第67話 二度とひとりでいかないで
すうっ、と意識が覚醒する。イオンは何度か瞬きをして、自分がどういう状態になっているのか理解し、悲鳴を上げた。
「きやぁぁああああっ!?」
「!?」
突然、眼に光が戻ったかと思えば、悲鳴を上げたイオンにゼルグも驚きを隠せない。
「なっ、何してるですか! 放して下さいですっ」
「は? 戻ったのか、お前」
「どいて下さいですぅーっ!」
イオンはゼルグを思い切り突き飛ばした。
全力だったせいか、はたまたゼルグが油断していたせいか、思いのほかゼルグの体は吹っ飛んだ。
向かいにあるソファーまで飛んでいき、腰掛けるように倒れるゼルグ。
「ってぇ! 何しやがる、てめぇ……」
「はわわわわ……」
打ちつけた腰やら足やらが痛い。ゼルグは怒りのオーラを出して、ゆらりと立ち上がる。
イオンはすくみ上がるが、その様子にゼルグは少なからず安堵した。
どうやら正気に戻ったようだ。生気も満ちている。これで当面の危機は去った。
(あとは、魂の異物さえ取り除けられれば……)
「さっきまで死にかけてた割には、威勢がいいなぁ」
「! ……イオは、死なないです。生きてくって決めたから」
一転して、真剣な顔で告げるイオン。
今なら分かる。恩の心の一部が、鍵となって自分の中に在ること。
この鍵が、自分の命を削っていたこと。時々、体調を崩していたのは生命力が弱っていたから。
返さないと。これは彼のもの。彼の大事な心。還すべきもの。失ってはいけないものだから。
「今度こそ、一緒に生きてくって決めたから、イオはめーちゃんより先にいなくなったりしないのです!」
揺るぎない眼差し。この表情はゼルグは知っている。
封印をすると覚悟を決めた時と、同じ眼差しだ。
(ちっ。嫌なことを思い出させるぜ)
その強い瞳に油断し、何もできず封印されたのだ。
「めーちゃんの心、早く届けてあげなくちゃ。きっと、めーちゃんは今も苦しんでる」
「お前、気づいたのか」
「分かってたから、ゼルグはめーちゃんを助けようとしてたんですね?」
「は?」
トンチンカンな返しに、ゼルグは呆気に取られた。なぜそうなる。
「魂が欠けたままだとめーちゃんは弱っちゃうから、めーちゃんを助けるためにイオの魂から、めーちゃんの魂を取り出そうとしたんですよね?」
「待て。どうしてそんな結論になった。俺があいつを助けてどうなる」
「だって、めーちゃんが死んでしまったら、ゼルグも死んでしまうですよね?」
「……まあ、そうだが」
「でも、もう大丈夫です。イオがちゃんとめーちゃんに返してくるですからっ」
イオンは時空の杖を顕現させる。守人で力を使いこなせなかったがために、補助として使っていた時空の杖。
真の時空神となった今、持つ必要はなくなったのだが、使い慣れてしまったので、今やこれがないと落ち着かない。
杖の細い先端で床をつくと、イオンの背後に時空の扉が現れた。自動で扉は開き、イオンはその中へ入っていく。
「おい、勘違いするな。俺は恩を助けるつもりは……」
「分かってるです。めーちゃんには内緒にしとくですよ」
「そういう意味じゃねぇ! ちょっと待て!」
「ありがとうです。助けてくれて。さよなら」
扉が消える間際に残されたその言葉は、体の自由を奪った。
仮にも封印した相手に、敵である相手に言う言葉ではないだろう。
それも、そんな嬉しそうな笑顔で。ゼルグは片手で顔を覆った。
「何、礼なんか言ってんだよ。おかしいだろ」
理解しがたい。調子が狂わされる。だから――
「……だから、邪魔なんだよ」
指の隙間から見えるゼルグの瞳には、苛烈な光が宿っていた。
いずれは消す。それまではせいぜい、あの男の側で生きていろ。
時間を越えて、空間を越えて。
今すぐ逢いたい。君に、逢いたい。
イオンは時空の扉を抜け、恩のいる場所へ躍り出た。
どこからともなく現れたイオンに、クロムは目を瞬かせる。
ゼルグに攫われたと恩が言っていたが、自力で戻ってきたのか。
「めーちゃんっ」
イオンは一目散に、床に倒れ伏している恩に駆け寄っていく。
仰向けにすると、胸に耳を当てて心音を確かめる。
かなり弱々しいが、大丈夫、生きている。視界が涙で滲む。
「めーちゃん……」
「時空神の娘、今の恩は魂が欠けている。欠けた部分を補わない限り、そいつは……」
「死なせないです。めーちゃんは、イオが助けるです。イオにしかできない。だってめーちゃんの魂の欠片は、イオが持ってるから」
「何?」
「イオの中に、めーちゃんの魂の欠片が入り込んでいたようなのです。いえ、正しくは封じられていたと言うべきですかね」
それで得心がいった。創造神が魂を隠したある場所とは、イオンの中だったのだ。
まったく七面倒なことをしてくれたものだ。いくら不老不死の者でも、魂が欠ければその分、生命力は弱る。
その上、不完全な魂では不死を保てない。完全だからこそ不死なのだ。
魂が欠けた状態であれば、恩は普通の人間と同じように死に、再生することもない。魂が欠ければ不死ではなくなるのだ。
その欠けた分を戻せば、恩の生命力も不死の能力も回復する。
「でも、イオの中に封じられためーちゃんの魂……だいぶ、擦り減ってしまったです。きっとめーちゃんの中に還しても、完全には戻らないです」
「杞憂だな。同じ魂ならば、時が経てば同化して再生される。とっとと還せ」
思いもよらなかったクロムの優しい言葉に、イオンはぎょっとした。
そもそも、このヒトとこんなに会話することが珍しい。
イオンは柔らかく微笑んだ。
「クロさま……変わったですね」
「ああ?」
「やさしくなったです。昔はとても怖くて、冷たくて、苦しかったです」
前史では、滅多に会うことはなかった。宿命の刻に現れては、その激しい神気と殺気で、心臓が縮み上がった。
恩もまた同じように感じていたのだろう。クロムが現れると緊張して、姿を消すとほっとしていた。
大丈夫かと聞けば、いつも困ったように笑い返した。
『このままじゃ駄目だって分かっているのにな、どうしようもなく怖いんだ。あいつは俺のパートナーなのに……』
いつか、きちんと向き合えたらと言っていたけれど、その願いが叶うことはなかった。
前史の恩を葬ったのは他でもない、戦神クロムだ。
会話など一度もしたことはなくて、時々放たれる声はひどく冷めていて。
クロムにとっては、依織も他の人間同様、どうでもいいものだっただろう。存在を認識されていたかどうかも怪しい。
ところが、世界が再構築され、しばらく経った頃、彼は時空神の神殿を訪れた。
『時空神はいるか』
突然現れた白髪の少年に、依織は小首を傾げた。
『えぇと、ジルさまは今、おやすみ中なのですけど』
『貴様でも構わん。守人』
『え……あの、どちら様ですか?』
依織は唖然とした。この世界では、自分は“存在しないもの”で、守人というのも、現史のジルティリードが適当につけた呼称だ。彼以外は認識していないはずなのに。
依織の困惑した表情に、少年は鼻を鳴らした。
『この姿では気づかんか。オレ様は戦神クロムだ』
さらに驚いた。前史と姿が全然違う。
前史の彼は、黒髪で背も高くて、こんな上品そうな服は着ていなかった。
紫の瞳と、顔の半分が前髪で隠れている以外、似ても似つかない。
『これは仮の姿だ。必要時以外ではこの姿でいろと、あの方々から命を受けた。貴様は前史で宿命を紡ぐ者のガキといた、時空の守人だろう』
開いた口が塞がらない。この少年はクロムで、今の姿は仮の姿で、自分が前史で守人だったことを知っている。
依織が前史で、恩のそばにいたことを認識していたとは。
『イオのこと、知ってたですか?』
『興味は皆無だったがな、奴の周りをうろちょろしているガキがいた記憶はある』
初めて、この戦神とまともに会話をした気がする。
相変わらず淡々とした声だが、この姿ならば怖くない。
不思議と、前史よりも雰囲気が落ち着いている気がするのだ。
そこへジルティリードが姿を見せた。ジルティリードは見慣れぬ少年に目を留め、怪訝な顔をする。
『そなたは……戦神クロムか』
『分かるのですかっ?』
『共に宿命を紡ぐ者を支える柱故』
宿命を紡ぐ者を支える二つの柱。時空神と戦神。
同じ運命を持つ者同士の共鳴とでも言おうか。感じ取るものがあるらしい。
自分もその時空神ではあったが、現史では『ただの守人』なので、そういった繋がりも断ち切れてしまっているのだろう。
つくづく、自分はこの世界では“存在しないもの”だと思い知らされる。
気分が落ち込んでいったが、戦神の一言でそれどころではなくなった。
『フン、今度の時空神は随分と腑抜けだな』
戦神クロムは、前史の時空神ジルティリードを知っている。とは言っても、片手で足りる程度しか関わっていないが。
ジルティリードはため息交じりに返す。
『前史の時空神がどんなものであれ、我は我だ。それと、そなたは用向きがあって訪れたのではないのか? 何用だ』
『フン。例の宿命を紡ぐ者が新たに生まれ、オレ様も貴様も奴の柱となるわけだ。一度くらいは現史の時空神の顔を見てやろうと思ってな』
『虚言であるな。そなたとは初見だが、そなたがどのような人格であるかは、構築された時に刷り込まれている。あの方々の命令で、不服ながらも従っているだけであろう?』
図星であった。命令でなければ、わざわざこんなところになど来やしない。
ただ、それをいきなり指摘されたので癇に障った。
『ほう。軟弱な外見のわりに、豪胆なようだな。ああ、単に無神経なだけか』
『不躾なそなたに言われたくはない。この娘を餓鬼と称するとは、無礼千万』
『ガキをガキと言って何が悪い! 寝ぼけて目が曇っているのではないか?』
『守人を貶める発言は許さぬ』
どうやらこのふたり、相性が悪いようだ。空気がピリピリしている。
依織が隣に立つジルティリードの服をきゅっと握りしめると、ジルティリードは依織の頭を軽く撫でた。
『怖がらせてしまったか。すまない』
『ガキの上に憶病者か』
『それ以上の暴言は慎め、下郎』
『貴様……っ。このオレ様を下郎だと!? 貴様こそ、ふざけたことを抜かすなら首をへし折るぞ!!』
漏れ出る神気に、依織は震えた。ジルティリードは怯える依織をかばうように、そっとマントで包み込む。
『案ずるな。そなたの身には傷一つつけさせぬ』
『……フン。過保護な奴だ。貴様といると軟弱さがうつる』
興が失せたと言わんばかりに、少年は姿を消した。
その後、クロムが宿命を紡ぐ者と接触し、お気に入りにまでしているとジルティリードから聞き、信じられなかった。
けれど、恩が初めて時空神の神殿を訪れたあの日、その言葉は真実だと分かった。
前史ではありえなかった。クロムがずっと宿命を紡ぐ者のそばにいるなんて。その上。
『こんなところに長居は無用だ。行くぞ、恩』
あのクロムが、名前を呼んだのだ。彼が誰かを名前で呼んだところなんて聞いたことがなかった。
不機嫌そうではあったけれど、以前ほどの冷たさはなくて。
きっと、そうさせたのはあの子。あの子との出逢いがクロムを変えた。
現史の恩には不思議な魅力がある。宿命を紡ぐ者だから。そうかもしれない。けれど、前史の宿命を紡ぐ者とは違う何かがあるのだ。
だから自分も、変わる努力をしてみようと思った。踏み出してみようと。
以前は怖くて傍観していたが、勇気を出してジルティリードとクロムのケンカに割って入った。
『ケンカしちゃダメなのです。みんな仲良くするですよ』
クロムを直視するのはやはりまだ怖くて、背中を向けてしまったけれど。それでも、その場は丸く収まった。
変われるのだ、誰であっても。変わるものがある。想いさえも。
「クロさまを変えたのは、めーちゃんですよね? めーちゃんは、不思議なひとです」
「フン。否定はせん」
素直になったものだ。イオンはくすっと微笑む。このヒトには、恩が必要だ。そして自分にも。
「めーちゃん。君の大切な心、今、還すですよ」
依織は目を閉じ、手を組んで念じる。己の中に在る、恩の心の鍵を具現化させるために。
(この想いが誰に向けられたものでもいいです。イオを選んでくれなくても……いいです。
君が消えてしまうより、ずっといい)
これから、何度でも涙を零すでしょう。また傷つくかもしれない。つらくて、また逃げ出してしまうかもしれない。
それでも。一筋の涙が頬を伝う。
「だから、お願いです……もう二度と、わたしを置いて消えないで……っ」
震える小さな声は、クロムには届いた。イオンの目の前で、前史の恩を消したのはクロムだ。あの悲しみを繰り返すまいと、彼女は必死に祈っている。
喪う痛みは、今なら分かる。チサキを殺めた時。千咲が消滅した時。恩が靁雯に殺された時。
『もう二度と、オレ様のいないところで死ぬな』
味わいたくない。あの喪失感と、絶望を。ならば、願ってやる。狂神と恐れられた我が身にあるまじき行為でも。
「オレ様の許可なく、勝手に死ぬなと言ったはずだ、恩……!」
たとえ、創造神の傀儡であっても、恩は恩だ。一つの命なのだ。
ゆえに願う。喪いたくないと。
イオンの体から、光輝く小さな鍵が抜け出てきた。その鍵を、恩の体へ押し込むようにそっと戻す。
鍵は体の中に吸い込まれていき、同時に恩の姿が元の年齢に戻る。
欠けていた魂が補われたことで力が増し、魔物の術を打ち消したのだろう。
しかし、恩の双眸が開かれることはなかった。