは、美咲を現実の世界へ戻した。
気づけば、美咲は自分のマンションの前に立っていた。
バスは、もうそこにはなかった。
まるで、夢を見ていたかのように。
でも——美咲は知っていた。あれは夢ではない。
舌に何も感じない。味覚が、本当に消えていた。
「これが……代償」
美咲は呟き、マンションへ戻った。
部屋に入り、冷蔵庫を開ける。昨日買ったケーキがあった。高級洋菓子店の、お気に入りのケーキ。
美咲はそれを一口、口に入れた。
——何も、感じない。
甘さも、酸味も、食感さえも曖昧。ただ、何かを噛んでいるだけ。
美咲は、ケーキを置いた。
「これが……私が失ったもの」
でも、美咲は笑った。
「構わない。これくらい、安いものよ」
美咲は、ベッドに横になった。
母の顔が、浮かぶ。
次は、いつバスが来るのだろう。
次は、何を見せてくれるのだろう。
美咲は、それを待ちわびていた。




