第55話 女神と悪魔
恩は話をするため、塔の中へ案内された。
螺旋階段で最上階まで上ると、小ぢんまりとした部屋があった。
テーブルとキッチンらしきところ、大きなベッドと、薬瓶や本や花瓶などが置かれた棚。殺風景な部屋だ。
「そこに座ってちょうだい。デュオ、何か飲み物を。あ、人間でも飲めるものにしてちょうだいね」
「分かった」
銀髪悪魔は少々不満げな顔だったが、素直に従った。
勧められた椅子に座ると、フィアーナもその正面の椅子に座った。
「さっきはごめんなさい。デュオは私を守ろうとしただけなの」
「いえ……えっと、あのヒトは……」
「彼はデュオニドゥルス。私だけはデュオって呼んでいるの。気づいていると思うけど、悪魔よ」
やはり。それもかなり高位の悪魔。あの高い魔力を持つゾルディシュも凌ぐほどの。
そんな悪魔がなぜ天界にいるのか。そして、なぜ女神フィアーナとともにいるのか。
昔の天界は、神界のように神族と魔族が共存していたのか?
そんなはずがない。天界と魔界は遠い昔から敵対していたはず。
「どうして悪魔が天界にいるんですか? 魔界と天界は争い続けているって……」
「天界? いいえ、ここは魔界よ」
「は?」
「魔界ドゥノサレス。ここはその外れだけどね」
にっこり笑うフィアーナ。恩は目を点にした。
(魔界!? え、なんで!? 俺、天界に行くって言ったよな? でも、だとしたらフィアーナさんはなんで……)
「本当に知らなかったんだな」
呆気にとられている恩を見て、デュオニドゥルスはようやく信用したようだ。
たぶんコンソメスープだろうと思われるスープを恩の前に置く。
「ここって……魔界なんですか?」
もしや、依織が危惧していたことが起こったのだろうか。そういえば、ジルティリードが何かしていた気がする。
魔界にフィアーナがいたのなら、天界に行っても意味がなかったわけで、結果オーライなのでよしとしよう。
「どうして女神が魔界にいるのか、不思議そうな顔しているわね。私は、デュオと一緒にいたいからここにいるの」
「……女神と悪魔が、ですか?」
雰囲気からしてこの二人は恋仲なのだろう。
しかし、女神と悪魔、敵対している種族同士でそういった関係ということはおそらく……
「許されないことよね。でも、惹かれてしまったのよ。どうしようもないほど、愛してしまったの」
肩に置かれたデュオニドゥルスの手に、そっと自分の手を重ねてデュオニドゥルスを見上げるフィアーナ。
デュオニドゥルスは優しく微笑み、フィアーナも笑い返した。
それだけで、この二人が心から愛し合っていることが伝わってきた。
敵同士でありながら、種族を越えた恋。
けれど、二人の笑顔には少しだけ哀しみも含まれている。きっと円満に成就した恋ではないのだろう。
こんな二人に、あの話をするのは酷だろうか。
フェリオスは、フィアーナの力は強大で、封印の結び直しを行っても死ぬことはないかもしれないと言っていた。だが、それはあくまでも予測だ。
(もしかしたら、フィアーナさんでも命を落とすかもしれないのに……)
今になって、過去に来たことは間違いだったのではないかと思い始めていた。
だが、視えた未来は確かに今だ。
「私たちのことより、貴方のことを聞かせて。私にお願いがあるんでしょう?」
「! えっと……」
言っていいのだろうか。カーレンを救うためとはいえ、結局、誰かを犠牲にすることに変わりはないと、冷静になった自分が歯止めをかける。
言いよどんでいる恩に、フィアーナはカーレンとよく似た笑みを浮かべた。
「どんなことでもいいわ。私の力が必要なら、できる限り協力する。それで誰かを救えるなら、なおさら」
恩は胸が詰まる思いだった。彼女の凛とした瞳は揺るがない。なんて強い心だろう。
「……あなたの力が、必要なんです。お願いします。カーレンを、助けて下さい!」
立ち上がって頭を下げると、フィアーナは静かな声で言った。
「さっき、オルヴィスと言ったわよね」
「!」
デュオニドゥルスの顔色が変わる。フィアーナは心配ないとでも言うように、デュオニドゥルスの手を握る。
「封印のことも言っていたし、オルヴィスというのは魔帝オルヴィスのことで間違いないのよね?」
「はい。実は俺……未来から来たんです」
「未来だと?」
デュオニドゥルスが眉を顰める。
「未来の天界では、オルヴィスの封印が解けかかっているんです。このままだとオルヴィスが復活してしまう。
それを阻止するために、カーレンが……俺の時代の封印の巫女が、楔になろうとしているんです。でも、俺はカーレンを楔にはしたくないんです!」
「貴方はその子のことが、好きなのね」
はっきりと気持ちを当てられ、恩は真っ赤になった。
意識しているとはいえ、他人から言われると照れてしまう。
「そうね。愛するひとは失いたくないわよね」
フィアーナは目を伏せ、しばらく黙った後、口を開いた。
「分かったわ。私が彼女の代わりに封印を結び直します」
「フィア!」
「デュオ……私だって封印の巫女なのよ」
「だが、それは今の話だ! 未来のことなどお前には関係ない!」
怒りに震えるデュオニドゥルス。フィアーナは恩に「少し、二人で話させてちょうだい」と苦笑を向けた。
二人が話す間、恩は塔の外で待つことにした。
フィアーナは承諾してくれるようだが、デュオニドゥルスは納得がいかないだろう。
何せ悪魔であるデュオニドゥルスにとって、オルヴィスは尊敬すべき王。復活させる方が望ましいのかもしれない。
それに、フィアーナが楔になるということは、命を落とす恐れがある。デュオニドゥルスにすれば、悪いことだらけだ。
(大丈夫かな……)
恩は不安な面持ちで二人を待った。
恩が部屋を出た後、デュオニドゥルスはフィアーナを後ろから抱きしめた。
「あの子供の話を真に受けるのか」
「ええ、信じるわ。あの子の目は嘘をついていなかった」
「…………なぜ、フィアがやらなければいけない」
「私が封印の巫女だから」
「そうだとしても、フィアが未来のために力を尽くす必要はない」
「……デュオ」
フィアーナはデュオニドゥルスの腕をほどいて、デュオニドゥルスの頬を両手で包み込んだ。
「時代なんて関係ないの。私が封印の巫女である以上、封印が解けるのなら楔として、封印を結び直さなくてはいけないのよ」
「……」
堪えるように顔を歪ませ、デュオニドゥルスはフィアーナの手に自分の手を重ねた。
「私もできることなら、あの方を解放して差し上げたい。だって、あの方は貴方の……」
最後まで言う前に、デュオニドゥルスが唇を重ねてきた。フィアーナは目を閉じ、デュオニドゥルスに応える。
デュオニドゥルスは唇を離すと、もう一度フィアーナを抱きしめた。
「フィアを失いたくないんだ。やっと手に入れたのに、こんなことで君を失いたくない。
あの方が封じ直されるより、フィアの身に危険が迫ることの方が、嫌なんだ」
フィアーナはうれしそうに笑った。愛されている実感。でも。
「きっとこれは私の宿命なのよ。あの子が私のもとへ来たことが何よりの証拠」
「! まさかあの子供は……」
「ええ。宿命を紡ぐ者よ。だから私は行かなければいけない。この先どんなことが起こるのだとしても」
「フィア……っ」
デュオニドゥルスは強くフィアーナを抱きしめた。
このぬくもりがこのまま消えてしまわぬように。
しばらく経って、フィアーナが塔から出てきた。
「待たせてごめんなさい」
「フィアーナさん……あの、大丈夫なんですか?」
彼の方は。皆まで言う前に、フィアーナが人差し指を恩の口元に当てる仕草をする。
ふわりと良い香りが鼻をくすぐり、恩はどきっとした。
「ええ、私は私のするべきことをするだけよ。さあ、行きましょう」
「は、はい」
不安はあるが、フィアーナが大丈夫だと言うのだから大丈夫なのだろう。
恩が時空廻廊への道を開き、二人はその場から掻き消えた。
助けてみせる。カーレンを、そしてフィアーナも無事に帰そう。
フィアーナを連れ、再び時空神の神殿を訪れる。
少し疲れた顔の依織が、ジルティリードに支えられ、笑って出迎えてくれた。
「おかえりなさいです、めーちゃん」
「ただいま。顔色良くないね。ごめん、無理言って」
表情を曇らせ、依織の頬に触れると、うっすらと汗ばんでいた。若干、呼吸も荒い。
「大丈夫なのです。……封印の巫女さんは、連れてこられたのですね」
依織が顔を向けると、フィアーナは微笑んだ。その表情は、どことなくカーレンに似ている。
恩の手をそっとのけると、依織はにっこり笑った。
「それでは、めーちゃんの元いた時代へ送るですよ」
依織は重い足取りで三つの扉の前に立ち、時空の扉を開く真言を唱える。
元の時代に帰り、カーレンの代わりにフィアーナに魔帝の封印を結び直してもらう。
そうすれば、カーレンが死ぬことはなくなる。
自分は選んだ。彼女を生かす道を。
彼女と一緒に、これから先も生きていきたいと思ったから。
だから、これが終わったら彼女に言おう。君が好きだと。
開かれる扉。恩はほっとして、心の中で呟いた――つもりだった。
「よかった。これでカーレンを助けられる」
その言葉に、全力で時空を制御していた依織は、目を見開いた。
助けたいヒトって、まさか。
(あんなに必死になっていたのは、レンちゃんのため?)
どうしてもと言うから、怖くても、つらくても頑張ろうと思ったのに。
恩のために、自分のできる限りのことをしようと。それなのに。
(めーちゃんは、レンちゃんのことしか考えてなかったですか?)
じわりと涙が出そうになる。
いつだって、彼が頑張るのは自分以外の誰かのため。あの時も。
その動揺が、集中力を乱した。時空が大きく揺らぐ。ジルティリードが叫んだ。
「依織! 力を弱めるな!!」
声に気づいた時には遅かった。時空がうねり、光が明滅する。突然の事態に、フィアーナも困惑した。
「きゃっ、何!?」
「うわぁっ!」
光の中に半分入った恩の腕が、消えたり捻じれたりする。
そう見えるだけだが、引っ張られるような、重いような、妙な感覚が腕を通して全身に伝わる。
「めーちゃんっ!!」
金切り声をあげる依織。乱れの奔流は、もはや自分の力では制御しきれない。
このままでは時空の乱れに引き込まれ、恩の体がバラバラになってしまう。
緊急事態に、ジルティリードが全神力を解放し、時空の乱れを制御する。
「ジルさま!」
ジルティリードのおかげで、時空の乱れは収まってきた。恩の体も無事だ。
しかし、ジルティリードは限界だった。
「ジルティリード様、助か……」
恩が振り返ると、ジルティリードの体が傾いでいった。
もう、自分の体を支えることすらできない。
「ジルさまっ!」
依織の悲痛な声が、耳に刺さる。
依織がジルティリードに駆け寄った。
一度回復した彼の神力は、すっからかんになっていた。
神族の神力は生命力そのもの。彼の命が、終わる。
「ジルさまっ、ジルさまっ! しっかりして下さいです! 早く休んで……」
かろうじて片膝をついていたジルティリードは、弱々しく首を横に振り、依織の腕を掴んだ。その手は冷たい。
「宿命を紡ぐ者よ……早く、行け……」
「ジルティリード様……でも」
依織に目を向ける。彼女は震えながら泣いていた。ズキン、と胸が痛む。
俺のせい? 依織に無茶をさせたから。ズキズキと胸が痛む。そして叫んでいる。
依織を放っておくのか? あんなに傷つけておいて。
謝らないと。その肩を抱きしめてあげたい。
恩が戻ろうと踵を返すと、また“声”が聞こえた。
――今、お前がすべきことは、そんなことではない――
刹那、恩の意識が遠のく。フィアーナが恩の変化に気づいた。
ジルティリードもその機会を見逃すことなく、重い体を動かして恩に近づいた。
恩が意識を取り戻した時には、ジルティリードは恩の目の前に立っていた。
「ジルティリード……様?」
目を丸くする恩の体を、ジルティリードはトン、と押した。
予想外の行動に、恩はバランスを取ることが出来ずに、光の中へ倒れるように消えた。
ジルティリードが、フィアーナを一瞥する。目が合うと、フィアーナは笑みを浮かべ、深々と一礼した。
出会えた喜びと、感謝と、餞別を込めて。
フィアーナも光の中へ消えると、ジルティリードは今度こそ倒れた。扉の光が収束していく。
ジルティリードの体が透き通り、光の粒になっていく。
「……っジルさま! ごめんなさいです、イオがちゃんと制御できなかったから!」
ジルティリードはそっと依織の頬に触れ、流れる涙をぬぐってやった。
「そなたの、せいではない。これもまた、宿命……プロットの通り故」
「! プロット……?」
創造神が作った一つのプロット。特定の人物たちを使い、あらかじめ流れを定めた一つの物語。
プロット通りに特定の人物――フェイトパースを導き、宿命を紡いでいくために、創造神に創られたのが恩だ。
「ジルさまがこうなることは、プロットで決まってたことなのですか? どうすることもできないのですか?」
「宿命は覆らぬ」
「でもっ……前はこんなことにはならなかったです! お別れはもっと先だったですよっ」
前の歴史では。依織が涙交じりに言うと、ジルティリードは長く息を吐いた。
「宿命を紡ぐ者の選択が変われば、未来も変わる……必ずしも同じ未来を辿るとは、限らぬ……」
前ジルティリードがどう生きたのかを自分は知らない。
依織が少しだけ話してはくれたが、同姓同名の他人の話を聞いているようなもので、あまり興味は湧かなかった。
だから自分がこうなることを、ジルティリード本人は受け入れているが、依織にとっては受け入れがたいのだろう。
「ジルさまの寿命はまだあるはずなのです。こんなとこで……こんな形では、なかったです……」
代替わりはしたが、死ぬことはなかった。こんな急な別れではなかった。
「! 宿命を紡ぐ者のめーちゃんなら、宿命を変えることもできるですよね!? めーちゃんに言って、こうならない道を……」
「無理だ。すでに選ばれた道は、変えることは不可能……宿命を選べるのは、宿命の刻のみ……」
依織の提案を、ジルティリードははっきりと否定する。
恩は宿命の刻に、宿命を選択することが出来る。
それによって、プロットが進み、紡がれていく。
恩の選んだ道筋が、フェイトパースの運命を決めるのだ。
すでに今回の宿命の刻は過ぎた。
たとえ宿命を紡ぐ者でも、一度選んでしまったらやり直せない。
もう逃れることはできないと悟った依織の表情が、くしゃりと歪む。
「……イヤです……ジルさまがいなくなったら……イオはひとりぼっちなのです……っ」
ジルティリードは思いがけない言葉に、目を瞠った。
「眠っていてもいいです。お話してくれなくてもいいです。
ずっとそばにいてくれるなら……イオは異質な存在のままでもよかったです!」
輪郭すらおぼろげで、触れているはずの手も、感覚がほとんどない。
それでも、一緒に生きていてくれるなら構わなかったのに。