続き
九
湯上りの湿った髪を指で弄りながら、冷泉誠人は深見から聞いた話を反芻していた。
『朱雀の館』からの帰り道、深見は源一郎と交わしたやり取りについて話してくれた。冷泉が一人で水谷の日誌を読み、透が地下の氷の入れ替えを行っている間に、トンネルから帰って来たばかりの源一郎と居間で幾つか話をしたらしい。
深見の話に虚偽や記憶違いがあれば、ともに話を聞いていたという龍川の訂正が入っただろう。従って、冷泉はその話をおよそ信用するに足る情報として扱うことにしていた。
それよれば、源一郎と絹代は、十二時過ぎにトンネルへ向かう道中で『玄武の館』の横を通ったということだった。その際、特に怪しい人物と遭遇することはなかったらしい。
とはいえ、彼らもまさか『玄武の館』で水谷が殺されているなど思わなかったため、注意深く観察していたわけではない。当然ながら、館の裏手までまわることもしておらず、よって遺体の番をする深見の姿されも目に入らなかったとのことであった。
同じく武藤霧子と朱野透の悲鳴に関しても聞いていないそうなので、時系列的には水谷の遺体が発見されたしばらく後に、彼らは現場付近を通過したという流れになりそうだ。
この証言により、犯行が行われたと思われる正午前後の時間帯においてアリバイのない人物は源一郎、絹代、瑞樹、小夜、それから姿の見えない穢と出張中で連絡の取れない白峰秀一氏に絞られた。
この中で一つ目の事件、静殺害においても犯行が可能となるのは源一郎と絹代を除いた瑞樹、小夜、穢、秀一の四名。逆に透襲撃が可能となるのは源一郎、絹代、穢、秀一の四名ということである。
白峰家の全員が組んでいた場合、犯行は可能になるのではないだろうか。突然恐ろしい思い付きが冷泉の全身を駆け巡った。慌ててその思い付きを消去する。理論上可能というだけで、友人を疑うなどどうかしている。第一動機がわからない。――本当にそうだろうか。朝の写真が脳裏に蘇る。水谷の日誌を開いただけで、埃が山のように出てきたではないか。所詮冷泉は余所者だ。知らないことだらけなのだ。突如として襲ってきた疎外感と孤独に背筋が冷える。冷泉は自身の鼓動が右肩上がりに速くなるのを感じていた。
気になることはもう一つあった。
『朱雀の館』にて、今後の方針を決める際に、深見は異様に夜出歩くことの危険性を強調してきた。夜に人がうろつくことを嫌がる存在、すなわち誰かに目撃されることを嫌がる存在とは。そう考えた際に浮かぶのは、何も狼から逃げる羊だけではない。
犯人その人だ。
冷泉は瑞樹の私室のい草ラグの上にごろりと横になった。天井の木目を目でなぞる。裸眼でも案外いけるものだった。水谷の日誌の一文が蘇る。
『名は、陽介と命名』
朱野源一郎と武藤霧子の隠し子である深見陽介が、どこかで自らの出自を知り、自らを捨てた朱野家と、加担した水谷に復讐を企てたのだろうか。だとしたら、次に危ないのは――。
「龍川先生……?」冷泉はばね人形のように勢いよく起き上がった。
源一郎と武藤霧子も狙われるのだろうか。遺棄に関与した人間は水谷と龍川と、それから――、佐藤百合子女史。冷泉はラグの網目を睨んだ。ユリコ。その音には聞き覚えがあった。
ユリコ、ユリコ――はっ、と冷泉は目を見開いた。
『百合子が生きているうちは百合子が甲斐甲斐しく世話しておったし』
源一郎の言葉が蘇る。そうだ、と冷泉は確信した。百合子とは、源一郎の前妻の名前で間違いがない。“陽介”に続いて“百合子”までもがリンクした。この狭い村おいて、これは偶然なのか、否……。
そうしたところで部屋の扉がノックされた。部屋の主の帰還だ。声に従い鍵を開けると、湿った光沢のある黒髪にタオルを載せた白峰瑞樹が顔を出した。そのまま彼は部屋の奥のベッドに向かい、腰かけて丁寧に頭を拭う。その一部始終を何となしに目で追いながら、冷泉はぼんやりと別のことを考えていた。
「なあ、瑞樹」
自らの名が呼ばれるのに、いつもの人好きのする顔で向き直った瑞樹だったが、ひとたび冷泉の硬い表情を見るや膝を正して向き直った。その顔を正面から見た瞬間、冷泉は自らの腹の芯がじわりと冷えるのを感じ取った。改めて白峰瑞樹の親しみやすさの源はその朗らかな表情にあるのだと思い知らされる。瑞樹は元々凛とした端正な顔立ちをしているため、ひとたび愛嬌のあるその表情が消えると、途端に冷たく、見る者にどこか畏怖の念を抱かせるのだ。
腹を据えた表情で静謐に待ち構える瑞樹を前に、冷泉はゆっくりと唇を開いた。
「よかったら、朝の写真のこと、聞かせてくれないか?」
その瞬間、瑞樹の瞳の中の輝きが暗幕を張ったように消えた気がした。朝も見た顔だった。それから、瑞樹は顔ごと視線を逸らして、斜め下へと視線を投げた。その先にはただの白い壁紙があるだけだ。黒曜の眼球には、それ以外に何の像も映ってはいなかった。
意に反して高鳴る鼓動を意識の片隅で感じ取りながら、冷泉はその横顔を静かな視線で照らし続けた。ややあって、瑞樹が徐に顔を正面へと戻した。一つ長い睫毛が上下する。再び現れた黒曜には、少し輝きが戻っていた。上気して赤く色づいた形の良い唇が、薄らと開かれる。瑞樹の小さく息を吸う音が聞こえた気がした。
「俺ね。九つの時まで女の子として育てられていたんだ」
俺は実は女の子なんだ、という回答が来ないことは、散々部室で彼の上半身を目にしている冷泉にはわかっていたことだった。そのため、もたらされた回答は予想の範疇だったが、それでも彼のなじんだ文化との乖離は甚だしく、言葉を失うには充分すぎる供述であった。
しかし、努めてそれを表情には出さなかった。冷泉はその切れ長の目を逸らすことなく、瑞樹をの眼を見つめ続ける。感情を内に隠すのは元来得意だった。
「小さい頃すぐ病気する子供でさ。御覧の通り、今はもう元気なんだけどね」
殊勝に明るく振舞おうとする瑞樹を見据えて、冷泉は静かに首を縦に振った。それで空元気は不要だと悟ったようで、瑞樹は泣き笑いのような表情を浮かべて強張った口角を緩めた。そして、寂しそうに続けた。
「病弱な男の子は、女の子として育てたら身体が強くなるっていう村の信仰がある。だから、祖母が生きている間はずっと女の子として育てられたんだ。あれは、その頃の写真」瑞樹は視線を勉強机の向こうへと投げた。視線の先には、深く彫刻刀の突き刺さった写真があるはずだった。
冷泉は唇を固く結んだまま、うん、とゆっくり頷いた。瑞樹はばつが悪そうに視線を逸らした。
「こんなに人数の少ない村だし、それが俺の中の世界の全てだったから、珍しいことだなんて思ってなかったんだよ。村の外の世界を知らなかったから、“普通”が何なのかもわからなかった。だから……信じられないだろうけど、小さい頃は本当に何の疑問も感じていなかったんだよ。だけど中学、高校と成長するごとに、自分がいかに珍しい育ち方をしたかが見えてくるようになって。それでもね、俺は自分の過去を受け入れていたんだよ。特に恥ずかしいとも思ってなかった。俺は俺、人は人だと思っていた、思おうとしていたから。でも」と瑞樹は掌をゆっくりと開いてじっと見つめた。
「ある日、鏡に映った自分の裸の上半身を見た瞬間、突然頭の芯が爆発したんだ。自分が汚らわしいものに思えてきてしまって。衝動を抑えきれなかった。気づいたら鏡は粉々に砕けていて、俺は血だらけの手で自分の写真を貼り付けたあの板に向かって何度も何度も彫刻刀を叩きつけていた」
瑞樹は震える両手を握りしめる。血を吐くような叫びが、部屋を切なく染め上げていく。
「わからない。日に日に男性になっていく自分の身体に、女として育ったことで女性であると誤認したままの自我が、拒否反応を起こしてしまったのか、逆に自身を男であると再確認した自我が、女として育った自身の過去に耐えられなかったのか。いずれにせよ、抑圧された自我が暴走したのだろうけれど、その奥、底の部分が自分でもわからなかった」
握りしめた左手の拳を右掌でそっと包み込む瑞樹の横顔を、冷泉はただ黙って見つめていた。
「学生服を着るとどうしようもなくもやもやした気分に襲われるのに、一方では女として育った過去を消そうと強い肉体を求めて剣道に打ち込むんだ。訳が分からないだろう?」
潤んだ黒曜石が二粒、冷泉に向けられる。瑞樹は何かを求めている、そのことはわかるのだが、それが何なのかがどうしてもわからない。何を求めているのか、何と言葉を掛けるべきなのかが見つからなくて、冷泉は唇を硬直させたまま木偶のように立ち尽くした。喉の奥で何色もの糸の混じり合った感情の毛玉がごちゃごちゃと絡み合う。
白峰瑞樹が、無責任に誰かに答えを委ねたり、むやみに感情をぶつけたりする男でないことは、冷泉もよく知っている。今も、ただ持て余した葛藤を誰かに聞いてほしいだけで、答えそのものは求めてはいないのかもしれない。
それはそうだろう。瑞樹が何年掛かっても出せなくて、煮詰まってしまっている命題だ。部外者である冷泉が容易に即答できる問い、否、軽々しく即答していいような問いであるはずがない。
そう結論づけた冷泉は、命題の是非には触れないことにした。ただ、瑞樹の心の動きそのものを受け入れて、肯定するのだ。
冷泉に全幅の信頼を寄せる一方で、果たしてどのような反応が返ってくるのだろうと緊張する瑞樹の不安が、その強張った身体中から伝わってくるようだった。
冷泉は静かに息を吸った。
「自分でも訳がわからないことだってあるさ。瑞樹はおかしくなんてない……と俺は思う」
「でも、俺は俺が怖いよ、冷泉」
うん、と冷泉は大きく頷いた。「俺が瑞樹を怖いと思わなくても、瑞樹が瑞樹を怖いって思った気持ちは本物だもんな。突然感情の制御がきかなくなったら、びっくりもするよな」
瑞樹は曇った表情で、こくんと幼子のように肯いた。「いつか、他人や自分を傷つけてしまうんじゃないかって、ぞっとした」
冷泉は吸いすぎていた空気を静かにふうう、と吐き出した。前を向く。「俺は人にあれこれ言えるほど立派じゃないから、これは大きな独り言だと思ってくれるか?」この言葉に、瑞樹は口元を緩めてこくりと肯きを示した。
冷泉は敢えて視線を少し下げた。そうすることで心持ち怜悧な眼光が弱まり、柔らかさが増した。「理屈で説明しきれないのが、人の感情というものじゃないかな。だから、感情の在り方としては瑞樹のものは至って健全だと思うよ。聖人君子じゃあるまいし、たまには爆発することだってあるさ」
「冷泉もある?」
「あるよ」と冷泉が表情を緩めれば、瑞樹は少し意外そうに黒目がちの目を丸くした。
「信じられん」
「いや、あるある。瑞樹は自分を傷つけてしまってびっくりしたんだよな。また暴走して、止められなくなったらどうしようかって」
冷泉自身も知らないような柔和な声が、空気と頭蓋骨を経て鼓膜に届いてくる。それは自身のものとは思えぬような慈愛に満ちた音をしていた。普段人を励ましたり、優しくしたりするような言葉を持ち合わせない冷泉だったが、こと瑞樹に関しては違ったらしい。どうにか相手の求める形で手を差し伸べたいと思っていたのだろう。
ぎちぎちに固まった泥団子が日光に暖められてほろほろと崩れるように、瑞樹の纏う空気が緩むのが冷泉にも伝わって来た。それを見て、冷泉自身も気づかぬうちに入っていた肩の力が抜けるのがわかった。
目の前の傷ついた子羊をじっと見つめる。
一見して気づかなかったが、間違いなく彼も、この閉鎖された村の風習が生んだ犠牲者だった。
白峰瑞樹は何かに納得するように、二、三度小さく頭を揺らすと、視線を持ち上げた。その黒曜石にはいつもの輝きが戻っていた。
冷泉が静かに天を仰ぐと、瑞樹は遠く何かを懐かしむように目を細めた。
「俺は、誰よりも男らしくありたいんだ。きっと。女として過ごした九年間を埋めたいんだろうな」
誰にも、写真の中の少女を救うことはできない。それは、冷泉にはもちろんのこと、瑞樹自身にもだ。幽かに部屋に漂う無力感を全身で味わうように、冷泉は深く呼吸を繰り返した。
その静寂を打ち破ったのは、少女だった男の呟きだった。
「忘れてしまったのかもしれないけれど、透さんが約束してくれたんだよ」
「約束?」と冷泉は天井から顔を戻した。
「そう。ワンピースを着た幼かった俺に、透さんが言ってくれたんだ。大人になったら、透さんと弟さんと小夜と静ちゃんと俺でこの村から出て行こうって」
「ほう」
「それで俺がお父さんとお母さんと別れるのは嫌だってごねたら、じゃあ瑞樹くんのお父さんとお母さんも一緒に行こうかって」
「へえ……また、随分と思い切った話だな」冷泉は今の透の姿から逆算して、少年同士の過去のやり取りを想像してみた。
瑞樹は過去を懐かしむように、どこか面映ゆそうな表情で続けた。
「うん。それでさ、小夜ちゃんも、お父さんとお母さんと離れるのは嫌だって言うかもよって俺、言ったのね。そしたら、じゃあもうみんな一緒に出て行こうかって。なんというか、まあ、非現実的っちゃそうだけど、昔から透さんは透さんだったなあって思うね」
「透さんは透さんか。なんとなくわかる気もする。小夜さんはその話は知っているのかな」
冷泉が尋ねると、瑞樹は「さあ、どうかな」と視線を外して複雑そうに口元を緩めた。
「今考えると自らの望まない形で女の子として育てられている男の子を慰めるための冗談だったのかもしれないな、とも思うんだ。それなら小夜は知らないだろうね」
「真実は透さんのみぞ知るだな」冷泉は放り出した自らの足先を、なんとなく眺めた。
瑞樹の言うように、彼を見ていてどうにもやりきれなくなった透の優しい嘘だったのかもしれない。けれど、冷泉はその言葉を胸の内に呑み込んだ。そんな冷泉に、瑞樹は一つ頷き返してさっぱりとした笑みを零した。
「うん。でも、それでもいいんだ。慰めの嘘だったとしても、俺にとってはちょっとした楽しみになっていたから。当時の俺はこの村が外と比べて、何がどう偏っているのか全然わからなかったから、なんで透さんはそんなことを言うんだろうって不思議だったんだけどね。それでも広い世界に出られるって思うと、なんというか、わくわくした」
「そうか」冷泉は伸ばした足を引き寄せた。踵についた畳の痕を指で撫でる。
透が瑞樹を元気づけるために言った嘘なのであれば、その思惑通りの結果だと言えるだろう。喉の奥に刺さった小骨のようなものを感じながら、冷泉はラグの上で足を組みなおす。そうすると、呼応するように瑞樹もベッドの上の尻の位置を変えた。そして、過去を見つめるようにぼんやりと地面に視線を落とした。
「それだけじゃなくてさ。いつか俺が成長して、自身の生い立ちが“普通”ではなかったと気づいたときにグレないように、心の拠り所になろうとしてくれていたのかもしれないとも思うんだよね」
「『俺だけはこの村の異常さに気づいているぞ』っていう透さんからのメッセージか」
「そう、そんな感じの」
「村に、一人でも話のわかる人間がいるというだけで心強いものな」
冷泉の言葉に実感がこもる。いつの間にか、先刻抱いた疎外感を思い出していた。
うん、と肯いて瑞樹はベッドの下で足を揃えた。足首を見つめ、曲げては伸ばす。
「もうすぐ外に出られるから、その時まで我慢しようって思えるように。実際に俺が中学生になってその葛藤に直面したときには、透さんは東京に出てしまっていて、直接話はできなかったんだけどさ。だから、合図を残してくれたのかなって、そのとき思った」
「流血事件の頃か」冷泉は窓際に視線を飛ばした。あの場所に眠る写真の上では今でも穴だらけの少女が、温度のない目をこちらに向けているのだろう。
「そう。流血事件の頃」瑞樹も同じように視線を投げた。だが、すぐに自身の足首へと視線を落として、曲げ伸ばしを再開した。「当時の俺にとってあの言葉の存在はある種の救いだったし、透さんはずっと英雄のような存在だったからね。彼はいち早くこの村の異質さに気づいて、今は俺たちを救い出そうとしてくれているんだぞって信じていた」
「英雄なあ」
「そう、英雄。透さんは英雄。俺は英雄の帰りを待つ民衆だった」
瑞樹は真顔でおどけてみせた。
「でも、英雄は反乱をやめてしまったのか」冷泉も真顔でそれに乗った。
瑞樹はまるでその目に映す像を過去から現在へと切り替えるように、ゆっくりと瞬きを落とした。
「そう。透さん、普通に村に戻ってきて、村の一員として過ごしているんだよね。別にそのこと自体は透さんの勝手だし、良いと思うんだけどね」
「何か引っかかるようだな」冷泉は尋ねた。どうやら瑞樹の喉にも小骨が引っかかっているらしい。だが、小骨の輪郭は掴めそうで掴めない。
瑞樹自身も、どこに小骨が引っかかっているのか良く分かっていないようだった。
「透さんはそれでいいのかなって。なーんかこう、釈然としないというか」
瑞樹は揃えた膝頭を見つめて唇を尖らせた。つられて冷泉も自身の膝頭に視線を落とした。
「ふむ」
「透さん自身が少年時代に『脱出』という発想を持っていたことは間違いないんだよ。村への反発心がなければ出ない発想でしょ」
「そうだな」
「そう」瑞樹は力強く首肯した。「で、俺はもう脱出はいいんだよ。村の外を知るに従って、この村の異質さを知ったけれど、それでも親子の縁を切ってまで家出しようとか、透さんの代わりにみんなを連れて村から出ようとかまでは思ってないから。大学を卒業したら村を出ようとは思っているけど、両親がこの村に住み続けるのなら帰省はするだろうし。でも透さんは? 本当に納得したのかな」
「透さんも瑞樹と同じように、外に出て見識が拡がったり、大人になって現実が見えるようになったりするにつれて、考えが変わったのかもしれないぞ」
冷泉がそう言うと、瑞樹は「いやあ、それはどうかな」と首を捻った。「透さんの場合は俺とは違うじゃない」
「ほう」
冷泉は眉をぴくりと動かして、ベッドに向かって座りなおした。小骨の片鱗が見えてきたかもしれない。
その仕草に冷泉の聞く意欲を感じ取った瑞樹もまた、姿勢を正して向き直った。
「だってさ、俺の場合はこの村からの足枷はもう解かれているじゃない。俺が女装という足枷をつけられていたのは過去の話で、今はもう無いもの。つまり、今の俺はこの村から齎される不利益がないから、村への反発心が薄れていった。結果、相対的に現状維持の気持ちが上回ったんだ。でも透さんは違うじゃない?」
「ああ。そういうことか。透さんの足枷は、まだ残っているもんな」
冷泉のこの言葉を待っていたように、瑞樹は食いつき気味に「そう、それ」と肯いた。「透さんは、弟さんを地下牢に奪われたままでしょ。問題は何も解決していないじゃない。なのに、村への不満や反発はどこに消えたのか、それが疑問なんだよ」
いつになく熱く語る瑞樹を見据えて、冷泉はぽつりと落とした。
「今も昔も、誰よりもこの村に反発を抱いているのは、透さんかもしれないな」
3 / 4
八月二十日
一
その日も小雨が降っていた。
朱野透は、藤川絹代の切迫した声に叩き起こされて目を覚ました。
そういえば、一昨日にも同じ状況があった気がする。寝ぼけているのだろうかとぼやけた瞼を再び閉じようとした瞬間、どんどんと音の波が押し寄せた。
いよいよ夢などではないと飛び起きて、部屋の扉を開ける。目の前にサーベルを握りしめた藤川絹代と、それからその隣に杖を手にした武藤霧子の姿があった。
二人を見比べてから恐る恐る口を開く。
「どうしたんです……?」
この場に父の姿がないのがとても不気味だった。
「源一郎さんがいないのですよ」
「いない?」
「お部屋にいないのです」
「トイレや洗面所は探しました?」
尋ねれば、絹代は青い顔でこくこくと小刻みに顎を引いた。
「いらっしゃいません。ゆうべは確かに一緒に床についたのですよ。わたくしは朝までぐっすりと、そう一度もめざめることなく眠っていましたわ。いつもは、源一郎さんが夜中に何度かお小水にいかれるものですから、その度に気づくのですが。今朝は目が覚めたらもうこんな時間で、横にいたはずの源一郎さんのお姿が見えないじゃありませんか」
透は慌てて腕時計を確認した。時刻は朝の五時半を指していた。
「それどころか、一階の廊下の一番奥の窓が割られて、鍵が開けられていたのです」
「鍵が?」
「そうです。東側の奥の。お風呂場の前です。もう、わたくし怖くなって、源一郎さんの箪笥からマスターキーを拝借して、上階の武藤婦人を起こして――」
「わかりました」透は表情を引き締めた。「今から一部屋ずつ見てまわりましょう。もちろん三人で。いいですね? その前に僕にも武器を取らせてください」
言って透は隣室のコレクションルームへと足を向ける。ざっと見回したところで目に入った軽い警棒を手にして戻った。
絹代が深見と透に疑いを向けていることを、透はよく知っていた。現に、真っ先に家人の透を起こすでなく、客人の武藤霧子を起こしにいっているあたり、何よりそのことを雄弁に語っていた。
そして、透もまた絹代を疑っていた。よって互いに手にした武器は、潜む暴漢への牽制だけでなく、内に潜んだ羊の皮を被った狼への牽制の意味も兼ねていることは言うまでもない。
透はまず二階から、一部屋一部屋扉を開けていく。どこに誰が隠れているかわからない中でのその作業は、実に神経をすり減らすものだった。しかし、その苦労が実を結ぶことは終ぞなかった。
最後の一部屋となった水谷の部屋を開けた透ががっくりと肩を落とす。
冷たい汗が、ぽたりと地面を濡らした。
「いない……」
「そんな……」絹代が口元に手を当て力なく呻く。「穢さんに続いて源一郎さんまで……」
透の服の裾を掴んでいた武藤霧子の手が締まり、寝間着代わりのTシャツにぎゅっと皺が寄った。
「考えたくはないが、納屋で見つかった静の例がある。土蔵と鶏小屋と木工室に行ってみましょう。いなければ、水谷さんの例もあります。他のお宅へ……」
そこで透が小さくよろめき、左手を介して繋がっていた武藤霧子もつられてたたらを踏んだ。
「大丈夫? お顔が真っ青でしてよ」
背後から絹代に支えられて透は小さく頷いた。
身体は疲れ果て、胃には穴が開きそうだったが、一方で恐怖という氷に冷やされた頭の芯は恐ろしい程冴えわたっていた。
東北の中でもより北に位置する四神村の夏の夜明けは早い。朝の五時にもなれば、もう日の光が青々と連なった山並みの向こうに顔を出している。細かな小雨の粒子が朝靄を反射する薄白い中を、傘を片手に三人は連れたって歩いた。屋敷の裏手の土蔵と、それから鶏小屋を順に見てまわる。最後に木工室の扉へとたどり着いた。
「あれ? おかしいな」
透が扉を揺するが、何かに阻まれ開こうとしない。
「中から鍵が掛かっているのかしら?」
蒼い面の絹代が恐怖に顔を歪めて透の顔を覗き込んでくるのに、透は短く頷き返した。
「ええ、確かに外鍵とは別に、中にも閂があるにはあるんですが……父さん? 父さんいるのですか?」
「こんな時間に変な話ですわ……嗚呼もう絶対に何かあるのですよ」変事を予見した絹代が顔を歪めた。
扉は外向きの観音開きであり、中で作業をする際、不用意に扉が開かないように閂がしつらえてあった。しかし、こんな早朝にとなると奇妙な話である。
「斧で破りましょう。少し待っていてくれますか?」不安げな表情を浮かべる女性二人を前に、透は納屋へと足を飛ばした。そして、警棒に代わって大ぶりの斧を抱えて戻ってくる。「木片が飛ぶといけないので、下がっていてください」と透は、閂のちょうど真上あたりを目掛けて斧を打ち付け始めた。
ガンッガンッと重い音が響くごとに、絹代と武藤霧子の身体が小さく跳ねる。
何度目か打ち付けたときに刃先が扉にめり込む音がし、透が足の裏を扉に押し付けて全身の力を使って引き抜いた。そこに、手首が通るくらいの小さい穴があく。透は慎重に中をまさぐり、閂を持ち上げた。
そうして扉が破られた瞬間、絹を切り裂く悲鳴がサイレンのように響き渡った。
そこはまるで地獄の様相を呈していた。
朱野源一郎は室内の中央でこちら向きのまま、椅子に縛り付けられていた。そして、頭蓋骨を自らのコレクションである拷問器、頭蓋骨粉砕機に挟まれた状態で絶命していた。……
酸鼻極まるその光景に、透は斧を取り落とし、震える手で扉に縋りついて膝を折った。 体毛という体毛がゾゾゾと逆立ち、心臓が口から飛び出んばかりに暴れまわっている。舌の根が固く凍りついて、言葉も出てこなかった。
藤川絹代は、ストレスの全てを声で放出するかのごとく、狂ったように高い叫びを連発していた。
武藤霧子はそんな二人の気配から事態を察したのか、透の陰に取り縋り、震える身体を丸めていた。
「……は、犯人、は、どこへ消えたんだ?」
透は縺れる舌の奥から、掠れた声を絞り出した。
「きっとあの換気口から逃げたんだわ!」
絹代が、泣き喚くように部屋の奥の換気口を指さした。
「あの換気口から? 冗談を! 犯人は霧にでも変化したというのですか」
つられて透も感情的な声になる。もう全てに於いてうんざりだった。
「知らないわよ、でもそれしかないじゃない!」絹代は身体を揺すってヒステリックに叫んだ。
「あんな高いところから? 無理ですよ!」
息を乱しながら、透は宇宙人でも見るような目で換気口を乱暴に指し示した。
古い蔵を改造して作ったこの木工室の広さは二十畳ほど、天井まで高さ五メートルはあろうかというこの部屋に窓はなく、ただ高さ四メートルほどの位置に縦四十センチ、横七十センチほどの鉄製の換気口があるのみである。
室内には脚立はもちろんのこと、踏み台になるようなものは一切置かれていない。
「どうにかなったのよ!」
「どうやってよじ登ったんです」
「知りませんよ! どうにかして届いたのよ、それしかないでしょう。扉はご覧のありさま、ならばあの窓しかないじゃないの」
「四メートルだなんてバレーボール選手でも届きませんよ。犯人はどんな巨人だと言うのですか」
普段になく余裕を失った透の熱弁を受け、絹代はますます興奮から顔を赤くした。集団ヒステリーのように、相乗効果で共有する空気に熱が溜まっていく。絹代は泣きっ面で破れた扉に向かって、力いっぱいに開いた掌を振り下ろした。
「それならば、この扉をすり抜けたのだわ! 外から閂を下ろす方法があるのよ!」
「外から内にある閂を下ろすだなんて、そんな馬鹿な……」
透は喉を詰まらせながらふらつき、しまいには頭を抱えてしまった。
「ああもう! 密室! 密室! また密室ですの! 犯人は呪術を使ってわたくしたちを皆殺しにするつもりなの?!」
我慢の糸が途切れたのか、絹代は金切り声をあげる。彼女の言うように、木工室は完全な密室を呈していた。
「絹代さん、一度落ち着きましょう」透が乱れた呼吸の合間に言った。酷い汗だった。
「は? 落ち着いていられるものですか! こんな村には一秒たりともいられない! 嗚呼、誰でもいい、早く助けに来てちょうだい!」
反面教師という言葉がある。取り乱した絹代を前に、いくばくか理性を取り戻したのか、透の目には少し正気が戻って来たようだった。
「絹代さん、理性を失っては犯人の思うつぼです。ひとまず、他の住民と合流しましょう。僕が龍川先生と深見たちを呼んできますから、絹代さんと霧子さんは屋敷に戻って一緒にいてください。決して離れてはいけませんよ」
身を震わせる二人の女性をかわるがわる見つめ、透が言い聞かせた。武藤霧子は愕然とした表情で、小さく顎を引いた。
それを確認して、透は気もそぞろといった様子の絹代に向き直った。
「絹代さん、疑心暗鬼になるのはわかります。けれど、霧子さんはアリバイこそ不完全ですが、視力に不安がある以上、犯人足り得ません。彼女のことだけでも信用して、一緒にいてください。いいですね?」
透の顔に不審げな視線を向けていた絹代だったが、すぐにその目は脇に向いた。透の立つその向こう側、風に煽られ大きく開いた扉の内側を指して、彼女はヒッと喉の閉まった悲鳴を上げた。
――次は虎。
内側には、おどろおどろしい血文字でそう記してあった。
「まあ、次だなんておそろしい! こんなこと、まだ続くというんです? もうたくさん!」
「虎……白峰家で何かあるのか……? とにかく、ちょっと見てきます」
そう呻く否や、透は弾かれたように斧を手に取り、覚束ない足取りで駆け出した。
二
朝靄の中、透は懸命に足を飛ばした。
恐怖で足は縺れ、喉は引き攣れ、睡眠不足と疲労と極限の緊張状態から淀んだ脳みそは鈍く揺れて、頭が爆発しそうであった。今にも、魔術を使う殺人鬼に足を引っ張られて地獄の底へと引きずり込まれるのではないかと、透は猛獣から追われる兎のように力の限り駆け抜けた。
途中、右手に赤く爛れた石像が近づいてきたが、目を背け、ひたすら前だけを見つめて疾走した。
やがて、霧の中に白峰邸がぼうっと浮かんだときには、見慣れた風景にも関わらず、黄泉の入口にでも舞い込んだような錯覚を覚えた。
門の前で呼び鈴を鳴らして中から人が出るのを待つ。その時間すらももどかしく、忍び寄る恐怖に背中じゅうをなぞられ、急き立てられ、たまらず透は門を開けて押し寄せる高波のように、玄関先へとなだれ込んだ。
「ごめんください! ごめんください! 白峰さん!」
斧を握りしめ、開いた方の左の拳で力の限り引き戸を叩く。
しばらくして、近づく足音があってからからと扉が開かれた。
「透さん……まさか、また何か」
「琴乃さん、生きていた……」
出迎えた琴乃は、膝に手をつきしなしなと脱力する透と、その右手に握られた斧を見てギクリと目を瞠った。
「何があったんです……?」
怯える琴乃を前に、透は慌てて斧を手から離し、「瑞樹くんは、瑞樹くんは無事ですか」と寄り縋った。
「瑞樹は部屋で寝ているはずだけど、何が――」
「父が殺され、血文字で“次は虎”と」
それを聞いて、琴乃の顔が一気に青ざめた。すぐに、転がるように階段を駆け上がる。透もそれに続いた。
「瑞樹! 瑞樹!」
どんどんどんと暗い廊下に鈍い音が響き渡る。
「蹴破りましょう」
どいてください、と透が琴乃の腕を引いた瞬間、がちゃりと鍵が開き、扉が開いた。中から、寝ぼけ眼の瑞樹がぼんやりと顔を出す。必死の形相の母の隣に、透の姿まで見つけて彼は顔を凍らせた。
「今度は何があったの」
動揺する瑞樹に、琴乃は顔をくしゃくしゃにして抱きついた。
「もう……びっくりした……よかった……」
隣の部屋から、同じく事態を飲み込めない様子の冷泉が顔を出す。
「また何かあったのですか」
「父か殺され、その場に“次は虎”の血文字が」
乱れた呼吸の合間に零れた透の言葉に、抱きつかれた格好のまま、母の背を撫でていた瑞樹がはっと目を見開いた。
「虎……父さんは?」
「秀一さんに何かあったのかもしれない」
瑞樹の言葉に、琴乃は再びサッと顔を蒼くした。
冷泉は考え込んだ。白峰秀一個人の安否が気になるのももちろんだったが、延いてはこの村に閉じ込められた全員の運命に直結するという点においても非常に気がかりだった。
とはいえ、秀一の死体が発見されるようなことがあればニュースになるだろうから、テレビを通してこの村にも伝わっているはずだった。さらに、警察は白峰秀一の家族と連絡を取ろうとすることだろう。その道中で異変を察して救助に来る可能性が高かった。
しかし、誰も気づかないところに遺体を遺棄されていたらどうだろうか。そんなことになれば、助けが来るのがますます遅くなってしまう。この辺境の村に閉じ込められた面々にとっては、明日村へ帰ってくるのがはっきりしている秀一の存在だけが、約束されている唯一の救いだった。
呆然と立ち尽くす白峰親子を前に、冷泉が口を開いた。
「秀一さんに何かあれば報道されるでしょうから、居間でテレビをつけてみましょう」
冷泉の言葉に促されるように、一同は階下へと流れる。
「テレビをつけるのが怖いわ……」
階段の手すりに縋りつき涙を浮かべる琴乃に、冷泉は左手を差し出した。
「おそらく秀一さんは無事だと思いますよ」
「どういうこと?」琴乃はその手を取って尋ねた。
冷泉は努めて理性的に答える。「犯人が今朝源一郎さんを殺害した後、秀一さんを殺すために村から出る方法があるとは、ちょっと思えません。それがないから、俺たちは閉じ込められているわけで。それこそ、抜け道でもない限りは、殺人鬼も同じ檻の中であるはずです」
そこで誰からともなく、はたとこの場に一人足りないことに気が付いた。
「深見は……?」
透の言葉を受け、琴乃は冷泉を押しやってよろめき、降りた階段を左に折れた。それからしなだれかかるように、身体全体で勝手口の引き戸を開く。飛び石の先の、離れの鍵はしっかりと閉まっていた。
「陽介! 陽介!」琴乃は裸足のまま、半狂乱で引き戸を叩いた。
「琴乃さん、これで破りましょう」その背に追いついた透が斧を構えて言った。
声に振り返った琴乃は、透の姿をみとめると、「早く破って! この斧で破って! 早く!」と力任せにその右腕を揺さぶった。
透が斧を打ち付けるたびに、曇り硝子が音を立てて散らばった。透が斧で叩いて大きな罅を入れた箇所を、冷泉が傘の先で突いて割って、硝子を下に落としていく。
瑞樹は琴乃を両手で抱きしめたまま、それらを不安げに見つめていた。
破壊音が一つ響くごとに、心が罅割れ砕けていくような心地だった。
やがて丸く穴が開き、冷泉が中へ腕を差し込んで鍵を開けた。待ち構えていた琴乃は、足の裏が切れるのも気にせず破片が散らばる廊下へ転がり込み、洋間の扉を乱暴に連打する。
「陽介! 陽介いるの陽介!」
しかして、ノブは簡単に回った。キィィと切なげに音を立てて、扉はゆっくりと開かれる。透は斧を取り落とし、瑞樹は耳を塞ぎ、冷泉は顔を背けた。
「いやああああああ――!」
琴乃の悲痛な叫びが、呪われた村を引き裂いた。
部屋中、噎せ返る鉄の匂いで溢れていた。
照明は煌々と部屋を照らし、丸机には読みかけの本と手帳が、開かれたまま置かれている。
深見陽介は、こちらを向いて椅子に行儀よく座っていた。
ただ、あるべき場所には首がなかった。
頭を失った深見陽介は、文字通り物言えぬ躯と化していたのだった。……
首の断面からは鮮血がしとどに流れ落ち、床は彼の血で赤く染まっていた。奥の壁には、血文字で虎にばってんがされ、横に大きく雀マイナス亀の文字があった。
廊下に蹲り、ああ、ああと開いた唇からとめどない嘆きを零す琴乃の絶望が、早朝の離れに響き渡る。隣では蒼い顔をした瑞樹が、母の背中を懸命に抱きしめる。まるで彼女の魂が飛んで行かぬよう、きつく引き留めているようだった。
透は琴乃を瑞樹に預けるように手を離して、ふらふらと室内へ入った。
「深見……」
血で汚れるのも厭わず向かい合って胸倉を握りしめると、透はそのまま首のない身体を掻き抱いて深く俯き、肩を震わせた。
辺りを重い沈黙が支配する。ただ琴乃の嘆きと、透のすすり泣く声だけがしんと冷えた廊下をくゆらせた。
「鍵が見当たりませんね」
一通り廊下と玄関、和室を確認してきた冷泉が、血濡れの洋間へ足を踏み入れた。
背後に気配を感じ取った透が、ゆらりと顔を上げる。振り向きざまに、隈の色濃い目が冷泉の姿をとらえた。
「冷泉くん」
焦点の合わない目が何かを訴えていた。彼はもう飽和寸前だ。冷泉は目の前で膝立ちに佇む青年の姿に、ほんの一グラムの負荷で脆く崩れる砂の城のような危うい雰囲気を感じた。
「しっかりしてください、透さん」冷泉は膝を折り、透の顔を覗き込んだ。
「犯人は魔法でも使ったのかな」
「突然何を言い出すんですか」
「父が殺された木工室も、完全な密室だったんだ」
さて、どうしたものかと、冷泉は背後の瑞樹を振り返った。相変わらず蹲って泣きじゃくる母親の背中を、沈痛な面持ちで抱いた瑞樹と目が合った。
各々、精神が限界だった。
この村全体が、狂気と絶望に呑み込まれようとしている。
「ああ……龍川先生を呼ばなければならないね。それから、深見を寝かせてあげなきゃ」
透は突然ふらふらと立ち上がったかと思うと、うわごとのように呟き、悲しそうに笑った。
「大丈夫ですか、透さん」
冷泉がその腕をつかんで引き留めると、力なくこくりと頭が振れる。
廊下の小窓を通して仰ぎ見た空は、黒雲がどんより重く垂れさがってきていた。またひと雨くるのかもしれない。
玄関に視線を戻せば、頼りない足取りをした透が靴をひっかけ外へ出るところだった。砕けた硝子と地面が擦れて、耳障りな音を立てる。一瞬迷うように首を動かした冷泉だったが、瑞樹にその場を頼み、慌てて透の後を追いかけた。
三
鶏の哭き声が、晩夏の空を細く切り裂く。
空は低く垂れ下がり、雨粒が落ちてくるのも時間の問題に思われた。
龍川医師と小夜を連れて白峰邸へと引き返し、透はその足で朱野邸へと一度戻った。バラバラに散らばって過ごすほうが危ないので、屋敷で待つ武藤霧子と絹代を連れて全員で『白虎の館』に固まろうという話になったためである。
透が朱野邸に戻ると、屋敷は暗くしんと静まり返っていた。まるで、何年も人の住んでいない屋敷のように、建物全体が沈黙していた。
薄暗闇の中からいまにも殺人鬼が飛び出してきそうで、透は息を殺して廊下を歩いた。
「絹代さん、絹代さん」
声を殺して、こつこつと扉を叩く。主のいなくなった部屋に女性が二人身を寄せ合い、進まぬ時間をやり過ごしているのだろう。そう思うと心が痛む。一刻も早く連れて逃げ出したかった。
なかなか返事がないことに恐怖を覚えた透は慌てて二階へと駆けあがり、東側にある客室の扉を忙しなく叩いた。静の部屋とコレクションルームに挟まれたこの部屋は、武藤霧子が使用しているものだった。
「霧子さん、霧子さんいらっしゃいますか?」
声を張ると乾ききった喉が割れて、透は小さくむせた。喉も胸もからからに渇いてうまく声が出せない。けれども黙ってしまうと途端に訪れる沈黙が怖かった。体中のあらゆる皮膚の上を無数の毛虫が這いまわるようで、肌が粟立って仕方がない。自分だけを残して世界から人間が消えてしまったような錯覚を覚えて、頭がおかしくなりそうだ。透はともすればその場で叫び出しそうになるのを、胸を拳で叩いて堪え、扉に縋りつく。
そうしたところで、かちりと慎重に鍵が開く音がして、扉が薄く開かれた。十センチほど開いた扉の隙間から、無表情でじっとりと上目遣いをした武藤霧子と目が合った。
ほっとして眉を下げた透だったが、すぐに自身に短剣の切っ先が向けられているのに気付き、ギョッと瞠目して二、三歩後ずさる。
「霧子さん……?」
冷汗が流れ落ち、動揺から頬の筋肉が引き攣って変な笑いが漏れ出た。
武藤霧子は一体どうしたというのだろうか。まさか、この惨劇は全て武藤霧子が……? 透はぼやけた脳みそを掻きむしる。確かに、目が不自由であることを除けば、武藤霧子には犯行に及ぶだけの時間があった。
透はしなしなと力が抜けたように後ずさり続け、ついに壁へと背中を打ち付けて寄りかかった。
「透さん?」
唐突に名前を呼ばれ、透の喉がごくりと上下する。
「透さんなのね。突然刃をつきつけるような真似をしてごめんなさい。けれど、許してちょうだいね。誰がやってきたかわからなかったから。自分の身は自分で守らなきゃ」
どうやら、誰が訪問してきたのか確かめる術を持たななかった武藤霧子は、自衛のために武装していただけらしい。透は気が抜けたようにそのまま床へと座り込んだ。
「いえ……無事でなによりです。ところで、絹代さんはどうしたのです?」
「それがね。あの後お屋敷へ戻ったのだけれど、誰も信用できない、協力もしないと仰って、当面の食料と水を手に、お部屋へ籠って鍵を閉めてしまわれたのよ。外から何度呼ぼうと返事もなく。困り果ててこのお部屋に戻りました」
「そうだったのですね」
絹代の籠城については、透もつい先ほど目の当たりにしたところだったので、想像に容易かった。
「霧子さん、落ち着いて聞いてくださいね。白峰邸で深見が遺体で発見されました」
それを聞くなり、武藤霧子は口に手を当てて「まあ」と驚きを示した。
「ええ、ですから、少人数でいると危険なので白峰邸に集まることになったんです。僕はそれを伝えにきたのですが……残念ながら、絹代さんは出てきてくれませんでした」
透は眉を下げて困惑を示す。
「絹代さんはどうするのです? 置いて行くのですか」
武藤霧子の問いに、透はうーん、としばし考え込んだ。
「そうですね、そうする他ないでしょうかね。僕たちだけで、白峰邸へ移りましょう。この後も彼女の籠城が解けないようならば、全員でこちらの家に移動していただくしかないですかね……」
「ええ、他にどうしようもないわ。そうしましょう。彼女もご自身の判断で籠城したのですもの。自己責任です」
武藤霧子は冷たく言い放った。
そうして、武藤霧子と透は降りしきる雨の中を、二人寄り添うようにして白峰邸へと急いだのだった。
通ると武藤霧子が白峰家の離れに着くと、ちょうど遺体の検分が終わったところだったらしく、廊下の向こうから手を拭いながら戻ってくる龍川医師と鉢合わせになった。
上がり框から廊下に上がったところで、洋間の向こうのふすまが開き、音に気付いたらしい琴乃が和室から顔を出した。血色が悪く寝間着のままであり、一目して休んでいただろうことが窺えた。
そうしたところで、死体発見現場となった洋間から冷泉が出てきた。
「ずいぶんと雨が酷かったようですね」
彼の言葉通り、外は傘をさしていても足元が濡れるほどの雨風に見舞われていた。
「ちょうど雨に降られてしまって。すみませんが、タオルを貸してはいただけませんか」透は琴乃に願い出、最後は瑞樹に視線を移した。案の定、瑞樹が離れの奥へ駆けて行った。
透は瑞樹から受け取ったタオルのうち一枚を背後の武藤霧子に手渡して、自らも濡れた身体を拭い始めた。
「絹代さんは部屋に籠ったまま出てきてくれませんでした。このまま絹代さんが呼びかけに応じないようでしたら、申し訳ないですがこちらではなく『朱雀の館』で一晩を過ごしていただくことになるかもしれません」
しゅんと肩を落とした透に、龍川医師は胸の前で手を振った。
「いえいえ、絹代さんのことがなくても、その、源一郎さんのご遺体を確認せねばなりますまい。一度全員で『朱雀の館』へ移動しましょう」
「すみません、よろしくお願いします」透は深々と一礼した。「……ところで、離れの鍵は見つかったのですか?」
「深見さんの胸ポケットから出てきたそうです」と、龍川に代わって冷泉が答えた。「それから離れの窓、雨戸共に全部見てまわりましたが、しっかりと鍵がおりていました。クレセント錠の摘まみにも傷一つありません。洋間の鍵は開いたままでしたが、玄関の鍵がしまっていたため、この離れそのものが巨大な密室だったと言えますね」
透はエッ、と顔を強張らせた。「窓まで閉まっていたなんて……本当に犯人は煙か何かなのか」額に手を当て、廊下の龍川医師へと向き直った。「先生……深見はいつ頃殺されたのでしょうか」
「死亡推定時刻は今から六時間前後。夜中の二時から四時頃ですな。切断面の出血の具合から、殺害された後に首を切り取られたものとみて間違いないと思われます」
透は目を閉じて頭を振り、「そうでしたか……」と呻くように言った。それから、気丈に顔を起こした。「龍川先生、こんなときに相応しい言葉が見つかりませんが、検分お疲れ様でした」
彼は頭を下げると、ベッドに寝かされた遺体へとゆっくり歩み寄り、傍らに膝をついて優しく撫ぜた。関節まで硬直がまわってきているようで、その異様な感触をもって透は、改めて彼がもうこの世のものでないことを無情にも突きつけられる。
「早く運び出してやりましょう。これ以上遺体が傷んでしまってはかわいそうだ」
首のない深見陽介の亡骸は、降りしきる雨のなかすっぽりと毛布に包まれ、若い男三人の手で運び出された。その行列においては、誰も一言も発することなく実にしめやかな行軍となった。
五
大雨の中、白い虎の像は赤い涙を流していた。
誰からともなく、踏み出す足が止まる。
白虎像は根元からもぎ取られ、代わりに首のない玄武像が転がっていた。
「どういうことだこれは……」透が呻きを漏らした。
冷泉は一人、胸の内で納得していた。これは深見陽介と武藤霧子の隠し子の“陽介”が同一人物であることを指している。しかし、そのことを皆に伝えるべきか、どのようにして伝えるかは判断に悩むところだった。
「白虎の像が……」
小夜が琴乃の肩に縋りついて肩を震わせた。大事にしていたペットが傷つけられたような衝撃を受けているようだった。一方の琴乃は顔を背けて、視界に入らないようにしていた。
瑞樹はそれらを順に見遣り、手元へ視線を落とした。毛布は濡れて張りをなくし、首を失った故人の凹凸がくっきり浮かび上がるようになっていた。
「……行きましょう」
藤川絹代が閉じこもっている玄関横の寝室は隙間なくカーテンが閉ざされていて、外からでも中の様子を確認することができない。一行は裏手に回り、深見の亡骸を抱えた男性陣は、西側の入口から地下階段へと降りていった。そこで女性陣と龍川医師は、男性陣に別れを告げて居間へ入った。小夜の介添えを受けて、白峰琴乃はソファに横になった。硝子を踏んだ足は、今は綺麗にガーゼがあてられていた。
それらを横目に龍川と武藤霧子は居間を突っ切ってもう一度絹代のいる寝室の扉を叩いてみた。しかし、依然返事はないままだった。
「絹代さんはかたくななようですな」
「食料と水を持って籠ったようなので、本当に救助がくるまで出てこないつもりかもしれませんわ」
二人がやれやれと居間へ戻って来たところで、地下から昇って来た透とちょうど鉢合わせた。
透は、両手に軍手をはめながらため息をついた。「これだけ頑強に籠城していれば、安全は安全なのでしょうけれどね」
「乱暴なことをぶつぶつ仰っていたので、心配ではあるのですけれどね。『こんな辺鄙な村来るんじゃなかった。金をもらっても願い下げだわ』だなんだって。でも、出ていらっしゃらないのだから、こちらもどうしようもありませんわ」
その言動によほど思うところがあったのだろう、武藤霧子が珍しく毒のある物言いをするのを受け、透は複雑な面持ちで眉を曇らせた。
それから彼は、冷凍庫からいくつもの氷の塊を台車に乗せて居間を出ていった。これまでも人知れず、こうして地下の即席霊安室に氷を絶やさないようにしていたのであろう。源一郎や絹代がその作業を手伝っていたとは到底思えなかった。水谷亡き後も、黙々と一人で薄暗い地下室に氷を運びつづけていただろう透の姿を想像して、龍川はなんともやるせない気分になった。
地下から若い男衆が戻るのを待って、龍川は木工室にあるという源一郎の遺体の検分に出かけることにした。
屋敷にはすっかり傷心してしまった琴乃と、小夜、武藤霧子と瑞樹が残り、龍川、冷泉、透が木工室へと向かうはこびとなった。屋敷裏手の扉を開けると、早速雨風が廊下へ吹き込み、慌てた三人は示し合わせたように傘を開く。白い雨粒が地面を粟立だせ、ともすればたびたび吹き付ける突風に傘が持って行かれそうになった。
西の裏口から屋敷の裏手に向かいまっすぐ進むと、左手に土蔵が見えてくる。しかし、その扉は開けっ放しになっていて、風に煽られぷらぷら揺れていた。透と龍川が不審そうに顔を見合わせた。
「今朝は鍵なんて開ける暇なかったのに」透の声が自然と震える。
朱野家の納屋や土蔵は毎朝水谷の手により開錠され、毎晩水谷と透の手により施錠されているとの話だった。毎朝鍵を開けていた水谷ももうおらず、透とて今朝の騒ぎでそれどころではなかったはずだった。
「昨日締め忘れたとかは?」冷泉は速足で土蔵に向かった。
「いや……確かに閉めたと思ったのだけれど……」透が後に続く。
雨風に踊る扉に手を掛けた冷泉だったが、中を覗いた瞬間に短くうめき声をあげて動きを止めた。続いた透が「ああ……あああ」と声を漏らして後ずさる。
異変を察した龍川も恐る恐る近寄り、同じく中を覗き込んだ。
「ひいいい!」龍川は傘を取り落として尻もちをついた。手から離れた傘が、風に煽られ宙を舞う。
それは、血も凍るような不気味な光景だった。
首を括られ、天井の梁から吊るされた和服姿の藤川絹代は、降り注ぐ雨粒を全身に受けて濡れそぼっていた。その両手両足は縄できつく自由を奪われ、今際にもがくことすらかなわなかっただろう。その苦しみと無念を死してなお訴えるように、その身体はぎしぎしと軋みを挙げながら、小さく揺れていた。……
「ま、まだ生きているかもしれん!」
龍川がその身体を抱えるのに、残る二人も引き攣った顔で応じた。
「どうして……いつ……」透が呻いた。
「部屋に籠っていたのではなかったのか?!」冷泉は訳が分からないと訴えるように語気強く宙に問いかける。
「……駄目か。もう生き返りはせん」龍川が首を左右に振って吐き捨てた。
透が腰を抜かすように、その場にへたり込んだ。
「けれど、まだ死んでからほとんど経っておらん。十分そこらだろう」龍川が、寝せた遺体の皮膚や顎を確認しながら唸った。
「では、僕らが屋敷に来た頃に?」透が蒼い顔を持ち上げ、不安定な声をあげる。
龍川医師は沈痛に俯いた。「そうとしか考えられませんな」
冷泉も透も、混乱を抑えきれない様子だった。
「え……それじゃあ、自殺したというのか」
驚愕に顔を歪めた透に、「それはあり得ません」と、冷泉が蔵を見回した。「踏み台になり得そうなものが見当たらない。確かに第三者の手によって吊るされたものに違いありません」
「それに、絹代さんは喉を潰されとるよ。静さん同様に」龍川も遺体の喉元に触れながら静かに言い放つ。「自殺とは考えにくいでしょうな」
透はそんな二人の言い分を順に目で追ってから、愕然と言った。
「確かに僕らはずっと一緒にいた。全員で深見の遺体を運んだんだ。なのに、その間にこうして絹代さんは殺され、吊るされている。……まさか僕ら以外の人物が隠れているというのか」その声は震え、表情は恐怖に歪んでいた。
冷泉は少し考え込んでから眉間に皺を寄せた。切羽詰まったような表情に見えた。「ちょっと信じられないですけれど、そうとしか考えられませんね。少なくとも、集まって深見さんの遺体を運搬した面々以外に、絹代さんを殺した実行犯がいるのでしょう」
冷泉が断言するのを受けて、まるで何かが臨界点を超えて溢れたように、突然透は打ち明け始めた。
「冷泉くん、僕はね、絹代さんが犯人じゃないかと疑っていたんだよ。みんなのアリバイを並べて見るに、そうとしか考えられなかったから。外部犯はあり得ない。絶対に村のことをよく知る人間の仕業だという確証があった。僕が山で襲われたときもそうだが、水谷さんが殺されたときだって、霧子さんの通院の習慣を知る人間がその隙をついたようにしか見えなかったから」
「僕もそうですよ。後半部分は全くの同感です。しかし透さん、村に詳しい人間で、なおかつあの場にいなかった人間だったら、まだいるじゃないですか」
冷泉の助言に、透は恐る恐る喉を震わせた。
「……姿が見えない弟か、白峰秀一さんが犯人だと考えているのか?」
「結論から言えば、その二人に関しては、なくはないという程度です」冷泉は、躊躇いなく言い切った。「まず弟さんに関しては、犯人だと仮定した場合にいくつか無理が生じます。少なくとも透さん襲撃に関しては、弟さんの単独犯を否定できますね。地下牢の外へ出たことがない彼が、この村の複雑な山道を、迷いなく逃げ切るには少し無理があるからです。しかし、水谷さんの日誌により、彼が一度脱走をしたという話が判明しました。このことで、零に近かった可能性が一に跳ね上がりました。ですが、犯人は明らかに武藤さんの通院事情を知っていたということが判明したため、やはり弟さんの単独犯はないと思っています。誰か通院事情を弟さんに伝えた人物がいなければ、弟さん一人では情報を得ようがないですからね」
暗い顔でふんふん、と小刻みに首を振って聞いていた透が視線を上げた。
「複数犯の可能性を考えれば、遺体を運んだ面々も絹代さんを殺害した実行犯から外れるというだけで、完全なシロではなくなるわけだね」
「そうなりますね。そして白峰秀一さんが犯人である場合、僕たちの頼みの綱である“明日出張から帰って来てトンネルの崩落に気付いた秀一さんが救助を呼んでくれる”という期待が潰えます」冷泉は目を細めた。
透が髪についた水滴を振り払うように頭を左右に振った。
「それはご免こうむりたいな。これ以上この村に閉じ込められるだなんて、頭がどうにかなりそうだ。そもそも秀一さんを犯人だと仮定した場合、動機が不明すぎるよ。無差別に人を殺して楽しんでいるとしか思えない」
「それも同感です。ですが透さん。この場におらず、動機があり、かつ村に詳しい人物――弟さんと秀一さん以外に、もう一人いるじゃないですか」
その瞬間、透の顔からスッと温度が消えた。
「……僕を試しているのか?」
「申し訳ありません。そう見えたのなら謝ります」冷泉は殊勝に頭を下げた。「そうではないのですよ。ただ、告発するにはあまりにも謎が解けていなさすぎるので、断言するのが憚られただけです。ならば初めから触れなければいい話ですよね」冷泉は視線を上げて、透の表情を見た。
透は斜め下の宙を睨んでいた。
「透さんもうすうす勘づいているのではないでしょうか。ただ、認めたくないだけで……」
透は半ば閉じた目で、もの言いたげに冷泉を見据えた。唇は閉じたままだった。
「絹代さんの検分は終わりましたよ」龍川が顔を上げた。「まったく……こんなこと、いつまで続くのでしょうな」
龍川が立ち上がったのを確認して、冷泉は言った。
「秀一さん犯人説が残る以上、明日の救出も確実とは言えなくなってきました。密室やアリバイの謎を解いて犯人を拘束し、事件が終わらせる。これくらいしか我々にできそうなことはないですね」
「源一郎さんの遺体発見現場へ急ぎましょう……」龍川が重い溜息をついた。
土蔵から外を見上げる。鼻髭に細かな水滴がついた。
六
土蔵を出て、屋敷の裏手に回ってすぐのところには鶏小屋がある。そこから更に奥へ進んだところ、ちょうど屋敷の真裏に位置するのが、今回事件現場となった木工室だった。裏手はもう山になっている。台座だけになってしまった玄武像の残骸が、こちらを恨めしそうに見つめているようだった。
木工室の扉は無残に打ち砕かれ、穴の開いた左側の戸がきぃきぃと雨風に吹かれて揺れていた。右側の戸は中途半端に開いたところで固定棒が下りている。少々雨水を受けていたものの、その内側にある血文字は、透の証言通り“次は虎”と読めた。
冷泉は雨に濡れた眼鏡のレンズを、持参した眼鏡拭きで丁寧に拭ってからかけなおす。そして小さく息を吐き中へ踏み入った。隣で龍川医師が「なんと惨い」と嘆きを零した。
朱野源一郎の頭蓋骨は、彼のコレクションのうちの一つ、頭蓋骨粉砕機のレプリカによって無残にも拉げていた。
「父は頭を潰されて死んだのでしょうか」
透が震える声で龍川を仰ぐ。どうやら直視することはかなわないらしく、木工室の扉の影に隠れたまま、一向に傘をたたむ気配がない。
「いや、直接の死因は、切断された手首からの失血死ですな」
「では、源一郎氏は頭を潰された状態でしばらく生きていたと?」
目を剥く冷泉に、龍川は渋い顔で首肯する。その拍子に汗が一粒零れた。
「この拷問器具の可動範囲では、頭蓋を潰すことは難しいでしょう。できることと言えば、せいぜい顎の骨を折る程度のものです。よって元来この器具の目的は、拷問対象を直接死に至らしめるものではなく、頭を潰される恐怖をもって自白を促したり、虐げたりといったところだったと思われます」
なんと、その見た目だけにとどまらず、仕打ちそのものも大概惨いものだった。頭蓋骨を潰された源一郎は、激しい痛みと死の恐怖の中、手首の先から自らの血液が零れゆく音を聞きながら絶命したというのだ。ぽたりぽたりと血の滴る音を、絶命のカウントダウンとして。……
部屋の中を見渡すと、向かって右に作業台が一つ、しかしこれはL字金具で足が床に固定されていた。木材を切断する際に動かないようにであろう。がっちりと固定されて動く気配がない。その上には、木製の背もたれのない丸椅子が一つ、逆さに乗っていた。
「確かに密室ですね」
通気口を見上げて冷泉が呟く。くるりと振り返って逆側から部屋を見回すが、出口になりそうなものは何一つ見当たらなかった。
そのまままっすぐ歩いて、唯一の出入り口である扉へ近寄ると、閂へと手を伸ばした。一本の横木を、左右の扉にそれぞれある閂鎹へと通して開かないようにする、よくある型のものだった。
「中での作業を風や雨で邪魔されたくないときに、父は閂を使って扉を固定していたんだ」扉の外で壁に寄りかかっていた透が、声を絞り出すように説明した。
その話によれば、扉の錠は外からしか閉めることができないため、内鍵を後付けで作ったということだった。彼の説明を聞きながら冷泉はひとしきり鍵を弄ってみたが、どう転んでも内側からしか開閉することができなさそうである。
「この閂が中から閉められていたというのですね」
冷泉の問いに、透はこくりと顎を引いた。
「まず、外鍵は絹代さんが持っていたものを僕が受け取って開けた。把手を引いても開かないから、中に父がいるのかと思って声を掛けたよ。けれども声が返ってこないものだから、納屋まで斧を取りに走ったんだ。納屋の鍵は開けたままにしていたから、そこから斧を取ってきて扉に打ち付けて穴を開けた。穴から手を差し込んで、手探りで閂の横木を滑らせて扉を開けると……」そこで透は顔を顰めて黙り込んでしまった。
「なるほど。扉が開かないのを確認したのは、透さんおひとりですか?」
「いや、僕が斧を取って戻ってきたときに、絹代さんが扉をがちゃがちゃしていたよ。霧子さんも隣にいたから、裏は取れると思う」
「そうですか」冷泉は小さく唸った。「扉の隙間を使って糸を通すと言っても、釣り糸や針金なんかでこの重い横木を滑らせるのは不可能ですね」横木には、糸をひっかけるような出っ張りやつまみがなかった。
「糸を通した穴もないね」蒼い顔の透が張りのない声で言った。彼はなおも戸口に身体を預けている。密室の謎に興味はあるものの、とにかく室内の惨状を視界に入れたくないようすだった。
「となると、残るのはあの通気口か」冷泉は振り返って、四メートル頭上にある鉄の長方形を見上げた。「外からあの通気口を見てみましょう。透さん、脚立はありませんか」
「あの高さの脚立はないな……あ、農具倉庫にだったら、大きな脚立があったな。あれならば、ひょっとしたら届くかもしれない」
「農具倉庫があるのですか?」
「ああ。村の中心に畑があって、その傍に共用の倉庫があるんだよ」
七
二人が脚立を担いで戻る頃には、雨もだいぶ小降りになっていた。
木工室の裏手にまわり、透が下で見守る中、冷泉は脚立に足をかけた。脚立は十二尺のもので、上までのぼって跨ると、身長百七十八センチの冷泉は通気口まで楽に手が届いた。かなりの高さであるため相当怖い思いはするが、おそらく村で最も身長が低いであろう百五十センチ程度の小夜であっても、手を伸ばせば届くだろう。
通気口は、縦四十センチ、高さ七十センチほどの長方形の鉄格子型をしていた。等間隔に鉄の棒が五本刺さっている。だいぶ古いもののようだったが、近ごろ掃除をしたのか蜘蛛の巣や埃もなく綺麗にしていた。そのうち一本を握ってみる。すると驚いたことに、握って捻ると格子が外れた。同じように残る四本も外してみると、鉄格子の通気口が小窓に早変わりする。
室内で遺体の検分をする龍川医師と目が合うと、医師は目を丸くした。
「冷泉くん。どうやってそんな高いところに」
「脚立を使いました。この鉄格子、外れるようになっていたんです」
言って冷泉は中を覗き込む。あまりの高さにゾッと体毛が逆立った。ちょっと派手なくしゃみでもすれば、身体は通気口をすり抜け、地面に向かって頭から真っ逆さまであろう。
なるほど、小窓に様変わりした通気口であれば、人一人通り抜けることはできただろう。だが、いかんせん部屋の中から通気口まで昇る手段がない。脚立を中へ持ち込んだところで、人は小窓を通れても全長三メートル半をゆうに超える脚立が通るわけがなかった。
「どうしたものか……」冷泉は頭を掻きながら、地面へ降りた。
下で脚立を支えてくれていた透が傘を差しかけてくれる。「収穫はあった?」
「格子が外れることがわかりました」
「格子が?」
「ええ。ご存知なかったのですか?」
「恥ずかしい話だけど……」
「水谷さんもご存知なかったのでしょうか?」
「さあ、どうだろう」透は首を傾げた。
「握って捻れば、簡単に外すことができます。蜘蛛の巣や埃がなかったことから、水谷さんが最近掃除をしたか、犯人がこの通気口を使って出入りしたかであることがわかります。……後者の場合、犯人は部屋の内側からどのようにして四メートル以上あるあの高さまで昇ることができたのか、皆目見当がつきませんがね」
脚立を元に戻して木工室の正面へ戻ったところ、ちょうど龍川医師が、検分を終えて外へ出てきた。そのころにはもうすっかり雨が上がり、白い雲の隙間からは時折日の光が顔を出していた。
「源一郎さんの死亡推定時刻は今から七、八時間前といったところだから……ええと」
「およそ夜中の三時頃、深見と同じくらいですね」透が腕時計を見て言った。「どちらが先に殺されたかというのは?」
「さあ、そこまでは。法医学専門の医師が詳しく解剖すればわかるのかもしれませんが、私が外から見てわかる範囲では、ちょっと」
龍川が口を閉ざしたと同時に小さな沈黙が落ちた。
やがて、何かを思いついたらしい冷泉が視線を上げた。「ところで屋敷のマスターキーは今どこに?」
透がえっと、と黒目を上に向けた。「絹代さんに預けたきりだな。木工室で“次は虎”の血文字を見て白峰邸に急ぐ前に、その場に預けて出たんだ。だから犯人が持ち去っていなければ、二本とも父と絹代さんの部屋にあるんじゃないかな」
二人のやり取りを聞いていた龍川医師は、なにやらポロシャツの内ポケットを探り始めた。鍵束が二組出てきた。
「鍵束でしたら二つとも、絹代さんの着物の袖から出てきましたよ」
「あ、それです」透が受け取り、その本数を数え始めた。「数も合っています。なくなったものはなさそうですね」
八
二人の遺体を地下へと運び込み、三人は居間へと戻った。大時計の針はちょうど十一時を指していた。食欲がある者はだれ一人としていなかったが、全員そろったところで遅い朝食となった。消耗の激しそうな琴乃と透に関して、ベッドで休ませてはどうかとの提案が瑞樹から出たが、極力行動を別にしない方がいいということで、基本的には居間で過ごす取り決めになった。
そのため、生き残った七人全員が、小学校の教室ほどの空間にひとかたまりになって、進まぬ時間をやり過ごしているのである。
冷泉の手元には、現在二冊の冊子があった。うち一冊は深見が遺した手帳であり、もう一冊は水谷の部屋から拝借した『執事記録〈三〉』である。
これをもとに、冷泉はこれまでの事件を整理してみることにした。
一つ目の事件、電話機爆破については、各家ともに施錠の習慣がないため、忍び込む機会は全員にあったものとする。また、トンネル爆破については、直接着火したものか遠隔か等一切不明である。最後にトンネルの無事を確認したのは、透と深見が通過した八月十八日の十四時頃のことである。
二つ目の事件、静殺害については、密室トリックの謎が残っている。アリバイがないのは透、琴乃、瑞樹、深見、冷泉、武藤、龍川、小夜、水谷の九名である。
三つ目の事件、透襲撃については、犯人が逃走経路に明るかったことから、村の地理に詳しいものの犯行かと思われる。アリバイがないのは殺害された源一郎、絹代の二名である。
四つ目の事件、穢失踪については、透が食事を運んだ十九時から翌朝四時の間に行われたものである。この間、全員が二十分以上一人になった時間が一回以上あるため、全員に犯行の機会があったものと考えられる。
五つ目の事件、水谷殺害については、足跡トリックおよび密室トリックの謎が残っている。アリバイがないのは源一郎、絹代、深見、瑞樹、小夜の五名である。
六つ目の事件、源一郎殺害については、密室トリックの謎が残っている。全員アリバイはなし。
七つ目の事件、深見殺害については、密室トリックの謎が残っている。全員アリバイはなし。
八つ目の事件、絹代殺害については全員にアリバイがある。
なお、すべての事件において、アリバイがない者の中に穢、秀一が加わる。
また、源一郎殺害と深見殺害の前後は不明であるが、便宜上、発見された順に源一郎、深見の順で番号を振ったものである。
ここまでを書き出したところで、冷泉は背もたれに上体を預けて小さく息をついた。
盆に麦茶をのせた瑞樹が、静かに隣の椅子に腰を下ろした。そのうち一つを無言のまま冷泉の前にすすめてくれる。
遅れて、同じく麦茶の入ったグラスを片手にした透が前の席についた。冷泉の視線がメモから離れたのを確認して、彼は声を差し込んでくる。「何か進展はあった?」
「このうち二つ目、静さん殺害時の密室の絡繰りについては、検討がついています」
「へえ、すごいじゃないか」目を丸くした透が、身を乗り出すように椅子を寄せた。
「透さん、一つ確認したいことがあるんです。以前深見さんと話をした際に、彼は透さんから村を案内してもらったということを言っていたのですが、畑にも行きましたか?」
唐突な冷泉の質問に、透は「んん」と記憶を弄るように斜め上を見つめた。「ああ、到着したすぐ、通りかかったときに軽く説明はしたかな。案内といえる程しっかりしたものではないけれど、村の簡単な配置と、目に入って来たものに関しての簡単な説明はしたよ。深見の言うところの案内にあたることと言えば、それしか思いつかないな」
透の返事を受けて、冷泉はじっとメモを眺めて考え込んだ。
やがて、「なるほど、そうですか」唇をきゅっと引き結んで頷いた。「ちょっと確認したいことがあります。少し『玄武の館』へ行ってきます」
九
『玄武の館』に着くや否や、冷泉は胴体発見現場の地面に何やら足跡をつけ始めた。そのさまを、透と瑞樹が不思議そうに見守っている。
しばらく前から再び雨が降り始めており、地面は薄い水の膜で覆われていた。
「これは?」透が尋ねる。
視線の先の冷泉は、今度はつけた足跡を箒で消し始めた。
「ええ、これはこのままにして、また後で来ましょう」
てんで返事になっていなかったが、透はそれ以上追及するのを諦めたようで、黙って冷泉の後についていった。
「ここは、発想の逆転ですよね」十センチ少々しか開かない窓を、何度か確認して冷泉が呟いた。
部屋は、遺体発見当時のままである。しかし当時は深紅の鮮血が飛び散っていた空間も、今では赤黒い文様で汚れた空間へ様変わりしていた。
初めて遺体発見現場を目にした瑞樹は、始終居心地が悪そうにそわそわしていたが、特に不平を零すこともなく黙って冷泉に付き従っていた。冷泉も、特に気に留めるふうもなくマイペースを貫いていることから、普段の関係性が垣間見えるようだった。
また、冷泉の動線は無駄がなく、どうやら端から確認事項と箇所に目星をつけてきたらしいことが窺えた。
「大丈夫? 外に出とく?」
あまりに声を発しない瑞樹を心配して透が声を掛けると、瑞樹は小さく首を横に振り、「邪魔したくないんです」と、黒目がちの瞳を遠くの背中に向けた。「それに、彼に丸投げはしたくない。僕も立ち会う義務があると思いますから」
「そっか」
この事件の究明に関しては、冷泉が自発的にやっていることだと解釈することもできる。もっと意地悪な受け取り方をすれば、好奇心から事件に首を突っ込んでいるともとれるだろう。そしてその場合、瑞樹が無理をして付き合う義務はないのだ。それをそうとは取らない辺りに、二人の関係性と、瑞樹の性格が出ているなあ、などと透が内心呟いていたところ、その心の声を透視したように瑞樹がぽつりと唇を動かした。
「冷泉が、興味本位で事件を混ぜっ返すような人じゃないのは僕も知っていますから。自分以外に適任者がいる状況では、彼は動かないんです。議長やまとめ役なんかも、他に立候補者が誰もいなくて、誰かがやらないと話が進まないという状況や、他者からの推薦がないとやりません。今回だって、陽介くんがあんなことになったから……」瑞樹は悲しそうに透に視線を移した。「事件についてびっしりと書き込まれた陽介くんの手帳を見て、冷泉も思うところがあったのでしょうね。果たしておとなしく警察を待っているだけでいいのだろうか。このままだと全員殺されかねない。そうならないためには、誰かが犯人を止めないといけないから」そして再び、瑞樹は彼方の背中へと視線を戻して黙り込んだ。
村に関係のない冷泉を巻き込んだという罪悪感もあるだろう。それについては、なにより透が感じていることだった。巻き込まれたどころか、命まで奪われてしまった友人のことを思うと、今でも頭がおかしくなりそうだ。透が巻き込んだわけではないことは重々理解しているつもりでも、あの怪文書が自身の名義で送られていたというだけで、途轍もない罪悪感がのしかかってくるのである。その罪責心から、深見の遺体が発見されてからこちら、透は大事な弟を喪った琴乃の顔を直視することができないでいた。
やがて、冷泉はすっきりとした顔で廊下に出てきた。
「透さん、しつこいようですが、確認させてください。武藤邸はいつもよく使われる玄関や居間、婦人の私室等の鍵は開けっぱなしにされていた。そして、客間などの空き部屋や納戸等のあまり開閉されない扉の鍵は閉めてられていた。間違いないですね?」
「ああ、僕の知る限りではそうだよ。事件当日も同じだったと霧子さんは言っていたし、玄関の鍵が開いていたことについては、実際に僕もこの目で確認している」
「そういうことならば、密室の説明はつきますね」そう言うと、冷泉はパッと雨粒を散らして傘を開くと、再び裏手の胴体発見現場へと向かった。「思った通りだ。足跡が綺麗に消えている」
慌てて二人が追いかけると、冷泉はしゃがんで地面をまじまじと眺めていた。彼が言うように、先ほど足跡をつけて箒で消した痕がきれいさっぱりなくなっている。全ての名残を降りしきる雨粒が消してくれたらしかった。
「じゃあ」透が不安げに視線を持ち上げた。
冷泉は晴々と頷きを返した。「ええ。これで二十分も雨に晒されれば痕跡が消えるということがわかりました。犯行時刻が九時四十分から十一時四十分の間まで広がりましたよ」
その言葉を受けて、透の顔が曇った。
『弟さんと秀一さん以外に、もう一人いるじゃないですか』
脳内に言葉が蘇る。冷泉が辿り着こうとするその先を覆う霧がまたひとつ晴れたことで、透の目にもその片鱗が見えてきていた。
「……密室の謎も?」
「ええ、そちらも。発想の逆転だったのです」




