第61話 同じ時を生きていきたい
誰も自分のことは覚えていないだろうと言うイオンに、恩は表情を変えた。
「! ……やっぱり、そうなのか。それを聞こうと思ってた。
ごめん、さっき、うっかりカーレンに依織のこと言ったら、知らないって言われて」
「……知らなくて当然なのです。みんなの中にはもう、イオに関する記憶がないのですから。
前にも言ったですよね。ジルさまがいなくなって、イオが正式に時空神になったことで、『皇斐依織』という存在が消えたと」
時空神は世界に一柱のみの唯一無二の存在。
それゆえにかなりの長命だが、ジルティリードはその寿命が間近だった。
だから、ジルティリードは死の間際に依織に時空神の権限を譲った。
依織がこの世界でも、存在を保てるように。
前史で一度、時空神になったとはいえ、世界が再生された時にその権限は剥奪されていた。
それゆえに、依織は時空神でも普通の人間でもない異質な存在となっていた。
改めて現史のジルティリードと『契約』を結び、その力を扱えていたとはいえ、依織自身が時空神になったわけではなく、あくまでも神の力を借りているだけだった。
しかし、時空神となればその存在は固定される。神として、この世界で存続できる。
ただし、生きた人間が神になるには、人の身であることを捨てなくてはならない。
人であった時に関わった者たちから、自分に関する記憶と存在が消えることを受け入れなくてはいけなかった。
普通の人間とも違うとはいえ、肉体そのものは人間と変わらない依織はそれを受け入れ、神格化したために、依織の存在は初めからいなかったことにされたのだ。
「神になるということは、そういうことなのです。過去のすべての記憶と存在が消される……
だから、みんなは……『皇斐依織』という名前の守人を忘れてしまったのですよ」
イオンの言っていたことを、恩はようやく理解した。あれは比喩などではなく、事実だったのだ。
『依織』という人間は、初めから存在などしていなかった。
そう改ざんされたのだ、世界の理によって。
今、目の前にいるのは『依織』ではなく『イオン』だと。
なんて悲しい。彼女の中には、今まで関わってきたすべてのヒトとの思い出も記憶も残っているのに、彼らの中に『依織』はいないのだ。
ならば、なぜ。
「……みんなが依織のことを忘れてるなら、依織の存在がこの世界から消されたなら……なんで、俺とクロムだけは覚えてるんだ?」
恩の問いかけに、イオンは立ち上がって背中を向けた。
「それは、めーちゃんが宿命を紡ぐ者だからです。
時空神と戦神は、宿命を紡ぐ者を支える柱。だからイオのことを覚えていられたのですよ」
それでも、不安だった。前は覚えていたけれど、今回も同じとは限らない。だって、前史とはもう流れが違う。
だから、もしも恩が自分を覚えてくれていたなら――
「うれしいです。めーちゃんがイオのこと、覚えていてくれて」
ここに彼を連れてきたかった。自分だけの秘密の場所。
これからは、二人だけの秘密の場所にしたくて。
――そして、伝えようと思った。
「めーちゃん」
恩が振り返る。イオンは恩に体を向けて後ろで手を組み、満面の笑みを浮かべた。
「好きです」
凍てつく空気は、イオンの言葉をしっかりと恩の耳に届かせた。
思いがけない言葉に、瞠目する。
「ずっとずぅーっと、イオはめーちゃんのことが好きなのです。出逢えたあの時から」
それは本当のこと。ずっと、『恩』に恋をしてきた。
前史の世界で恩と出逢って、優しい彼を好きになった。でも、彼に好きな人がいると知った時、敵わないと諦めた。
これからは、宿命を紡ぐ者のパートナーとしてだけ接しようと、距離を置いた。
そうして、初めての恋は終わった。はずだった。
想い人を喪って、彼は病んでいった。病みは闇。
闇に呑まれた彼は、戦神クロムの手で消滅させられた。
今、目の前にいる恩は、新たに再構築された存在。
年齢も性格も姿も違うのに、彼の面影を重ねて、惹かれていった。
「付き合ってほしいとか、そういうのは求めてないです。それはきっと、望めないことですから。ただ」
前史では、想いを本人には告げなかった。胸に秘めたまま、生きていくと決めた。
けれど彼を失って、後悔した。
たとえ結ばれることはなくとも、想いを告げていれば、こんなに苦しむことはなかったかもしれないのに、と。
だから今度こそは。
「もう後悔はしたくないですから、ちゃんと想いを伝えて、そばにいたいのです」
依織は風になぶられる髪を掻き上げ、遠いところを見つめた。
その横顔が儚くて、ずきん、と恩の胸が痛んだ。
この痛みはなんだろう? なぜ、こんなに胸が苦しいんだろう?
恩は胸を押さえた。依織は沈痛な面持ちの恩に、困ったように笑った。
「ごめんなさいです。めーちゃんを困らせたいわけではなくて、めーちゃんにイオの気持ちを知っておいてほしかっただけなのです。
それだけなので、今まで通り接してくれていいのですよ」
「……」
恩が戸惑っているのが分かる。
そんなふうに言われても、簡単に切り替えられる人ではないと知っている。
結果的に困らせてしまうけれど、もう自分は後戻りできない。
「めーちゃん、イオは今までずっと、時空神の神殿から出ることなく過ごしてきたです。
それは宿命の刻しか外に出られないから、と昔言ったですけど、ほんとはそれだけじゃないです」
「え?」
本当は、逃げていただけ。
もう一度君に出逢って、君を好きになって、自分以外の誰かを好きになっていく君を、また見たくなかったから。
神殿にいれば、そんな姿を見なくて済むから。
傷つかずに済むから、宿命の刻にしか出られないことを言い訳にして、引きこもっていただけなの。
「怖かったのです。外の世界に出ることが。
外の世界は美しくて、楽しいけれど、苦しいことや、哀しいこともいっぱいですから。傷つくのが、怖かったのです」
けれど、あの人に会って気づいた。それじゃあ、前史と同じ。
彼が傷ついていても、何もできずに終わってしまう。また、同じ過ちを犯してしまう。
いつの間にか空は曇り、チラチラと雪が舞い降りてきた。手で受け止めると、手袋の上で解けていく。
この雪のように、想いは儚く消えて、苦しむだけかもしれない。
「でも、イオはもう逃げないです。どんなに哀しいことがあっても、ちゃんと受け止めていこうと思ったです」
もう取り残されていくのはイヤ。世界から外れるのはイヤ。
前史のように、遠い世界で君に何が起こっているのかも知らずに生きていく方が、よっぽどつらいと気づいたから。
『あいつには君が必要なんだよ』
あの人の言葉を信じて、前に進むと決めた。
たとえ傷ついても、同じ空を見上げて、同じ時を生きていきたい。
大好きな君と一緒に、この命が尽きるまで。
「だから、イオの持っている力をすべて使い、時空神の神殿の時間を、この世界と同調させたです」
「どういうこと?」
「今までは、外の世界でどれだけの時間が過ぎても、神殿にはなんの影響もなかったです。
外の世界が朝でも、夏でも、雪が降っていても、何も変わらない。過去や未来が交錯することもあったです。
ついさっき会ったばかりの人なのに、次に会った時は何十年も時が経っていたり、その逆、なんてこともあったですよ」
「え? それって……」
あの神殿の中では、時間の流れが一定ではないということなのか。もし、それが本当なら。
恩はあることに気づき、口元を手で押さえた。
「……依織は昨日、俺に『明日』って言ったよな?」
「……はいです」
「俺は『昨日』言われたとおり、『今日』依織に会いにきた。でも」
もし、神殿の時間の流れがこの世界と違うなら。
「――俺と約束をしてから、どれくらい経った?」
自分にとっては、ほんの十数時間振りだが、彼女にとっては?
恩は時空神の神殿に入った時のことを思い返した。様変わりした内装。泣きそうな顔をしていたイオン。
『よかったです……やっと、来てくれたですね』
「!!」
やっと。待ち合わせの時間には間に合っていたはず。いや、それどころか早く着いていたはずだ。
なのに、イオンは『やっと』と言った。さっきはその言葉を気にも留めなった。だが、今の話だと。
イオンは静かな声で言葉を紡いだ。
「……人間界の時間軸で言うなら、五十年くらいなのです」
恩は愕然とした。五十年。自分にとってはほんの一日だったのに。
(依織は『明日』なんて軽く言っていたけど、時間の流れがバラバラなら、依織にとっての『明日』は、いつ来るか分からないじゃないか。
俺が来るまで、ずっと待ってたのか? 五十年に相当する時間を)
あの神殿で、ひとりきりで。
想像もつかない。たった一つの約束のために、いつ訪れるかもしれないその時を待ち続けるなんて。
「そんなに、長い時間を待つって分かってて、どうして約束なんかしたんだ! 明日なんて……曖昧なもの。あのまま出掛けたってよかったのに」
そんなに待たせるくらいなら、疲れていようがなんだろうが、構わず付き合ったのに。
「言ってくれればよかったのに。外の世界と、神殿の中では時間の流れが違うって」
(今まで、依織はどんな思いで俺に会っていたんだろう)
数日振りだったかもしれない。数時間振りだったかもしれない。もしや数十年振りだったのかも、しれない。
イオンはいつでも笑っていたが、時々、寂しそうにしていたのは。
時の流れから外れている自分を、愁いていたから。
「言っても、どうにもならないことだったからです。
もしも、めーちゃんがそのことを知ってて、一時間後に会う約束をしても、その時間にめーちゃんが神殿に来ることはできないです。
めーちゃんの世界と神殿の中では、時間の流れ方が違うですから」
確かに、イオンの言うとおりだ。時空神の神殿ではどれほどの時間が流れているのか、外の世界にいる自分には図りえないのだから。
――それでも。
恩はうなだれた。
「……ごめん。気づかなくて。気づいて、あげられなくて」
なんとかしてあげたかったよ。俺が。
声が震える。どうしてこんなに、胸が熱くなるんだろう?
言葉に詰まる恩を、依織は慈しむように微笑み、見つめた。
「もう大丈夫なのですよ。さっきも言ったように、今は時空神の神殿とこの世界は同じ時間が流れているのです。だから、もう心配しなくていいのです」
「そう、なのか?」
「はいです。外の世界で一日経ったら、神殿の中でも一日経つですし、ちゃーんと天気や四季も変わるのですよ」
顔を上げると、イオンはにこにこ笑っていた。強がりかもしれないと思っても、安心した。イオンが笑えるならそれでいい。
イオンには泣いてほしくない。傷ついてほしくない。
この感情は、なんと言うのだろう。自分はその答えを知っているような気がするのに、また頭痛がした。
「……っ」
「めーちゃんっ、どうしたですか?」
イオンは顔をしかめている恩に駆け寄り、恩の額に手を当てた。
「風邪を引いてしまったですかね? 熱は……なさそうですけど」
「大丈夫、ちょっとめまいがしただけ。最近、よくあるんだ」
「具合が悪いのに、寒いところで長々と話し込んでごめんなさいです。もう用事も終わったですし、早く帰るです!」
ぐいぐいと恩の背中を押すイオン。急いで時空廻廊を開く。
時空廻廊が開くと、イオンは恩の手を取り、中へと引き込んだ。
時空廻廊はどこにでも繋がっている。イオンは恩の体を心配し、時空廻廊の出口を滋生家の近くに開いてくれた。
「めーちゃん、今日は付き合ってくれてありがとうなのです。すぐ、あったかくして休んで下さいです」
「うん、分かった。ありがとう」
時空廻廊の出口が閉じる。恩は言われたとおり、家に入ってすぐにヒーターをつけた。
イオンは神殿に戻ると、天井を見上げた。天井には大きな天窓があり、雪が降っていた。
これも神殿を改装した時に創ったもの。外の世界を見るため。恩と同じ空を見るために。
(めーちゃん、気に病ませてごめんなさいです。でも)
『……ごめん。気づかなくて。気づいて、あげられなくて』
(イオのこと、気遣ってくれてうれしかったです。うれしいのですよ、本当に)
自分のことを想ってくれるひとなんて、もう君だけだから。イオンは心を躍らせた。
恩の時代と同じ時間軸のため、今は真冬だ。神殿の中も冷え込んでいる。
温かいココアを飲もうと、イオンはキッチンへ向かった。不意に、その視界が揺れる。
「!」
ふらついて、イオンは壁に手をついた。
「立ちくらみですかね? 早く体をあっためないとです」
神の体なので、風邪を引くということはないが、体調を崩すことくらいはある。イオンは特に気にすることなく、キッチンへ急ぐ。
二人はまだ知らない。創造神のきまぐれによって、刻一刻と、自分たちの心が削られていることに。
二人はまだ気づかない。それを止めなければ、芽生えた想いも消え、創造神の傀儡と成り果てることに。