第57話 小さな祈り
(それでも、あの子には本当の心、本当の想いを消してしまわないでほしい。あの子が、ただの操り人形ではない証だから)
フィアーナは水晶を見上げた。封印の力を持つ水晶、パーガウェクオ。
あらゆるものを封じることができ、封石とも魔石とも呼ばれる。
実は、魔法界にもこれと同じものがあり、オルヴィスの魂はそこに封じられている。今、目前にあるのは体のみ。
体と魂を別々に封じたのは、もしも封印が解けた時に完全な復活を防ぐため。
たとえ、どちらかの封印が解けても、体だけでは動くこともできないし、魂だけでは何もできない。
この事実は天帝と封印の巫女のみが知っている重要事項だ。他の者には、オルヴィスそのものが封じられているように伝えられている。
フィアーナは水晶に触れて、そっと目を閉じる。
「貴方も……愛情を失い、狂ってしまったのでしたね、オルヴィス様……」
水晶の中で、愛する父親を憎み続けるひと。フィアーナも父親を愛しているから、彼の気持ちは分からなくもない。
「一番に愛されたいと、願っていたのですよね? 愛する父の心が離れてしまったことが悲しくて、心を氷らせ、闇に堕ちてしまった」
愛する父親を憎むなんて、どんなにつらいことか。一度失ってしまったら、簡単には戻らない。
「貴方を責めるつもりなどありません。私も愛する父様に嫌われてしまったら、とても悲しい。でも、私はもっと大切なひとを見つけました」
愛しいひとを恨むのではなく、別の愛情を見つけられたなら。
「貴方も、新しい愛を見つけられたなら……闇に堕ちることはなかったでしょうね」
誰かを愛することはとても複雑で、それは種族の境界線などない。
そして、誰かに強制されるものでもないのだ。
落ち着かなさげに封印の間の扉前をうろうろしていた恩は、ゆっくり扉が開くと、ぴたりと足を止めた。
扉の隙間から、控えめにカーレンが顔を出す。無事だ。ちゃんと、生きてる。恩はばっと駆け出した。
「……カーレン!」
呼ばれて、鼓動が高鳴った。恩と目が合うと、カーレンはかあっと顔を赤くした。
本当にいた。幻なんかではない、本物の恩だ。
駆け寄ってくる恩に、カーレンも扉の陰から飛び出して抱きついた。
「恩さん!」
「!? へっ……」
まさか抱きついてくるなんて。思わぬ行動に、恩は硬直した。
「恩さん……本当に恩さんなんですね。会えるなんて思っていませんでした。とてもうれしいです……っ」
「カーレ……、!!」
背後から鋭い視線が向けられていることに気づき、恩はぞくっとする。
(ひぇぇぇぇぇっ)
見なくても分かる。リュミオンが怒気をはらんだ目で凝視しているということが。
「恩さん……すみません。何も言わずに勝手なことを……」
「うんっ、話はちゃんと聞くからその前に離れよう!! ねっ! 頼むからお願い!」
「? はい」
上擦った声で言うと、カーレンが離れる。
すると、リュミオンの視線も外れた。恩はほーっと一息つく。
「あの、恩さん、怒っていますよね?」
「え?」
「勝手にあなたのそばから離れてしまったことを……」
恩は目を瞬かせ、困ったように目線を逸らす。
「うーん、そりゃあ……ちょっとモヤモヤはしたけど……心配の方が強いかな。また何かあったのかと思ってさ」
「すみません。恩さんに話したら、きっと止められると思って……」
「止めるよ。命を犠牲にするなんて、そんなことカーレンにさせたくない。
だからそうならないように、助けに来たんだ。無事でよかったよ、カーレン」
「恩さん……」
ぽろりとカーレンの目から涙が零れ落ちる。その瞬間、恩のうなじにリュミオンが構えた剣の切っ先がピタリと当てられた。
「我が妹に涙を流させるとは、覚悟はできているだろうな、小僧?」
「きゃーっ、すみませんすみませんっ、でも不可抗力なのでお許しをぉぉぉっ!」
ビシーッと直立し、悲鳴を上げる恩。カーレンがひょこっとリュミオンの顔を覗き込んだ。
「まあ、リュミオンお兄様。怖い顔をしてどうしたんですか?」
「カーレン、この小僧はお前を泣かせた」
「え……ああ、はい、うれしくて」
「嬉しい?」
涙を拭くカーレン。リュミオンは剣を下ろし、怪訝な顔をする。
「恩さんは無事でよかったと言ってくれました。わたしのところに来てくれました。それがとてもうれしいんです」
にっこり笑うカーレンに、リュミオンは渋い顔をしながら剣を鞘に戻し、くるりと背を向けた。
「小僧、命拾いをしたな」
「はいっ、ありがとうございます!!」
思わず敬礼してしまう恩。このヒトのそばでは気を抜けない。
カーレンの無事な姿を見て安堵したのは、恩やリュミオンだけではなかった。フェリオスは玉座に深く沈みこむ。
「よかった……これでカーレンの命は救われる」
「そうだな。今はあの子の無事を喜ぶとしよう。あとはフィアーナがうまくやってくれるとよいのだが」
「うん。今はまだ消える時ではないとはいえ、安心はできないからね。
ところでリアウィス。さっき、あの方々の力を感じなかった?」
唐突に真面目になったフェリオスの問いに、リアウィスの顔に緊張の色が滲む。
「やはりフェリオスも気づいていたか。創造神様の神力に間違いなかったな」
「……宮殿内にいた全員が気づいていたと思うよ。封印の間にいたカーレンと、恩本人以外はね」
封印の間は特殊な結界で覆われているため、あらゆる力を阻む。そのために、創造神の力さえも打ち消した。
そして恩。彼は身の内に宿る創造神の力を認識していない。
宿命を紡ぐ者として未熟なせいなのか、あるいは、創造神がそのように計らったのか。
「もちろん、リュミオンやラグニールも気づいていただろうけど、あえて口にしないだろうね。あの方々は、名前さえ言葉にするのも恐れ多い」
絶大なる力を持つ二柱の女神。人間にとっては神話上の存在でも、その実態を知る者たちからすれば、尊敬と畏怖の対象だ。
なぜ、あの方々の力が片鱗を見せたのか、それは分からない。だが、恩に何かあったということだけは分かる。
「本当に、恐ろしい存在だね。宿命を紡ぐ者は。あの闇黒王の半身なだけあるよ」
二人が本気でぶつかりあったなら、世界は冗談抜きで危機に瀕するかもしれない。
その時が、いずれ来るだろう。それこそが、終焉の刻なのかもしれない。
フィアーナが封印の間から出てきたのは、ほんの数分後のことだった。
ややふらつく足取りだったが、封印を結び直すことに成功したと、笑顔を見せる。
胸を撫で下ろす一同。これで、カーレンの命も救われたし、オルヴィスの封印も安泰だ。
恩はフィアーナに向かって深くお辞儀した。
「フィアーナさん、ありがとうございました! 無理なお願いに応じてくれて、カーレンを助けてくれて、本当に、ありがとうございました!」
「ふふ、役に立てたのならうれしいわ。私も役目を果たすことができたし、元の時代に戻らないと」
「フィア! その体で戻ると言うのか? 時空移動は体に負担を与える。そんな体では耐えきれんぞ」
リュミオンが言うと、フェリオスがフィアーナに肩を貸しながら同意する。
「そうだよ、フィアーナ。少し休んでいった方がいい」
父に触れられ、フィアーナは顔を綻ばせた。
「ありがとう、父様。でも私はすぐに帰るわ。あのひとが待っているから」
「フィアーナ……」
なんとしても引き留めたいところだが、この子は応じようとはしないだろう。揺るぎない瞳、彼女にも大切なものがあるのだ。
「……分かったよ。恩、フィアーナを過去に戻してやってくれ」
「天帝様!」
「リュミオン、この子を引き留めてもなんの意味もないんだよ。この子は過去のフィアーナなんだから」
「! ……っ」
リュミオンは顔を歪め、何かに耐えるように剣の柄を握りしめて、玉座の間から出て行った。
いいのか、と恩が目で尋ねると、フェリオスは苦笑した。
「大丈夫、あの子も本当は分かっているさ。後は頼んだよ、恩」
「は、はい」
行きの時と同じように、リアウィスが時空廻廊への道を開く。時空神の神殿の前で、恩はふと立ち止まった。
あの後、ジルティリードはどうなっただろう。依織は大丈夫だろうか。具合を悪くしていないといいけど。
なんだか心が苦しいような気がする。何かを喪失したような感覚はあるのに、そこにあったものがなんなのか分からない。
「依織にちゃんと謝らないと……」
(……あれ? なんでだっけ。お礼を言うのならともかく、どうして謝るんだろう?)
「……そうじゃなくて、お礼を言うんだよな。依織のおかげで過去に行けたんだし」
「……」
フィアーナは愁えた。彼は、彼女を傷つけたと泣いたことを忘れているようだ。忘れさせられたのだ。
きっと自力で思い出すことはないだろう。創造神の戒めを打ち破らない限り。
時空神の神殿に入ると、中には依織だけで、ジルティリードはいなかった。
「依織!」
「めーちゃん……」
「無事にカーレンは助けられたよ」
振り向いた依織に笑顔で礼を言うと、依織は目を瞬かせて、微笑んだ。
「そうですか。よかったです」
「あれ? 依織、目が赤いよ?」
依織はハッとする。泣いたために目が腫れているのだろう。
「な、なんでもないのです。気にしないで下さいです!」
「? そう? とにかく、ありがとう。依織が頑張ってくれたおかげだよ。
あと一回だけお願いしてもいいかな? 今度はフィアーナさんだけ送ってくれればいいから」
「はいです」
依織が時空の杖を掲げ、真言を唱える。
待っている間、フィアーナは意を決して、恩の背中を、とん、と叩いた。
「きっと、貴方と会うのはこれが最初で最後だと思うの。だから伝えておくわ。
私、貴方に会えてよかった」
恩が目を瞠る。
デュオニドゥルスと生きることに、実はほんの少しだけ迷いがあった。
一緒にいたいと思っているけれど、父や兄たちも愛しているから。それでも。
「貴方と出会ったことでね、私は進む道を見つけられた。私はどんな手段を使ってでも、守りたいものを守るわ」
たとえ悲しくても、つらくても、大切なひとたちを裏切ってでも。
何があろうとも、愛するひとを失いたくないというこの気持ちは、私だけのもの。
愛したひとを守るために、私はこの想いを貫き通す。
「フィアーナさん……」
(私にはこの子の心を、強制する力も、筋合もないわ。けれど)
塗り潰されていく想いに知らず涙を流した、この儚い少年の幸せを祈りたい。
きょとんとして自分を見つめる恩の胸に、フィアーナは自分の手を当てた。
「え、あのっ」
恩はうろたえたが、フィアーナの真剣なまなざしに、おとなしくなる。
「だから、貴方も守りたいものがあるなら負けないで。挫けないで。
誰を愛するかは、他人が決めていいものではないの。
貴方自身が決めて、貴方自身が選ぶのよ。貴方の想いは貴方だけのもの。それだけは忘れないで」
「……」
忘れないで。あの方々に創られたとしても、どれほどの力があろうとも、貴方の体は、心は、貴方だけのもの。
その言葉は不思議と、恩の心に浸透していった。
(俺の想いは、俺だけのもの……)
心の中で反芻して、恩は笑みを返した。
「ありがとうございます、フィアーナさん」
なんだか、知らずにできていた胸のつかえが取れたような気がした。
過去への扉が開き、フィアーナは光の中に入っていく。
最後に一度だけ振り返り、手を振った。
別れの挨拶ではなく、頑張って、とエールを送るように。
貴方はもう、貴方という存在。あの方々の操り人形じゃない。
いつかそれに気づいて。そして負けないで。
貴方だって、一つの命なのだから。
光の中で、フィアーナは目を閉じ、呼びかけた。
(セイルシア様、ライフィエ様。どうか、あの子の心を自由に)
とても尊く、愛おしい、全ての母なる創造神。
その分御魂の幸せを求め、祈ろう。
〈――ふぅん、面白いことを言ってくれるね〉
小さな呟きが漏れる。
六界のどこにも当てはまらない、高位なる次元。
混沌の中でたゆたう白と黒の二つの存在。
片割れが口元を笑みの形に歪ませると、もう一方はため息をついた。
〈久々に名を呼ばれたかと思えば、なんて卑しい願いなの〉
〈まあ、あんまりにも些細なことだから僕はどうでもいいよ。アレがどう生きようともね〉
白い光が楽しそうに笑う。黒い光は不服そうな声を出した。
〈じゃあ、なぁに? 鎖を解いちゃうの?〉
黒い光の問いに、白い光は、にっこり笑った。
フィアーナを送り出すと、恩はためらいがちに切り出した。
「そういえば、さ……あの……ジルティリード様は?」
その名を出すと、依織は表情を曇らせて俯いた。
「依織?」
「……ジルさまは……もういないです」
「え?」
「ジルさまは、神力を使い果たして……消滅してしまったのです」
「! そんな……っ」
依織を助けるために、ジルティリードは力を全て失ったのか。依織のために、自分を犠牲にしたのか。
「ごめん、俺が過去に行きたいなんて言ったからっ……」
「いいえ。時空移動を望む者を送るのは、時空神の役目ですから。イオが未熟だっただけなのです。めーちゃんは悪くないのですよ」
顔を上げて、依織はにっこり笑った。目が赤い。きっとたくさん泣いたのだろう。
なのに、なんで笑っていられるのだろう。悲しいはずなのに、笑ってみせるなんて。
「強がらなくても、いいんだよ。ジルティリード様は、依織にとって大事なひとだったんだろ? 無理に笑わなくても……」
「ありがとうなのです。でも、強がってるわけではないのですよ。本当に、大丈夫ですから。
ある人から元気をもらったから、イオはいつものイオでいられるのですよ」
小さくガッツポーズをする依織。恩はきょとんとした。
「ある人?」
〈僕は優しいからね。あの女神の願いを叶えてやらないでもないよ〉
解放してあげる。アレの心を縛る鎖から。
アレが惑うたびに、鎖をかけて、迷いを塗り潰してあげていた。
白い光は混沌の中に腕を伸ばし、何かを探る。黒い光はご機嫌斜めだ。
〈せっかく仕組んだのにつまらないわ。削った駒をどこへやったかなんて覚えていないわよ? もしかしたらもう消えちゃっているかも……〉
〈いいや、元の駒は戻さないよ〉
〈?〉
白い光は混沌の渦の中から、白と黒の鎖を引き抜いた。
依織はにこにこ笑っていてそれ以上は言わなかった。本音のようなので、恩も追及はしなかった。
(ある人って誰だろう? 依織を元気にしてあげられるひとなんて、俺だけだと思ってたのに……って、何考えてるんだ!)
ちょっとだけもやっとしたが、慌てて振り払う。
「あとですね、ジルさまがいなくなってしまったので、イオが正式に、新しい時空神になったのですよ。
今までは、ジルさまの補助を務めるため守人と名乗っていたですけど、これからは時空神イオンなのです」
もう彼はいないのだ。これからはひとりで、時空を守っていかなければいけない。
彼がこれまでそうしてきたように、ただひとり、時空神の神殿で過ごし、時に歴史を調整し、時に時空移動を望む者を送り、時空を管理し続ける。
それが時空神に課せられた役目。隔離された世界で孤独に生きる時空の番人。
「だから、めーちゃん。もうイオの本当の名前を呼んではいけないのです。イオのことはイオンって呼んで下さいです」
「え、なんで?」
「正式な時空神となった今、この世界に『皇斐依織』という人間は存在しなくなったからですよ」
依織改めイオンの言葉の意味を、恩はよく分かっていなかった。
けれども、少し寂しいと思った。特別に教えてくれた名前。イオンが人間であった証。それを手放すなんて……
しゅんとする恩に、イオンはくすっと笑って、ちょいちょいと手招きをする。
恩が歩み寄っていくと、不意に何かが解放されたような感覚があった。
(?)
今のはなんだろうと思っていると、グイッと腕を引っ張られた。
イオンが背伸びをして、耳元に口を近づける。
「二人っきりの時なら、めーちゃんだけは呼んでもいいですよ」
「!!」
恩はぱっと赤面した。耳元で囁かれたことにもだが、特別扱いされたことに、胸が高鳴る。今までにないほど、体中が熱い。
まるで抑え込んでいた堤が決壊したかのように、様々な感情が激流のごとく溢れてくる。
守りたい
話したい
そばにいたい
触れたい
笑ってほしい
支えたい
抱きしめたい
傷つけたくない
奪いたい
愛しい
恋しい
〈ただ叶えるなんて面白くないじゃない。だから、鎖を解く代わりに鍵をつけよう〉
錠のついた白い箱と黒い鍵を顕現させ、振り返った白い光は、いたずらっ子のような笑みを浮かべた。
黒い光は、ぷっと吹き出してくすくすと笑った。
〈なるほどね。それならそれで面白くなりそうだわ〉
白い光から鍵を受け取る。アレの感情を歪ませ、縛りつけていた鎖はもうない。だから今は剥き出しのココロ。
溢れ出している感情は、アレの正真正銘の真心。
プロットには記していない――異常なのだ。