第56話 捻じ曲げられる心
ジルティリードは苦しげに目を伏せると、最後の力を振り絞り、依織を抱きしめる。
「! ジル……」
「依織……そなたには、あの子供がいるではないか」
「……めーちゃんは……」
(イオのことなんか気にしてないです)
さっき、それを思い知った。自分は恩にとって、たいした存在ではないのだと。
俯く依織の耳元に、ジルティリードは囁いた。
「いずれ、気づく時が来る……あの方々は望まぬかもしれぬが……打ち勝つかどうかは、そなたの想い次第だ……」
「どういう意味ですか?」
ジルティリードはそれには答えず、依織を離して、依織の額に手をかざす。
「依織よ。時空神の全権を、そなたに譲る。そなたが次の時空神だ」
ぽう、と白い光がジルティリードの手の中に現れ、スゥゥ、と依織の額に吸い込まれていく。
その瞬間、膨大な神力が依織の中に注ぎ込まれる。
「……っ」
この世界で、彼女の存在は希薄なもの。
以前、依織は恩に、自分はただの守人だと告げたが、それは嘘だ。
本当の彼女は、この世界とは別の――創り直される前の世界の時空神。
肉体や魂は神でも、この世界の理によって、今の彼女は人間でも神族でもない、異質な存在にされていた。
時空神は世界に一柱。それ以上でもそれ以下でも、世界のバランスは崩れる。
それゆえに、依織は時空の狭間にある、この時空神の神殿の中でしか生きていけなかった。
宿命を紡ぐ、宿命を紡ぐ者。
その者の剣となり、力を与え、闇をもって支えるのが戦神。
その者の盾となり、癒しを与え、光をもって支えるのが時空神。
ジルティリードこそが、宿命を紡ぐ者の真のパートナーなのだ。
今の依織自身には、宿命を紡ぐ者のパートナーであるという事実は、無い。
守人と名乗り、宿命を紡ぐ者のパートナーとして恩の手助けはしていたが、それは本来、時空神ジルティリードの役目。
依織がそうふるまっていたのは、弱ったジルティリードの代役だったからに過ぎない。
そうすることでしか、彼女はこの世界では生きられない。存在を許されない。
限られた時にしか世界に干渉できない、世界の影であること――それが、新たに創られた今の世界での、依織に与えられた在り方。
永い時を生きる彼女にとって、この新しい世界は生きづらいものだった。
その現実を、ジルティリードは憂いていた。
自分がこの世界に在る限り、依織の存在は世界に認知されない。
だからこの時を待っていた。自分が消えれば、依織が次の時空神になれる。
正式に時空神として、この世界で生きていける。
それを彼女も待ち望んでいると、思い込んでいた。
けれども、それは間違いだった。彼女は時空神として生きることを望んではいない。
『眠っていてもいいです。お話してくれなくてもいいです。ずっとそばにいてくれるなら……イオは異質な存在のままでもよかったです!』
依織は時空神として生きていくよりも、自分と共に生きていくことを望んでいたのだ。
そうだと知っていたなら、もっと依織との時間を作ってやるべきだった。
いずれ消える身だからと、あまり干渉しないようにしていた。
そのことが、彼女に深い悲しみを味わわせてしまうとは。
「すまない……依織。いや、イオンよ」
依織はゆっくりと目を瞠った。光が消えていく。ジルティリードの神力が、体中に溶け込んでいくのを感じた。
「今この時より……そなたは正式に、時空神となる。そなたは時空神イオンだ」
「……また、その名前を賜るとは思わなかったです」
昔、時空神になった時に前ジルティリードから戴いた名。
ただの守人としてこの世界で生きていくと知った時、しまい込んだ名前。
守人であるなら、神としての名を名乗らなくてもいいだろうと、皇斐依織として通してきたが、この名を戴くのは運命なのだろう。
ジルティリードの頬に触れようとした時、その手はすり抜けた。
もう、その体に触れることすらできないほど、彼の体は透けていた。
「ジルさま!」
「そなたと過ごした時は、我には短い時であったが……満ち足りていた……愛しているぞ、依織……」
空気に溶けるように、ジルティリードは消えた。呆然と、依織は虚空に問いかけた。
「ジル、さま……?」
もう、声は聞こえない。姿はない。存在そのものが、失われた。
依織は声を震わせる。
「ジルさまっ、そんな……ジルさ…………わぁぁぁん」
依織は声を上げて泣いた。みんな、いなくなっていく。自分を置いて。
取り残されていく。時の流れに。
時空神になることを選んだあの時に、覚悟はしていた。
それでも、以前は同じ永い時を生きる、唯一のパートナーであるあの人がいたから耐えられた。
けれどあの人はもういない。ジルティリードと同じように消えてしまった。
ジルティリードは恩がいると言ったけれど、彼は外の世界で生きる人。
この時空神の神殿で共に過ごせるのは、ジルティリードだけだったのに。
孤独への不安と恐怖に押し潰されそうだ。
誰もいなくなったはずの部屋の中に、誰かの気配を感じて、依織はおもむろに後ろを振り返った。
時空廻廊から、恩はよろめきながら出てきた。
場所は宮殿の中のどこからしい。どうにか着地すると、慌てて時空廻廊への道に手を伸ばす。
「依織!!」
しかし、フィアーナが出てくると同時に道は消えてしまった。
恩は悔しげにうなだれる。
「……俺の、せいだ……」
フィアーナはなんて声をかければいいのか分からず、恩の自責の言葉をただ聞くしかなかった。
「俺が、あんなワガママ言ったから……っ」
依織に無茶をさせて、ジルティリードが神力を解放せずにいられなくして、その結果、ジルティリードは神力を使い果たして……
泣かせたいわけじゃなかった。苦しめるつもりはなかった。
ただ、救いたい命があって、そうしなければいけなくて。
そのために、心の中に在ったあるものを打ち消せと、不思議な“声”が叫んでいたんだ。
最後に見た依織は泣いていた。泣かせたのは自分。依織から大切なひとを奪った。
「依織を傷つけた……!」
両腕を抱え込むようにして、体をくの字に曲げる恩。
もう依織の涙は見たくなかったのに。クルノスを喪ったのは、自分のせいだと責めて泣いていたあの時みたいに、抱きしめてあげたかった。
依織を傷つけたことに、心が傷ついた。そう感じるほどに、依織は自分の中で大切な存在になっていたのだ。
守ってあげたいと思うほど、愛おしいと――
ドクン。
不意に、恩の魂が震えた。どこからか“声”がまた、聞こえてくる。
――それ以上は、育ててはいけない――
――捨てなさい。その感情を――
恩の様子が再びおかしいことに、フィアーナは眉を顰める。
「助けなきゃ……守らなくちゃ……いおりを……違う……」
突然、恩はぶつぶつと何かを呟き始めた。呪文のように、自分に言い聞かせるように、淡々と。
「どうしたの?」
「カーレン……俺がまも、るのは…………カーレン……依織……ちがう……ダメ……それは、いけないこと……」
まるで、何かに体を支配されているかのように、恩は言葉を紡ぐ。
嫌な予感がして、フィアーナは恩に近づいた。
手を伸ばすと、バチィッっと見えない強い力に弾かれた。
(!? 何?)
恩の全身を強い力の膜が覆っている。それは一つではない。
光と闇が混ざり合った、とてつもなく強大かつ荘厳な力。
世界全てを飲み込んでしまえるほどの――
(!! もしかして……)
フィアーナはぞくりとした。直接会ったことは無い。けれど知っている。
魂が生まれた時から、刻み込まれているすべての母。
「創造神……様……?」
背筋が凍った。宿命を紡ぐ者は、創造神の力を直接分け与えられた存在。
彼を護るもの、いや、支配しているのは、あの方々だ。
二柱の神が、恩を支配している。なぜ?
「……それはあってはならない…………愛すべきは……あの女神……いらない…………
あの少女は……異質のもの……決められた通りに、すればいい……消してしまえ………」
「!」
恩はあの時空神の少女に、強い想いを抱いていると、フィアーナは感づいていた。
しかし、それは創造神にとっては、あってはならないことなのか。
だから恩の中から、彼女への想いを打ち消そうとしている?
(この子の心を、操作なさっているの? あってはならないから、修正しようとしている……この子の心を、捻じ曲げてまで)
すうっ、と恩の頬を涙が流れ落ちた。
フィアーナは胸を痛めた。宿命を紡ぐ者には、自由に誰かを想うこともできないのか。愛してはいけないのか。
デュオニドゥルスのことが思い浮かぶ。敵対する種族のひと。それなのに、愛してしまった。
一度芽生えてしまった想いは、そう簡単には消せない。
誰であっても、その想いを侵してはいけないのではないか。
「しっかりして!」
近寄ろうとすると、創造神の力に弾かれる。それでもフィアーナは諦めなかった。
「貴方の想いは貴方だけのものよ! お願い、消してしまわないで。愛することは、悪いことではないわ!」
「っ!」
ぱんっ、と何かが弾け飛ぶ音がして、恩はぼんやりと空を見上げた。
「……あれ? 俺……」
きょろりと首を巡らせると、フィアーナが見つめていた。
「フィアーナさん、どうしたんですか、そんなつらそうな顔して……って、あれ? なんで俺、泣いてるんだろ」
自分の頬を流れる涙の意味が分からず、恩はごしごしと無造作に拭った。
恩は何も覚えていないようだ。創造神たちに支配されていたことも、心が塗り潰されていったことも。
なんて哀れだろう。宿命を紡ぐ者のことを、フィアーナは詳しく知らない。
創造神が作ったプロットを終焉の刻まで紡いでいくのが、宿命を紡ぐ者。
そのために不死の肉体を持ち、永い時を生きるという。
自分がフェイトパースだと知った時、宿命を紡ぐ者とはどんなヒトだろうと思っていた。
創造神が力の半分を分け与えて創られた存在。とても羨ましく、素晴らしいと思った。
けれど、実際はそんな羨むものではなくて。まだ幼い少年。
多くの宿命を背負うには、危なげだと感じるほどに頼りない。
その上、自身の心さえも自由ではなくて。
なんて残酷なことだろう。でも、自分には何もできない。
宿命を紡ぐ者がフェイトパースの宿命に干渉することはできても、フェイトパースが宿命を紡ぐ者の宿命に干渉することはできないのだ。
「えっとここは……天帝宮殿の中、だよな? 封印の間に行かないと。行きましょうか、フィアーナさん」
何事もなかったかのように、恩は笑顔でフィアーナを促す。
己の無力さに打ちひしがれていたフィアーナは、痛みをぐっと堪え、笑みを返した。
「ええ、行きましょう」
自分は、彼に何もしてあげられない。だから、せめて自分の役割だけは果たさなくては。
宮殿の中は広く、自分のいた場所も分からなかった恩だが、フィアーナはフェリオスの娘なだけあって、宮殿の中を熟知していた。
そのため、促しておきながら、玉座の間へ案内したのはフィアーナの方だった。
玉座の間に着くと、真っ先にリュミオンが飛んできた。
「フィア!」
「リュミ兄様」
リュミオンはフィアーナの前に降り立つと、すぐさまフィアーナをかき抱いた。
魔界に行って以来、久しく顔を見ていない兄。
声も、抱きしめてくれる優しさも、自分の時代の兄と変わっていない。
「リュミ兄様、会えて嬉しいわ」
「すまない、お前をわざわざ未来にまで呼び寄せるなど……」
「ふふ、いいのよ。私で役に立てるなら」
リュミオンが体を離すと、フィアーナは玉座に目を向けた。
リアウィスとラグニール、そしてフェリオス。
「リアウィス様、ラグ兄様。……! 父様……っ!」
最も愛してやまない父。フィアーナは駆け出した。フェリオスも両手を広げて迎える。
「ああ、父様……っ、相変わらず可愛らしくて素敵だわ!」
「あはは、フィアーナもあの頃のままだね……」
ぎゅーっと抱きしめると、フェリオスはちょっとだけ苦しそうに顔をしかめた。
「あっ、ごめんなさい。懐かしくて……」
「うん、元気そうで何よりだよ。来てくれてありがとう」
もしかしたら、カーレンの代わりに命を落としてしまうかもしれないのに。
フェリオスの表情から読み取って、フィアーナはにっこり笑った。
「大丈夫よ、父様。私には帰りたい場所があるの。だから、絶対に死なない」
フェリオスは目をぱちくりさせた。
頼もしい限りではあるが、彼女の運命を知っている身としては、この力強さが失われることが切ない。
「父様、当代の巫女はもう封印の間に?」
「え? ああ、そうだよ。フィアーナ、当代の巫女であるカーレンは、君の妹だ」
「妹?」
妹がいるなんて知らなかった。自分が魔界に行ってから生まれた子なのだろう。
まさか、見知らぬ妹が巫女だったなんて。
けれど、それならなおさら、助けてあげなくては。
フィアーナは最奥にある封印の間へ足を運んだ。
祈りの真言を唱え終えたカーレンは、水晶に閉ざされたオルヴィスを見上げた。
闇黒王の欠片であるオルヴィス。恩の半身の一部。
けして蘇らせてはならない。ゼルグに存在を気づかれてはならない。
そのために、この身を捧げよう。
「恩さん……約束を守れなくて、すみません」
「それは本人に直接言った方がいいわ」
燭台の神炎が揺れる。カーレンは驚いて振り返った。
入口のところに誰か立っている。女神だ。
女神はゆっくりと近づいてくる。燭台の灯に照らされ、顔が見えた。
見知らぬ女神。けれど、自分と面差しの似ている彼女は一体……?
「初めまして、カーレン。私はフィアーナ」
「フィアーナ……? 聞いたことが……もしかして、リュミオンお兄様の妹の……?」
「ええ、そうよ。だから貴女の姉でもあるわね」
「なぜ、あなたがここに? あなたは……」
「私は過去から来たの。宿命を紡ぐ者に、貴女を助けてほしいと言われてね」
「恩さんに!?」
心臓が跳ね上がる。どうして彼が関わってくるのだろう。
「あの子は貴女が封印の巫女として楔になることを知り、命を救いたいと原初の巫女である私に、助けを乞いに来たの」
「! 恩さんはわたしが封印の巫女だと知っているんですか!?」
「ええ。今も、この封印の間の外で、貴女が無事に戻ってくるのを待っているわ」
「え? まさか……恩さん、天界に来て……」
フィアーナが首肯する。カーレンは愕然とした。
そんな。せっかく離れる覚悟をしたのに。
「わたしは……あの人のために、あの人との約束を破ってまで、楔になることを選んだんです……それなのに、待って……くれる、なんて……」
ぽろぽろと涙が零れる。カーレンは顔を覆った。
もう会えないと思った。声を聞くことも、顔を見ることもないと。
楔になることが、彼のために自分が唯一できることだと思った。
依織のように、恩のパートナーとしてそばにいることはできないだろうから。
(わたしは恩さんを支え続けることはできない。だからせめて、この身に代えても、恩さんの未来を守りたかったのに……)
「……うれしいと、思うのは……浅ましい、ですよね……」
カーレンの言葉を、フィアーナは黙って聞く。
「約束を破って、突き放しておきながら……自分は、追ってきてくれたことに喜びを感じています……
会わない覚悟をしておきながら……っ、近くにいることを知って、会いたいと思ってしまう……」
恩や依織は、自分で決めたことを貫こうと前に進んでいる。それに比べて、自分は。
「自分で決めたことすら満足にこなせないわたしは……っ、やっぱり恩さんには釣り合いません……っ」
支えたいと思った。そっと寄り添える存在でありたいと。
涙を流すなら、その涙を拭いてあげたい。
笑みを零すのなら、その笑顔を見守っていたい。
悩んでいるのなら、その悩みを聞いてあげたい。
優しいあなたを、ただ愛していたい。たとえ、そばにいられなくなっても。
恩への想いが、とめどなく溢れてくる。
フィアーナはくすっと微笑み、カーレンをそっと抱きしめた。
「カーレン、そんなに自分を卑下しないで。
身を投げ打ってでも誰かのために何かをしたいという気持ちは、けして悪いことではないわ。大切に想う相手であればなおさら」
悪いことなんかじゃない。それだけ、彼を深く愛しているということ。
「恋をするとね、時々がむしゃらになるの。汚いと思える感情を抱くこともあるわ。
でもね、それが恋なのよ。苦しくて、切なくて、あたたかくて、時には醜いけれど、美しく、素晴らしいものよ」
心に沁み渡る言葉。カーレンは胸に刻み込むように、小さな声でフィアーナの言葉を反芻した。
「愛情の形はひとそれぞれで、貴女があの子のために別れを選んだとしても、それもまた一つの愛情の形よ。それが貴女の愛し方なのだから」
「わたしの、愛情の形……」
「あの子のためにも、貴女自身のためにも、貴女はここで命を落としてはいけないわ。
私がここに来たのは、貴女の代わりにオルヴィスの封印を結び直すため。だから貴女はあの子のところに帰りなさい」
「ですが、わたしの代わりに楔になったら、お姉様が……っ」
「大丈夫よ。私も愛するひとがいるの。どんなことがあっても、あのひとのもとへ帰るわ」
フィアーナはカーレンの背中を押し、入口の方へ追いやった。カーレンはためらいつつも、封印の間から出て行った。
「カーレン、貴女はあの子のそばにいてあげて。心配しなくても、あの子はきっと貴女を選ぶわ。……そう、決まっているみたいだから」
恩はカーレンを選ぶ。それが創造神のプロット。
恩本人の気持ちがどこに向いていても、関係ない。それはすべて塗り替えられていく。
カーレンが彼のことをどれだけ想っているのかも分かったから、自分にはもう何も言えない。
二人が想い合うことが宿命なら、従うしかないのだ。