第64話 重なる面影・後編
苦々しい表情で告げられた此武の言葉に、恩は目を点にした。
「……へ?」
「とりわけ人間の闇をな。負の感情から生まれる闇。それが奴の好物だ」
「ちょ、ちょっと待ってよ。えーと、陽向さんって神狐だよな? 神族が闇を好むって、なんかおかしくない?」
困惑して額を押さえる恩。神族は光を司り、浄化の力を持ち、優しく、あたたかく、穢れのない存在。そう伝えられている。
すると、此武は鼻で笑い、体ごと振り向いた。
「おかしいとは、やはり人間の滑稽な考えだな。神族が皆、穢れなくお優しいものだとでも思っているのか」
「う」
「ならば、オレ様はなんだというのだ」
神族が穢れない存在だと言うなら、争いを好み、血にまみれ、あらゆるものを屠ってきた自分は。
言葉のない恩に、此武はくつくつと喉の奥で笑った。
「冥界に住む死神どもはなんだ? 奴らも神族だぞ。神族だから光に通ずると考えるのは、人間どもの勝手な理想と幻想だ。
神族でも闇を好む者はいる。逆に、魔族は光を好まんというわけでもない。魔族であっても、チサキは争いを好まず、人間どもを下種とみなすどころか尊ぶ奴だった」
「あ……」
千咲の基になったチサキは悪魔だった。神族であるクロムと旧知で、明るく優しい悪魔だったという。
そんな悪魔もいるんだな、と話を聞いた時はぼんやり考えていたものだが、チサキが変わり種というわけではなかったのだ。
「光と闇、神と魔、聖と邪、正義と悪。それらは表裏一体だ。相反するようで、その実、同一のものなのだ。
故に、チサキのように闇に属しながらも光を好む者もいれば、糞狐のように光に属しながら闇を好む者もいる」
光と闇は表裏一体。確かに、そう言われてみれば分からなくもない。恠妖だって分類としては魔族だが、人間を助けたり幸福をもたらす者もいる。
シェーシアでは、光属と闇属は差別などせず共存していた。光属のルカフィルと闇属のナハトがいい例だ。
二人のことを思い出し、恩は胸を痛めた。幸せそうだった二人。その幸せは脆く崩れ去ったのだ。自分の半身、ゼルグの手によって。
「神族も魔族も、たいした違いはない。ただ、属する力が違うだけだ。オレ様が闇属に近いように、奴も闇属に近いのだ。だいたい、生命神などどちらでもあるのだぞ」
「え? そうなの?」
「生命神は生と死、どちらも司るからな。それに知らんのか? 冥界を統べる冥王は生命神だぞ」
「え! あ、そういえば、前に天界に行った時、リアウィスがそんな話してたような」
冥界は、カーレンたちクリソプレズ一族とは違う生命神が治めているのだと。
だとすれば、此武の言うことは間違いないのだろう。しかし、にわかには信じられない。あの陽向が闇を喰らうなどとは。
(だって、神狐だろ? 妖狐ならともかく……それとも、神狐はそういう種族で、俺たちが知らないだけなのかな?)
種族のすべてを把握しているわけではない。まだ解明されていない謎の種族もいるし、人間のことすら日々、研究が進められている。
昔話や神話で語られていることしか、神族や魔族のことを知らないのだ、人間は。
「分かった。陽向さんには気をつけるよ。ありがとう、此武」
「何がだ」
「陽向さんに近づきすぎると危ないって、俺のこと、心配してくれたんだろ?」
にっこり笑うと、此武は苦虫を噛み潰したような顔で、ドアを開けた。
「誰が貴様のような腐れ頭の心配をするか。次に戯けたことを言ったら、その舌を引き千切るぞ」
いつも通りの物騒な言葉を吐き、此武はすたすたと歩いていく。ちゃんと目を合わせてくれた。それだけで、失った支えが戻ってきたように感じる。
ちゃんと言葉を交わして、目を合わせてくれるなら、どんな暴言を吐かれたって、どれだけ拷問されたって、耐えていける。
無関心でいないこと。それは、此武が自分を見捨てないでいてくれる証拠だから。
――まさか、と思った。まさかこんなところで、って。
時空神の神殿の中、写し身を通して恩の様子を見ていた本体のイオンは、ぽろぽろと涙を零していた。
思いもしなかった。あの姿を、もう一度見ることになるなんて。
「……ぃちゃん……っ」
触れられることはないと。見ることも、声を聞くことも、もう二度とありはしないと思った。
望んでも、叶わない願いだと諦めた。なのに。
「……恩お兄ちゃん……っ!」
拭っても拭っても、視界が歪む。
遠い昔に失った最愛の人。この恋は実るまいと捨てた想いが、蘇る……
時空神イオン――皇斐依織は、変哲もない普通の女の子だった。
少し人と違うところと言えば、重度の歴史好きというところくらいか。
『藍泉歴一六〇二年。時の国王、加賀千丞さんはペルチアーナ国と同盟を結んだです。でも、その時の使者さんが、国王さまに手土産として魚の刺身を差し出したのですよ。
当時、藍泉では魚の料理と言えば、焼き魚か煮魚で、形もそのまま調理するのがよいとされてたです。
なので、刺身のように原形を留めていないもの、しかも! 生魚は禁止されていたのです!』
『へぇ?』
『それを見た国王さまの部下が怒って、使者さんを打ち首にしようとしたのですけど、国王さまは「これが貴国の代表的な料理なのであろう。では、ありがたく頂くとしよう。同盟を結ぶからには、互いの国の伝統を大事にせねばならぬ」と、嫌な顔一つせずに、箸をつけたそうなのです!
これが藍泉で初めて食べられたお刺身さんなのですよ!』
『そうなんだ』
国王の熱演も交え、興奮気味に語る依織。話を聞いていた幼なじみが苦笑を浮かべる。
小さい頃から、歴史が好きだった依織。独学で調べては、幼なじみに話していた。
依織十歳。この頃にはあらゆる歴史書を紐解いていた。
『藍泉にお刺身が広まったのも、この同盟がきっかけとされてるです。なので、お刺身さんのことを業界用語では国王さまにちなんで“せんすけ”と……』
そこまで言いかけて、依織は言い過ぎたかと言葉を切った。幼なじみは小首を傾げる。
『依織?』
『ごめんなさい、またやっちゃったのです。歴史のことになると、ついつい興奮してしまうです。うるさかったですよね』
隣に座り、膝を抱える依織を、幼なじみは穏やかな表情で見つめた。
『そんなことないよ、好きに話していいから』
そう言って笑う幼なじみに、依織は表情を明るくさせて、別の歴史の話を始める。
こうして歴史の話をしている時が、彼女の一番楽しい時間だった。
思春期に入り、周りの女子が恋愛話で盛り上がっている頃も、幼馴染が自分に向ける淡い想いにも気づかず、依織は歴史にしか興味がなかった。
だが、そんな依織にも恋をする時が来た。
幼い頃、祖父と散歩に出た依織は祖父とはぐれて迷子になってしまった。それを助けてくれたのは通りすがりの少年だった。
年月とともにその記憶は薄れていったが、依織が十七歳の時。
偶然にもその少年と再会した。その少年こそが、前史の恩だった。
『もしかして……あの時、助けてくれたお兄ちゃんですか?』
『えーと、確かイオちゃんだっけ? そうだよ。大きくなったなぁ、見違えたよ』
大人になった恩に依織はすぐ懐き、一人っ子だったので『お兄ちゃん』と呼ぶようになった。それから恩との交流を経て、依織はだんだんと恩に惹かれていった。
そのうちに、依織はジルティリードに選ばれて、ゼルグが改変した歴史の修正を行うようになる。
そしてゼルグを封印したのち、ジルティリードから新たな時空神となって、宿命を紡ぐ者のパートナーになれと告げられた。
時空神イオンとして生きることを選んだ彼女は、宿命を紡ぐ者である恩のパートナーとなり、一層、親睦を深めていった。
だが、彼に想い人がいることを知ったイオンは、年が離れているために、妹扱いから抜け出せないことに気づき、恩への想いを諦める。
それと同時に、恩から距離を置くことにした。必要な時以外は会わないようにしよう。彼の恋を応援しよう、と。
失恋がつらくて、恩から目をそむけた。その結果、彼は想い人と結ばれたけれど、幸せは長くは続かなかった。
彼の想い人は不慮の事故でこの世を去った。その悲しみから、恩は最悪の決断をしてしまったのだ。
事故で彼女が死ぬ前の時間に戻り、彼女を助ければいい、と。
それは過去を変えるということ。過去を変えることは禁じられている。
それも、本来亡くなるひとを生き長らえさせれば、未来まで変わってしまう。
歴史の改変。恩はゼルグと同じことをしようとしている。時空神であるイオンにとって、その行為は決して許せないこと。
何より、この流れはプロットにはない流れだ。
プロットの通りに進めなければどうなるか、ジルティリードから聞いて知っていたイオンは必死に恩を止めた。
『ダメなのです、お兄ちゃん! 過去を変えるのは禁じられてるのです! ましてや命を蘇らせるなんて……っ』
しかし、恩はすでに正気を失っていた。彼はイオンから時空の杖を奪い取る。
『やめて! お願い、行かないで! お兄ちゃんっ!!』
イオンの涙ながらの願いは届かなかった。そして最悪の結末を迎える。
恩が杖を掲げ、時空の扉を開けようとした時――
一振りの剣が恩の胸を貫く。刺したのは戦神クロム。イオンは絶叫した。
倒れゆく恩を、彼は蔑んだ目で見下ろす。
『オレ様はあの方々からもう一つ、命を受けていた。もしも貴様がプロットから外れることをした時は、殺せと』
クロムは役目を終えると、それだけ吐き捨ててどこかへ消えた。
プロットを紡ぐためだけに存在している宿命を紡ぐ者。その存在意義を、彼は図らずとも捨てた。だから消滅させる。
創造神にとって、恩はその程度の存在なのだ。
だが、イオンにそんなことは関係ない。初めて心から愛した大切なひと。
その人が消えていく。目の前で、腕の中で。
彼が消えることは、この世界の消滅をも意味している。
彼は世界そのものなのだ。恩の最期を、世界の最期を、イオンはただ一人で見届けた。
前史の恩が消えた時、世界は再構築されて今の世界が在る。
世界はまた最初から歴史を紡いできた。
前史とは違う流れで、新たな歴史が刻まれているので、イオンの知らない歴史もあった。
もちろん恩も再構築された。生まれも育ち方も姿も、前史とは少し違う。
それでも、待ち焦がれていた。新しい彼と出逢える日を。
『やっと会えたですね。あなたが宿命を紡ぐ者さんですか?』
少年の姿。自分とほぼ変わらない年頃。前史で迷子になった自分を助けてくれた頃の彼と少し似ている。
でも、目の前にいるこの人は彼とは別人。彼はもういないのだから、新しい『恩』を受け入れて、支えていかなくては。
『わたしの名前は皇斐依織。依織と呼んで下さいね』
新しい一歩を踏み出すために。
彼すら呼ばなくなった名を、呼んでもらいたい。
『恩くんですね。それじゃあ、めーちゃんって呼んでいいですか?』
年が近いので、今度は『お兄ちゃん』とは呼ばないように決めた。
次に出逢えたら、もっと積極的に関わろうと思っていた。今度こそ、彼の支えになれるように。
だから恩の仕事についていった。二人だけで薬草を探した時は、昔に戻れたような気がして、うれしかった。
そして姿形は変わっても、変わらないものがあると気づいた。
ふとした仕草や表情、優しい言葉。年齢は違っていても、あの頃と変わらない。
再構築されたとしても、やっぱりこの人は『お兄ちゃん』なんだと……惹かれていった。
――めーちゃん。
前史みたいに後悔したくないから、今度は前に進もう。
――めーちゃんっ。
たくさん名前を呼んで、たくさん会いに行って、たくさん近づいて、この想いをぶつけよう。
――めーちゃん。
ねえ、わたしは君が……
『イオ』
――面影が、重なる――
……お兄ちゃん。
あなたが、すきです。
「う……あぁ……」
涙と一緒に溢れてくる想い。これは、現史の恩に対してじゃない。前史の恩への未練。
どうして? 吹っ切れたはずなのに、どうして今、こんなにもあの人への想いが溢れてくるの?
まるで、思い出させるかのように。植え付けるように、何かが侵食してくる。
大人の姿になった恩は、腕の中で消えていった前史の恩と同じだった。
声も、表情も、仕草も、何もかもあの頃の彼そっくりで。
「……お兄ちゃん……お兄ちゃん……っ」
あの時、前に進むと決めたのに。お別れをしたはずなのに。
『時間はかかるかもしれないが、あいつの心が安定するまで、信じて待っていてくれ。あいつにはお前が必要なんだよ、イオ』
ジルさまが消えてしまった時。現れたのは、あの人だった。
『本当に会えるなんて、思わなかった』
あの人は自分が消える間際に、新しい世界を見てみたかったのだと言った。
わたしに会いたいと願ったのだと。
うれしかった。会えるはずがない人に会えたこと。
あの人もわたしのことを想ってくれていたこと。
重なる想いがあった。それを知ることができて、わたしは前に進む勇気をもらった。
『大丈夫。たとえ俺がいなくなっても、消えないものがある。それは想いだ。
イオを大切に想う気持ちは、変わらない。消えやしない。あいつの中に、俺はいるよ。だって、同じ恩なんだから』
あの言葉が、わたしを強くしてくれた。……そのはずなのに。
「いや……お兄ちゃん……いかないで……」
あの人を求めてしまう。あの子ではなく、あの人を。
抗えない強い力で、想いが絡められ、組み替えられていく。
痛い。胸が。魂が、痛い。まるで削られているように。
「……っ!」
息苦しさを覚え、イオンは気を失ってその場に倒れた。
そのそばに、一つの人影が舞い降りる。
「…………」
人影はイオンの傍らに片膝をつき、涙が伝う頬に手を伸ばした。
――早く見つけないと、その娘の心も壊れてしまうよ。
壊れて、消えてしまうよ。魂ごと、ね。