続き
十
再び朱野邸に戻り、三人で食卓テーブルを囲った。
「僕はこの連続殺人事件について、朱野家への復讐劇だと解釈しています。そこに深見陽介さんの死が挟まっていることが鍵だと思うんですよね」
冷泉は札を並べるディーラーのような涼しい仕草で、深見の遺した手帳の一頁を指し示した。その伏し目がちの顔に、透と瑞樹の視線が注がれる。
冷泉の言う通りだった。静、透、穢の順で狙われたときには、標的は朱野家であるという空気がなんとなく漂った。その後朱野家と血の繋がりのない水谷が殺され、無差別殺人の疑いが一度持ち上がりかけたが、その後源一郎、絹代と続けば、これはもう血縁か否かに限らず、朱野家の関係者が狙われているという考えに着地せざるを得ない。ただ、そこに挟まった深見陽介という札だけが、透と瑞樹の二人には絵柄違いのように浮いて見えていた。
一方で冷泉の目は『執事記録〈二〉』を捉える。そこに記された深見陽介の出生にまつわる真実を想起して、冷泉は一人点と点を線で結んでいた。そこに記された朱野源一郎の隠し子である“陽介”と深見陽介を同一人物であると仮定すれば、それは朱野家と深見陽介とを繋ぐミッシングリンクとなる。そして白虎像が玄武像にすり替えられたことによって、それは仮説から確信へと変わった。
更に、それは犯人像を絞る際に一助を担っているとさえ言えた。なぜならこの一連の殺人を朱野家への復讐劇であると仮定した場合、犯人は隠蔽された深見陽介の事情までをも知る、至極朱野家に詳しい人物に限定されるからだ。
水谷がそのことを克明に記録していたことは、犯人にとっては誤算だったに違いない。無意識のうちに冷泉は抱き込むようにそのハードカバーの冊子を手元に引き寄せていた。しかし、その途中で彼の指は雷にでも打たれたようにぴたりと止まった。
果たして、そうだろうか。
日誌などなくとも、深見陽介と朱野源一郎の遺体が調べられれば、そのDNAから親子関係は白日の下に晒されるだろう。また、深見家を調べられれば、彼が嫡子でなく養子であることも明らかになる。
それでも犯人は一向に構わなかったとなると、やはり――。
「僕はまた狙われるのだろうか」
突如透の沈痛なため息が降ってきて、冷泉の思考はそこで中断となった。
「その可能性は充分にあります」
臆面もなく言い放つ冷泉に、透は苦笑を零した。
「言うね、冷泉くん」
「透さん、よかったら前妻の百合子さんと、松右衛門さんが亡くなったときのことについて、詳しく話を聞かせてもらえないでしょうか」
その言葉に、ソファで脱力していた龍川医師が無言のまま顔を上げた。
透は、一瞬遠くを見るような表情を挟み、それから穏やかに冷泉を正面から見据えた。「話って何を聞きたいの?」
「そうですね、ではまずその人となりと亡くなった状況について、おおまかに話していただければ」
「百合子さんは、元々は隣の五藤村で看護師をしていて、時折龍川先生のお手伝いでこの村にも来てくれていたらしい」
冷泉の目がぴくりと伸縮した。
透は気づくことなく話を続けている。「それが縁で父と懇意になり、僕の母が亡くなった翌年に結婚したんだ。僕と弟が一歳の頃だよ。その四年後に静が産まれた。それから静が九つのとき、つまり今から十年前に他界。亡くなる少し前から体調不良を訴えていたんだけど、回復することなく死んでしまった。死因は多臓器不全ってことになっている」
冷泉には、佐藤百合子と朱野百合子の関連性を調べるほかに、水谷の日誌と透の話との整合性を確かめる目的があったが、無論そのことを透は知らない。それでもここまでに矛盾はなかった。
「透さんから見て、百合子さんはどんな人でしたか?」
「そうだな」透は視線を落とした。「実の子でない僕に対しても、静と区別することなく愛情を注いでくれた。実母の愛を知らずに育った僕だけれど、寂しい思いをすることはなかったよ。彼女が亡くなった時はあんなに健康そうだった人がこんなに突然死んでしまうんだって、衝撃と喪失感がしばらく抜けなかったな」
そこまでを黙って聞いていた龍川医師が、突然何度か口を開いては閉じを繰り返し始めた。そして、場の視線が自身に向いたのに気づくと、複雑そうな面持ちで口を挟んできた。
「いや……あのですな。その……亡くなった人のうわさ話をするのもどうかと思いますが」しかし龍川はいざ話すという段になって、透を気にするように忙しなく視線を動かした。
透は、「僕のことは気にせず続けてください」と優しく言った。「それよりも、事件の解明が進展するほうが大事なことなので」
老医師は汗の浮いた額を何度か掌で撫でてから、ようやく口髭を持ち上げた。「それがですな……百合子さんと結婚してからの源一郎さんは、それはもう見違えるように生き生きなりました。それまでご自身のコレクションや和服に執心されているのは知っていましたが、興味の矛先が明らかに変わりました。車を新調したり、百合子さんと一緒にゴルフや旅行に行ったりと。実に夫婦生活を満喫されていたのをよく覚えております」
龍川はまるで過去の主観に没入しているかのような口ぶりで熱っぽく語った。
これには、透も、「へえ、初耳だなあ」と目を丸くした。「父の再婚前後は、僕はまだ小さかったので写真でしか知ることができないですからね。静が産まれるまでの四年間、父と百合子さんがどのように過ごしていたのかなんて、聞いたことはなかったなあ」
龍川は透に頷いた。「透さんはそうでしょうな。仮にご両親に聞いたところで、客観的な話は返ってこなかったことでしょう。そして、今から話す内容は、あくまで私自身の主観による客観であることを念頭に聞いていただければと思います。亡くなった人をこんなふうに言うのもどうかと思いますが、共に仕事をしていた者としてわかります。源一郎さんと結婚してから、百合子さんは変わってしまわれた」
「変わった、と仰いますと?」
冷泉が掘り下げると、龍川は言いにくそうに何度か口をもごつかた。
「何と言いますか。百合子さんは元々素朴そうな女性だったのですがね。結婚してからは良くも悪くも、名家の奥方にふさわしい女性になったといいますか……」少し話過ぎたと感じたのか、龍川医師はそれきりばつが悪そうに口を閉ざしてしまった。
しばし沈黙が訪れる。
冷泉はじっと場を観察し、齎された情報を舌の上で転がしていた。
やがて食卓の上で指を組んだ自らの手を見つめていた透が、思い立ったように視線を持ち上げて静かに言った。「僕の認識と事実との間に、少し齟齬があったのかもしれないな」
「と、仰いますと」冷泉は食いつくように、上目遣いで透を見据えた。
透は黒目を斜め下へ動かして渋い表情を浮かべた。「いや……憶測でものを言うのは気が進まないけれど、どこかに揉め事の種は転がっていたのかもしれない。父はああいう人だったから恨みを買うのはわかるけれど、もしかしたら百合子さんも……」そこで透は濁したが、聞く者にもその先は大方の予想がついた。「まだ十九の静が殺される動機がわからなかったんだけれど、朱野家そのものへの恨みとなると、根深いものがあるのかもしれないね」と、透は目頭をもんだ。
「松右衛門さんについてはどうです?」
青白い顔に、苦々しい表情を浮かべる透にも容赦することなく、冷泉は事務的な視線で彼を突き刺した。
「祖父は……父と似たような人だったよ。僕よりも、龍川先生の方が人となりについては的確に把握しているかもしれない」
少なからず、百合子の前例で衝撃を受けたらしい透がそこで龍川に水を向けたが、龍川は困ったように眉を八の字にして首を左右に振った。
「とんでもない。長くこの村を見ている分、必然的に知っていることが多くなるだけです。あとは歳が近いというだけですな」
「そう仰らずに、僕が知らないことを教えてください。祖父は四神伝説にものすごく傾倒していましたよね」
透の問いかけに、龍川はこくこくと、小刻みに顎を引いて首肯した。「ああ、それなら間違いなく。松右衛門さんは、誰よりも村の伝統を大事にする方でしたからな。それこそ、呪いの子伝説や、四神伝説をそれはもう熱心に信じておられました。この地は四神様が立ち寄ってできた土地であり、四神様が四神にまつわる姓を持つ四家を引き寄せたと」
「呪いの子伝説でしたら、透さんと弟さんが産まれた時にも」冷泉が鋭い声を差し込んだ。
龍川は透から冷泉に顔を移して肯き返す。「ええ。一番恐れおののいて、牢に閉じ込めるよう連呼されていたのが松右衛門さんですな」
「百合子さんとの再婚に関しては、松右衛門さんはどのような立場だったのですか?」
「賛成だったことでしょうな。男やもめは対外的に示しがつかぬと口を酸っぱく仰って、まだかすみさんの四十九日が終わったばかりのころからお見合いの話をされていましたから」
「ご自身の価値観に頑なな方だったのですね。でしたら、例えば……あくまで、例えばの話ですよ。浮気などは言語道断だったでしょうか」
冷泉はちらりと龍川の反応を窺うように上目遣いに確認する。相手の左眉がぴくりと動くのを見逃さなかった。
「……さあ。どうでしょうな」
途端に歯切れが悪くなった龍川に、「ああ古風な方でしたら、逆に一夫多妻制には抵抗がなかったりするのでしょうかね」すかさず質問を差し込んだ。
しかし、「そこまでは、私にはわかりかねますな」老医師は、びっしょりと浮かんだ額の汗を拭って黙り込んでしまった。
そんな龍川に見切りをつけるように、冷泉は透へと視線を移した。
「松右衛門氏が亡くなったのは、先月のことでしたね」
「ああ」対して透は落ち着いていた。「井戸の中に落ちて亡くなっているのを、朝、納屋と土蔵の鍵を開けに庭に出た水谷さんが見つけたんだ」
「ご遺体はご覧になりましたか?」
尋ねると、透は唇を引き結んであからさまに顔を歪めた。
「……酷い有様だったのですね」
「僕と水谷さんと父の三人で井戸から引き揚げた。一目で死んでいるのがわかった、とだけ」
そう言って透は口元を覆った。
「龍川先生もご覧になりました?」冷泉は再び龍川医師に視線を向けた。
反射的に老医師は顎を引く。眼鏡がずり落ちた。「警察と解剖医がくるまでのつなぎをしていましたからな」
「何曜日だったかは覚えておいでですか?」
「日曜日の朝ですな」
「深見さんは、部活の顧問はされていましたよね?」冷泉は何の前振りもなく、今度は透に向き直った。
唐突な冷泉のキラーパスに、透は一瞬ぽかんとした後で小刻みに頷いた。
「あ……ああ、うん、副顧問をしているという話だったよ。なんでも、教育現場において部活の顧問は若手の役割だって風潮があるらしくて。それでも、毎週日曜日と盆正月は休みだったようだけど」
「なるほど結構。ありがとうございます」
そう言って冷泉は、パタンと手帳を閉じた。
「犯人の目星はつきました」
十一
その言葉に、室内の視線が一気に収束した。
「……誰なの?」
それまでソファで横になっていた琴乃が、険のある表情で勢いよく身体を起こした。
「……話すべきか否か、迷っています」
珍しく歯切れの悪い冷泉に噛みつくように、琴乃は唇を震わせた。
「いいから。誰なの」
その血走った目に炙られ、冷泉は複雑そうな面持ちで自身の手元へ視線を移した。そして、意を決したように視線をあげた。
「こんなことを言うと気分を害されるかもしれませんが、信じるために疑うという言葉がありますね。これもその一環で、仮説を立てて潰していく行為だと思ってご容赦ください」
一同をぐるりと見回して、異論がないのを確認した冷泉は一つ息を吸いこんだ。
「では。あの首のない亡骸は本当に深見さんのものだったんでしょうか」
突然の問いかけに、室内には音にならない動揺が広がる。
「深見さんじゃなければ誰だというのかしら」武藤霧子が相変わらずの余裕の笑みで尋ねた。「深見さんがいなくなって、それ以外の人はここにいる。それが全てではなくて?」
「ええ、一見数は合いますね」冷泉はその疑問を目顔で受け止めた。「ですが、これまでと違って、深見さんの遺体には首が見つかっていません。従って、あのご遺体の主をはっきりと深見さんだと断定するには、決め手に欠けると思うのです」
「私たちの知らない誰かが潜んでいて、あの部屋で殺されたとでもいうの?」眦を決した琴乃が、鋭い声で噛みついた。
「いえ、そうではありません、たとえば」冷泉はそこで透をちらりと窺った。
「……弟か」透が眉を顰めて、低く唸る。
「ええ、まだ見つかっていない弟さんの可能性もありますね」冷泉はこともなげに同意を示した。「深見さんと透さんは身長が同じくらいだったように記憶しています。そして、透さんと弟さんが一卵性双生児であれば、弟さんも同じくらいなのではないかと思ったのです。但し育った環境が著しく違うようなので、後天的に体格が違っている可能性はもちろんあります。その辺りはどうだったのですか?」
「きちんと並んで比べたことはないが、まあ、大きく変わらなかったとは思うよ」透は感情を抑えるように目頭を揉み、細く息を吐いた。「けれど、あの遺体が弟のものだとしたら、深見はどこへ消えてしまったというのかい」
「犯人に拉致されているか、もしくは深見さんご自身が犯人であるかですね。前者の場合、わざわざ弟さんの身体を使って深見さんが死んだように見せかけた理由に説明がつかないので、僕は後者だと思っています」
「陽介が犯人だと言うの?!」琴乃が声を荒げた。
辺りにざわめきが広がる。
様々な感情が入り混じった視線が一気に自身へ注がれることにも臆せず、冷泉はあくまで機械的に応じた。
「ですから、はじめに可能性の一つだと申し上げたはずです」
「冷泉くん、それはない。僕がボウガンで襲われた際に、間違いなく深見は僕の真後ろにいたよ」普段より強い口調で透がきっぱりと断言した。
収まらぬざわめきや琴乃と透の異議にも動じることなく、冷泉はなおも淡々と答える。
「これだけのトリックを講じている犯人ですよ。ボウガンの自動発射装置くらいお手の物でしょう。例えば、足元に黒い糸を仕掛けておき、そこを通って糸が切れるとトリガーが引かれて矢が発射されるような、ね。透さん、あなたは本当にボウガンを発射した犯人を見たのですか。深見さんが追いかけた影が動くところを本当に見ましたか?」
静かだが有無を言わさぬ追及の圧力に、透は言葉を詰まらせた。
「それは……、いや、そもそも動機もないだろう。深見が一体、会ったばかりの朱野家に何の恨みがあると言うんだ」
「会ったばかり……本当にそうでしょうか」
「何?」透の表情が、それまで見たこともない厳しいものに変わる。
冷泉は、そんな透すらも淡々と見つめ、「深見陽介さんは、本当の弟さんではない。そうですよね? 琴乃さん」ついに大きな爆弾を投下した。
琴乃の顔色が一気に青ざめる。大きなショックに呼吸をすることすら忘れてしまったようだった。
「彼は、あなたが十三の頃に白峰家に養子として引き取られた血のつながらない弟です。あなたが産まれて以降、子宝に恵まれなかったご両親は、あなたに婿養子を取らせるつもりだった。しかし、万一そこで男の子が産まれなかった事態に備えて、養子をとったのです。そして、そんな家のいざこざから逃れるべく、あなたは駆け落ち同然にこの村へと嫁いだ。嫁ぎ先であなたが男の子を産んでいることを知ったご両親は、長男の瑞樹を深見家の跡継ぎにしたがったのでしょう。それが叶わないならば、もう一人男の子を産めと要求された。――先日、あなたが僕に話してくれた家庭事情の真相はこうじゃないですか? 琴乃さん」
蒼い顔をした琴乃は、膝の上で固く震える自身の拳を見つめていた。
「冷泉」広い空間に瑞樹の声が反響する。瑞樹が強張った表情で友の顔を見つめていた。冷泉もそんな彼の双眸をじっと見つめ返す。後には雨粒が窓を叩く音が残った。
やがて先に視線を外したのは冷泉だった。彼は全体に向き直って唇を開いた。
「深見陽介さんは、七ツ森町の福祉施設から引き取られた子供だったのです。そんな彼の生まれがこの村だったとしたら?」
「ちょっと待ってくれ」その拍子に透が音を立ててふらりと立ち上がった。「そんなことはありえない、僕と同じ年に産まれた子供は弟ただ一人だ。間違いない」
「ええ。透さんがご存知ないのも仕方ありません」驚愕に声を震わす透にも、動じることなく冷泉はあくまで平然と窘めた。「二十四年前の九月、この村で生まれたその日に、福祉施設に預けられた赤ん坊が居ました。そうですよね? 龍川先生」
今度は龍川が雷に打たれる番だった。
「それが、深見陽介さんだったのですよ。彼の本当の両親は、朱野源一郎さんと、武藤霧子さん」
「嘘よ!」怒涛の雷撃が次に貫いたのは武藤霧子だった。それまで涼しい顔で聞いていた武藤霧子だったが、その瞬間感情を爆発させてその場に立ち上がった。「死んだって! 死産だったって! みんなそう言っていたじゃない!」そう言って龍川の丸まった背中を、霧子は鬼の形相で睨みつけた。
俯いたまま、額から玉のような汗を流す父の姿を、隣に座る小夜がはらはらと眺めている。
「全部、水谷さんの日誌に書かれていました」冷泉は食卓の上の日誌を掴み、高々と掲げて見せた。
龍川はゆっくりとそれを視界に収め、それから観念したように肩を落とした。
「申し訳ありません、霧子さん……」
老医師が零した言葉が線香の煙のように立ち上る。その細い声に、武藤霧子は糸が切れたようにその場に崩れ落ちて、さめざめと涙を零し始めた。
そんな霧子の様子を直視できないのだろう、龍川医師は頭を垂れたまま固まってしまった。そんな老医師に、冷泉はぽつりと質問を落とす。
「深見さんがその時の赤ん坊であると、気づいていたのですか?」
「……確証はなかったのですよ。事件が起こるまでは、結び付けることもなかった。それが、私なりに事件のこと、動機やら犯人の正体やらを考え始めてみて、ふと。ああ、あの子も陽介といったな、と。それでも、そう珍しい名前でもないし、結び付けることはありませんでしたよ。もしやと思ったのは、深見さんが殺されてからです。その後『白虎像』が『玄武像』と入れ替わっているのを見て、確信に変わりました」
「だからだったんだな」
それまで愕然と日誌を眺めていた透が、突然ぽつりと言った。
「だから、とは?」
「いや、初めて深見をこの屋敷に連れてきたときに、水谷さんがやけに感慨深そうにしていたんだ。水谷さんは丁寧な人だったからさ、その時はただ深見のことを歓待してくれているんだろうなと流していたんだけど」
「でしたら、水谷さんは何かしら気づいていたのかもしれませんね」
「この村に連れてくる前にも、深見のことは水谷さんにあれこれ話したからな。そこで勘づいたのかな。いや、もっと……ひょっとしたら、水谷さんは七ツ森町の福祉施設に預けた子供のその後を、ある程度追っていたのかもしれないな」
すすり泣く声と罪責感と驚愕とで満たされた部屋には、重苦しい空気が立ち込めていた。
自身の弟の真実を暴かれた者、その息子。自身の過去の隠し事を暴かれた者、その娘。死産とされた自身の子供が実は生きていた者。友人が実は異母兄弟だった者。それぞれが受けた衝撃の重さで、空間の重力が歪んでしまったようだった。
やがて、透が掠れた声を上げた。
「けれど、仮に深見がその……父と霧子さんの子供だったとしてもだよ? すなわち深見が犯人だとはならないんじゃないか」
「ええ、ですから、再三申し上げたとおりまだこれは仮説の一つにすぎません。ですが、犯行が可能な人物であり、かつ動機がある人物となると、彼しか浮かんでこないのですよ。他にある可能性を全部潰していって残った仮説が深見陽介犯人説であれば、それはもう真実と呼ぶに近いのではないでしょうか」
「そんな横暴な」
「ええ。ですから、他の可能性を潰した場合に、と限定しています。この一連の事件を朱野家への復讐だと仮定した場合、少なくとも、犯人は深見陽介さんと朱野源一郎さんの関係について知っていた人物となるはずです。違いますか?」
正面から冷泉の刃のような視線に射抜かれ、透は強張った表情で顎を引いた。
「それは……そうだろうね」
透が同意を示すと、冷泉は、では次のステップですとでも言うように、一つ頷きを返した。
「また後の警察の調べで深見さんと朱野源一郎氏の血のつながりが明らかになった場合、容疑者が朱野家の事情に詳しい人物に絞られることを犯人が予測していなかったとは思えません。これについてはどうですか?」
「ああ、まあ、普通に考えて予測できるだろうね。異論ないよ」
「では、犯人は逮捕されるのが怖くなかったのでしょうか? しかしその場合、密室やアリバイ工作をした理由がわからなくなります。犯人は警察の手から逃れるために数々の工作を施したはずですから。つまり、犯人は“深見さんのものだと思われている首なし死体”と源一郎さんの遺体を調べられることを恐れていなかった。その理由を、透さんはどう予想しますか?」
「……父と深見の血縁関係が判明した場合、容疑者として浮かび上がるのは事情を知っていることを隠しようがない龍川先生だ。ということは、犯人は龍川先生に罪を着せたかったんじゃないか?」
その回答が狙ったものとは違ったのか、冷泉はううん、と小さく唸った。「それも可能性の一つとしてあります。しかし、もう一つあるでしょう」
「もう一つ?」
怪訝そうに眉根を寄せる透に、冷泉は涼しい顔で爆弾を投げつけた。
「ええ。犯人が深見さんであり、あの首なし死体が全く関係のない第三者のものであるというケースですよ」
「な!」
その場に稲妻が走り、全員が言葉を失った。
「先ほど僕は、あの首なし死体を行方がわからなくなっている弟さんのものである可能性に触れましたが、深見陽介さんを犯人であると仮定した場合は、第三者の死体である方が有力かもしれませんね。何しろ、深見陽介さんが深見家の嫡子でなく養子であることは調べればすぐにわかることですし、彼の実の両親については表向き不明ということになっているでしょう。源一郎さんと武藤さんの隠し子と、あの日教会に置かれていた嬰児とを結びつけることのできる者はいないと深見さんが考えたとしてもなんら不自然ではありません」
「わ、私がいれば、流石に気づきますよ」龍川が唾を飛ばした。
「そうですね、先生が唯一真相を知る人間です。しかし、先生の口さえ封じてしまえば……」
「なんと!」龍川が目を白黒させた。「私は殺されるところだったというのですか」
「先生はその不安はなかったのですか? 深見さんをあの日の“陽介”だと気づいた瞬間、少しは頭に浮かんだのでは」
冷泉の言葉に、龍川はあからさまに目を逸らして唇を引き結んだ。これを気に留めることなく、冷泉は全体へ視線を撒いた。
「深見さんによる復讐だと仮定した場合、復讐の対象となるのは朱野家と、遺棄に関わった百合子さん、水谷さん、そして龍川先生です。龍川先生を除けば、今回の被害者と一致しませんか?」
これに異を唱える者はいなかった。
「龍川先生の口を封じてしまえばもう真相を知る者はこの世にいない。よって深見さんは、全く関係のない、それこそ身寄りのない同じ年頃の人間を拉致して、自身の身代わりにすればそれで事足りると考えたのだと思います」
反駁を待つように、冷泉は一同をぐるりと視線でなぞったが、反駁どころか言葉を発する者すらいなかった。それを確かめて冷泉は、あくまで無感情に話を続けた。
「“深見陽介”は殺人事件の被害者として処理され、本物の深見陽介は別人として生きていくことになります。戸籍がない状態で生きていくのは難しいでしょうが、戸籍を買うなり、外国へ高飛びするなり方法がないわけではないので」
「深見の家や、勤務先に残った深見の指紋や毛髪と、発見された遺体のものとが合わないんじゃないか?」
やがて、思考の追いついた透が異を唱えた。しかし、それすらも予期していたかのように冷泉は余裕の態度で応じた。
「そうですね。深見さんが犯人であれば、指紋や毛髪を残すようなことはしていないでしょう。彼のいた東京には住人の痕跡が全くない奇妙な居室と、職員の痕跡が全くない奇妙な職場が残されているはずです。そこで生活していた深見陽介と、首なし死体で発見された深見陽介が別人物であるという証拠は発見されません。ただ、極めて不自然な居室と職場が発見されるだけ。それ以上の証明は不可能でしょうね」
「冷泉くん……秘密を暴いて楽しい……?」
「母さん」瑞樹が窘めるように声を上げる。
冷泉は乱れた髪の隙間から覗く、琴乃の蒼い顔を黙って見つめていた。
「あなたの告発のせいで傷ついた人たちが、これだけ目の前にいるの、わからない?」
彼女の震える手が指し示す先には、項垂れた龍川と武藤霧子の姿がある。
それらを背に、涙ながらに声を震わす琴乃の訴えを、冷泉は泰然と受け止めた。
「ええ。非道いことをしていると自覚しています。申し訳ありません。本来ならば、秘密を暴くなんてことはしたくありません。現に、水谷さんの部屋で日誌を見てしまってからも、僕は一切を自分の胸の内に秘めておくつもりで今まで黙っていました。けれども、この三日間だけで五人が殺され、一人が襲われ、一人が行方不明になっています。さらに犯人はまだ捕まっていません。こんな状況で、指をくわえて救助を待っているだけでは、最悪全滅してしまうかもしれません。僕はこれ以上の犠牲を出したくないんです。犯人を暴いて捕まえる。そうすれば、もう殺される恐怖はなくなりますから」
粛々と告げられるその言葉に、複雑そうな表情を見せた後、琴乃は静かに言った。
「……わかった。貴方が興味本位で村をほじくり返しているようなことを言ってしまってごめんなさい。その仮説とやらを聞かせてちょうだい。あなたの言うように、あの子が犯人なのだったら、あの子の狂気に気づいてあげられなかった私にも責任があるもの」
そう言って琴乃が寂しそうに首を垂れるのに、透も耐えきれないといった様子で俯いた。傍にいたのに狂気に気が付けなかったというのに当て嵌まるのは何も琴乃だけではない。透もだった。彼も思うところがあったのだろう。
「わかりました。お身内を疑う無礼をご容赦ください」冷泉は深々と頭を下げた。やがて再び現れた彼の顔は、いつもの理性を取り戻していた。「話を戻しますと、何らかの理由で、真実を知ってしまった深見さんは、自身を捨てた朱野源一郎さんとその一族、遺棄に関わった人たちへの復讐を企てたのではないかと考えています。
少し触れましたが、百合子さんや松右衛門氏の死に関しても、この一連の復讐劇の一部なのではないかと考えました。百合子さんが亡くなった件については九年前のことなので、深見さんは当時十四歳。ですから、ひょっとしたら違うかもしれませんが、松右衛門さんに関してはある程度の確信を得ています。
深見さんは勤務先の部活動の副顧問をしていたとのことですが、日曜日と盆、正月は、それもお休みだったそうですね」
視線を向けられ、透は力なく肯いた。冷泉は続けた。
「松右衛門さんが亡くなったのは日曜日の朝ですから、深見さんが土曜日に東京を経って四神村を目指したのだとしたら、日曜日早朝の犯行は不可能ではありません。これは警察が来た後で深見さんの切符の購入履歴や当時の動線について調べればわかることなので、この辺りで置いておくことにします。
次に、静さん殺害について。この時、深見さんにアリバイがないことは、以前行ったアリバイ検証で明らかになっています。透さん襲撃に関しては、先ほど述べたとおり。糸などを使っての、深見さんの自作自演だったわけですね。この一件は容疑者から外れ、安全圏に滑り込む狙いがあったのではないかと推測します。次に水谷さん殺害ですが、深見さんには十時から十一時まで、一人、白峰家の離れで過ごしていたということでアリバイがありません。この間に深見さんは、水谷さんを殺害し、部屋の内側に両腕を、庭に胴体と頭部を置いてその場から立ち去った」
「ちょっと待って」琴乃が小さく手を挙げた。「あなた、犯人の足跡がなかったから、雨が降り始める十時以前の犯行だと言っていたでしょう? その話はどうなったのかしら」
その質問も、彼の予想の範疇だったのだろう。冷泉は落ち着いた表情で応じた。「それは、先ほど行った『玄武の館』での検証で解決しました。昨朝は十時過ぎから十二時まで雨が降っていました。ついた足跡を箒や、枝葉などで掃いて均しておくだけで、その後降った雨粒がふやかして洗い流してくれます。実際にやってみたところ、二十分そこらで充分に跡形もなく消え去りました」
怪訝そうに透を見遣る琴乃に、透も間違いないと一つ首肯した。
冷泉はそれらを確認してから、「これで水谷さん殺害の際の深見さんのアリバイはなくなりました」淡々と言い切った。
「ひとついいかな?」今度は透から手が挙がった。「龍川先生の検視だと、死亡推定時刻は十二時頃だと言っていたけれど、冷泉くんの説と矛盾していないかな」
「死亡推定時刻を誤魔化したのですよ」
その言葉に、龍川医師がぎょっと目を剥いた。
「誤魔化したですと?」
「そう。失礼ですが、龍川先生は何を根拠に、死亡推定時刻を十二時頃だと判断なさったのですか?」
ここまで来てもなお自らの行った検視結果が蔑ろにされていることに狼狽を隠し切れない龍川医師は、「それは」と前のめりにしろの目立つ口髭を動かした。「血液の凝固具合です。胴体は、深緑色のドラム缶の中にあってかなり蒸されていたため、正確な死亡推定時刻がわからなかったので。部屋に残っていた血液がまだ乾いていなかったため、流れ出してから三十分も経っていないだろうと判断したわけですよ」
その説明は彼の予想通りだったようで、冷泉は答えを待ち構えていたタイミングで一つ頷いて言った。
「まさしく、そこに犯人の狙いがあったのですね。先生、血液検査などでは、血が固まらないために、試験管の中に何か薬剤が入っていますよね」
冷泉の言葉を受け、龍川はあっという顔をした。「抗凝固剤か!」
少年のように膝を打つ老医師に、冷泉は首肯した。
「ええ、仰る通りです。犯人は、部屋に流れ出た血液にそれを混ぜて、死亡推定時刻を誤魔化したのですよ。この村に、精密な検視道具がないことを利用したのですね」
「私は医師とは名ばかりですからなあ」 龍川医師が弱ったように頭を掻いた。そこに嫌味さや卑屈の色はなく、あくまで他意のないもののようだった。
冷泉は特に慰めるでもなく、部屋全体に視線を戻した。
「以上が、水谷さん殺しにおけるアリバイトリックの全容です。次に源一郎さん殺しと深見さん殺しですが、これはいずれも深夜三時頃のことなので、離れにいた深見さんは抜け出すことが可能です。深見さんがしきりに夜間出歩くことに反対していたのは、このためだったのではないかと推測します」
「確かに深見さんは夜間の移動をひどく危険視しておりましたな……」龍川が無精ひげの伸びた顎を撫でた。早朝から起こされたため、剃るタイミングを逃したのだろう。
「ええ。そして深見さんは廊下の窓を割って侵入。窓枠には泥の痕が残っていましたが、そこから先に足跡はなかったので靴を脱いだのでしょう。靴跡から正体がばれるのを危惧したものと思われます。それから絹代さんに気づかれないように廊下で待機し、源一郎さんがお手洗いに出た瞬間などを狙って襲い、木工室で殺害したのでしょう」
「そういえば」透がぼんやりと言った。「確かに父は、夜間頻尿を患っていて。絹代さんは、いつもは父が夜手洗いにいくたびにベッドの揺れで目を覚ますけれど、今日は気づかずぐっすり眠っていたということを証言していたな」
「それでしたらわたくしも聞いたわ」
透の証言に、武藤霧子が同調する。普段のどこか余裕のある上品さは失われ、そっけない口調であったが、気にする素振りもなく冷泉は順調だと言わんばかりに小刻みに頭を揺らした。推理の点と点を補完するピースが、こうも都合よく集まるものかとぞくぞくしてしまいそうなペースだろう。
「でしたら、絹代さんに睡眠薬を盛っていた可能性が浮上しますね。より安全に犯行に及ぶことができたことでしょう。ですが、それだといつ一服盛ったのかという謎が出てきますね。これはまたおいおい考えることにしましょう。話を先に進めますが、ここまで何かご質問のある方は?」
今度は瑞樹が挙手をした。
「虎をバッテンで消して雀マイナス亀と書かれていたあの血文字だけどさ、虎は白虎、亀は玄武、雀は朱雀のことだよね。で、マイナスだと思っていた横棒は父と母を繋ぐ線だった」
「ああ、白虎、すなわち白峰家の縁者だと思われていた深見さんが、実は武藤家、朱野家の血縁者だったことを指しているのだろう」
「うん。でもなんで、わざわざそんなこと……自分の出生を仄めかすことを書いたの?」
「それは、おそらく龍川先生へ恐怖を与えるためじゃないかと思うがな」
「でもさ、それで殺される! って怖くなった先生が全てを話してしまったら、陽介くんは動きづらくなるだけだよね」
冷泉は確かに、と一度黙り込んだ。
「まあ……見立ての一片だろうから、理屈ではない部分もあるんだと思う」
瑞樹は腑に落ちない顔で「そんなもんなのかな」と首を傾げた。
「他に質問のある人は?」冷泉はぐるりと見回した。
そして、もう誰も言葉を発するものがいないことを確認すると、次のステップへと足をかけた。
「では進めます。それから、深見さんは身代わりの第三者、もしくはどこかに監禁していた弟さんを殺害し、自身が宿泊している白峰家の離れに首を切って座らせ、血文字を残した。これには、自身を容疑者リストから外し、残りの犯行を行いやすくする目的があったと思います。生存者が減ってくると、当然ながら各人の守りが固くなるうえに、一人一人にかかる嫌疑も深まり、動きづらくなりますからね。また、彼が死んだふりをして行動をしやすくしてきたということは、まだ今後も殺人を続ける意志が彼にあるという証左にもなるかと思います」
龍川がぶるりと身震いした。
冷泉はそれを横目で見遣ると、構わず続けた。「そして、もし死体が弟さんであった場合には、別の危険が浮上してきますね」
「別の危険?」琴乃が眉を顰めた。
「ええ」冷泉は肯き返した。「警察が到着した後でDNA鑑定をすれば、遺体が弟さんのものであることはわかります。それにも関わらず、入れ替わりのトリックを使ったということはどういうことか。――深見さんは、この場の全員を殺して逃走し、最初からこの村に来ていなかったふうを装うつもりかもしれません」
「な!」
その場の誰もが息を呑み、言葉を失った。それも無理はないというように冷泉は首を縦に振った。
「村の人間が全滅している。生存者はいない。それだけのことです。深見さんがこの村を訪れたことを知る人間は誰一人として生きていないのですから」
「そんな……乱暴な……」龍川があんぐりと口を開けた。
「乱暴ですね。散々乱暴なことをしてきている犯人です。やりかねませんよ。ですから、僕はそのことを危惧しました。それが、少々強引ですが、僕がここで犯人を探そうと言い出した一番の理由でもあります。早く捕まえなければ、まだ犠牲者が出るのではないか、と不安に駆られたわけですね」
それまで、耳から入ってくる情報を脳内で処理している最中であるように、ぼんやりと足元見つめていた透が「なるほどね」と視線をあげた。「それはよくわかったけど、死体が弟でなく第三者だった場合、深見はどうやってこの村に第三者を運び入れて、どこに匿っていたんだい?」
「実際に確かめたわけではありませんが、それに関してはそう難しくはないでしょう。敢えて憶測で例を挙げるならば、深夜に車で運び入れて、森の中に匿っていたなどですかね。無論これは一例にすぎません。他にもやりようはあると思いますので」
「後に警察が捜査に入った場合、拉致の痕跡は見つかるだろう。そうなると、この痕跡はなんだという話になるんじゃないかな」
「そうならないために、弟さんを拉致したと考えられます。鑑識に調べられれば、その場に残った糞尿や毛髪などから弟さんとは別の人間が拉致されていたとばれるでしょうから、その前に燃やすなどして人物を特定する材料を隠滅するつもりだったかもしれません。材料さえ隠滅してしまえば、拉致の痕跡自体はあっても不自然ではない。弟さんが居た場所として偽装できますからね」
納得したという顔にはとても遠かったが、透は唇を引き結んだ。反論が途絶えたところで冷泉は視線を場に返した。
「疑問をぶつけていただくことは大いに歓迎します。反論をぶつければぶつけるほど、それを乗り越えて論はより強固になっていくものですから」と、友への嫌疑を信じたくない透の心境への配慮と、その顔を立てることは忘れない。
その言葉にも、透が反応を示すことはなかった。
冷泉は構わず話を進めた。
「では、話を戻しましょう。そうして自らを被害者に見せかけることで、容疑者リストから外れた深見さんでしたが、彼にも予期せぬことが起きていた。そう、絹代さん殺害の時間帯に、偶然ながら残った生存者が一堂に会してしまったわけですね。そのことで、逆に生存者以外に絹代さん殺害の実行犯がいることが証明されてしまったのです。
以上が、深見さんを犯人と仮定した場合の、犯人の動線の全てです。何か異論はありますか?」
辺りは水を打ったようにしんと静まり返っている。
それからしばらく、誰も言葉を発する者はいなかった。琴乃などは沈鬱に床を見つめたまま、ぴくりともしない。瑞樹も壁の向こう、どこか遠くを見ているようだった。
やがて、「密室の謎は解けたの?」ここでの沈黙を切り裂いたのも、ようやく言葉を取り戻したらしい透だった。
「半々ですね。水谷さん殺害時の、武藤邸で使われたトリックについては答えが出ています。あと考えるべきは、静さん殺害の納屋と、“深見さん”殺害が行われた白峰邸の離れ、それから源一郎さん殺害の木工室のトリックですね」冷泉は視線を透から外し、ぐるりと全体を一望した。「僕がこうして話したのは、探偵のようにトリックを見抜いて事件の全容を暴くためでなく、犯人を絞ってこれ以上の犠牲者を出さないためです。ですから、ここで大事なのはフーダニットであって、ハウダニットではないのですよ。よって、方法の究明はひとまず置いておいて、深見陽介さんが唯一全ての事件において犯行現場にいることができた人物であるということがわかれば、それでよかった。深見さんが犯人であるならば、外部にさえ注意を向けていれば助かりますから」
「といっても」龍川がため息まじりに言った。「深見くんが犯人か否かに限らず、相手はトンネルを崩落させうるだけの爆発物をもっていますからな。固まっていたら安全だとも言い難いところです」
「龍川先生が仰る通りですね。犯人を特定して縛り上げでもしないことには、真の安全は訪れません」
誰も異を唱える者はいなかった。やがて沈黙を切り裂くように、透が細長く息を吐いた。
「わかったよ。他の人達を犯人だと仮定すると何かしらに無理が生じ、深見を犯人だと仮定すると筋が通る。よって消去法から深見が犯人である……と冷泉くんが考えていることはよくわかった」透は顔を上げた。
冷泉は正面から対峙する。
「それでも、深見が犯人だというのは、僕は……まだ、呑み込めそうもないや」と、泣き笑いのように表情を崩して再び俯いた透を、琴乃が涙を流しながら見つめていた。
部屋に立ち込めていた驚愕と冷泉への不満が、いつのまにか微かな安心へと変わっていた。
依然として犯人の行方と、密室の謎は不明なままだったが、五里霧中の状態から脱却し、一筋の光が見えたというだけで、一同の不安は幾分か薄まったようだった。
しかし、そんな一同のささやかな安寧を嘲笑うかのように、事態は急転した。
十二
朱野穢が変わり果てた姿で見つかったのは、その日の夕方のことだった。
木工室のトリックについて、何か手掛かりはないかと、冷泉、透、瑞樹の三人が屋敷の裏手を捜索していたところで透が異臭に気づいた。それから、注意深く周囲を探ってみたところ奥の洞穴に横たわる朱野穢の足が見えたのだった。
朱野穢は両手足を手錠で拘束されたまま、よく研いだブナの太枝で喉を一突きに貫かれたとみえて、辺りは夥しい量の鮮血と噎せ返るような匂いで溢れていた。
洞穴の入口は裏山の斜面の途中にあり、傍には藁や枝葉がこんもりと盛られていた。どうやら、これで入口に蓋をして洞穴の存在を隠していたようである。そのため、先日裏山を捜索した際には、見過ごしてしまったらしかった。
また、洞穴の奥行きは案外深く、中頃には封がされたままの流動食と飲料水の瓶が幾つか転がっていた。そしてその奥からは血まみれの凶器と深見陽介の首が見つかった。……
朱野穢の遺体は死後六~八時間経過しているとみられた。また、手錠が嵌められた両の手首足首からは、手錠を外そうと抵抗したような傷痕は見つからなかった。つまるところ彼が絹代殺害の犯人であるならば、絹代を殺害してそのまま山へ入り、自ら両手両足に手錠をかけて、ブナの枝で喉を貫いて死亡したということになる。実におかしな話だった。
それが、裏山の三合目のことである。更に裏山を見晴らし丘に向かって昇って行ったところ、ちょうど五合目あたりの細道に、鼈甲の簪が落ちていた。これに関しては、藤川絹代の持ち物だと、のちに透と小夜が証言している。
この簪はいつ落ちたのか。考えられるのは三通りだった。一つ目は、透を襲撃した犯人が藤川絹代であり、深見の追跡から逃れる際に落ちたものだという説である。二つ目は、翌日源一郎と絹代がトンネルを見に行った際に、『玄武の館』の裏手の緩やかなルートでなく、こちらの険しいルートを通ったという説である。そして三つ目は、犯人が攪乱のために絹代の簪を盗み出し、ここに落としたという説だった。
このうち二つ目の説は、源一郎と絹代の証言との不一致から否定することができる。よって、真相は一か三に絞られた。
「申し訳ありませんでした」
冷泉の謝罪する声が居間に響く。座礁した探偵を責め立てる者は誰一人いなかった。
「僕たちも、結局論理的に疑惑を覆すことはできなかったわけだし」
透の慰めの言葉に、冷泉は頭を上げた。その目に諦めの色は微塵もなかった。
「深見陽介犯人説をリセットして、一から練り直してみましょう」
「その……弟が、犯行に絡んでいたのかな」透が視線を落とす。
「状況的にはそうなります。が、真犯人の手により罪をなすりつけられた可能性もあります」
「僕もそう思う。第一、仮に弟が犯行に関わっていたとしても、一人で全てを完遂できるはずがないんだ。弟は地下牢の外を知らない。だから共犯者がいて、弟を唆して全ての罪を着せたとしか思えない」
「村の地理や各人の習慣について、弟さんに情報を伝えた人間がいるというのですよね」
冷泉の言葉に、透は黙したまま肯いた。
「けれど、冷泉」白峰瑞樹が真剣なまなざしを向けた。「共犯者は殺人教唆を行っただけで、実行犯は全て弟さんだったとしたら、共犯者が誰なのかを絞ったり、証明をしたりするのは難しくないかな」
「そうなんだよな」冷泉は顎に長い指をあてた。「静さんが殺害される以前に全てを弟さんに入れ知恵していたとしたら、この三日間のアリバイ検証なんて関係なくなりますからね」言いながら冷泉は身体を反転させた。深見の遺した手帳を捲る。左手に見えるソファには草臥れた面々が身体を沈めていた。
「おそらく穢くんに犯行は無理ですよ」
そこまでじっと黙って議論を見守っていた龍川がソファから背を浮かせた。
「無理とは」
「検視をするときに、彼の手足の筋肉も確かめたのですよ。あの筋量ではせいぜい狭い部屋の中を移動するくらいが関の山でしょうな。重いものを持ち上げたり、ましてや山道を走って成人男性を振り切ったりすることなんか、とても」龍川はゆるゆると首を左右に振って視線を落とした。
「穢さん実行犯説もこれで消えたのか」冷泉が天井を仰ぐ。
「犯人が何人いるかもわからないし」瑞樹がぽつりと落とした。
つられて透が自棄っぽい笑いを零す。「本当だね。それこそ自分以外が全員グルだったりしたら勝てっこないよ」
「まあ、そのとおりですね。極端な話、三人、四人での共犯だったりすれば、アリバイはいくらでも誤魔化せますからね。例えば、僕や瑞樹など顕著でしょう。僕らは多くのケースで一緒にいたためにアリバイが証明されていますから。僕らが共犯だった場合に、アリバイは崩れ去ります」
「白紙に戻ってしまったな」透が窓の外へと視線を投げた。太陽が西の空に傾いている。また長い夜が訪れようとしていた。
「また誰かが死ぬのかな」小夜がぽつりと零した。蝉の大合唱の隙間から、山鳩の声が部屋に染み入ってきた。
透が場をとりなすように明るい声をあげた。「ひとまず、犯人の特定が煮詰まったのだとしたら、明るいうちに密室の謎だけでも解いてみないか?」
その言葉を皮切りに、若い男衆三人は再び夕暮れが迫る夏空の下へ出て行った。
十三
木工室の天井で扇風機がちょうど百回目の旋回を終えた頃、閂の横木に針金を括りつけたまま、冷泉はしばらく固まっていた。だいぶん日が傾き、室内では電気をつけなければかなり薄暗い。気温もだいぶ下がって少々肌寒く感じられるほどであったが、いかんせん室内に籠った血の匂いに対抗するためには扇風機による空気の攪拌が必要不可欠だった。
「やっぱり閂を扉の外側から閉めるのは無理だな」床に落ちたニッパーと針金の束を乱暴に拾い上げて、冷泉は乾いた首筋を掻いた。「となると、やっぱりあの通気口か」
見上げた先には、先刻外側から確認した鉄格子がある。
「あの格子は取れるんでしょ?」同じく隣で目玉を上げた瑞樹が指さした。「中の犯人の腰に縄を括りつけて、外から共犯者が引き上げるってのはどう?」
「さすがに人一人を持ち上げるのは無理じゃないか?」
「無理か……上まで引き上げて、窓から犯人が出る。そして脚立を使って降りたら脱出ができると思ったんだけどな。……冷泉?」瑞樹は、ある一点を見つめて固まった冷泉の顔を覗き込んだ。
その声にはたと眼球の動きを取り戻した冷泉は、瑞樹の顔を見遣ると口の端を持ち上げて笑った。
「でかしたぞ、瑞樹。そういう使い方をすればもう一つの謎が解ける」
木工室を出てしばらく、屋敷の東側の側面には古い焼却炉がある。静の殺害現場となった納屋から始まり、屋敷の周りをぐるりと調べていた冷泉が最後に行き着いたのがそこだった。
「透さん、この焼却炉は今でも?」
「ああ。可燃ごみは全部ここで処理しているよ。トンネルが細すぎてゴミ収集車も通れないんだ。不燃ごみや資源ごみは、村全体で集めて月に一度、車で隣の五藤村まで捨てに行っているよ」
灰掻き棒で探ってみると、中は妙にこざっぱりしていた。備え付けの不燃ごみ入れには、煤けた釘が何十とある。
「透さん、最後に五藤村までごみを持って行ったのはいつです?」
「毎月第二日曜日だから……一週間近く前かな」
「一週間か。その間に何か家の大きな改修や、大掃除をしましたか?」
「祖父の遺品整理を少ししたくらいかな」
「その割に、粗大ごみや資源ごみは出なかったみたいですね」
辺りに釘くらいしかないのを見て、冷泉は不思議がった。
「そうだね、少し手をつけた程度だったからね。あまり捨てるものも出なかったな」
冷泉は顎に指を置き、少し考え込んだ。
「透さん、カメラを貸していただけませんか?」
「いいけど、現場を記録するの?」
「ええ」
「わかった、ちょっと待っていて」透は快諾すると、屋敷へと駆け出した。
その背中を目で追った後、冷泉はゆるりと焼却炉に向き直った。
「釘ね……」と、その場にしゃがみ込み、その焦げてでこぼこした表面を指で撫でながら考え込む。
そうして何本目かの黒い鉄くずを摘まんだところで、その身体が電流でも流れたように小さく跳ねた。その様子に遠くを眺めていた瑞樹も目を丸くして振り返り、恐る恐る顔を覗き込んだ。
「……冷泉?」
「……こっちだったのか。これは収穫だぞ」
「その釘が?」瑞樹は膝に手をつき、冷泉の指先をじっと覗き込んだ。
その視線にも反応を示すことなく、冷泉は黒焦げた釘のざらざらした表面を指で撫で続ける。このとき冷泉の頭の中には、ある二つの会話が去来していた。
「静さんのケースと同じだったんだ。犯人の思考の傾向が見えてきたぞ」瑞樹が困った顔で首を傾げるのにも構わず、冷泉ははたと目を見張り、立ち上がる。「なるほど。それだったら、電話機爆破にも、深見さん殺害の密室にも説明がつく。あとは」
待ちきれないとばかりに屋敷を仰ぎ見たところ、ちょうど透が玄関から出てくるのが視界に入った。透が到着するのを待って冷泉は切り出す。
「透さん、龍川先生の家に行ってみたいのですが」
十四
日が落ちた東北の山村は、夏でも肌寒さを感じるものである。
昏い。ただそれだけで、人は本能的な恐怖を煽られ、膨らんだ鬼胎は産毛を逆なでる。
『青龍の館』から人の気配が去ってまだ半日足らずだというのに、その館は長年の孤独を彷彿とさせる静けさに満ちていた。
立ち合いには、龍川小夜がきていた。
老父から借りてきた玄関の鍵を使い、小夜自ら封を切る。暗闇の中、居間の時計の針の音だけが、しとしとと足元に絡みつくように耳朶を擽った。
冷泉は居間に足を踏み入れる。他人の家特有の、生暖かい匂いが鼻腔をかすめる。何度か嗅いだはずなのに、まるで異世界にでも迷い込んだような未視感を覚えた。冷泉は、自らの腕時計を何度か見遣り、それから居間を、診療室を、それから各部屋を隈なく一周した。
やがて、小夜の部屋の前で足を止めると、一歩後ろの小夜に、扉を開けたままにして、あるものを取ってくるように促す。小夜は小さく頷き室内へ入り、程なくして言われたものを抱えて戻って来た。
手渡されたそれを確認して、冷泉は力なく目を閉じ天を仰いた。
遠くで風の音がする。風に吹かれて葉が揺れ、束になってざわめきに変わる。いつしか、蝉しぐれは止んでいた。
居間に戻ると、ソファに腰かけて待っていた瑞樹と透が無言のまま立ち上がった。
「もう結構です」
そう言って冷泉が外履きのつま先を鳴らすまで、そう時間は掛からなかった。
朱野邸に戻った冷泉は、透に断りを入れて源一郎と絹代の寝室へと足を踏み入れた。
「源一郎さんの私物は少ないようですね」
「衣類以外の、例えば書籍や趣味のものなんかは全てコレクションルームに置いているからね」
ベッドサイドには古めかしいサーベルが転がっていた。藤川絹代が握っていたものだった。
「応戦する暇もなかったのでしょうね」呟いた冷泉を一瞥もすることもなく透は背を向けた。冷泉も気にすることなく室内をひっくり返す。「絹代さんはどのあたりに私物をおいていたのでしょうね」
「さあ……どうだろうな」
アンティークの茶箪笥の引き出しひとつひとつに手を掛けていったところ、最下段の深い引き出しが二重底になっているのに気付いた。板を持ち上げる。中からは三冊の書籍と中身の入った黒色の小瓶が出てきた。書籍には上から生前贈与、遺言、相続との文字がある。冷泉の肩越しに視線を落とした透は、それらを汚いものを見るような目で瞥見してからふっと鼻で嗤った。
その時の透の目は、闇夜よりも昏く、井戸の底よりも深く冷たいものだった。
屋敷に残った七人全員で食事を済ませ、交代で風呂を借りた。風呂は屋敷の東側の端に位置していた。居間からは遠く、見通すことはできない。そのため、一同は一度風呂の前の廊下へと移動することとなった。そこでひとところに集まり、風呂を使う人間だけが脱衣所の中に入る。順番も全てあみだくじで決めて抜かりはなかった。
そして最後の透が出てきたところで、連れたって居間に戻る。
昼間、深見陽介の出自が明らかになってからこちら、龍川と琴乃と武藤霧子の間にはどこかぎくしゃくした空気があったが、原因は主に龍川医師によるものだろう。老医師は他の二人に顔向けがならないのか、骨ばった背を丸めて俯いてばかりいた。一方、白峰琴乃は龍川医師云々というよりは深見陽介の死そのものからくる悲しみに打ちのめされているようである。逆に武藤霧子は、若い男衆三人が現場検証から戻る頃には、すっかり平常時の様子を取り戻しているように見えた。
「また今宵も犯人はやってくるのかしら」白峰琴乃が、足元を見つめながらぽつりと零した。その目にみるみる雫が膨らんでくる。
そのまま丸まってしまいそうな背に、瑞樹は細身の手を伸ばして優しく撫でた。「そうならないように、みんなでまとまっているんだからさ」
「どうして昨日からそうできなかったのかしら……」
過ぎたことは仕方ないよ、だなんて、とても言えたものではなかった。何より瑞樹自身が、その後悔に苛まれているのだ。
「陽介……」
幾度となく足が止まりかける琴乃を、龍川と小夜、それから透が心配そうに振り返る。
「明日になれば父さんが帰ってきて警察を呼んでくれるから。もう一晩の我慢だよ」
瑞樹が言葉は琴乃に向けながらも、視線で窺いを立ててくる中、冷泉はじっと俯いて口を噤んでいた。
居間のソファに琴乃を座らせたところで、透が盆を手に寄って来た。「これ、ラベンダーティーなんだけど」瑞樹を前に小声で囁いて、テーブルの上に盆ごと載せる。丸い硝子製のティーポットと、空のカップが三つのっていた。
「ありがとうございます。その……透さんも落ち込んでいらっしゃるときに、いろいろと気を遣わせてしまってすみません」
瑞樹がしゅんとすると、透は構わないよ、というように右手を顔の前で振った。
「うちの食器を使うのは怖いかもしれないけれど、一応使う前に洗剤で流してきたから、よかったら。なんなら、使う前にもう一度洗い流してくれてもいいし、洗剤への毒を疑うなら、予備の新しいものを開けてくれても構わないし」
自嘲気味に肩を竦めて、透は再び台所へと戻っていった。犠牲者のたくさん出た家の食器だから、毒でも塗られているかもしれないと、彼はそう言いたいのだろう。現に夕食の準備の際にも、客も主人も年齢も性別も立場も関係なく、相互監視のもと厳重に注意を払うよう、誰よりも率先して促していたのは透だった。
武藤霧子が、カップを三つとも表に返して黄金色の液体を均等に注ぎ分けた。うち一つに口をつけて口元を緩めた。深見陽介の出自が明らかになって以来、白峰琴乃と武藤霧子が初めて目を合わせた瞬間だったかもしれない。
「琴乃さん、温まるわよ。小夜ちゃんもどうかしら?」
「ありがとう。でも……」小夜は消え入りそうな声で呟き俯いた。
隣に座る龍川医師が、眉を八の字にして頭を下げ、「霧子さん申し訳ありませんな。小夜、飲まないのなら、私がもらうよ」と、娘の顔を覗き込んだ。
小夜は幼子のように父親の腕にしがみ付いたまま小さく首を振って額をつけた。肩の上で切りそろえたおかっぱがふるふる揺れる。元々年齢よりも幼く見えるきらいがあったが、誰かの陰でじっと俯くことの多くなった今では、まるで人見知りの小学生のようだった。
琴乃もカップに手をつける気配がないのに、瑞樹は眉を顰めて低く言った。
「僕たちがこの部屋で一晩を過ごすことは、朝の時点で決まっていたようなものですよね。犯人がそのことを知っているならば、この部屋に何か仕掛けられていたりしないでしょうか」
その言葉に、各々が目をはっと見開いた。そこにちょうど透が戻って来る。彼はソファと食卓テーブルを見比べ、一人食卓に陣取る冷泉の前の椅子を静かに引いて腰を下ろした。
「何かって」カップを片手に、武藤霧子が小首を傾げた。
「爆弾とか、かね?」
龍川の言葉に、一同ゾッと身を竦める。
透が視線を揺らして動揺を示した。「けれど、朝からずっとこの部屋には誰かしらがいたわけでしょう? 犯人が爆弾を仕掛ける時間なんてなかったんじゃないですか」
「あらかじめ仕掛けていた可能性はあるかもしれないですぞ。現に、電話機はおそらく遠隔で一気に爆破されました」
「確かにおっしゃるとおりですが……ええっと、外部犯ならそれもありえるのかな」徐々に場の空気に感化されたのか、透が不安げに冷泉を窺う。
冷泉は議論に加わる様子もなく、視線をこの場に預けたまま、何やら別のことに思考を飛ばしているようだった。
そんな冷泉の様子に、返答を諦めた透が自答する。「内部犯なら、犯人も死んでしまうかもしれないですし。それに爆弾を気にし始めたら、どの屋敷にだって安全な場所はなくなってしまいませんか? 気にしてもどうすることもできないというか」自らもどうにか安心したいのだろう。どこか引き攣った表情で、懸命に明るい表情を作ろうとしているようだった。
「そうね。この村全体が、今では獲物を捕らえる罠みたいなものだものね」透の気遣いをぶち壊すかのように、武藤霧子が朗々と答えた。
「いやだ、死にたくないよ」小夜がおかっぱを揺らして、父の腕にしがみ付いた。
水に落とした墨汁がもやもやと広がるがごとく、その場を恐怖が浸食する様を見渡して、冷泉は何かを決心したように視線を上げた。
「すべてを終わらせましょう」
その一言に、部屋中水を打ったように静まり返る。
「もう恐怖の夜はおしまいです」
「犯人がわかったの?」
声を震わせる瑞樹に、冷泉は特に当否を示すことなくただ温度のない視線を向けた。
「僕の考えが合っていれば、明日になればおそらく警察がやってきます。そうすれば、最先端の捜査技術を以て犯人はおのずと絞られるでしょう。それを待つのも一つの手かとも考えていました。一度失態を演じた身ですからね。餅は餅屋。やはり素人は出過ぎず、専門家に託すべきかと」昼間の深見陽介犯人説での失敗が響いているのか、冷泉は一転して弱気さをちらつかせた。「けれど、終わる保証はないですからね」
ナイフのような鋭さを孕んだ視線に横薙ぎに払われて、一同は一回り以上萎縮した。
「陽介を殺した犯人が憎い。本当は八つ裂きにしたい」琴乃が喉から血を絞り出すように訴えた。
それを横目で捉えた透が、一度ゆっくり瞬いた。再び現れた目には、黒い炎が宿って見えた。透は、激情を何かねっとりした膜で覆い隠すように、ごく穏やかな笑みを浮かべて、「聞かせてくれないか?」よく通る声でそう言った。
みな気持ちは同じようだった。
冷泉は目を閉じ、何かを腹の底へ落とすように小さく息をついて、瞼を持ち上げた。
「その前に一つお願いが。犯人逆上からの被害を防ぐために、周囲には細心の注意を払っていただくようお願いします」
一同は、ゾッと背筋を正した後、そわそわと互いを牽制するよう視線を揺らした。視線の波が落ち着くのをじっくりと待った後、冷泉は唄い始めにブレスを入れる歌い手のように短く息を吸った。
「推理ものの創作ではしばしば、名探偵が大衆を前にして事件の真相を明らかにしますね。ですが、先ほどの一件でも僕は身をもって痛感しました。本来、大々的に犯人を追い詰めるものでもないのかもしれない、と。けれど、この事件の真相は、この村の人には知っていてほしいと僕は考えます。その上で、各人がなにを思い、どうするのか」
冷泉は、そこまで語って一度部屋を見回した。しかし、誰も言葉を発する者はいなかった。ただ、各々がその言葉の持つ重さを、本能的に味わっているようだった。
「前置きはそこまでにして、本題へと移りましょう。時系列になぞるならば、まずは殺人事件の前に起きた、深見さんへの手紙と、電話機爆破についてですね。これを便宜上零番目の事件としましょうか。まず犯人は朱野透さんの名を使って、標的の一人である深見さんに手紙を送って彼をおびき出しました」
「差出人のわからない手紙が届いた時点で怪しんで、深見が来るのを止めるべきだったんだ……」
透の顔に暗い影が落ちる。その前頭部の滑らかな曲線に、しばらく慮るような視線を加えたのち、冷泉は再び口を開いた。
「まあ、そうして深見さんが巧みな犯人の招集に応じたことにより、演者は揃いました。それから、電話機が爆破されましたね。この村には施錠の習慣がなかったようなので、誰にでも侵入して爆弾を仕掛けることができたと考えられます。こうして犯人は通信手段、すなわち村人が外部へ助けを求めるすべを奪ったわけです。
次にその夜起きた、一番目の静さん殺害と、二番目の透さん襲撃についてですが、これは後程説明します。翌昼に起きた三番目の水谷さん殺害における密室トリックに話を移しましょう。
早速ですが、水谷さんの死体発見現場の様子について龍川先生、説明していただけますか?」
突然水を向けられ、龍川がたじろいだ。
「え、えっと、そうですな。まず壁に沿うようにして裏庭に胴体が置かれ、その上に緑色のドラム缶、さらにその上に首がのっておりました。そこから壁一枚を挟んだ一階の部屋には切断された腕が無造作に転がっていて、扉の鍵は閉まっておりました。……こんなところでしょうかね」
緊張した面持ちの龍川に、冷泉は表情を動かすことなく小さく頷いた。
「ありがとうございます。ちなみに透さん、殺害現場はどこだと考えられますか?」
二人目とあって、ある程度の心構えができていたのか、透はさして驚いた様子もなく応じた。
「腕が見つかった部屋じゃないのかい?」
「なぜそう考えましたか?」
「なぜって……部屋の中が血だらけだったからかな。そこで殺されて、その、遺体をバラバラにされたのかなって」
基本的にはっきりとした物言いは普段と変わらないが、惨い部分になると小声になるのが、いかにも透らしかった。きっと彼は、学生時代に授業で指名されたときなども、自信の程に関わらず滞りなく自らの考えを述べることのできる生徒だったのだろう。そんな、場にそぐわない思いつきをしたところで、冷泉は小さく咳払いを挟んだ。
「ありがとうございます。仰る通りですね。そのため、僕らはあの部屋を殺害現場だと思い込んでいました」
「え、違うのかい?」
瞠目する透に、力強く肯くと冷泉は殊更強調するように一音一音を粒立てて言い切った。
「ええ、そう。違ったんです。水谷さんが殺されたのは、室内ではなく裏庭だったんですよ」
室内の空気が粟立った。龍川は眉間に皺をよせて、眼鏡の蔓に手をかける。場が落ち着くのをじっくり待ってから、冷泉は言葉を続けた。
「犯人はどのようにして頭と胴体を室外へと運び出したのだろうか。そう考えると、この問題はとても難解なものに感じられます。ですが、発想の逆転だったのですね。あらかじめ遺体は裏庭にあって、両腕だけが室内へ投げ込まれた。十五センチしか開かないように設計されている窓からでも、両腕だけならば通ります」
「待ってくれ、じゃああの大量の血痕は?」
普段穏やかな透が余裕を失う様は珍しい。愕然と目を瞠る透を前に、冷泉は余裕のある表情で朗々と返した。
「あれはおそらく動物の血ですよ」
「動物?」
「野生の烏か猫か、あるいは鶏小屋の鶏かといったところだと思います。透さんも以前、朱野邸に住み着いている猫がいるという話をしてくれましたよね」
透は愕然とした。具体例を聞いたことで想像してしまったらしく、そのまま徐々に視線を下げて顔を蒼くした。
「あらかじめ用意しておいた動物の血液に、以前深見陽介さん犯人説でも話したように、抗凝固剤を混ぜて犯行時刻を誤魔化したわけです。といっても、これは警察が来て本格的に調べられたらすぐにわかることでしょうから、その場の一時しのぎにしかなりませんけれどね。なので、犯行時刻を誤魔化したことにおける犯人の目的は、警察の目を逃れることにではなく、あくまで我々の視線をずらすこと。計画を完遂するまで、犯人像を絞らせないことにあったと考えられます。
逆に、密室を講じた目的に関しては、それ自体で特定の誰かの疑いが晴れるような効果はありません。逆に、唯一鍵を持つ武藤さんに疑いがかかるということもありませんでしたね。彼女にはアリバイがあるわけですから。よって、単なる自己顕示欲からくるものでしょう。
ここまでで何かありますか?」
「割れた植木鉢についてはどういった仕組みですかな?」
龍川医師がずり落ちた眼鏡を持ち上げて尋ねた。
それへは、「それは後程お話しします」と、簡潔に返し、冷泉はもう一度部屋全体に視線を撒いて頷いた。「では、次にいきましょう。四番目の源一郎さんの事件については、まさに知恵の輪でした。瑞樹、木工室の通気口を見て、何と言ったか覚えているか?」
指名を受けた瑞樹がきょとんと首を揺らす。「俺が何て言ったか?」
「そう」
「脱出トリックの話?」
「ああ」
「えっと」と瑞樹は唇を舐めた。「まず通気口の柵を外す。中の犯人の腰に縄を括りつけて、外から共犯者が引き上げる。通気口から犯人が出て、柵を元に戻す。それから脚立を使って降りて脱出する、だっけ」
「ありがとう」
何に対する礼なのか、瑞樹はよくわかっていないような表情のまま頷いた。
「その話を聞いた際、まず僕は人力で人間一人を持ち上げることは不可能だと思って、彼の説を否定したんですね。ですが、すぐさま農具倉庫に手巻きウインチがあったことを思い出しました。あれは災害時の救助などにも使えるもので、本体に貼ってあったラベルシールには最大能力0.5トンとありました。よってウインチを使えば、百キロ未満の人間を持ち上げることなど造作もないことでしょう」
目の前で自らのアイデアが磨かれていく様を、目を輝かせて眺める瑞樹を前に、冷泉は一つ唇を結んで彼の目を見た。
「ですが、この発想が役に立ったのは源一郎さん殺しではありません」
「えっ」
急な車線変更に、一同目が丸くなる。
「解けなかった静さん殺害の方法が、この発想により解決したのです」
予期せぬ話のつながりに、冷泉を見つめる六対の目が、同時にぱっと揺れた。
「そういうわけで、源一郎さん殺害については一旦置いておいて、先に静さん殺害についてここで話しましょう。静さんの遺体の状況については、龍川先生、覚えていらっしゃいますか?」
「ああ」二度目の今度は彼の心の準備も整っていたようで、老医師は落ち着いた様子で顎を引いた。「納屋で梁から胴体を吊り下げられて絶命しておりましたな。死因は切断されたことによるショックと失血によるもの。首は足元に転がっていて、殺害される前に喉を潰されていました。出入口の鍵は閉まっていて、出入口のちょうど真反対の壁に小さな通気口が一つあるだけでしたな」
「ありがとうございます。先生がおっしゃる通り、納屋は密室を模したものでした。ですが、これこそ手巻きウインチを使えば説明が可能だったのですね。まず、犯人は助けを求めることができないように静さんの喉を潰し、手足を縛り、胴体をぐるぐる巻きにして納屋の梁から吊るしました」
瑞樹が透の顔を心配そうに仰ぎ見た。透はその視線に気づくことなく、厳しい表情で机の上に組んだ自らの手を見つめていた。
そんなことはよそに、冷泉の声は容赦なく続く。「それから首に鋭利なワイヤーか、あるいは糸鋸の刃のようなものを巻き、その両端を通気口から長く伸ばして出しておきました。その後、水谷さんと透さんが鍵を閉めに来ますが、当然外から見ただけでは中の異変には気づかない。犯人は彼らが納屋の中までは確認しない習慣を知っていたのでしょう。それから犯人はみんなが寝静まった夜中に戻ってきて、通気口から出していたワイヤーを手巻きウインチに巻き付け、力いっぱいハンドルを回した」
その瞬間、透は目を閉じて顔を背け、小夜はいやいやと耳を塞いだ。
「0.5トンの力があれば、人間の首をねじ切ることも可能でしょう。こうして、静さんの首は落ち、中では夥しい量の血しぶきがあがりましたが、犯人は一切の返り血を浴びることなく犯行を済ませることができたというわけです」
「じゃあ、このとき使われたワイヤーがまだ手巻きウインチに残っていれば」
瑞樹が普段にない固い表情で言うのに、冷泉は一つ淡々と肯き返した。
「ああ、処分されている可能性の方が大きいかもしれないが、もしも残っていれば巻き取ったワイヤーにこびりついた分の血液反応が出るだろうな」
「雨の中での作業だったのなら、犯人はずいぶん濡れたことでしょうね」
今度は武藤霧子が普段通りの、心の奥底の見えない穏やかな口調で問うた。
「犯人はおそらくシャワーキャップか水泳キャップのようなものを被って対策をしたのではないかと思います。濡れた服は着替えれば済むけれど髪は急には乾かないのでですね」
冷泉の淀みない返答に、武藤霧子は目顔で理解を示して唇を微笑の形に戻した。
そのまま冷泉は室内へと視線を横滑りさせる。白峰母子と龍川医師が視界に入った。呆然とした表情を面に貼り付けて固まっている。その隣に、耳の横に両手を当ててべそをかいた小夜と、背を丸めて俯いた透が続いた。
それらの光景を胸の奥に落とし込むように一度ゆっくりと瞬きを落とし、冷泉は静かに息を吸った。
「そうして全てを済ませた後、犯人は何気ない顔をして布団にもぐり込み、電話機の爆発が騒ぎを起こすのを待った。以上が、朱野静さん殺害の全容です」
空気が粘性をもった何か――水飴やコールタールにでも変わってしまったかのような息苦しさに、室内は重く静まり返る。誰も言葉を発する者はいなかった。やがて、一つの衣擦れが静寂を破る。
「じゃあ、納屋の鍵を閉めたときに僕が中を確認していたら、静は死なずに済んだんだね」それまで頭を抱えていた透が、顔を上げて泣き笑いのように声を震わせた。
「そういうことになります」冷泉はあくまで事務的に答える。
柱時計が無機質に、新しい一日の訪れを告げた。
「さて、源一郎さんの事件に話を戻します。木工室の密室も、当初僕はこの手巻きウインチを使ったものだと考えていました。窓枠に縄の擦れた跡はありませんでしたが、これは傷がつかないようにコーティングされた紐を使えば対処可能なのではないか、と思ったのです。しかし、焼却炉を調べたところで考えが変わりました。こちらをご覧ください」と、冷泉はポケットから、透明なビニール袋に入った黒い鉄くずを取り出した。「これは朱野家に隣接する焼却炉の傍の、不燃ごみの箱に入っていた釘の燃え残りです」
「ああ、あのとき拾った」
瑞樹が目を丸くするのに、冷泉は一つ肯き返して視線を横にずらした。
「そう。透さん、最後にごみを集めたのは六日前だと仰っていましたね」
「ああ、間違いないよ」先刻の衝撃から抜け出せていない様子の透が、芯のない掠れた声で肯いた。
「つまりこの釘の燃え残りは、それ以降に出たものです。そして透さんに尋ねたところ、釘の燃え残りが出るようなものを燃やした事実はなさそうでした」
冷泉の視線に、透は無言のまま肯き返した。
やまびこのように冷泉も一つ顎を引く。「この釘の出どころがよくわからない以上、事件で発生したものの可能性が高い。釘と木工室、そう考えた時に、僕はある一つのことに思い至りました。踏み台が通気口から通らないのならばバラバラにすればいいのだと」
「え、バラしたの?」
目を丸くした瑞樹に、冷泉は首肯した。
「通気口の大きさは縦四十センチ、横七十センチです。犯人はそれを通り抜ける大きさの木箱を六つ七つ作り、中心を紐で数珠つなぎにして踏み台にしたのです」そう言って、冷泉は足元の紙袋から木箱に模した、数珠繋ぎのティッシュケースの空箱を取り出して見せた。「実際は足場を作るために上段にいくに従って小さくしたり、崩れないように紐や磁石、ゴムバンドなどは使ったでしょうけどね。犯人はこれを踏み越えて通気口から脱出し、脚立へと飛び移った。そして、外から木箱を手繰り寄せて外へ出し、格子を嵌めなおして自らも脚立を降りた。――そうですよね、朱野透さん」
その瞬間、一同の視線が朱野透へと注がれた。
視線の先の朱野透は、まるで彼の周りだけ空間が切り取られているかのごとく静に包まれていた。
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十五
「この一連の殺人事件を起こした犯人は、朱野透さん、あなたですね」
その摘発に、各人が思い思いに最大級の驚愕を載せた表情で朱野透を見つめた。
「嘘」場が衝撃に支配されている中、誰よりも早く声をあげたのは、龍川小夜だった。「透さんが……? 嘘よ、まさかそんなわけ」
「突然何を言いだすんだい、冷泉くん」
不安定に揺れるか細い声が遮られる。蒼い顔を持ち上げた透は、愕然と唇を震わせた。
「釘の燃え残りを見つけた瞬間、僕は思い出しました。まず一つ『玄武の館』の窓枠を改修したのが、源一郎さんであるということ。そして、もう一つが朱野邸の三階を改修したのが透さんであるということです。聞けば建築学科卒というじゃないですか。それだけの専門知識に、住まいの改修ができるほどの腕があれば、踏み台くらいお手の物でしょう。また、普段からそういうことをしていたのであれば、木工室に籠って大工作業をしていても怪しまれることはありません。以上、技術面、環境面の両面から考えて、この踏み台のトリックを使った犯人に相応しいのはあなたしかいません」
「ちょっと待ってください」おかっぱ頭を揺らして横から反駁を示したのは、驚くことにこれも龍川小夜だった。「そんなの他の人にだってできるでしょう。あなたの言っていることは暴論でしかないわ」
龍川小夜の豹変にも臆することなく、冷泉は淀みなく弁を返す。
「この狭い村です。自室で金槌を打ち鳴らしたならば、音を誰かが聞いているでしょう」
「そんな強引な理由で人を犯人扱いするだなんて……。一人になる時間だって皆さんあります。それに冷泉くんの言うように、村では無理だとしても、場所さえ選ばなければ他の人にだってできます。村の外で木箱を作って、村の中へ運ぶことだってできるじゃないですか」
人が変わったような龍川小夜の流暢な熱弁を、その場の誰しもが目を丸くして見つめていた。冷泉もまた意表を突かれたうちの一人であったが、そんなことは面に出さず横目で朱野透を窺い見ていた。
そんな冷泉の目の前に、自身の論を差し挟むように、龍川小夜がその横顔に念を押した。
「透さんが犯人なわけありません」
「どうなんですか? 透さん」
臆面もなく問いかける冷泉を、透は正面から穏やかに睨み返した。
「君の話は、仮説の域を出ていないよ」
空中で視線と視線がぶつかり合う。
薄氷のごとく張り詰めた空気が、しばらく真夜中の居間を支配した。
やがて、「わかりました」冷泉はふっと諦めたように力を抜いた。「認めてくれないようですので、話を進めましょう」
朱野透は眉一つ動かさずにただ一つ、ゆっくりと瞬きを落とした。
冷泉は人形のような涼しい顔で、ただじっとその一連を見つめ、そしてふいっと視線を全体に移した。
「次に五番目の深見さんの事件です。ここまでお話ししたトリックが凝っていたので、つい難しく考え過ぎていましたが、犯人がわかってしまえばこちらは至ってシンプルな心理トリックでした。まず深見陽介さんを殺害する際、犯人である透さんは離れの呼び鈴を鳴らして堂々と玄関から入りました。例えば……そうですね、少し相談があるだとか、誰かがまた襲われただとか、あるいは犯人がわかったかもしれないだとか、それらしい口実を使ったのではないでしょうか。そして部屋に招き入れてくれた深見さんを殺害。その後、玄関の鍵を閉めて出ました」
「へ? 普通に出たのですか」
両眉を持ち上げる龍川に、冷泉は肯き返して言った。
「ええ。普通に。彼が仕掛けたのはここからです。それから、琴乃さんや僕たちを巻き込んで、遺体を発見させ、密室状況を確認させます。その混乱に乗じ、深見さんの亡骸に縋りつくふりをして胸ポケットへ鍵を滑らせ、あたかもずっとそこにあったかのように見せかけたのです」
「まさか、そんな単純な」
「そう、龍川先生の仰るとおり、ごく単純なことだったのですよ。静さんの事件では、透さん――まぁ犯人だったのですが――、彼と水谷さんが納屋の中まで確認しなかったことが仇となったと僕は言いましたが、この事件では防犯のために僕たちが母屋の雨戸を閉めていたことが、かえって仇となってしまいました。雨戸は外敵だけでなく、光や音も遮断します。これに深見さん発の夜間出歩き禁止令も加わりましたね。これらによって透さんは母屋から気づかれる心配もなく、犯行を完遂できたのです」
今度は琴乃が嘆く番だった。ぎゅっと目を瞑り、そんなまさかと震える母親を、瑞樹が固く抱いて励ました。
「あの時、僕らは互いの行動を見ていたはずです。鍵を深見さんの胸ポケットに入れることができたのも透さん、あなたしかいませんね」
目の奥までを射抜くような冷泉の視線の先で、顔色一つ変えることなく黙って話を聞いていた透だったが、念を押されると間髪入れずにラリーを返した。
「冷泉くん、それもただの仮説だよ」
「そうでしょうか」
「ああ。それだと前件を固定して後件を導いているだけじゃないか。命題『AならばB』は成り立つ。つまり、僕を犯人だと仮定すればそのトリックが使われたというのは君の言うとおり正しいだろうね。けれど、対偶は? 『BでないならばAでない』つまり、そのトリックが使われていないならば、僕は犯人ではない。こっちは無視するつもりかい」先程までの動揺から一転、透はあたかも論理ゲームを楽しむかのごとく、流暢な反駁を講じてみせた。「間違いなくそのトリックが使われたという証拠はあるの?」
「それ以外に考えられません。現段階で伝えられることはそれだけです」
冷泉が淡々と断じるのに、透もごく穏やかな口調で返した。
「君が解けていないだけで、別の方法があるんだよ。そうじゃなきゃおかしいからね」
「いいでしょう。まだあなたが認めないというのなら、それでもかまいません」
「わかった、いいよ。僕も黙って君の話を聞いてみようか」
透はゆったりと椅子に座りなおすと、食卓の上で指を組んでみせた。
挑発めいたその態度に一瞥を加えると、冷泉は短く息を吸いこんだ。「余裕でいられるのも今のうちですよ」言って視線を全体に戻す。「透さんが犯人だとわかってしまえば、あとは水谷さん殺しのアリバイ崩しだけでした。龍川先生、先生は腕時計をしていませんね?」
「あ、ああ、していませんな」
またも突然水を向けられた龍川が、居眠りをしていた学生のように身体をびくりと固くした。
「ありがとうございます。以前、ほかならぬ透さんが仰っていましたね。この村は防犯意識や時間におおらかであり、腕時計をしているのも透さん自身と父の源一郎さんくらいのものだと」
「ああ、言った」透は悠々と顎を引く。
冷泉は鋭い一瞥を加えて視線を場に戻した。「その、この村特有のおおらかさを、透さんは利用したのです。透さんは夕食会の最中、弟さんに食事を持って行くふりをして龍川先生の家に忍び込み、居間の時計を十五分ほど進めておいた」
「ええ?」全く気付かなかったふうな龍川が動揺を示し、隣の小夜を見遣る。
視線を受けた小夜も、ふるふると首を横に振って驚愕を滲ませていた。「そんなはずないわ。私もお父さんだって、そんなこと思わなかったもの」
「ええ、気が付かないのも無理はありません。この村でテレビがあるのは朱野家と白峰家だという話でしたね。テレビの時刻表示でもあれば別でしょうが、十五分程度の誤差ならば気づかないのも無理はありませんから」
小夜はそれでもまだ信じられないように、目を丸くしたまま宙を見つめている。犯人摘発からこちら、龍川小夜はまるで感情を覆いつくしていた透明な膜を取り払いでもしたように、情動に溢れた表情をするようになっていた。
そんな小夜に向けて、瑞樹は時折痛みを堪えるように唇を噛みしめながら、何度も視線を送っていた。
そんな住民たちの様子を順に目で追った後、冷泉は透に向き直った。
「あのとき透さんはこう言いました。九時四十五分に武藤邸に着き、九時五十五分に龍川邸に到着した。それから、十時二十分に自宅に着き、しばらくして雨が降り始めたことに気づき、窓を閉めていたところで源一郎さんと絹代さんに会ったと。間違いありませんね?」
「そうだね」
薄らと笑みを浮かべて肯定する透に続いて、龍川医師と武藤霧子も思い思いに首を縦に揺らした。それらを丁寧に確認して、冷泉は唇を開いた。
「正しくは、それぞれ十五分ずつ早かったのですよ。つまり、透さんは九時三十分に武藤邸に着き、九時四十分に龍川邸に到着した。龍川邸を出てから、透さんには十時三十分頃源一郎さんと絹代さんに会うまでの間のアリバイがありません」
「それじゃあ、その間に」
愕然と呟く龍川に、冷泉は一つ肯き返した。
「ええ、その空白の五十分間に透さんは水谷さんを殺害し、密室を作り上げたのです」
「では、わたくしと龍川先生は、アリバイ作りの片棒を担がされたのですね」
ショックを受けた様子の龍川医師とは対照的に、武藤霧子はあくまで淡々と事態を要約した。
冷泉は前髪を小指で梳いて肯いた。「そうなりますね。もしかしたら、透さんが源一郎さんから武藤さんの手助け役を引き継いだのも、このトリックのためだったのではないでしょうか。深見さんの遺したメモに書かれていましたが、源一郎さんは武藤さんの身の回りの手助けはしていたものの、通院の送迎まではしていなかったようですね。ですから、この送迎の習慣自体、水谷さん殺しのアリバイトリックのために透さんが時間をかけて築き上げたものだったのではないかと思っています」
「まあ」
武藤霧子がほとんど驚いていないような表情で、形だけの感嘆の声をあげた。
「それから、遺体が発見された後、龍川先生のところへ検視を頼みにきたのも透さんでしたね」
「そうでしたな」龍川医師が難しい顔で唸った。
「そのとき、先生に透さんはなんと言いましたか?」
「『僕は小夜ちゃんを連れて白峰邸まで送り届けるから、先生は先に行ってくれ』と。……ああ、なんてことだ!」
額を拳で抑えた龍川医師に、冷泉は肯いた。
「そうです。先生がお気づきの通り、そのときに小夜さんを居間で待つ時間を使って、透さんは龍川家の居間と、診療室の時計の針を元に戻したのですよ。小夜さんは私室に時計を置いていないそうなので、気づくこともありませんね」
「そんなの――」
小夜は勢いよく頭を上げたものの、言葉が続かず呑み込んだ。
同時に、「ああ……なんということだ……」龍川医師は喉を絞って深い呻き声を漏らした。
冷泉はそれら父子其々の反応にも動じることなく、無機質に続ける。
「それから、武藤さんが三階の私室の扉を開けた瞬間、地面で植木鉢が割れる音がしたということでしたね。この仕掛けについてですが、こちらも簡単なものです。まず、丸い植木鉢を窓の縁に置きますね。そして書道用の文鎮の中央に長いゴムを巻き、文鎮を窓の外に出したまま、窓を五センチほどのところまで閉めます。ゴムのもう片端には結び目を作り、思い切り伸ばして部屋の扉に挟んで閉めます。これで仕掛けの完成です。あとは武藤さんが帰宅して私室の扉を開けるだけで、ゴムは飛んでいき、植木鉢はゴムに叩かれて落ちます。文鎮も重いので、ゴムごとそのまま落下しますね。後には何も残りません。犯人が死体発見後に文鎮とゴムを回収すれば、トリックの完成です」
「まあ」武藤霧子が感心したように、口に片手をあてて何度か頷いた。
「武藤さんが、帰宅した際に部屋で誰かの気配を感じたのは、このゴムが飛んでいくときの空気の揺れや音だったのでしょうね」
「わたくし、誰かがいるとびっくりして思わず廊下に逃げてしまったけれど、実は誰もいなかったのね」
あくまで慎みを崩さずに事態をかみ砕く武藤霧子に、冷泉はひとつ肯きを示して、透へと向き直った。
「深見さん犯人説が潰えた以上、この仕掛けで発生したゴムと文鎮を回収できるのも透さんしかいません。このことについて何かありますか?」
透はなおも熱弁を振るう冷泉をまっすぐ正面から見据え、泰然と振舞った。
「それも僕を犯人だと仮定した場合に限って成り立つというだけの話だよね。仮説の一つとしては、とても良くできた話だと思うよ」
相好を崩さない透の微笑みを浴びて、何かが刺激されたらしい。らしくなく感情的になった冷泉は、好戦的に口端を持ち上げて対峙した。
「あなた、僕が確固たる証拠を握っていることに気づいていますよね」
透はただじっと冷泉を見据えたま、あたかも何も聞こえていないかのような無反応を決め込んだ。
「なぜです? 逃げられないのはわかっているでしょうに」
状況から相手を追いつめているのは確実に冷泉の方であるはずなのに、心理的にはまるで逆だった。妙に心拍が高鳴り、無性に身体が熱い。
透はなおも飄々と、肘を立てて組んだ手の甲の上に顎を載せたまま答えない。
真夏だというのに、部屋は毛穴中が刺されるようなゾクゾクした緊張感で包まれていた。
「いいでしょう。まだ続けるというのですね」
そう言って、冷泉は何かを振り払うように一つ咳をした。
「六番目の絹代さんの事件に関しては、こうですね。僕と別れて『朱雀の館』に戻った透さんは、その足で絹代さんが立てこもっている寝室へと向かった。そして絹代さんを、量を調整した薬を嗅がせて静かにさせ、静さんにしたのと同じように喉を潰して、土蔵に運び出した。それから、両手両足を縛りつけて蔵に転がし一旦冷凍庫へ戻ると、作っておいた氷の柱を運び出したのです。そしてマスターキーを着物の袖に放り込み、首を括って天井の梁から吊り下げ、彼女の身体を氷の柱の上に立たせた。このとき、既に絹代さんは体の感覚を取り戻していたことでしょう。意識や感覚がないままでは氷の柱に立つことができず、即座に首が絞まってしまいますからね。そうなれば、せっかくのアリバイトリックが成立しなくなります。薬が切れた絹代さんはさぞかし慌てたことでしょうね。朝の涼しい時間帯とはいえ、八月です。氷はみるみる解けて足場がなくなっていく。やがて、踏み台は溶けてなくなり、身体を支える足場を失った絹代さんは宙づりになり、首が絞まって亡くなった。透さんが蔵の入口を開けっ放しにしていた理由のひとつに、死体の発見を早めるためだということがあるのは間違いないでしょう。けれど、もう一つあったのですね」
「氷の解けた痕跡を隠すため、だわね」
武藤霧子が艶やかに唇を動かした。
「ええ、おっしゃる通りです」冷泉は肯き返した。「このとき、ちょうど風が出てきて雨が降り始めました。蔵の扉が開いていれば、蔵の中が濡れていても、雨が降り込んだものと誤魔化すことができます。一つ、死体の発見を早めるため。二つ、蔵の地面が濡れていることをカムフラージュするため。その二つの目的のために、蔵の入口は大きく開け放たれていたのです。――ここまでで透さん、何かありますか?」
小夜が心配そうに透に視線を送った。そのことには、透も気づいていることだろう。しかし、透は寧ろ視線を一身に受けている現状を楽しんですらいるように、悠然と佇んでいた。
「犯人である僕は、冷凍庫の氷の柱とやらが、他の人間に見つかったらどうするつもりだったのだろうね」
「即席霊安室の管理を、源一郎さんや絹代さんがするようには思えません。よって水谷さんが亡くなってからは朱野家の冷凍庫を開閉する人間があなた以外にいたとは考えにくいです」
「氷を使うのは、何も遺体の管理だけじゃないよね。食事の際に冷凍庫に用があったかもしれないだろう」
「ええ、それでも無問題です。あなたはアイスボールを作る趣味があるのでしょう。あれは氷の塊から作るものだと聞きました。ならばことを起こす前に柱を見られたとしても、なんとでも誤魔化すことはできたはず。というより……これは憶測でしかありませんが、このトリックのカムフラージュのために、あなたはアイスボール作りという趣味を始めたのではないかと僕は思っています。まあ、そうでなかったとしても、あなたはこの日のために、普段から様々な形の氷の塊を入れるようにしていたのではないですか?」
淀みない冷泉の言を受け、透はごく機嫌よさそうに目を細めて微かに首を傾けた。
「僕がボウガンで襲われた話はどう説明するんだい? 深見犯人説で君が話した、糸をひっかけて発射するとかいうせこい装置を使ったとでもいうのかな。でもさ、冷泉くん。その場合、深見が追いかけた犯人っていうのは何だったんだろうね」
悠揚迫らぬ透の様相に、冷泉の毅然とした態度での応戦が続く。
「いえ、深見さんが犯人であればそれしかないと考えましたが、今は違います。あれは、絹代さんの仕業だったのです」
「絹代さんの?」小夜が鸚鵡返しに言った。
「ええ。ですから、透さんが起こした一連の連続殺人と、透さん襲撃は全くの別個のものだったわけです。実際に深見さんが犯人を追いかけ、帰り際にボウガンと矢を発見していること、絹代さんの簪が落ちていたことからも、そうと考えるのが妥当でしょう。絹代さんが凶行に及んだ動機についても、あくまで推測に過ぎませんが、ヒントは得ています。――絹代さんの私物からこういうものが見つかりました」と言って冷泉は、箪笥の底から見つけた三冊の書籍を、応接机の上に並べて見せた。「ご覧の通り、相続や生前贈与、遺言について書かれた本です。この幾つかの頁に、源一郎さんからいかに財産を奪い取るかを画策したメモが挟まっていました」
今度は、万年筆で殴り書きされた紙片を何枚か、書籍の隣に並べる。
ソファに座っていた面々が一斉に、首を伸ばした。
「このメモからも絹代さんが源一郎さんの財産を狙っていたことが窺えます。このことから推察するに、絹代さんは静さんが殺害されたのを受けて閃いた。このまま透さんも死亡すれば、もしかしたら源一郎さんの財産が自分のものになるのではないかと考えたのではないかと思われます。透さんと静さんが亡くなれば、おのずと源一郎さんの財産の相続権は、源一郎さんが誰よりも忌み嫌う朱野穢さん一人のものになります。そうなれば、穢さんに相続させるよりは絹代さんに相続させようと、その旨の遺言書を書いてくれるかもしれない。そう絹代さんは目論んだのです。そして静さんが変死した今ならば、静さん殺害の犯人に、透さん殺害の罪も被せることができる。その考えのもと、絹代さんは透さんを襲ったのです」
小夜は小さな両手で口元を覆ったまま、唖然と冷泉を凝望した。
その視線にも動じることなく、冷泉はこれまで通りただ滔々と言葉を続ける。
「その後外部への連絡が断たれたことと、静さん、水谷さんと立て続けに殺害され、穢さんも失踪したことを受けて、彼女は焦り出します。これはいよいよ急がないと透さんどころか源一郎さんも殺されてしまうかもしれない、と考えたわけですね。そうなると、源一郎さんの財産をもらう手立てがなくなってしまいますから。それで、透さん深見さん共犯説を頑なに主張し、源一郎さんと透さんを分断した上で、二人きりで部屋に立てこもり、遺言書を書かせようと試みていたと。こういうことだと思います」
「なるほど、絹代さんは絹代さんで、透さんを亡き者にして源一郎さんの財産を自分のものにしようと企んでいたのですな」龍川医師は、ふむふむと何度も首を縦に揺らした。
「そういうことです。そして、これは憶測にしかなりませんが、これまで揃った材料から考えるに、二年前に静さんを階段から突き落とした犯人というのも絹代さんだったのではないかと思っています」
「ああ……あれも……いやあ、おそろしい……」
龍川医師はなおも神妙な顔で頷いて、白い鼻髭の端を何度も指で引っ張った。
「ちなみに、透さんがトンネルに爆発物を仕掛けたタイミングは、深見さんを白峰邸に送り届けてから、深見さんが朱野邸を訪れるまでの一時間の間でしょうね。深見さんが朱野邸を訪れた時、透さんはお風呂上りだったと深見さんは手帳に遺しています。それから、各家の電話機に仕掛けた爆発物は、先ほども言った通りですね。それこそ施錠する習慣のないこの村においては、忍び込んで悪戯するなど造作もないことでしょう。以上が、朱野透さん犯人説ですが、何か指摘はありますか?」
誰も言葉を発するものはいなかった。
その場の興味が透の反応へと向いているのは歴然であるが、誰しもが自然と透を直視するのを避けているようだった。したがって、まるで盗み見でもするかのように一様に顔を伏せたまま、横目でちらちらと窺う気配で溢れかえる。
「朱野透犯人説に矛盾はないよ。仮説としては、本当に良くできた話だ」透はふっと力を抜くように能面のような笑みを浮かべた。「しかし、他の人を犯人だと仮定しても同じような作り話が出来上がりそうだ。それでもここまで僕が犯人だと言い切るということは、君はその証拠とやらにずいぶんと自信があるようだな」
透の口ぶりは、醜く言い逃れをする犯人というよりは、愛弟子の成長を喜ぶ師のような温かみをどこかに感じさせるものだった。そのせいで、冷泉は授業中に教師から質問されているかのような妙な錯覚を受ける。
けれども、彼はすぐさま我を取り戻して、静かに事を進めた。足元から紙袋を引き寄せる。一瞬、何かを考え込むようにその包みをじっと見つめたまま動きを止めたが、やがて、「これです」と、中から角ばったものを取り出した。「小夜さんの部屋にあった時計です」
その瞬間、小夜は「やめて」と小さく叫び、透は力を抜くようにふっと笑った。それは諦念とも、満足とも取れた。
それから彼の顔は表情を失い、視線はテーブルの天板で止まった。
辺りの空気が粟立つ。透、小夜、冷泉を除いた面々は、皆一様に合点がいかない表情を浮かべながらも、それぞれが何かの終焉を感じ取っているようだった。
殺人鬼の白旗を冷泉はしっかりと受け止めた。それは、熱い酸が心にじわじわとしみ込んでくるような不思議な感覚だった。これ以上の追及は不要どころか、ともすれば過剰攻撃かもしれない。しかし、一度包みを解いた以上は関係者にその中の全てを示すことが筋であると、ただ責務を全うすべく言葉を続けた。
「これは瑞樹が小夜さんに贈ったデジタル時計です。先ほど小夜さんの部屋で尋ねたことをもう一度問います。小夜さんはこの時計の時刻を、いつ、何を参考にして合わせましたか?」
小夜は、温度を失った透の横顔を縋るように見つめたあと、冷泉に視線を移して呟いた。
「昨日の朝、居間の時計を見ながら……」
その目にみるみる透明なものが溜まり、嗚咽と共に溢れ出した。
大時計が示す時刻は零時四十五分。冷泉の手の中の時計は零時半を指していた。……
部屋には小夜の押し殺した泣きじゃくる声だけが、小さく押し寄せては引いていく波のように響いた。
この瞬間だけは、誰もが言葉を完全に失っていた。
朱野透は、顔のすぐ先の天板を、どこか遠くを見つめるような目で眺めていた。
「警察が来て調べたら全て明らかになる話だというのは、あなたが一番よくわかっていることでしょう。朱野透さん――いや朱野幸人さん」
名前を呼ばれた瞬間、朱野透――否、朱野幸人は幽かに唇を持ち上げた。
それは、ゾッとするほど冷たく美しい笑みだった。
目に灯る感情はない。それはただの二粒の虚ろな球体にすぎなかった。
静寂から一転、えっ、と誰からともなく、驚愕に満ちた声があがる。
砂鉄に磁石を突っ込んだように、ゾワッと一気に空気が逆立った。
「幸人さん……? じゃあ、本物の透さんは……」龍川小夜が慟哭を忘れて息を呑む。
「この人は朱野透さんではない。弟の朱野幸人さんです」冷泉の視線は、寂しそうで、それでいて静かに相手を突き刺すような色をしていた。
その先の朱野幸人は、ただ斜め下の何もない空間を、感情の灯らない瞳で眺めていた。
「一卵性双生児のDNA型が同じであるといっても、歯型や指紋は異なります。歯医者の治療記録や、透さんの通っていた小学校や中学校で彼の指紋を採取すれば、今の朱野透と別人であることはわかる話ですよ」冷泉は目の前の殺人鬼を正面から見た。
朱野幸人は、退屈な授業をやり過ごす学生のように気だるげな仕草で、空のグラスに手を伸ばす。そして、そのまま一気に握りつぶした。薄く繊細な透明色の破片が、昏い赤色に浸される。
室内には見渡す限り、頭の天辺から氷水を浴びせられたような顔が立ち並ぶ。朱野幸人だけが我関せず、湧き出る紅を涼しい顔で、時折恍惚と眺めていた。
「この手で糞どもを血祭りにあげた。腐った村は腐った血で洗い流さないとな。血の雨だ」
全てを察した小夜が、静かに透明な涙を流した。




