続き
八
居間には、手際よく夜の準備を進める水谷の姿があった。
忙しそうにしている傍で呑気に歓談するのは少し気が引けるかと、躊躇いが生まれた深見は隣の静を横目で窺うが、無論彼女に動じる様子はない。
「水谷さん、手伝いに来ましたよ」
そうだ。彼女は手伝いにきたのだ。となると手持無沙汰な浮雲は深見ただ一人になる。深見は自身の浅慮を後悔して一歩後ずさった。しかし、そんな深見の心境など静が知る由もなく、名前を呼ばれて手招きされ、いよいよ部屋から出られる気配ではなくなった。
静の声を聞きつけて、台所の奥から水谷が顔を出した。口髭から覗いた唇を綻ばせる。
「いつも助かります、静さん」
「花嫁修業ですから」
どうやら、静が家のことを手伝うのはそう珍しいことではないらしい。
二人の会話を部屋の入口付近に突っ立ったまま聞いていると、静に部屋の奥へと促された。
「本日の主役が、何を突っ立っていらっしゃるんですか。こっちでお喋りしましょ。あのお髭の人は、執事の水谷さん。もうお会いになりましたか?」
そのままカウンターに一番近い席へと通される。
「うん。来たときに」
ちらりと目で窺った先で、水谷がにこりと会釈をするのに、深見もぺこりと返した。
「あら、そうだったんですね。深見さんはそこで私たちの話し相手になってください。お紅茶とコーヒーはどちらがお好きですか?」
「いやあ、なんだか俺だけ座っているのも悪いなあって」眉を八の字にしながら、深見は紅茶を選んだ。
「そう仰らずにどーんと寛いでいてください。話し相手が増えて、私も水谷さんも嬉しいばかりなので。それが深見さんのお仕事ってことでどうでしょう?」
「じゃあお言葉に甘えて」
「自分だけ寛ぐのが居心地悪いだなんて、深見さんの未来のお嫁さんは羨ましい限りですね、水谷さん」
「そうですね。お人柄が滲み出ているようです」
「ええ。そういうさりげない部分に本性って出るものですよね。今ではだいぶ家事を手伝ってくれる殿方も増えたっていいますけれど、やっぱりまだまだ少数派ですもの」
静はティーセットをテーブルに並べながらどうぞと言った。砕けた口調とは裏腹に、その所作のひとつひとつからは育ちの良さが滲み出ている。
「いただきます……このお茶すごくおいしいよ。俺からすれば、静さんの未来の旦那さんが羨ましいな」
「やだ、深見さんったらお上手なんですから。茶葉がいいだけですよ」
静がはにかんだところで、外で風が啼いた。その音に、三人の視線が窓の外へと集まった。
「風が出て参りましたね」水谷が鼻髭を揺らした。
「武藤婦人、あまり濡れなければいいけれど」静は心配そうに頬に手を当てる。
「送迎はいつも朱野が?」深見は先刻の会話を回顧して尋ねた。
「もとはと言えば、お父様が天涯孤独の身になった武藤婦人を不憫に思って、何かとお世話をするようになったのが始まりみたいなんですけどね。お兄ちゃんが大学から戻ってきてからは、それを引き継ぐって自分から」
「へえ、そうなんだ」
「武藤婦人は週に一度、決まった曜日と時間に龍川先生のところへ眼の検診に行っているんですけれど、その時の送迎もお兄ちゃんがしているんですよ。お兄ちゃんも率先してやっていることだと伝わってくるし、武藤婦人もそんなお兄ちゃんのこと、とても信頼しているみたいだし」
静が最後のグラスを磨き終わったところで、ちょうど居間の柱時計が五つ鐘を打った。その音に導かれるように一同が顔を上げる。
「少し小降りになってきたのかな」
外は日暮れに加え、嵐の前特有の黒い雲も相まってかなり視界が悪くなっているようだった。
そうしてしばらくしたところで、玄関の呼び鈴が鳴り白髪に口ひげを蓄えた老紳士と、小柄で華奢なおかっぱの少女が連れたって現れた。今まで紹介を受けた中から逆算すれば、彼らが龍川親子だろうことが予想されたが、外見では親子というより祖父と孫のような印象を受けた。
「ごめんください。本日はお招きいただきありがとうございます。ご挨拶したいのですが、ご主人は」
「龍川先生に小夜ちゃん、いらっしゃいませ。いやだわ。お父様ったらまだ自室にいて。呼んで参りますのでどうぞおかけになってお待ちくださいね」
静が部屋を出るのと同時に、アイスティーをお盆に乗せた水谷がやってくる。
良く冷えたグラスを受け取りながら、龍川医師は深見のもとに近づくと、草臥れた中折れ帽を胸に押し当てて、人のよさそうなゆったりした口ぶりで言った。
「わたくしは、この村で開業医をやっております龍川清三と申します。もうかれこれ四十年近くなりますかな。あなたが琴乃さんの弟君という――」
「はい、深見陽介と申します。日頃から姉がお世話になって」
つられて立ち上がった深見も、ぺこりと頭を下げる。年配者に自己紹介となると、プライベートでもつい格式ばったものになってしまうのが社会人の悲しき性だろうか。
龍川医師は、年季の入ったらくだ色のジャケットの襟をぴんと引っ張ると、右掌を顔の前で振った。
「いやいや何をおっしゃる。唯一のお隣さんということで、なにかと世話になっておるのはわたくしどものほうですぞ。こちらが一人娘の小夜です」
「こんにちは」
小夜は鈴の音のような声で小さく頭を下げた。頬の下で切りそろえた黒髪が揺れる。高校を卒業したばかりだと聞いていたが、それよりも幾分か幼く感じられた。
「いやあ、この年になっても人見知りがなかなかなおらなくてですな。静さんや瑞樹くんとは同い年なのですが、まるでしっかりした姉兄と引っ込み思案な妹のようですよ」
「それもひとつの個性ですよ。どちらがいいというものではないと思いますよ。よろしくね、小夜ちゃん」
そう言って深見に顔を覗き込まれると、小夜は視線を泳がせながら面映ゆそうに不器用な笑顔を浮かべた。
大時計の針が五時半を指す頃に、大きな包みを手にした白峰琴乃がやってきた。
だいぶ雨脚が強まっているらしく、共に来た瑞樹や冷泉などはズボンの裾の色がほんのり変わってしまっている。室内に扇風機でもついていればじきに乾きそうなものだが、あいにくこの村の空調整備率は芳しくないらしく、訪れた二軒ともに開け放った窓からの通気で暑さをしのいでいる様子だった。防犯上、窓や玄関の施錠が必要不可欠である都会と違って、田舎ではそのようなものなのだろうか。現に六山市にある深見の実家においても、晴れた日などは、開け放った窓から心地の良い冷気が吹き込んできたものだ。更に山奥深くに位置する空気の良いこの村では、なおのこと自然の風でも充分に過ごしやすいことだろう。
しかしながら、残念なことに今日は荒天である。朱野家の豪奢な窓ガラスは、一つ残らずぴったりと締め切られていた。天井に備え付けられているシーリングファンが、気休め程度に回っているだけである。
白峰琴乃は、応接机に朱野源一郎と龍川医師の姿をみとめると、土産物のワインと大きな箱を家主へ手渡していた。そのまま一言二言挨拶を交わしている。やがて、その輪から外れて、白峰瑞樹と冷泉誠人の二人が深見の座るテーブルへとやってきた。深見の向かいには一仕事を終えた朱野静が、その隣には少し肩に力の入った様子の龍川小夜が座っている。
「やあ。さっきぶりだな。雨酷かった?」深見は右手をあげた。
「雨もだけど、風がね、結構出てきて」瑞樹はしきりにハンドタオルでズボンの裾を拭っている。その隣で冷泉も涼しい顔で濡れた箇所にタオルハンカチを押し付けていた。
ハンカチ所持率百パーセントだなんて、品の良い男どもだなどと深見が感心していたところで、テーブルの下に潜るようにして足元を拭っていた瑞樹が、顔を上げてきょろきょろと首を回した。
「透さんは?」
「お兄ちゃんは、武藤婦人をお迎えにあがっているよ。もうそろそろじゃないかな」
静の声につられて一同視線を外に向けたところで、ちょうど居間の扉が開いた。
透と武藤霧子だ。黒い丈長のワンピースを着ている武藤霧子だったが、そう雨に降られた様子もなく、また透のズボンの裾も元の色を保ったままだった。
「霧子さんこんにちは。あいにくの雨ですが、お越しいただきありがとうございます。濡れませんでした?」
静がフレアスカートをはためかせて歩み寄るのに、自然と他の面々が続く。武藤霧子は機嫌よく唇を弓なりに綻ばせて肯いた。
「ええ、大丈夫よ。透さんがちょうど小降りのときを見計らってくれて」
ね、と水を向けられた透が控えめに笑ったところで、「あ」と背後から声があがった。
反射的にモーゼの十戒よろしく人の波がぱっかりと開いた。その最後尾では、冷泉誠人が赤褐色の壺を片手に不自然な体制で立っていた。
すぐ傍で、「ご、ごめんなさい」と小夜が顔を蒼くしているところを見るに、棚の上の調度品に小夜がぶつかり、転がり落ちそうになったところで冷泉が受け止めた流れだろう。流石剣道部の反射神経だといったところだろうか。
受け止めた壺を両手で棚に戻す冷泉の脇から、小夜が恐る恐る手を添えた。その強張った横顔を、冷泉が不思議そうに眺めている。
そんな構図を前に、武藤霧子が品のある笑みを湛えて言った。「たいそうな骨董品ですものね」
「見るからに高級そうですもんね」と、顔を引きつらせた深見も続く。
「何百万、何千万の世界よ」
「えっそんなに?」
目を丸くする深見に、透は困ったような笑みを向けた。
「人が通る場所に置いておくのが悪いんだよ。二人とも、怪我はない?」
透の柔らかな問いかけに、冷泉は「ありません」ときっぱり返し、小夜はふるふるとおかっぱ頭を揺らす。その答えにほっと一つ頷くと、透はさあと部屋の中心を掌で示した。
人波に従う深見を目掛けて近づいてきた瑞樹が、周囲に気づかれないようそっと耳打ちした。
「陽介くんも気をつけてね。源一郎さんの逆鱗に触れると大変なことになるから」
九
水谷が各人にグラスを配り始めるのに合わせ、集まった面々が自然と中心へと流れる。
そうしたところで、家主の朱野源一郎がもの言いたげに立ち上がり、咳払いを一つ零した。自然と一同の視線が集中し、雑音が波のようにしんと引いていく。源一郎はその空気を舌の上で転がすようにゆったりと辺りを見渡してから、おもむろに腫れぼったい唇を開いた。
「みなさんにグラスは行き渡りましたかな」
太いバリトンが、地鳴りのように響き渡る。紋付き袴の家主は、客人が思い思いにグラスを胸の前で掲げてみせる様を満足げに確認し、大きく胸を膨らませた。
「本日はお足元の悪い中お集まりいただきありがとうございます。こうしてこの村の全員が一堂に会すのも久方ぶりですな。亡父の葬儀の際には突然の不幸ということもあり全員は揃うことはかないませんでしたから。まあ、湿っぽい話はこれまでにしましょう。今宵は嬉しいことに村の外からお客様がみえています。どうぞ皆さんごゆるりとお寛ぎください」
やがて源一郎の乾杯の音頭を皮切りに食事会ははじまった。が、この村の全員という言葉に、深見は強い違和感を覚える。
朱野透の弟の姿がないではないか。
シャンパングラスを片手にこっそりと隣の透の横顔を窺えば、特段気にする様子もなく普段通りの涼しい顔をしていた。
それから一時間ほど歓談したところで、深見の疑問は解消されることになる。透は腕時計を確認して深見に小声で言った。
「しばらく出てくるね」
「どこへ?」
「弟の食事の時間なんだ。持っていってくるよ」
「病気か何か?」
尋ねると、透は一瞬の間をおいて、「まあ、そんなようなものかな」曖昧に肯いた。
「そっか。弟さんが病気だというのに、俺たちばかり悪いな」
「気遣いありがとう。でも、深見は気にせず楽しんでいて」
そう言うと、透はなるべく人に気づかれないよう場を気遣いながら、裏口側の扉を静かに開けた。深見も見送りがてら一歩二歩後を追う。開いた扉の隙間から、一匹の猫と目が合った。
隣から、「まぁた入り込んだんだな」と透の困ったような声があがる。「何匹かうちに棲みついちゃって。父さんが動物を好きじゃないから、なくなく追い払っているんだけれどね。居心地がいいみたいでなかなか離れてくれないんだよね」
「へえ。朱野が引き寄せてんのかもな」
大学の構内で不思議なくらい透がよく動物に懐かれていた光景が浮かんできて、深見は思わず笑みを零す。透にも伝わったようで、彼も横目でにやりと笑った。
「さ、父さんに見つかると大変だから、もうお行き」そう言って裏口の扉を薄く開けた透の腕に飛沫が走り、隙間から雨粒が降り込んできた。「この雨の中追い払うのも酷だけどね。父に見つかって棒で追い払われるよりはね」透は寂しそうな目で猫を見送った。
「弟さんのところへは、裏口から行くの?」
「ああ、そうじゃないよ。裏口から外を通って台所に行くんだ。食事を取ってこなくちゃ」
居間で盛り上がっている人たちの目に触れないための配慮らしかったが、ここでも弟の存在自体に蓋をするような感じがして、深見は妙な違和感を覚えた。
「このアイスボールは透兄さんが削ったものなのよ」
「へえ」静の説明を受けて深見はグラスを高く翳して下から覗き込む。真球状に丁寧に磨かれ、琥珀色の液体にその身を委ねる氷は、照明の光を反射してまるで高級な水晶のようだった。「これ磨くのって塊からだろ? 器用なんだな」
隣へ笑いかければ、透は面映ゆそうに目線を下げる。
「ナイフや小刀は得意なんだ」
「へえ、彫刻とかもやるのか?」
「いや」透はないないというように小さく笑う。「そんなお洒落なものじゃないよ。単に田舎育ちだから、小刀片手に枯れ木を使った仕掛けだの、秘密基地だの作ってたってだけさ。自然のものがおもちゃだったんだよ」
「あら、お兄ちゃんにもそんなやんちゃな年ごろがあったのね」
静が目を丸くして、嬉しそうに顔の前で手を叩いた。
「そういえば瑞樹くんも器用だったわよね」
「そうなの?」
意外なところで出てきた甥っ子の名前に、深見もまた目を丸くする。
「そう。瑞樹くん、小さい頃おとなしかったじゃないですか。あたしなんか、男の子と一緒にやれ冒険だ、鬼ごっこだって走り回っていましたけど、瑞樹くんは何か彫って小夜ちゃんによくプレゼントしていて。木彫りのクマとか!」
「へえ」
幼い頃の瑞樹と、傷の残った静の足を順に思い浮かべて、深見は少し表情を翳らせた。
「今でもあるんじゃないかな。ホラお兄ちゃん、あったよね? あまりに上手だったからお兄ちゃんが褒めて、防腐剤だかニスだか塗って仕上げたらどうだって言い出してさ」
「ああ、木工室でやったんだっけ」
「そうそれ」静は深見に向き直る。「うちに木工室があるんですけど、そこで」
「木工室まであるの?」
「父の趣味なんですよ。骨董品だの彫刻だのコレクションするだけでは飽き足らず、自分でも作り始めちゃったんです。古い蔵をリフォームした木工室なんですけどね、家の裏にあるんで明日にでも行ってみます?」
「へえ、それは面白そうだな」と頬を緩めたところで、深見はふと催して腰を浮かせた。「と、盛り上がって来たところだけど、ちょっと花摘みに」
「場所わかる?」との透の言葉に肯いて、屋敷に着いた際に受けた説明の記憶を頼りに、裏口側から居間を出る。出てすぐ右手にトイレの扉があり、その先には地下へと降りる階段があった。その更に向こう側には、二階へ続く昇りの階段がある。
そこから視線を少し左に移せば、先刻猫を逃した裏口の扉の向こう側に、ぼんやりと納屋が見えた。日が沈み天気の崩れた今となっては視界も悪く、夕刻見たときとはかなり印象が違って見える。
それらを順々に見渡したときだった。
かん、かん、と。
何かを強く叩くような金属音が不意に鼓膜を叩いた。
深見は慌てて音のした方へ視線を向ける。どうやら、地下からのようだった。
鎮まるどころか、次第に強まるその音に、深見は何やら毛穴を刺すような恐ろしいものを感じ、思わず地下階段へと一歩踏み出していた。
そこで背後の扉がガチャリと開く音がした。
「そこで何をしている!」
突然襲い掛かった背後からの鋭い声に、深見はわっと驚き二、三段たたらを踏んでくだり落ちる。それ以上の転落は、手すりを支えにすんでのところで免れた。
「どうなさいましたか旦那様……ああ! いけません、深見様」
まず主の大声に驚いた水谷が、続いてその後ろから透が姿を現した。
それ以外の人々に関しては、変わらず談笑を続ける声が居間から微かに漏れ聞こえている。
「ちょっと父さん、いきなり怒鳴るなんて失礼ですよ。怪我はないか? 深見」
事態を察するや否や、透は慌てて深見に駆け寄った。
「ああ……ごめん。音にびっくりして」
深見が眉尻を下げたところで、また階下からカンという音が一つ響いた。
透は深見の向こう側、地下の底へと目を遣り「ああ」と口籠ると、再び深見に視線を戻して肩に手をやった。
「父が大きな声を出してしまって申し訳ない。父さん、深見は音に驚いて足を滑らせただけです。他所の家を勝手に見て回るような人じゃありませんから」
おそらく、普段透が源一郎に対して歯向かうことなどないのだろう。いつになく厳しい口調で対峙する息子に、源一郎は見るからにたじろいでいるようだった。
そんな父親を尻目に、透は表情を緩めて振り返ると、
「僕の部屋に行こうか、深見。傷の手当てをしよう」
「手当てでしたらわたくしが」
「水谷さんは、他の人たちへのおもてなしがあるでしょう。ここは僕に任せてください」
一歩前へ出た水谷をやさしく制した透に、「傷……? 俺、怪我は」と狼狽える深見だったが、これに透が小さく首を振って目で合図を送る。
それで怪我をしたというのはこの場を中座する口実だと悟り、慌てて深見も話を合わせた。
「ああ、そうしようかな。ご主人、失礼を働き申し訳ありませんでした」
そうして頭を下げれば、ようやく我に返ったようで主人の声のトーンが下がった。
「こちらこそ、怒鳴りつけるような真似をして申し訳なかった。じゃあ透、お客様の手当ては頼んだぞ」
羽織を翻して離れていく源一郎の背後から、いつの間にかその場にいたらしい絹代がちらりと一瞥して去っていった。
「深見様、大変失礼致しました。透さんの大切なご友人にこのようなことを……申し訳ありません」
「元はと言えば、足元をよく見ずに歩いていた俺が悪いですから」
互いに向かい合って頭を下げ合う水谷と深見を前に、透は毅然と言った。
「よく確認せずに怒鳴りつけた父が悪いんです。水谷さんは、これ以上深見が父から叱責されないよう、守ろうとしてくれたんですよね」それから深見の腕を取って段を昇る。「では、僕たちは少し中座しますから、あまり騒ぎにならないようにお願いできますか?」
「もちろんでございます」
十
無言の背中に圧を感じる。速足で進む透の背中を追いかけながら、深見は自らの鼓動が乱れ打つのを感じた。つい数時間前の道のりと同じはずなのに、まったくの別世界のように感じられる。
自室の奥に深見を促し、扉を閉めたところで透がほっと息をついたのがわかった。振り返った透は、いつもの柔和な顔をしていてそこで深見もようやく肩の力を抜くことができる。
そうして視線と視線で互いの安堵を確かめ合ったところで、穏やかな面はそのまま、透は信じられないことをさらりと言った。
「地下には、弟が監禁されているんだ」
稲光、そして遅れて稲妻が轟く。窓ガラスがびりびりと震えた。
もたらされた単語の意味そのものはもちろん知っていた。しかし、その全容が理解できずに深見は言葉を失う。
「監禁って」
「うん、家の事情で地下室に閉じ込めている」
「……病気っていうのは」
「ごめん、半分嘘をついた」
透は至極すまなそうに視線を落とした。病気というのは口実だったらしい。しかし監禁されている弟に食事を与えてくるだなんて口にすれば、深見も混乱していただろうから、あの場で事情を濁すのは致し方ないことに思えた。
「半分というのは、弟はもうだいぶ弱っていて……ね。地下に牢屋があるんだ。そこに弟は閉じ込められていてあの音は、その……弟が時折食器や道具を金属の棚に打ち付けて音を鳴らすんだ。だから父はあんな過剰に」
開示された非現実的な事実に困惑する深見だったが、少しずつ与えられるピースにより徐々に奇妙な出来事同士が繋がってきていることもまた事実だった。なにより、透が冗談を言っているようには見えない。
何から尋ねればよいのかすらわからないほど話が見えてこなかったが、深見は手探りで指に触れた札からひとつずつ捲っていく。
「いつから?」
「……もう、生まれたときから」
これは、興味本位などでいたずらに掘り下げてはいけない話だ。そう深見は本能的に受け取った。けれど、透が深見を実家へ招くにあたって、どこかでこのことが露呈する可能性について、全く考えなかったとは思えない。事故的に知られることの容認どころか、ひょっとしたら打ち明けたがっている可能性もあるのではないか。その場合、彼がその心の澱を吐き出せるか否かは、全て深見の対応にかかっていると言えた。
そう肌で感じ取った深見の背筋は自然と伸び、身体はまっすぐに透の方へ向き直っていた。
「……どういうことだい」
と、尋ねる声のトーンも自然と低くなる。深見がその目をじっと見つめると、やがて透は感情に蓋を落とすようにひとつふうと息を吐き、静かに答えた。
「四神村には、古くからの言い伝えがあるんだ。男同士の双子は、家を喰らい合う。後から産まれた子は、先に産まれた子と家そのものの幸を喰らい尽くす悪魔の化身、忌み子だから殺せ、って。難産で危険な状態にあった母に、お前は忌み子を産んだから、今から片方を殺しますだなんてとても言えないから、祖父母と父は片方を死産だったことにしたらしいんだけどね」
「殺すとか、死産って……? でも弟さんは生きているんだよな」
「うん。生きている。歪んだ気遣いも空しく、母は俺たちを産んだその日に死んでしまったから。母体が死んだ場合、今度は忌み子を殺したら駄目なんだってさ。忌み子が母体を地獄へ引きずり落としたと信じられていて、その状態で忌み子を殺したら逆恨みで一族もろとも地獄へ道連れにされる。だから、地下の奥深くに封印しろ……と、言い伝えられているそうだ。
昔は深い枯れ井戸の底や、深い洞窟の奥底に牢を作って閉じ込めていたらしいんだけどね。……弟は地下牢に。人権もなにもない。非道い仕打ちだよな」
そこまで淡々と話をしていた透が、そこで顔を曇らせ、話を切った。
何か声を掛けたいのは山々だったが、深見にはふさわしい言葉が見つからない。
あまりにも奇怪すぎて、うまく呑み込めないと言うのが正直なところだった。
「……ちょっと、信じられないだろ?」
唖然とした深見の様子を眺めて、透は自嘲を露わに笑った。
「そんな村なんだよ、ここは」
沈んだ空気に、雨粒が硝子を叩く音が響く。
透の言う“特殊”の闇がまた一つ深まってしまった。深見はまっすぐに透を見つめて言った。
「話してくれてありがとう」
「いや……礼を言うのは俺のほうだ。こんな話、聞かされても困っただろう」
すまんと頭を下げる透は、きっと視線にいたたまれなくなったのだろうと、深見はひとつ視線を自らの手元に外した。
「あまりにも、その、俺の知る文化とかけ離れすぎていて驚いた。でも、朱野の話は信じるよ。宗教は自由だし、ご家族のことを悪く言うようだけど、でもこれって、虐待じゃないか……村の人達はこのこと、知っているんだよね?」
「もちろん。過去には他の家に双子が産まれた例も伝わっているみたいだし。村の人からすれば、虐待でも異様でもなんともない、当然のこととして扱われているんだろうさ」
「知っていて黙っているのか……」
自身の姉の顔を思い浮かべて、深見は猛烈なおぞましさに襲われた。よく知るはずの姉が、突然遠い理解の届かない存在に思えてきて、不意に身震いがこぼれ落ちる。
その顛末を察したのか、透が宥めるような口調で言った。
「村の人だけじゃない。俺だって同罪だよ」
「朱野」
「俺だって、知っているのに通報もせずに見過ごしている。こうして君に打ち明けて、自分の弟を村の奇妙な慣習に奪われた被害者のように振舞っているけれど、弟から見れば俺もれっきとした加害者の一角に変わりないはずだよ」
透は小さく声を絞り出した。そのトーンは音としては、あくまで穏やかな体をなしていたが、その内側に耳を傾けたとき、深見は目の前の透の全身から血が滲みだすような錯覚を覚えずにはいられなかった。
「悪魔は俺たちのほうさ」
雨脚は留まるところを知らない。次第に風が強まり、雨粒が窓を叩く音の向こうに笛の音のような声が混じりはじめた。
「弟さんの名前は?」
「穢ってみんなは呼んでいる。穢っていう字は、人名漢字として使えないからただの蔑称、あだ名のようなもので、便宜上つけた名前は他にあるんだけどね。その名前で呼んだら取り憑かれるだの、呪い殺されるだので、呼んじゃいけないことになっている」
「呪いだなんだは俺の自己責任ってことでいいから、本来の名前を呼んじゃ駄目なのかな。教えてくれよ」
そう問えば、突然透が一瞬泣きそうな顔を浮かべたのがわかった。そして涙を誤魔化すためか、んーと短く唸ってから答えた。
「呼んでいるところを見つかると面倒だから。深見が弟を慮ってちゃんとした名前で呼ぼうとしてくれているのはわかっているんだけど、深見に迷惑がかかるのは辛いから教えられない。ごめん。心からありがとう」
そう言って、透は深々と頭を下げた。
確かに、本当の名前を聞いてしまったら、深見はもう穢という蔑称を呼ぶことはできないだろう。そして、深見が本当の名前を呼んでいるところが知られたら面倒なことになるということも、先ほど見た透の父親の様子や、これまでの話を聞けば至極説得力のある話だった。
透の立場と心境を慮ると、胸の奥がツンと痛んだ。
十一
九時を過ぎたころに会はお開きになり、それから各々家路についた。少し早い締めとなったが、それも悪天候を慮ってのものである。ほろ酔いのまま白峰家へと戻った深見は、その足で風呂を借り、十一時をまわる頃には床についていた。
思い起こせば実に濃厚な一日だった。東京の下宿を発ったのが、何日か前のことのように遠く霞んでみえる。重い瞼を閉じると、五分と経たぬうちに深い眠りの底へと落ちていった。
そしてそれは深夜一時過ぎのことだった。
深見は夢の向こう側で響く、カラカラという涼やかな音に揺り動かされて目を覚ました。何やら部屋の外が騒がしい。パタパタパタという慌てた足音に続いて、扉が乱雑にノックされた。
「陽介、陽介!」
琴乃の声だ。
その声が尋常にはない色を含むのを受けて、深見は慌てて身体を起こす。
扉を開けると、寝巻に上掛けといった格好で、姉が目の前に立っていた。傘を差す余裕もなかったのだろう。髪は乱れ、全身に雨粒を纏っている。
「どうした?」
「それが――」
齎された説明に深見はぎょっと目を瞠ると、一目散に駆け出した。
雨粒をかき分け母屋へ入るとすぐに、薄暗い居間から瑞樹が不安そうな顔で出てきた。普段は騒ぎ立てる子ではないのだが、今はおろおろと狼狽えているのが見て取れる。
甥を安心させるべく、深見は一つ力強く頷いて肩に手を置く。
「ブレーカーは?」
言いながら大股で居間へと踏み入れた。焦げ臭さが一層強まる。
中では、電話台の傍で冷泉が懐中電灯を片手にしゃがみ込んでいた。深見の声を受けて、暗闇の中でその影が動く。
「ブレーカーは落としました」
「ありがとう……しかし」
と、深見は顔を険しく歪めて辺りを見回す。
電話機が、周辺を巻き込んで弾け飛んでいた。
深見の後ろから、琴乃が恐る恐る顔を覗かせる。
「陽介も床には気をつけてね。破片が落ちているかもしれないから」
誰かがしゃがみ込む気配に視線を向ければ、どこかからもう一台懐中電灯を見つけてきたらしい瑞樹が、黙々と地面の破片を拾い始めていた。
「電話、壊れてるの?」
琴乃が声を震わせる。
「木っ端みじんだよ」
深見は辺りに散らばった破片の一つを摘まみ上げた。
「雷が落ちたのかしら」
「そうならば、他の電化製品もやられているんじゃないですかね」
眉を顰めて冷泉が唸った。薄明りに照らされた端正な顔に、不審と懐疑の色が滲んでいる。
「じゃあ……これはなんだって言うの……何もないのに、突然こんな爆発なんてするものかしら」
「……念のため、玄関と窓の鍵を確認してきます。侵入者がいたらまずいですので」
そう言うや否や、冷泉は部屋を出て行った。
背後では相変わらず、瑞樹が黙々と電話機の破片を古新聞の上に積み上げている。
「ひとまず明日ご近所の電話を借りて、警察に被害届を出しておこうか。車も貸してもらえそうならば新しい電話機も買いに行こう」
「そうね……ブレーカーは元に戻しても大丈夫かしら? 冷蔵庫が止まったままだと中身が駄目になっちゃう」
「壊れたのは電話機だけみたいだし、電源は抜いてあるから復旧させても大丈夫じゃないかな」
深見の言葉を受け、破片を集めていた瑞樹は黙って立ち上がると配電盤へと向かった。
電化製品が一斉に復旧の音を鳴らす。特に何も異変はないようで、姉弟は顔を見合わせてほっと胸を撫でおろした。
「驚いたわ……階下でバァンみたいな大きい音がして……びっくりして部屋を出たら瑞樹と冷泉くんも廊下に出ていたの。それから、二人が先導してくれて下に降りて。焦げ臭い匂いの元を辿ってここに行き着いたのよ」
「母さん……これ。爆発物が仕掛けられていたのかも」
そう言って瑞樹が、懐中電灯である破片を照らして見せる。
「電話機の破片じゃないようなものもいくつかあるから」
「え、爆発物って、そんな馬鹿な」
深見も眉根を寄せて破片に目を凝らした。
悪戯にしては洒落にならなさすぎる。嫌がらせにしても、こんな狭い村で誰がそんなことをするというのか。それとも、閉ざされた狭い村だからこそ、かえってどろどろした人間関係があるものなのだろうかと、ひとしきり深見が唸ったところで、冷泉の足音が戻ってきた。
「一階も二階も、開いていた窓は施錠してきました。玄関の鍵は閉まっていたし、……私室の中までは流石に確認していませんが、廊下に人の潜んでいる気配はありません」
剣道部らしく、護身用として傘を手に家の中を巡回してきたらしい。
「みなさんも私室に戻られる際には、念のため押し入れやクローゼットの中は確認した方がいいかもしれませんね」
冷泉が眉を顰めたところで、玄関の呼び鈴が深夜の来客を告げた。
奇妙な時刻の来訪者に、一同ぎょっと目を剥き、顔を見合わせる。
なにか首筋に冷たいものが当てられた気持ちだった。
やがて呼び鈴の音は、玄関の戸を叩く音へと変わる。
電話機の爆破に、真夜中の来訪者にと立て続けの異常事態とあって、全員の思考が一瞬凍ったようだった。扉を開けるべきだという理性を押しやって、迫りくるものに対する生理的な恐怖が居座り、正常な思考を麻痺させていく。
ややあって、恐慌状態からいちはやく抜けたらしい冷泉が玄関へと足を向けた。それが催眠術を解く合図だったかのように、深見、瑞樹とそれに従った。
「白峰さん、白峰さん」
玄関へ近づくにつれ、雨音の手前に人の声が聞こえてくる。引き戸越しに聞こえてきたのはよく知る声だったため、巨大な警戒心から一転、深見は冷泉を縫うようにして錠前へと手を伸ばす。ほぼ同時に琴乃の「開けてさしあげて」という声が背中を押した。
深見が錠を持ち上げると、そこには全身を雨に濡らした客人の姿があった。
十二
ようやく深い眠りに落ちた頃のことである。
「透さん、起きてくださいな、透さん」
部屋の扉が叩かれる音に起こされ、透は重い体を起こした。
室内の時計を見遣れば、午前一時二十八分を指し示している。
その間もこんこんとひっきりなしに扉が鳴るのに、大股で扉へ向かい、「どうかしたんですか?」と外へ顔を出せば、珍しく少し困ったように眉根を寄せた絹代が、寝間着姿のまま立っていた。
「大変なんですよ。奇妙なことが起きたのです。一階へきてください」
「何かあったんです? まさか父さんに何か……」
「いえ、旦那様はお元気でいらっしゃいます」
絹代の話は要領を得ないものだったが、焦眉の急を要するらしいと話を聞くのは後にして、とりあえず透は絹代に従うことにした。自身よりもひとまわり小さな背中が東を向いたところで透は尋ねた。
「静も起こしますか?」
「旦那様の御申しつけは透さんを起こしてくるようにとのことだったので、お任せしますわ」
そこで透は足を止めた。
「任せるって言われても。何があったんです?」
絹代も足を止めて振り返る。
「それが、どう申したらよいものか。電話機がいきなり爆発したみたいなのですよ」
「え?」
しんとした静寂の中、硝子越しの嵐の声だけが不気味に響いた。
「何かが破裂するような音がしたんで、旦那様と見に行ってみれば、居間の電話機が弾け飛んだようになっていて」
「じゃあ静は後だ。ひとまず下へ降りてみましょう」
透は、中央階段に向いたつま先を翻し、西階段へと急いだ。狭く冷たい灰色の階段を一段飛ばしに下っていく。踊り場を折れたとき、目の前の窓に一閃の稲妻が走った。遅れてばりばりという重い音が腹の底を抉る。一階へ降り、左に見える居間の扉へ向かおうとしたところで、再び空が光り、辺りが白く照らされた。
その瞬間、靴底から電流を流されたように全身ががちりと固まった。
遅れて、背後で絹代がひっと息を呑む音が鼓膜を叩いた。
不規則に明滅する稲光に照らされた先で、何かがこちらを見ていた。
再び廊下は暗闇に戻る。
階段を降りようと踏み出す足がぎくしゃくと強張り、金縛り状態で無理やり身体を動かすときのような鈍い軋みが全身を刺した。
透が手探りで廊下の電灯を点けると、今度は漏れ出る光に淡く照らされ、再びそれは闇に浮かび上がった。
――呪。
それは納屋の扉に、赤く書きなぐられていた。
辛うじて形をとどめたその文字はたしかに呪と読める。風雨にさらされ崩れた赤い文字が、でかでかとこちら側を睨みつけていた。
「血?!」
絹代が引き攣った声を挙げる。
「いや」
短く言って、透は傘も持たずに外へ出た。
強い雨風に、その身体は瞬く間に色を変える。
「これはたぶんペンキです。この雨だ、血だったらもっと流されているでしょう」
扉に近づき一つ撫でた透は、廊下に立ち尽くす絹代を振り返る。
「絹代さん、水谷さんを起こして納屋の鍵をもらってきてください。静も起こした方がいい。僕はこのことを父に伝えてきます」
透は、緊張と恐怖から固まっている様子の絹代の身体をほぐすべく、その肩にやさしく手を置いてそう言った。そして全身ずぶ濡れなのも構わず、居間へと足を向ける。
背中の向こうで、草履の音が二階へ上がっていくのを確認すると、透は一つ息をついて居間の扉を開けた。
「おお、透。ずいぶん遅かったじゃないか――」
小言を言いかけた口が止まった。全身水浸しな透の姿を見て、源一郎はぎょっと瞠目する。
「納屋の扉に悪戯書きがされているんです」
「悪戯書きだと?」
透は苦いものを噛んだような顔で肯き、「でかでかと赤いペンキで。それから電話機が壊されたって?」と、電話台の傍に膝をついた。
「ああ。お手上げだ。派手にやられておる」
「破片があちこち飛んでいますね」
「修理できるか?」
「これは……」唸りながら透は検分する。「さすがに難しそうです」
「そうか」
理工学部修了者の言葉に、源一郎は素直に肩を落とした。
「一体誰が……」
「村の誰かだろうか」
「そんな、まさか」
源一郎のつぶやきに、透ははっと目を瞠る。先ほどまで一堂に会していた面々の顔が浮かんでは消えた。先祖の頃から身を寄せ合って生きてきたも同然のこの村の人間を疑うのは気が引ける。弟に対する非道な仕打ちも、裏を返せば村そのものを守るためのまじない、異様なまでの集団存続への愛が歪んだもののはずだ。一人の忌み子を生贄に、悪魔から村を守っている集団なのだ。それほどまでに村への愛に殉ずる人間が、はたしてその関係を揺るがすようなことをするだろうか。
「納屋を見てくるぞ。鍵を水谷からもらってこい」
「絹代さんに頼んであります。そろそろじゃないですかね」
そうして二人が裏口に繫がる廊下へ出たころ、ちょうど絹代と傘を手に下げた水谷が連れたっておりてくるところだった。
凶行を初めて目にした家主と執事は、目を剥き、息を呑む。
「全くどこのどいつだ、こんな! 中は悪戯されちゃおらんだろうな」
やがて我を取り戻した源一郎は、真っ赤な額に青筋を浮かべると、水谷から納屋の鍵をひったくって勢いよく裏口の戸を開けた。隙間から、雨粒が勢いよく降り込む。
構わず源一郎がづかづかと出て行くのに、慌てて水谷がその背を追って傘を差しかけた。
無骨な指が錠前を外し、重い扉が手前へと開かれる。真夜中の納屋は、ぽっかりと暗い洞穴のように口を開けた。
水谷が暗い内部へと懐中電灯の矛先を向ける。
内部が映し出された瞬間、一同、頭部を巡る血が一気に凍った。
ひっと、最後尾で短い悲鳴が上がる。
天井から、真っ赤に染まった首のない女の死体が吊り下がっていた。
白いネグリジェを赤く染めたその華奢な身体は、外の雨粒に呼応するかのように生温かな鮮血を滴らせて揺れていた。……
「うわあああっ」
先頭で源一郎がたたらを踏んで後ずさり、水谷にぶつかって鍵を落とした。家主を支える水谷も、もはや縋りついているというに近い。それらの後ろで風雨に晒されているのも忘れたように透が立ち尽くし、最後尾の絹代は、屋敷の扉にしがみついて呆然と硬直していた。
「く、首……首が」
「しし、静……静ァ!」
二人が叫ぶのは同時だった。
水谷の持つ傘が突然意志を持ったように跳ね、源一郎が恰幅のいい身体を揺さぶり転がる首に飛びついた。
首は、吊られた死体の足元に上を向いて転がっていた。魂の抜ける瞬間を切り取ったような惨たらしく醜い表情だった。
「なんてことだ……」
源一郎の血を吐くような嘆きは、暗闇に吸い込まれて消えた。
「け、警察……警察を呼びましょう」いち早く自我を取り戻した透が、室内に引き返そうとして「ああ」と嘆く。「電話は使えないんだった……白峰さんのところに行ってみます。非常識な時刻だけれど緊急事態だ。事情を話して電話を借りてみます」
娘の生首を抱き呆然自失といった様子の源一郎は、息子の言葉を外国語でも聞くかのようにきょとんと眺めるだけだった。
「付近に犯人がいるかもしれないので、よかったらどなたかついてきてはくれませんか? 単独で行動するのは流石に」
透の申し出に名乗り出たのは、意外な人物だった。
「では、わたくしが」
幾分か我を取り戻したらしい絹代が手を上げるのを、透は目顔で確認して、「その前に……静を下に」と納屋の中へ足を踏み入れた。血に汚れるのも厭わず、吊られた妹の亡骸を持ち上げて下ろそうと試みるも、やがて諦めたように手を離す。そして、端に立てかけられていた角材を二本手に取りそのうち一本を絹代に手渡した。
「縄が固くておろせませんでした。犯人がまだ近くにいてもおかしくありませんから、用心のため、絹代さんもこれを。父さんも水谷さんも、くれぐれも用心してください。電話を借りたらすぐに戻ってきますので」
絹代はしばらく手渡された角材を能面のようにじっと眺めて、「でしたらわたくし、こちらがいいわ」と、何かに思い至ったように、納屋の中へ踏み入り、立てかけられた鉈を手に取った。そして、すぐさま鮮血の臭気を厭うように着物の袖で口元を覆い、そそくさと外へ引き返す。
「玄関を通って、傘を取ってから行きましょう、透さん。さあ。早く警察を呼ばなければ」
十三
玄関先で数時間ぶりに対面した透は、まるで濡れ鼠だった。
背後で傘をさす絹代の右手に、光るものを見つけた琴乃が短く息を呑む。
目の前の透に視線を戻して目を凝らせば、寝間着の胸部分から腹にかけて赤黒いしみが滲んでいる。その透の右手にも濡れそぼって色の変わった角材が握られていた。
「こんな夜中にお騒がせしてまことに申し訳ありません。緊急事態なんです。電話を貸していただけないでしょうか」
ともすれば震えそうになるのを我慢しながら、透は毅然と言った。
「え、あ、それ血か? お、おい朱野怪我してんのか」
ようやく喉元を通った言葉はそれだった。深見は恐々と、透の全身をなめるように見回す。
「いや、俺の血じゃないんだ」
どこかぼうっと蕩けた様子の透が首を振る。その顔は雨に濡れて冷えただけでは説明がつかぬほど酷く青白く、まるで血の通っていない蝋人形のようだった。
深見はそんな透を中へと招き入れる。その際に触れた身体は氷のように冷え切って震えていた。
瑞樹がぱたぱたと廊下を駆けていく音が遠ざかる。
「電話、それが今電話がね」
「緊急事態って、何があった?」
ほぼ同時に口を開いた琴乃と深見を交互に見やりながら、透は悲痛に顔を歪めた。
「静が……何者かに……」
突然気が緩んだように息を乱し始めた透の後を引き継ぎ、後ろから絹代が淡々と言った。
「殺されていたんですよ」
その言葉に一同は唖然と目を瞠った。そんなことはお構いなしと絹代は言葉を続ける。
「警察を呼んで一刻も早く殺人鬼を捕まえてもらわなければ、わたくしたちの命に関わります。奥様、お電話を拝借しても?」
そのときバスタオルを手にした瑞樹が戻ってきた。冷えた透の身体にタオルを羽織らせながら深見が心配そうに顔を覗き込むと、「ごめん、もう大丈夫」と透は正気を取り戻して顎を引いた。
「殺されたですって? ……まさかそんな……静ちゃんが……いえ、けれどどうしましょう。それが、うちの電話機が壊れて使えないんですよ」
「どういうことですの?」
「さっき急に爆発して、それで今、家じゅう起きて大騒ぎしていて」
「まさか……」絹代は何かに思い至ったように息を呑んだ。「我が家の電話機も爆発しましたのよ。そうしたところで静さんの遺体が納屋で見つかったものですから……おたくのお坊ちゃん方は全員ご無事で?」
と、玄関の中をじろじろ検分するように見回す。
「全員います。出張中の主人にだけ連絡が取れないでいるけれど……大丈夫かしら」
琴乃がそわそわし始めるのを、瑞樹が肩を抱いて励ました。
深見は腹の底から冷たい何かが膨れ上がるのを、唾を飲んで押し込み、声に力を籠める。
「龍川さんの家にいってみよう」
「ええ、それがいいでしょう」
それを待ったようにすぐさま同意を示した冷泉誠人と目を合わせて頷き合う。まるで示し合わせたようなタイミングだった。もしかしたら、彼もちょうど同じことを言おうとしていたのかもしれない。
「こうなれば電話機の爆発も人為的なものに違いない。いよいよ気味が悪いぞ」
透の案内で、深見は初めて龍川の家を訪れた。
延々と続く深い森を背景に暗闇に浮かんだ『青龍の館』は、青銅色を基調にした横に長い家屋だった。生垣に隠れた向こう側に、石に縁どられた小さな池が、その隣には大きな鶏小屋が見える。一方向を除いて山に囲まれたその屋敷は、昼間は蝉の大合唱に包まれるに違いなかった。
辺りは傘の厚い布地を怒涛の水の塊が叩く乱暴な音と、水の束が突き刺さる白で包まれている。そのずっと向こう側、広がる暗闇の中に違和感を見つけた深見が小さく声をあげた。つられて透も目を凝らす。
「あそこ……何か変じゃないか?」
深見が懐中電灯を向けた先、白く粟立つ地面の隙間に二人の視線は釘付けになった。目を凝らすが、月の光の届かない荒天下の暗さに加え、空気中を大量に横切る雨の矢に阻まれて思うように見ることができない。
「まさか……『朱雀像』が……」
その中でも何かを捉えたらしく、吸い込まれるように山の方へと足を向けた透の、寝間着の張りついた背中を追って深見も駆け出した。
木々が見守る中、ぼんやりとした光の輪の中心で、砕かれた朱色の鳥の像が無残にも息絶えていた。その周り一帯にばら撒かれた赤い液体を、降りしきる雨粒が真白く粟立てている。まるで、像が血を流して倒れているようだった。
気づけば深見は懐中電灯を握った拳で口元をぎゅっと抑えていた。それに伴い、映し出された惨状は元の闇を取り戻す。それが催眠解除の合図であったかのように、隣で固まっていた透の肩が、続いて首が動いた。日頃涼し気な目元が、これでもかとばかりに見開かれていた。
「お、同じだ……」
「同じ?」
「静の……納屋の扉と同じだ」
「どういうことだ」
「静が殺されていた納屋にもあったんだ……赤い血文字のような悪戯書きが……」
「なんだって……ッ」
揃って尻に火でもついたかのように、二人は無言のまま来た道を引き返した。八畳ほどの平屋の診療棟の脇を通り過ぎ、二階建ての居住部分と思しき玄関の呼び鈴を狂ったように打ち鳴らす。扉の磨り硝子越しに見れば、一階の奥の方からぼんやりと明かりが漏れているようだった。
その光景を受け、深見は脳内にあるひとつの恐ろしい思いつきが沸き立つのを感じずにはいられなかった。が、必死に蓋をして平静を保つ。そんなことあってはならない。
しかして、その思いつきは顔を出した龍川医師の言葉によって、無念にも現実となった。
「うちの電話機が、この雷のせいか駄目になってしまってですな」
十四
「この様子じゃ、武藤さんの家もどうだか……」
思わず口をついて出た自らの言葉に、深見ははっとしてすぐ隣にある透の顔を窺い見た。
目の下に隈を浮かべてげっそりとした透は、それでも心配をかけまいと笑みを浮かべようとしているようだったが、うまくいかずに泣き笑いのようになっている。
「俺も同じことを思っていたから大丈夫だよ」
龍川家を後にした二人は、龍川親子を引き連れて一度白峰家に戻り、事の顛末を説明した。琴乃はたいそう衝撃を受けていたが、瑞樹と冷泉を傍につかせて待機を続けてもらうことにした。また、龍川医師は静の遺体の様子を確かめるとのことで、小夜を白峰家の待機の輪に加え、絹代と共に朱野家へ向かった。
そうして深見と透が、武藤家へと向かう運びとなったわけである。
望みの全ては武藤家に託された。
風雨は変わらず激しさを留め、数メートル先の視界もおぼつかない。傘をさしてもささずとも、もはや大差ないような塩梅であった。
「こんなことに巻き込んでしまってごめんな、深見」
「朱野のせいじゃないだろ」
「でも……いや、まさかこんなことになるなんて……」
「家族や友達が変なことに巻き込まれているんだ。寧ろ傍についていられるほうが安心するさ」
深見がそう言うと、透は再び消え入りそうな声でごめんと零した。
酷く怯えた様子の武藤霧子が玄関から出てきた時に、二人は事態の全てを悟った。
「隣村へ行くしかない。俺と深見とで車を出そう」
電話が使えないのならば、そうする他あるまい。二人は、一旦武藤霧子を連れて朱野家へと戻ることにした。
朱野家の居間は、暗く淀んだ空気が充満していた。訊けば、納屋で龍川医師が現場を荒らさぬ程度に遺体を検分しているとのことである。護衛のために、その傍には水谷がついているとのことだった。
深見と透が代わる代わる事の顛末を話して聞かせると、絹代は身をぶるりと震わせ、また源一郎はわなわなと震え出し、顔を紅潮させて声を荒げた。
「それじゃあ、連絡をつけようがないじゃあないか!」
それから、再び呪いだ、何故こんなことにとぶつぶつ繰り返しながら、頭を抱え込んでしまう始末だった。
「感情的になったところで何も変わりません。僕と深見でこれから五藤村へ行ってみますから。電話を借りられないか家々をあたってみます。住人が起きてくれなかったら、六山市の派出所まで行ってみますよ。遅くとも夜明け頃には警官を連れて戻ってこられると思いますから、父さんはお風呂にでも浸かって身体を温めてください」
透の言うように、源一郎の寝間着は血に汚れて酷い有様だった。柱時計の針は深夜二時半を指している。
それから車の鍵を手に、二人は連なって夜の山を登ることとなった。
昼に下ったときには勾配のなだらかな丘だと感じたが、真っ暗な風雨の中を殺人鬼におびえながら傘をはためかせて上るとなると、一転して急勾配の山のように感じられるものだ。二人はただ黙々と、時折恐怖を紛らわすように声を掛け合いながら、ひたすらに前へと足を運び続けた。
「見えたぞ……」
先導する透が、達成感と安堵の滲んだ声をあげた。
つい半日前に乗ってきたばかりの軽自動車を、懐中電灯の光の輪っかが、雨粒を乱反射しながらぼんやりと映し出す。
頼みの綱が視界に入ったことで力を取り戻した二人は、水を得た魚のように足早に駆け出した。
「なんてことだ……」
しかして、車体を支えていたはずのタイヤは全て張りを失い、ぺちゃんこに萎びてしまっていた。それだけでなく、
「深見!」
透の声に振り返った深見は、目に入った絶望的な光景に思わず叫びを漏らした。
「ああ! トンネルが!」
懐中電灯の光の先には絶望的な光景が広がっていた。村の外へと通じたはずのトンネルの入り口は、こちら側から崩れて瓦礫に埋まっていた。……
角材と傘をその場に取り落とし、透はふらふらと崩れたトンネルに駆け寄った。素手でセメント片や鉄骨を持ち上げようと何度か力を入れ、やがて力尽きたようにその場にへたり込む。
背後から深見が近寄り、傘を差しかけた。
そのまましばらく呆然と時が過ぎていった。
「そんな……」
目の前の瓦礫の山を、透はうつろな目で見つめている。
深見の頭の中で、閉じ込められたの七文字が壊れたオルゴールのように鳴り狂う。その恐怖と絶望に身体は固く冷たく凍りつき、目の前がざーっと昏くなった。
雷や豪雨で崩れたものだろうか。それとも、いよいよトンネルが寿命を迎えて崩落したとでも。……否、深見の脳内に、これまで見た、弾けた四つの電話機と赤い池の上に浮かぶ砕けた石像の姿が蘇る。あれと目の前の崩落が無関係だとは、とても思えなかった。
これは明らかに人為的なものだ。
更に状況をよくよく分析してみれば、恐ろしい事態に思い当たる。そう、トンネルが四神村側から崩れているということは、崩落を起こした犯人はこちらから爆薬を仕掛け、点火したということにならないだろうか。
つまり、犯人と一緒に村に閉じ込められたかもしれないのだ。
ここまで考えて、深見は眼下の透を窺った。
瓦礫の前にしゃがみ込んだ透の目は、もはや何の像も結んでいないように見えた。
今は動転しているにしても、平静を取り戻した透であればこのことに気づかないはずはない。傷心している今、態々それを言葉にして傷に塩を塗るのはやめておこうと、深見は口を噤む。
果たして、爆破の犯人と、静を殺した犯人は別々なのか、それとも同一人物なのか、それもまた問題だった。
爆破の犯人と、静を殺した犯人が別にいたとしても気持ち悪いことに変わりはなかったが、同一である場合には最悪な事態が予想される。
すなわち、殺人がまだ続く可能性があるということだ。
静を殺して犯人の目的が達成されたのであれば、犯人はそのまま逃走すれば済む話だろう。何も電話機を壊して外部との連絡手段を断ったり、唯一の連絡口であるトンネルを爆破して犯人もろとも閉じこもったりする必要などない。
つまり、退路を断ったということは、獲物に逃げられないようにするため――すなわち、殺すべき獲物がまだ村に残っているということにはならないか。
そこまで考えて、深見はぶるりと身を震わせた。
今になって、事の発端となった怪文書の文面が蘇る。――朱野松右衛門の怪死が、村に降りかかる呪いのほんの序章である――これが預言書、否、犯人の声明文だったのかもしれないと思えば、降りしきる雨粒が自らの肌を突き破る無数の針のように感じられた。
再び雨脚が強まり、何度も傘を取られそうになりながら、二人は転がるようにして森を抜ける。妙に現実感のないふわふわした心持だった。
そして丘を通り過ぎ、下り坂へとさしかかった頃のことである。土砂降りの雨の筋を横切り、一陣の矢が背後から横切った。
深見は慌てて背後を振り返る。透が左腕を抑えて唖然と膝をついていた。傘越しに左腕を射られたらしい。
腹の底から突き上げるような恐怖に襲われながら、深見はぎくしゃくとその場に伏せた。そして、すぐさまその傍へと這い寄った。
「大丈夫か、怪我は」
言いながら、首だけを持ち上げてきょろきょろと矢の飛んできた方向を探す。真っ白く突き刺さる雨の筋に阻まれて、目を開けているのも大変なほどである。白んだ視界の隅に、辛うじて人影の動いたのを捉えて、深見は手元の角材を投げつけた。人影は慌てて、崖を反対方向へと駆けおりていく。
「逃げたぞ」
「俺はかすり傷だから、追って」
透をこの場に置いていくのは危険ではないかと少し迷った深見だったが、あの影さえ捕まえてしまえば、村の全員の安全が戻ってくるのだ。迷うことはない、と一目散に今下ってきたばかりの斜面を駆け上っていく。
これまで深見たちは、『玄武の館』の近くに降りる緩やかな道を通ってトンネルへと行き来していたが、どうやらもう一本『朱雀の館』の方面に下る道も存在するらしい。影を追ったことで、はじめて深見はそのことに気づかされた。
しかし、雨の中、いつ電池の切れてもおかしくなさそうな懐中電灯の心もとない光ひとつを頼りに道を選んで駆け下りるのは至難の業だと言えた。おかげで何度もぬかるみに足を取られ、滑って転んで泥だらけである。
そうしてしばらく追いかけたところで深見は暴漢を見失い、なくなく透のもとへと引き返すこととなった。
戻る途中、とある木の麓で深見はボウガンと幾つかの矢を拾った。先ほど暴漢を追いかける際には、追うことに夢中で気が付かなかったらしい。それらを証拠品として拾い集め、透のもとへ辿り着いた頃には雨も幾分か小降りになっていた。
深見の姿を視認した透が、傘を手に駆け寄ってきた。深見が取り落とした傘だった。
「ごめん、取り逃がした……大丈夫か?」
深見の言葉に、透は首を縦に振った。
「ちょっと掠っただけだ。深見は? かなり泥だらけだけど」
と、透は心配そうに泥だらけの深見のズボンを払うが、乾いた泥と違って全く落ちる気配がない。今になって擦りむいた肘や膝がじくじく痛みを連れてきて、痛いやら悔しいやらで深見は顔を顰めて毒づいた。
「少し滑っただけだ。くっそ、捕まえられれば安心できたのに」
「深見はこの辺の山道に慣れていないし、雨は強いしぬかるんでいるし仕方ないよ……」 言いながら、透の顔がみるみる青ざめていった。「え、いや、待て。相手がこの村の山道に慣れているとなると……」
そう言ったところで、透は驚愕に目を見開き、言葉を失ったようだった。
堪らず深見もごくりと唾を飲み込む。渇ききった喉がささくれのように痛んだ。
村の地理に詳しい人間となると、怪しいのは村の住人ということになるではないか。
深見は背筋がぞっと冷え、全身に鳥肌が立つのを覚えた。
「俺たちが通った『玄武の館』の裏手に降りるなだらかな道とは別に、『朱雀の館』の裏手から伸びる険しい道も存在はするんだ。けれど、お客さんの案内の際にはもちろん、夜間や、こんな足元の悪い日にはまず間違いなく使う者はいない」
「じゃあ……」
「……あまり言いたくはないが、村の住人には気を付けた方がいいね」
その一言は、深見の脳天に甚大な雷を落とした。
まるで背水の陣ではないか。
「信頼できる人間には伝えるべきだけど、これもむやみに言わない方がいいのかもしれない。伝えた相手が犯人だったら、どう相手を刺激するかわからない」
透がぽつりとそう零す。そのまま、転がっていた穴の開いた傘を拾い上げて乱暴に束ねた。
いつの間にか雨は小降りになっていた。
「信頼できる人間か」
「そう。俺が信頼できるのはもう深見だけだ」
そう言い放ったときの透の顔が、深見には忘れられない。
それは品性と富に恵まれた透にはおよそ似つかわしくない、諦念と自棄に満ちた、世捨て人のような顔だった。
「行こう」
雨を厭わず先に進む背中に傘を差しかけるべく、深見はその孤独な背中を追いかけた。
十五
朱野邸に戻ると、執事の水谷がバスタオルを手に二人を出迎えてくれた。
左腕の傷を見るや、血相を変えて目を白黒させた執事に、透はなんでもないと気丈に返す。そのまま居間へと通され、温かい紅茶を手渡された。いつの間にか喉がからからに渇いていたようで、少し熱いにも関わらず深見は一気に飲み干してしまった。
源一郎と武藤霧子はそれぞれ部屋で休んでおり、絹代は浴室にいるらしい。
残った老紳士二人が控えめながら期待のまなざしを向けてくるのに、深見はたまらず目を逸らす。そうか。当然ながら、彼らはまだ知らないのだ。これから自身がこの部屋に絶望をまき散らす執行人役になると思えば、なんとも心が重苦しかった。
「それで、救助は……」
ついに待ちきれなかった龍川が、そわそわと切り出した。その言葉が今では棘のように痛い。透と何度か目配せをして、深見は小さく息を吸った。
「残念ながら車はタイヤを全て潰されていて、トンネルは崩落していました」
「え?」
龍川の腰が浮き、水谷の手が止まる。
深見は、それ以上は何も言えずに、ただ渋面で首を振った。
「じ、じゃあ、我々は、その……閉じ込められたんですか?」
龍川がまるでこの世の終わりを目にしたような形相で声を裏返す。深見も透も、沈痛に俯くことがやっとだった。水谷は暗鬱と救急箱を抱く腕に力を入れ、龍川は気が抜けたようにソファに崩れた。
隣では、水谷がかいがいしく透の左腕に手当てを施している。当初は怪我をしたと聞いた龍川が慌てて駆け寄ったものの、幸いにも傷は透の申告通り皮膚を掠った程度で、縫うようなものではなかったらしい。すぐに処置者は水谷へと変わっていた。深見と透、それぞれを中心とした大理石の床に、じわじわと水たまりが拡がっていくのを、深見は遮光フィルターでもかかった気分で他人事のように見つめていた。
時計の針は、三時過ぎを指している。
緊急事態にも関わらず、明るさと人の気配への安心からか、だんだんと自身の心に落ち着きが戻っていくのを、深見は不思議な心持で見つめていた。
一方机を挟んだ目の前では、すっかり消耗した様子の龍川医師がぐったりと柔らかなソファに身を埋めている。
「トンネルまで崩れちゃあ打つ手はありませんな……」
身体中の澱をかき集めて吐き出したような、深いため息混じりの嘆きが深夜の居間に溶けて消えた。
「は? トンネルが崩れたですって?」
突然もたらされた鋭い声に、鈍化していた空気が一瞬で引き締まる。振り返ると、そこには絹代の姿があった。いつから聞いていたのやら、まだ湿り気の残る髪を簡易に一つにまとめ上げ、居間の入口に立っている。
上がりかけた心拍を抑えながら、深見は低い声で説明した。
「四神村側の入口が奥も見えない程に崩れていました。瓦礫も、見るからに動かせそうにありません。おそらく、何かの爆発物によるものじゃないかと」
「あなたがやったのではなくて?」
絹代からの予想だにしない応答に、深見はぎょっと目を剥いた。
隣で聞いていた透が憮然と声を挙げる。
「それは、どういう意味ですか?」
静かだが、怒りが漏れるのを抑えきれないといった様子だった。しかしそんな透の圧にも素知らぬ様子の絹代は、まるで物わかりの悪い生徒を説き伏せるかのように、呆れを含ませて零した。
「言葉通りの意味ですよ。余所者が来た途端に災いが連続しているでしょう。村の電話機が全て壊され、静さんは首を切って吊るされて、石像は壊され、車のタイヤは潰されて、今度はなんです? トンネルが崩落した? 全部、深見さんが来てから起こったことじゃあありませんか」
蛇のような絹代の口から次々と言葉が飛んできて刺さるのに、深見は毒に当てられたように視界が昏く歪んだ。
「言いがかりはやめてください」透がいつになく強い口調で絹代に噛みつく。「友人を余所者だなんだって。今すぐ訂正して、深見に謝ってください」
「断りますわ」
「深見は、ずっと僕と一緒にいたんですよ。その目を盗んでトンネルに細工なんてできるわけがないでしょう」
透の言葉にも馬耳東風といった様子で、絹代は悪びれもせずに淡々と切り返す。
「でしたら透さんも仲間なのでしょう。この家の財産を独り占めにするために、静さんを亡き者にする計画を企てた。そうだとしたら全て成り立ちますわね」
今度は透が眩暈を覚える番だった。絹代の話があまりに暴論すぎて、思わずあんぐりと言った様子である。
「財産目当てに妹を殺すだなんて……それに可能性を挙げ始めると、絹代さんご自身だって、いえ、それだけでなく村の誰しもが容疑者たり得てしまいますよ。可能性の一つとして挙げるならまだしも……深見、例の手紙は持ってきているよな?」
「ああ。鞄の中だけれど」
酷い眩暈と、遅れてやってきた疲労を押しのけて、やっとのことで深見が返事をすると、透は力強く頷いて絹代へ向き直った。
「もとはと言えば、僕名義で深見のもとに怪文書が届いたのが事の発端なんです」透は怪文書について、掻い摘んで説明を加えた。「だから、その怪文書のせいで深見はこの村に招かれたんです。絹代さん、あなたの言葉を借りるならば、深見が災いを連れてきたんじゃない、深見は既にこの村にあった災いから呼ばれたんですよ」
「だから何だと言うのです? それらも全てあなた方が仕込んだことかもしれないではありませんか」
三白眼をこれでもかと見開き、得意げに顎を持ち上げる絹代を前に、透は項垂れ一つ息を吐いて顔を起こした。
「もういいです。ここでいがみ合っていても埒があきません。あなたがそう思うのなら勝手にしてください。ですが、僕の友人を愚弄したことは許しませんからね」
「許さなくとも結構ですよ。殺人鬼のいる村に閉じ込められたのだから、自らの身は自らで守らないといけませんからね。あなた方も、寝首を掻かれぬよう注意なさることですよ。ご自身が犯人であるならば関係ありませんけどね」
と、気味の悪い笑みを残して、絹代は居間を出て行った。
辺りに重苦しい空気が立ち込める。
それを破ったのは透だった。
「深見、本当に申し訳ない。彼女の身内でもないのに悪く言うのもどうかと思うが、ああいう人なんだ」
それに、龍川の慰めが続いた。
「絹代さんが一人でああ言っているだけで、誰も貴方がたが犯人だなんて思ってないから、気に病むことはないですよ」
それらをじっくりと胸の中に落とし込むと、深見は小さく息を吸いこみ、「なんというか……お前もたいへんだな」鉛でも詰まったように重く動かなかった喉をこじ開けて、ようやくそれだけを言った。わが身に降りかかったあまりの理不尽に、透への同情が禁じ得ない。自身と透の潔白は、深見自身が誰よりも知っていた。それにボウガンのことだってある。そうだ、と深見は右手のボウガンをじっと見つめた。
「これ、山の中で見つけたんです。トンネルからの帰り道に、後ろから襲われて」
両手で胸の前に掲げながらそう言えば、老紳士ふたりはぎょっと目を剥いた。
「なんと! その傷は矢で射られたものだったのですか? 枝かそれこそ瓦礫の鉄骨か何かで引っかけたものだとばかり……」
「ええ。後ろから狙われたようで。でも傘が身代わりになってくれました。深見がすぐに気づいて、犯人を追いかけてくれたんだけど」
そこで透の視線を感じた深見が話を引き継ぐ。
「視界が悪くて見失ってしまいました。その道すがらこれを拾ったんです」
「これ、父のコレクションのボウカンですよね」
続けざまに透が尋ね、水谷を見上げた。
「ええ、間違いございません。二階のコレクションルームに飾っているものと同じものです。似たものを戻られた深見様が抱えていらっしゃるので、気になってはおりましたが、わたくしはてっきり自衛のために持っていかれたのかとばかり」深見が手渡したボウガンをまじまじと眺めて水谷は何度も首を縦に振った。「静さんの次は透さんを亡き者にしようだなどと、一体誰がそのような酷いことを」
水谷の嘆きを受けて、透が言った。
「日中はもちろん夕食会の間も、玄関の鍵も開けっ放しでしたし、二階のコレクションルームは玄関の正面の中央階段をまっすぐ昇ればすぐです。内部犯、外部犯問わずボウガンを入手することは可能でしょうね」
透と深見にはもう一つの情報があったが、透がここでは伏せるようなので深見も特に触れないことにする。
透は老紳士二人の反応を窺うように一望してから口を開いた。
「ですから、犯人を絞るとなると、山で僕たちを襲うことができた人間を絞るほかないでしょうね。とはいえ、頭のおかしな外部の人間の仕業かもしれませんし、少ない村の住人が、互いに疑心暗鬼になってバラバラになると、それこそ犯人の思うつぼだと思うのであまりいいことだとは思いませんが」
「透さんのおっしゃる通りです。軽はずみに犯人を探すようなことを口走ってしまいお恥ずかしい限りです。ですが、龍川先生に関しましては、わたくしずっとお傍におりましたので、犯人でないことは自信をもって証明いたします」
その言葉を受けて龍川医師が、深々と座り込んでいたソファから身体を起こして言った。
「私もご遺体に向かって検分しておりましたが、水谷さんがいなくなったら流石に気づいたと思いますよ。お恥ずかしい話ですが、なにぶん暗闇からいつ暴漢が戻ってくるかとひやひやしておりましたもので。辺りの動きには、これ以上にないくらいに気を配っていたはずですから」
龍川の背中が再びソファに沈んだところで、がちゃりと居間の扉が開き、バスローブ姿の源一郎が姿を現した。
「何やらトンネルが通れなくなっているそうじゃないか」
寝室に戻った絹代から聞いたのだろう。問い詰められる前にと各自で詳細を説明すれば、源一郎は額に汗を浮かべて動揺を示した。
「ああ、呪いだ……四神様がお怒りだ……大変なことになってしまった……。先生、静の方はどうでしたか」
「はあ、それが妙なことがございまして」
龍川医師が片眉を持ち上げる。
「まず、静さんのご遺体は、納屋の天井の梁から、両腕を∞の字にたすき掛けされた状態で吊るされておりました。首は何か糸鋸のようなもので切断され、血液はまだ固まっておらず、硬直も進行していませんでした。殺害されたのはおよそ夜中の一時前後かと思われます。これ以上の詳しいことは、専門家じゃないと難しいですな」そこで龍川医師は、額に手を当てて俯いた透を慮るように一拍おいた。それから場を一度ぐるりと見回して小さく胸を膨らませる。「不可解なのはここからです。納屋には奥に一つ換気用の小窓がございますな。拳一つ分が入るほどの。こちらに鍵はありません。これは確か、人間の通り抜けどころか、人の頭も通らない大きさなので必要がないからでしたな。そして、出入り口の鍵はしっかりと閉められていた。これは間違いないですな?」
「間違いない。鍵は水谷から受け取り、私が開けた」
源一郎に呼応して、水谷も肯く。
「わたくしもしっかりと見ておりましたが、間違いなく鍵は閉まっておりました」
そうしたところで、深見が小さく息を呑んだ。
「じゃあ……犯人は一体どこから出たのでしょうか」
その声に一同も、はっとした表情を見せる。
目を見開いて驚きを示す深見に、龍川医師は大きく肯き返した。
「ええ。そうなのです。犯人の脱出口が見当たらないわけですよ」
「最後に鍵がかかっているのを確認したのはいつです?」
この深見の問いには、水谷が小さく手を挙げた。
「朝わたくしが開錠いたしまして、夜にわたくしと透さんが鍵を掛けました。納屋と土蔵に関しましては、毎日そのようにしております」
「間違いないよ」と透が蒼い顔を持ち上げる。
一つ頷いた深見は水谷に向き直り、「もう少し正確な時刻はわかりますか?」と投げかけた。
「昨晩は夕食会がありましたのでいつもより少し遅く、そうですね二十二時を過ぎたくらいでしょうか。二十二時半に近かったかもしれません」
「そうですか」と、深見は一度背もたれに深く腰掛けた。「では、静さんの姿を最後に見かけたのは?」
「わたくし……でしょうか」
これにもまた水谷が手を挙げる。
「夕食会の食器を一緒に洗って片づけました。それから静さんは二階の自室にあがり、わたくしは透さんと外の見回りに出ましたので、……そうですね、二十二時過ぎでしょうか」
「これも間違いないよ。静は、僕と水谷さんに挨拶をして、中央階段から二階にのぼっていった」
透は苦しそうな声で言い終わると、目を閉じて小さく胸を上下させた。
「なるほど。状況を整理してみると、静さんは二十二時過ぎから深夜の一時の間に連れ去られ、殺害された。――あ、龍川医師、殺害現場は納屋だと思いますか?」
「まあ、おそらくそうでしょうな。大量の血液が天井から壁から、あちこちに飛んでおりましたから。これは、頸動脈を破られた際に噴き出したものと思われますな」
「じゃあ、犯人は大量の返り血を浴びた可能性が高いですね」
と、深見が言ったところで、源一郎が苦言を呈した。
「ちょっと待ってくれ。四神様の呪いなのだろう? あるいは頭のおかしな侵入者の仕業かだ。なぜ君はそんな取り調べのようなことを」
深見と透は一つ目配せをする。
犯人が村の地理をよく知る人間である可能性が高いということを知る深見、透と、それ以外の者との間で認識に齟齬があるのだ。深見にしてみれば、村民の誰が疑わしく、誰が潔白なのかをより早く正確に分別したいという気持ちがある。
しかし一方で透が言うように、むやみに疑心暗鬼を煽って村民を分断させたり、犯人を刺激したりするのが危険なことも理解ができる。
深見はどう説明したものかと一瞬押し黙り、考えが纏まるのを待って慎重に口を開いた。
「お言葉ですが源一郎さん、これは呪いなどではない。紛れもない人間による犯行ですよ。そして、犯人が頭のおかしな人物だということにも、少し疑問がありますね。現に犯人は、静さん殺害の際に密室という状況を作り上げています。それから、朱野……いえ透君を襲うために屋敷に侵入してボウガンを盗み出しているところからも、計画的であることが窺えます。そういうところから僕にはどうも、行き当たりばったりの変質者の犯行に見えないんですよね」
そこでまた源一郎がボウガンで襲われたとはなんだと騒ぎ立てたので、深見と水谷が説明を加えた。
それらをじっくり黙って聞いていた透が、やがて思い立ったようにぽつりと言葉を落とした。
「ところで弟は無事なんでしょうか」
一同がはっとする。音が空間へ浸透しきるのを待つかのような、不自然な間が生まれた。
皆、透の言葉で初めて気ついた様子だった。朱野穢などと蔑称で呼ばれる青年は、いないことが当たり前なのだということを、深見は改めて思い知らされる。
透はその場の反応をぐるりと冷めた目で見まわし、すっくと立ち上がって居間を出て行った。深見も後から追いかける。昨晩、深見が叱責を受けた地下階段だ。段の途中に下り行く透の頭が見えた。その後を追い、深見も段に足を掛ける。一段おりるごとに、ひんやりと温度が下がるようだった。中で一つ折れた先に、頑強そうな金属の扉があった。扉の脇のフックから透が鍵を取って回すと音もたてずに扉は開いた。
立派な扉に反してその鍵の管理がずさんなことに驚かされる。だが、おそらくは鍵の目的は中の穢が脱走しないことにあるのだろう。中に大事なものがあるわけではないので、鍵が盗まれたり、侵入者に入り込まれたりしたとしても、穢を閉じ込めさえできれば問題はないのだ。中にいる穢がたとえその侵入者に襲われようと。――その推論はのちに聞いた話により、確証に変わることとなるのだが――なんとも非道な話だった。
階段の上から、今まさに地下へと足を踏み入れんとする深見を見下ろす気配があったが、もう誰も咎める者はいなかった。
地下は鍾乳洞のようにひんやりと冷たく、独特の籠った匂いに満ちていた。
薄暗いセメント塗りの廊下の先に、扉を前にした透の姿がある。
向かって右は一面がセメント作りの壁になっていて、突き当りは行き止まりになっている。扉は一枚だけだった。
扉の下部には牢屋よろしく、食器の受け渡し口の小窓があった。透は一度深見の姿を認めて戸惑う反応を示したが、構わずこんこんこん、と三つノックをして、
「夜中にごめん。透だけど」
と、中に声を掛けた。中から反応が返ってくる気配はない。先ほど手に取った鍵のうち一本を選んで、ドアノブに差し込み開錠する。
扉を押し開け、中を見るなり透は仰天した。
「大変だ――!」
中はもぬけの殻だった。




