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後悔バス  作者: 月城 リョウ
後悔バス -最期の言葉-

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10/16

第2章:最期の病室

## 1


 バスは闇の中を進んでいた。


 窓の外に広がるのは、現実の景色ではなかった。ぼんやりと光る記憶の断片、流れていく時間の欠片。美咲は座席に座ったまま、ただ窓の外を見つめていた。


 心臓が早鐘を打っている。怖い。でも、引き返せない。


 どれくらい時間が経ったのだろう。数分か、それとも数時間か。時間の感覚が曖昧になっていく。


 そのとき——バスが、ゆっくりと速度を落とした。


 美咲は顔を上げた。窓の外の景色が、はっきりとしてきている。


 そこは——病院だった。


 見覚えのある建物。母が入院していた、あの総合病院。美咲は息を呑んだ。


「ここ……」


 影は何も言わない。ただ、バスを停めた。


 そして、ドアが開く。


 美咲は立ち上がり、ゆっくりとバスを降りた。


---


## 2


 病院の入り口は、すぐそこにあった。


 でも、何かが違う。建物は同じなのに、空気が違う。時間が違う。


 美咲は気づいた——ここは、過去だ。


 母が亡くなった、あの日。


 美咲が間に合わなかった、あの日。


 足が震える。でも、美咲は一歩ずつ、病院の中へ歩いた。


 エントランスには、数人の人がいた。看護師、患者、見舞客。でも、誰も美咲を見ない。まるで、美咲がそこにいないかのように。


 美咲は自分の手を見た。透けているわけではない。でも、この世界に「存在していない」ような感覚。


 ああ、そうか——美咲は理解した。


 私は、ただの「観察者」なんだ。見ることはできても、触れることはできない。声をかけることも、できない。


 美咲はエレベーターに乗り、母の病室がある階へ向かった。


---


## 3


 病室の前に立つと、美咲は一瞬、足を止めた。


 ドアの向こうに、母がいる。


 まだ生きている、母が。


 美咲は深く息を吸い、ドアを開けた。


---


 病室は静かだった。


 窓から差し込む午後の光が、ベッドを照らしている。そこに、母が横たわっていた。


 川瀬冴子。


 美咲の母。


 母は眠っているようだった。でも、その顔は痩せていて、頬はこけ、唇は乾いている。点滴のチューブが腕に刺さり、モニターが心拍を示している。


 美咲は、ベッドの横に立った。


「お母さん……」


 声をかけても、母は反応しない。当たり前だ。美咲は、ここには「いない」のだから。


 美咲は母の手を取ろうとした。でも——手が、すり抜けた。


 触れられない。


 美咲は愕然とした。目の前に母がいるのに、触れることができない。声をかけることも、手を握ることもできない。


 ただ、見ることしかできない。


「お母さん……ごめんなさい」


 美咲の声は震えていた。


「私、間に合わなくて……。仕事ばっかりで、お母さんのこと、後回しにして……」


 涙が溢れそうになる。でも、美咲はぐっと堪えた。


 そのとき——病室のドアが開いた。


---


## 4


 入ってきたのは、看護師だった。


 若い女性の看護師。美咲は彼女を覚えている。母の担当だった人だ。


 看護師は母のそばに来て、点滴を確認した。そして、母の額にそっと手を当てた。


「川瀬さん……」


 看護師は小さく呟いた。


「娘さん、来てくれるといいですね」


 美咲は息を呑んだ。


 看護師は母の手を取り、優しく声をかけた。


「川瀬さん、もう少しだけ頑張ってください。娘さん、きっと来てくれますから」


 母は、目を閉じたまま。でも——その唇が、わずかに動いた。


「……さき」


 か細い声。


「みさき……」


 美咲は胸を掴まれるような思いがした。


 母は、美咲を呼んでいる。美咲を待っている。


 でも、美咲は——あのとき、ここにいなかった。


 海外にいた。仕事をしていた。母の「会いたい」という言葉を、後回しにしていた。


「お母さん……!」


 美咲は叫んだ。でも、声は届かない。


 看護師は母の手を握ったまま、静かに言った。


「大丈夫ですよ、川瀬さん。娘さんに、ちゃんと伝わりますから。あなたの想い、きっと伝わります」


 母の唇が、また動いた。


「つたえ……たい……」


「伝えたいこと、たくさんあるんですね」


 看護師は優しく微笑んだ。


「大丈夫。娘さんが来たら、ちゃんと伝えてください」


 母は、小さく頷いた——ような気がした。


 でも、その後、母は何も言わなかった。


---


## 5


 看護師が病室を出た後、美咲は母のそばに立ち尽くしていた。


 母は静かに眠っている。心拍のモニターが、規則的に音を立てている。


 美咲は、自分の無力さに打ちのめされていた。


 目の前に母がいる。まだ生きている。でも、何もできない。


 声をかけることも、手を握ることも、できない。


「お母さん……何を、伝えたかったの?」


 美咲は呟いた。


「お母さんが、そんなに私に会いたがってたなんて……知らなかった。いや、知ってたのに……無視したんだ、私」


 母の顔を見つめる。穏やかな顔。でも、その奥に、どれだけの想いが隠されているのだろう。


 そのとき——モニターの音が、変わった。


 ピッ、ピッ、ピッ——


 心拍が、速くなっている。


 美咲は慌てて母を見た。母の表情が、苦しそうに歪んでいる。


「お母さん!」


 美咲は叫んだ。でも、何もできない。


 すぐに、ナースコールの音が響き、看護師たちが駆けつけてきた。


「川瀬さん!」


 看護師たちが母を囲む。医師も駆けつけ、指示を出している。


 美咲は、ただその光景を見ているしかなかった。


 母の容態が、急変していく。


 モニターの音が、どんどん速くなり——そして、途切れた。


---


## 6


 ピーーーーーー。


 長い、電子音。


 美咲は、膝から崩れ落ちそうになった。


 医師たちが必死に蘇生を試みている。でも——


「……ご臨終です」


 医師の声が、静かに響いた。


 時刻は、午後三時二十分。


 美咲が病院に到着する、六時間前だった。


 看護師の一人が、涙を拭いながら母の体を整えている。


「娘さん……間に合わなかったんですね」


「ええ……海外にいるって聞いてました。きっと、娘さんに会いたかったんでしょうね」


「最期まで、娘さんの名前を呼んでいました……」


 看護師たちの会話が、美咲の胸に突き刺さる。


 美咲は、その場にしゃがみ込んだ。


「ごめんなさい……ごめんなさい……」


 声にならない声で、何度も繰り返す。


「お母さん、ごめんなさい……!」


 涙が、溢れて止まらなかった。


---


## 7


 どれくらいそこにいただろう。


 気づけば、病室は静かになっていた。看護師たちも去り、母の遺体だけがベッドに横たわっている。


 美咲は立ち上がり、母のそばに歩いた。


 母の顔は、穏やかだった。苦しみから解放されたような、安らかな表情。


「お母さん……」


 美咲は、母に語りかけた。


「私、何も分かってなかった。お母さんが、どれだけ私に会いたかったか。どれだけ伝えたいことがあったか」


 母は、もう答えない。


「ごめんね。ごめんなさい……」


 美咲は、そっと母の額に手を伸ばした。でも——やはり、触れることはできなかった。


 そのとき、背後から声がした。


『見ましたね』


 美咲は振り返った。


 そこに、あの影が立っていた。バスの運転手。


「あなた……」


『これが、あなたの後悔です』


 影は静かに言った。


『あなたが見たかったもの。知りたかったもの。でも——』


「でも……?」


『見ても、何も変えられない。それが、このバスのルールです』


 美咲は唇を噛んだ。


「分かってる……分かってるわ。でも……!」


『もっと見たいですか?』


 影は問いかけた。


『もっと、お母様のことを知りたいですか? 何を伝えたかったのか、知りたいですか?』


 美咲は頷いた。


「知りたい……知りたいわ」


『では——』


 影は、ゆっくりと手を差し出した。


『代償を、いただきます』


---


## 8


 美咲は影を見つめた。


「代償って……何を失うの?」


『あなたの一部です』


 影は淡々と答えた。


『今回は——味覚』


「味覚……?」


『そう。あなたは、もう何も味を感じなくなります』


 美咲は戸惑った。味覚を失う? それは、どういうことだ?


「それだけ……?」


『それだけ、と思いますか?』


 影は静かに笑った——ような気がした。


『味覚を失えば、食事の喜びも失います。美味しいものを食べても、何も感じない。友人との食事も、接待の席も、全て無意味になります』


 美咲は息を呑んだ。


「でも……それくらいなら」


『構わない、と?』


「ええ。母が何を伝えたかったのか知るためなら……味覚くらい、失ってもいいわ」


 影は、しばらく美咲を見つめていた。


 そして——


『分かりました』


 影が手を振ると、美咲の体に奇妙な感覚が走った。


 舌が、痺れるような感覚。そして——何も感じなくなった。


 味覚が、消えた。


「これが……」


『代償です』


 影は言った。


『次に乗るとき、また代償が必要になります。それでも、乗りますか?』


 美咲は頷いた。


「乗るわ。何度でも」


『では——』


 影は、病室のドアを指差した。


『バスに、お戻りください』


---


## 9


 美咲がバスに戻ると、景色が再び動き始めた。


 病院が遠ざかり、闇の中へ。美咲は座席に座り、窓の外を見つめた。


 母の最期の顔が、まぶたに焼き付いている。


「みさき……」


 母が呟いた、美咲の名前。


 母は、最期まで美咲を待っていた。美咲に会いたかった。伝えたいことがあった。


 でも、美咲は間に合わなかった。


「お母さん……」


 美咲は、小さく呟いた。


「次は、もっと知りたい。お母さんが、何を考えていたのか。何を伝えたかったのか」


 バスは、静かに闇の中を進んでいく。


 影は、何も言わない。ただ、ハンドルを握っている。


 美咲は、自分の唇を舐めた。でも、何も感じない。味覚が、ない。


 これが、代償。


 でも——美咲は後悔していなかった。


 母のことを知るためなら、失ってもいい。何を失っても、構わない。


 美咲は、そう思っていた。


 まだ、この時は。


---


 そして——バスは、美咲を現実の世界へ戻した。


 気づけば、美咲は自分のマンションの前に立っていた。


 バスは、もうそこにはなかった。


 まるで、夢を見ていたかのように。


 でも——美咲は知っていた。あれは夢ではない。


 舌に何も感じない。味覚が、本当に消えていた。


「これが……代償」


 美咲は呟き、マンションへ戻った。


 部屋に入り、冷蔵庫を開ける。昨日買ったケーキがあった。高級洋菓子店の、お気に入りのケーキ。


 美咲はそれを一口、口に入れた。


 ——何も、感じない。


 甘さも、酸味も、食感さえも曖昧。ただ、何かを噛んでいるだけ。


 美咲は、ケーキを置いた。


「これが……私が失ったもの」


 でも、美咲は笑った。


「構わない。これくらい、安いものよ」


 美咲は、ベッドに横になった。


 母の顔が、浮かぶ。


 次は、いつバスが来るのだろう。


 次は、何を見せてくれるのだろう。


 美咲は、それを待ちわびていた。

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