第60話 存在しない守人
時空神の神殿は時空廻廊の中に在るため、外界の時間とは遮断されている。
そのために、正確な時間は分からない。
だから『明日』がいつなのか、見当もつかない。
それでも約束をしたのは、会いたかったから。
二人だけで話をしたい。どうしても伝えたい。
いつ来るか分からない『明日』を、少女は待ち続ける。
* * *
暁緋と別れ、帰路に着いた時だった。りぃーん、と鈴の音が聞こえる。
それはイオンに渡した魔宝具、魂呼びの鈴の音だった。
魔宝具はシェーシア特有の道具で、魂呼びの鈴は同じ鈴を持つ者同士で、遠く離れていても連絡を取り合える代物。
普段、時空神の神殿にいるイオンはヴァモバなど持っていないし、いざという時に連絡が取れないと困ると思い、渡しておいたものだ。
「いお……じゃなくてイオンから? 珍しい……というか、もしかして初めてかな?」
渡して以来、こちらから鳴らすことも鳴ったことも一度もなかった。
慌ただしい日々を送っていたこともあったが、何を話せばいいのかが分からなかったのだ。
だから、過去の天界への時空移動を頼んだ時は、本当に久し振りで。
あの時、依織と何かあったような記憶はあるのに、その内容までは思い出せない。
思い出そうとすると頭痛がするので、考えないようにしている。
「何か用事かな?」
鈴に耳を近づけ、気を集中させると、メッセージが届いた。
魂呼びの鈴は会話こそできないが、短い言葉なら伝えることも可能なのである。
電話ではなくごく短いメールと同じものだと思えばいいか。
《めーちゃん、もし時間があれば、今すぐクロさまのところに来て下さいです。待ってるです》
イオンの言うクロさまとは、クロムのこと。ひいては此武を指している。
此武のところに来いということは高科FWに行けばいいのか。
「なんで此武のとこ? ……あ、そっか。俺一人じゃ時空廻廊には入れないから、時空神の神殿に行けないもんな」
恩は誰かの力を借りるか、高科FWからしか、時空廻廊を開けないのだ。
あの時もリアウィスに時空廻廊の道を開いてもらったし、過去から戻る時も入口をロックしておいたからで、自分で開いたわけではない。
「今すぐ……か」
ちらっとヴァモバで時間を確認する。まだ夕方だし、行けないこともないが。
「急な用事かもしれないし、行ってこよう」
恩は「すぐ行くよ」とメッセージを送り、急いで高科FWへ向かった。
高科FWに着くと、イオンがちょこんとソファーに座っていた。
ここから時空神の神殿に行くつもりだったのだが、迎えに来てくれたのだろうか。
「あれっ、こっちに来てたのか」
「あ、めーちゃんっ。急に呼び出してごめんなさいです。時間、大丈夫でしたか?」
「うん。こっちは夕暮れだったから。で、どうかしたの?」
「あの、ですね……」
イオンは俯いて、もじもじと指を組んだり離したりを繰り返す。
ややあって、イオンは顔を上げて切り出した。
「明日っ、暇ですか?」
「へぁ?」
あまりに間抜けな声を出してしまったが、イオンは怒ったと勘違いしたのか、慌てて言い募る。
「はううっ、あのですね、明日、イオといっしょにお出掛けしてほしいのです! 遠くに行くわけではないですし、お金も心配しなくていいのですよ! ただ、めーちゃん一人で来てほしいのです! レンちゃんにはできれば内緒でっ……」
「お、落ち着いて、い……イオン。出掛けるのは全然構わないけど、どうしてカーレンには内緒なの?」
もっともな質問に、イオンはしゅんとうなだれた。
「……やっぱり、レンちゃんが一緒じゃないとイヤですか?」
「えっ、いや、そういうわけじゃないけど」
「レンちゃんはいつもめーちゃんといられるです。でも、イオは時々しかめーちゃんと会えないです。
だから、たまには二人だけでどこかに行ってみたいと思ったのです……」
元気をなくしたイオンに、恩は慌てた。イオンの顔を覗き込み、優しく笑った。
「わわっ、そんなに落ち込まないでよ。いいよ、明日、二人で出掛けよう」
「ほんとですか?」
不安そうな表情するイオンに、恩は「うん」と頷いた。すると、イオンはぱあっと顔を明るくした。
「うれしいのです! じゃあ指切りするですよ」
イオンが小指を出す。その小指に指を絡ませる恩。イオンは「えへへ」とはにかむように笑った。
「明日の午後四時、時空神の神殿に来て下さいです。約束ですよ」
「うん、分かった。ところで、どこに行くの?」
「ヒミツなのですっ」
イオンが時空神の神殿に帰った後、背後からものすごく不穏な気配を感じて、恩はハッとした。
そう言えばここは高科FW。当然、此武がいるわけで。
おそるおそる振り返ると、此武がデスクに頬杖をつき、心底、鬱陶しいというような目で見ていた。
「こ、此武……?」
「突然、現れたかと思えば、甘ったるい空気を垂れ流しおって、この害虫どもめ」
「何を怒ってるんだよ? というか、甘った」
「菌を撒き散らすならオレ様の前以外でやれ。吐き気がする」
「??? なんの話だよ……」
此武の言っている意味が分からない。はたから見れば、デートの約束をするカップルのような図だったということに、恩は気づいていないのだ。
此武は「糖分で胸やけがする」などと呟いていて、恩は、砂糖の入った何かでも食べたのかな? と首を傾げた。
翌日、約束の時間が近づいてきた頃。
恩は身支度を整えて、出掛ける準備をしていた。
コンコン、と部屋をノックしてカーレンが入ってくる。
「恩さん、織枝さんがおやつを作って下さるそうですが……」
「あ、ごめん、カーレン。俺、これからちょっと出掛けてくるから」
「まあ、そうですか。お買い物ですか?」
「ううん、ちょっと依織のところに……はっ」
うっかり口を滑らせてしまった。慌てて口を手で覆うが、時すでに遅し。カーレンは「依織?」と小首を傾げた。
(わーっ、しまったぁ。カーレンには内緒でって言われてたのに!)
名前のことも、後でイオンに謝ろう。恩は素直に白状した。
「あー、昨日、一緒に出掛けようって誘われてさ。それでこれから……」
「依織さんってどなたですか?」
カーレンの一言に、恩は動きを止めた。カーレンを振り向くと、彼女はきょとんとしている。
(え……?)
聞き間違いかと、恩は苦笑しながら尋ねた。
「どなたって……カーレンも知ってるじゃないか。いつも時空神の神殿にいる守人だよ。
弱ったジルティリード様に代わって、時空を管理してる」
今は守人ではなくなったけれど。
知り合いで、他に依織という名前の人はいないはずだ。
説明するが、カーレンの答えは衝撃的なものだった。
「? 確かに時空を管理されているのは時空神ジルティリード様ですが、ずっとお一柱で、時空神の神殿に守人という方はいらっしゃいませんよ?」
耳を疑った。ずっと、ひとり? 時空神の神殿に、守人なんてものはいない?
「ああ、ですがジルティリード様は亡くなられて、新しい時空神様がその役目を継いだそうですね」
自分の記憶を紐解いているカーレンに、希望が見えた。恩はすぐさま食いつく。
「そ、そうだよ。それがいお……」
「確かイオン様と仰るんですよね。わたしはまだお会いしたことはありませんが」
微笑むカーレンに、恩は動きを止めた。
彼女は何を言っているんだろう? 会ったことがない? 時空神の神殿で会ったじゃないか。
それどころか、シェーシアでは短い間だが、同じ屋根の下で過ごした。それなのに。
(どういうこと? 時空神の神殿にいるのはジルティリード様だけで、守人なんていなくて、カーレンは依織に会ったことがなくて……?)
知っているのに「私、そんな人知らない」なんて、そんな意地の悪いことをカーレンが言うはずがない。
(記憶喪失? そんなわけないよな。俺や織枝さんのことは分かってるのに、依織のことだけ覚えてないなんて)
けれど、新しい時空神が『イオン』だということは知っているようだ。
だとしたらなぜ『依織』のことは知らないというのか。
『正式な時空神となった今、この世界に「皇斐依織」という人間は存在しなくなったからですよ』
唐突に、彼女の言葉が頭をよぎる。
まさか。恩は不安に駆られ、慌てて家を飛び出した。
(確かめなくちゃ)
彼女に会って、あの言葉の意味を。
恩は急いでエアバイクを走らせる。高科FWへ。彼女が待つ時空神の神殿へ。
高科FWから時空廻廊に入った恩は、時空神の神殿を目指した。
時空廻廊のどこかに存在するという時空神の神殿。
普通の人間なら、この時空廻廊に入ることすらできないし、入ったとしてもさまようだけ。
恩も、最初は此武についていかないと分からなかったが、宿命を紡ぐ者の能力が成長した今、時空廻廊を開くことはまだ不可能でも、時空神の神殿を探し出すことはできるようになった。
時空神の神殿が見え、中に入ると、神殿内の様子ががらりと変わっていた。
たくさんの本棚が壁に沿って並べられていて、中央にはテーブルクロスがかけられた大きな丸テーブルと二脚の椅子。
観葉植物や花瓶も飾られていて、これまでの質素な雰囲気とは違い、随分と生活感に溢れている。
「うわ、なんか物が増えてる」
思わず呟くと、奥の扉が開き、イオンが出てきた。
「! めーちゃん!?」
「……依織」
目を丸くしたイオンは、ぱたぱたと駆け寄ってきて、何もないところでつまずいた。
「きゃんっ」
「わっ、と」
抱き止めると、イオンはなぜか泣きそうな顔で笑い、ぎゅっと恩の服の袖を掴んだ。
「よかったです……やっと来てくれたですね。来てくれないかと、思ったです」
「? なんでさ。約束してたんだし、来るに決まってるじゃないか」
約束を破るような男だと思われていたのだろうか。軽くショックだ。
イオンははっとして、ごまかすように笑った。
「そうですね、めーちゃんは約束を破ったりしないですよね。ごめんなさいです。
すぐ支度してくるので、そこに座って待ってて下さいです」
「あ、いお……」
記憶のことを聞く前に、イオンはまた奥の扉へ引っ込んだ。
とりあえず言われたとおり、椅子に座って待つ。ものの五分もしないうちに、着替えたイオンが出てきた。
ふわふわのコートにマフラーや手袋と、いつもとは装いの違うイオン。
さすがに外は真冬なので、いつもの格好では冷えるのだろう。
「どうですか? めーちゃん」
くるっと回ってみせるイオン。恩は素直に感想を述べた。
「うん、あったかそうでいいね」
「むぅ~。そうではないのです」
むくれるイオン。恩は「?」と目をぱちくりさせた。
鈍い。イオンはため息をついた。
(めーちゃんは相変わらず、女の子の気持ちが分かっていないのですっ)
以前、家に行った時もそうだった。欲しいのはそんな言葉じゃないのに。
膨れっ面をしているイオンに、恩は前にも似たようなことがあったような……と記憶を探り、あっと気づいた。
(あの時も、服のことを言ったら、不機嫌になってたんだよな。うーん、でもおかしいところとか特にないし……)
沈思している恩にしびれを切らしたイオンが、腰に手を当てて問う。
「めーちゃん、このお洋服、かわいいですか? かわいくないですか?」
「え? ……あ。ああー。うん、かわいいと思うよ」
言われてから、そういうことかと気づいた恩。イオンは満足げに笑った。
「ありがとなのです。では、行きましょうです」
機嫌を直したイオンに、恩は胸を撫で下ろした。
イオンが時空の杖を掲げ、時空の扉を開く真言を唱える。
カーレンが『依織』のことを忘れていることを聞きたいのに、なかなか切り出せない。
「時空の扉よ、呼応せよ。時空神イオンの名において、我、今ここに、時空の扉を開け放たん」
真言の時空神の名前が変わった。本当に、イオンが新しい時空神になったのだ。
三つある扉のうち、真ん中の扉が光り出す。あれは現代の扉だ。
扉が開き、イオンが手招きする。促されて扉をくぐると、海が見えた。
「わぁ……」
雄大な翠色の海。水平線がくっきりと見え、西日を受けて煌めく水面には、白い雲が映っている。
その海を見下ろすことができる小さな岬に、二人は立っていた。
「綺麗だなぁ! こんなに澄んでる海、テレビとかでしか見たことないよ!」
「藍泉では東海も南海も、環境汚染でだいぶ汚れてしまっているですから、綺麗な海は北海くらいですもんね」
「ということは、ここは北海?」
「はいです。詳しい場所は言えないですけど」
冬の海辺ははとても寒い。雪も積もっていて、吐き出した白い息が風に流されていく。
遠くの方で、飛竜の群れが気持ちよさそうに飛んでいるのが見えた。
「いお……あの、今は元の名前で呼んでいいよね? 二人だけだし」
「もちろん。そう呼んでほしいです」
うれしそうに笑うイオンに、恩はなんだか照れくさくなった。
「えーと、依織が行きたかった場所ってここ?」
「はいです。めーちゃんと一緒に、二人だけで来たかったのですよ」
さくさくと雪を踏みしめて、イオンが恩の隣に立つ。
しばらくの間、二人で海を眺めた。
人の手が入っている様子のない岬は、自然なままの姿を保っている。
周りには誰もいなくて、波の音と、時々、竜の鳴き声が微かに聞こえる。
「ここはイオにとって、とても大切な場所なのです」
西日が傾き始め、イオンがようよう口を開いた。
振り返ったイオンは、林へと歩いていく。この岬は、林を抜けた先にあるのだと今さら気づいた。
イオンは林のすぐそばで立ち止まり、恩を振り返る。その足元には、小さな墓石のようなものがあった。
恩が近づいていくと、イオンはその場でしゃがみ、手を合わせた。
「ここに来たかったのは、お墓参りをするためなのです。このお墓は、クーちゃんのです」
「クーちゃんの?」
クーちゃんとは、正確にはクルノスと言い、イオンのかつての相棒で、角の生えた子犬のような姿をした聖獣だ。
クルノスはゼルグを封印する際に、媒体となってこの世から消えた。
イオンは以前、弔いのためにここにクルノスの墓を作ったのだが、見るとつらくなるのでずっと来られずにいた。
作ったのは前史でのことなので、現史でも存在しているか不安だったが、ちゃんとあってよかった。
「クーちゃんには、静かで素敵な場所で眠っていてほしかったですから、ここにお墓を作ったです」
まだ人間だった昔、旅行で訪れた時にここを見つけ、景色を気に入っていたから。
「この場所は誰も知らない秘密の場所なのです。だから、ゆっくり眠れると思ったのですよ」
「どうして、秘密の場所に俺を?」
手を合わせた恩が素朴な疑問を口にする。イオンはふふっとうれしそうに笑った。
「クーちゃんにめーちゃんを紹介したかったのです。クーちゃんのこと、それからイオのことを覚えてくれていた、めーちゃんを。
きっとイオのことを覚えているのは、クロさまとめーちゃんだけですから」
予想が当たり、恩は表情を硬くした。