第54話 原初の巫女
暗い封印の間。ここに魔帝オルヴィスが封じられている。
オルヴィスは封印の水晶の中で、怨みと、怒りと、憎しみと、悲しみを顔ににじませている。
リアウィスと瓜二つの面立ち。金髪ウェーブのリアウィスとは対照的な、銀色のストレートな髪。
堕天したせいなのか、背中にあったはずの翼は無い。
その水晶の前で、カーレンは跪き、手を組んで祈りの真言を唱えていた。両脇には神炎を宿した燭台。
ここにはカーレンただ一人。薄暗い闇と静寂の中で、カーレンは祈りを捧げ続ける。その中で、ふと脳裏をよぎる。
赤い髪と瞳の少年。その笑顔、そのまなざし、その声、その仕草。
彼との思い出が時々思い起こされて、真言が途切れそうになるのを、カーレンは必死に繋ぎ止める。
(恩さん……ごめんなさい。何も言えなくて。でも、わたしが楔になることで、あなたの世界を守れるのなら、わたしは……)
たとえ命を落としても、大切なものを守りたい。
* * *
「今、カーレンはどうしてるんだ?」
「最奥の封印の間で祈りを捧げているよ」
恩の問いにフェリオスは、玉座の奥にある扉を見やる。
その扉の先は封印の間に続いており、カーレンは封印の儀式の真っ最中だ。
「祈りを終えたら、神水で禊をして、全ての神力をオルヴィスの封印に注ぎ込む。そうして楔になるんだ」
とにかく、条件を一度整理しよう。まずはカーレン一択なのか、カーレンが女神だからなのか。
「楔になるのは、女神じゃないとダメなの?」
「そうだね、オルヴィスは男神だから」
「?」
ラグニールが持ち帰ったお土産を開けると、マカロンの詰め合わせだった。フェリオスはマカロンの一つを恩に差し出す。
「そもそもの封印というのは、封印対象と同等か、それ以上の陰陽の気を持つ者の神力や魔力で気を抑えることなんだ」
「え、そうなんだ」
強い力を持って封じるものなのかと。ああでも、小さい頃に気がなんだとかどうだとか家族に教わったような?
「だから、陰を司る女相手には陽を司る男が、陽を司る男には陰を司る女が封じると、より強固になる。
まあ、必ずしも男女でなければいけないわけではないよ。相手より強い陰か陽の気を持っているなら、同性でも構わない」
「オルヴィスは陽の男神だから、陰の女神が都合がいいってことか。
じゃあ、オルヴィスより強い陰の気を持っていれば誰でもいいんじゃない?」
「なおかつ、オルヴィスと同等かそれ以上の神力を持っていれば、ね。その条件を満たしていたのが……」
「カーレンだけだった、ってことなんだよね。……そんなにカーレンの神力って強いの?」
あまりそんなイメージがないのだが。
というより、カーレンが神力を使っているところなど、高科FWへ飛んでいったり、仕事の時にちょっと使っているところくらいで、ほんの数回しか見たことがない。
「使ったことがほとんどないからねぇ。カーレンが本気で神力を放出すれば、人間界の生き物すべてを、一時的に眠りにつかせるくらいはできるんじゃないかな」
「えっ、そんなことできるのか」
「やったことはないけれどね。わぁ、このマカロン美味しいなぁ」
リアウィスがテーブルとお茶を用意してくれたので、すっかりほのぼのティーパーティー状態だ。さっきまでの緊迫状態はどこへやら。
ラグニールも当然のように一緒になってマカロンを食べているし、フェリオスに勧められて、リュミオンも渋々お相伴にあずかっている。
「楔になるには、その……自分の命を使うしか方法はないのか?」
「カーレンの神力では、すべての神力を注ぎ込むことになるからね。神力を使い果たせば死ぬ。僕たち神族にとって、神力は生命力そのものだから」
「オルヴィスより強い神力と陰の気を持っている者……できれば女神が好ましい。うーん……神界なら、その条件に当てはまってる神はたくさんいそうなんだけど?」
「いるだろうね。でも、神界の神々は非協力的だから。というより、無関心なんだよ。
彼らにとって、ここや人間界は娯楽の世界。眺めているだけだから楽しいのであって、そこに住む者たちが危機に瀕していても、むしろ面白いと感じる」
「……やっぱり、そういうものなんだ」
「例えば、生放送中の番組を見ている途中で、その現場で立てこもり事件が起きた。
その犯人を取り押さえるためには、誰かが死ななくてはいけないとする。その死ぬ役に自分が立候補しに行くか、ということだよ」
「……例えは分かりやすいけど……とどのつまり、期待できないってことだよな」
やけに人間界事情に詳しい物言いだ。
神族は食事をとらなくても平気なのに、わざわざ人間界の食べ物を食しているあたり、フェリオスは人間界が好きなのだろう。
「そういうこと。天界は人間界を守るためにある。だから、天界に属する僕たちクリソプレズ一族は人間を守る。けれど、ミオウディの神々は傍観者だからね」
舞台上でトラブルがあっても、観客は見ているだけ。むしろ、トラブルさえも愉しみの一つだろう。
「ふん。今のこの世界に、カーレン以外に楔になれる者などいないのだ。……原初の巫女ならともかくな」
苦々しげにリュミオンが吐き捨てた一言が、恩の胸に引っかかった。
「原初の巫女?」
「カーレンの前に巫女として選ばれていた女神のことだよ。
でも、彼女が存命中には封印が解けかかることはなかったから、彼女は楔になることはなかったんだけど」
口ぶりから、その原初の巫女はここにはもういない。だが、過去にはいた。
「その原初の巫女は、カーレンと同じくらいの力を持っていたんだよね?」
「いや、カーレン以上だよ。それこそ前天帝セイディオルに匹敵するほどの神力の持ち主だったから。
彼女ならあるいは、命を落とすことなく封印を結び直せたかもしれないけど」
女神。もしやさっき視えた未来の女神が……
恩は身を乗り出した。
「――なら、その原初の巫女に頼んでみようよ」
「え?」
フェリオスはきょとんとし、リアウィスは目を瞬かせた。リュミオンが顔をしかめて腰を浮かせる。
「原初の巫女はもういない。それでどうしろと……っ」
「昔はいたんですよね。過去に、実在した。それなら過去に戻って、彼女を連れてくればいい」
「なっ……」
今はいなくとも、過去に実在していたのなら、時空神の力で過去へ行き、原初の巫女を連れてくればいい。
この時代に楔になれる者がいないなら、他の時代から探してくればいいのだ。
「そうすれば、カーレンが楔にならなくても封印は守れる」
「だが、そんなことで……」
「それは思いつかなかったな。まさか過去に戻るなんて」
「天帝様! 今の提案を受け入れるとでも言うのですか!?」
顔色を変えるリュミオンに、フェリオスは小首を傾げて笑みを浮かべる。
「可能性があるなら、やってみる価値はあると思うよ?」
「しかし、原初の巫女は……っ」
リュミオンは何度か何かを言いかけたが、最後はフェリオスに従った。何か、これまでとは違う拒否の仕方だったけれど。
リアウィスは何か知っているのか、複雑な表情で。
ラグニールは、この話し合いの間もずっとマカロンを食べていた。
恩は過去に戻るため、時空神の神殿を訪れた。
この神殿には時空神ジルティリードが住んでいる。
しかし、依織の話では、彼の力はとても弱っていて、眠らないと存在が維持できないほどに衰弱しているらしい。
寿命というやつで、いつ消えてもおかしくない、と。そのために依織が守人として補佐しているのだそうだ。
今回もまた、ジルティリードの姿はなく、依織だけがいた。
「めーちゃん、いらっしゃいませですっ」
依織が笑顔でパタパタと走ってくる。――が。
「きゃんっ」
何もないところで、こけた。
「大丈夫?」
「はいです~」
恩が苦笑しながら手を貸すと、依織は照れ臭そうに笑って立ち上がった。
「今日はどうしたですか?」
会いに来てくれたのだろうかと、依織は淡い期待をする。
しかしそれはすぐに打ち消された。表情を引き締めた恩が言う。
「依織、今すぐ俺を過去の天界に送ってほしい」
「天界……ですか? 珍しいですね」
恩が時空移動したいと言うのも初めてだが、天界へとなると、一層珍しい。
この時空神の神殿を訪れる者は滅多にいない。
ここは時空を繋ぐ場所。別の時空へ渡るにはここを介さなくてはいけないのだが、たいていは自力で時空移動ができるため、ここを訪れる必要はないのだ。
恩も時空渡りの能力を持っているが、まだ一人で時空渡りができるほどの力がない。
「うん、オルヴィスの……魔帝の封印が解けかかっていて、封印の結び直しをするために、封印の巫女を探しに行きたいんだ」
そう言うと、依織は目を瞠った。ついにこの時が来てしまったのかと、唇を噛む。
(魔帝の封印……やっぱり、この時を迎えるのですね。この封印の結び直しがきっかけで、レンちゃんが……)
どうなるのかを知っている。いや、もしかしたら今度は違うかもしれない。
宿命の刻の選択肢は宿命を紡ぐ者しか知らないので、どんな選択肢があったのかは自分には分からない。
けれど、知っている未来がある。この時を迎えた後の恩を。
(また、繰り返してしまうのですかね? それとも……)
恩には自分の過去を明かした。けれど、全てではない。
話していないこと、それは一生、胸に秘めておくかもしれない。
この世界の彼に話しても、意味のないことだから。
「魔帝……魔界の王様ですよね。それは大変なのですっ」
ジルティリードから聞いている。現在の魔帝はゼルグの欠片でもあり、封印されていて、もし復活すれば人類の脅威となるだろうと。
「一刻も早く行きたいんだ。頼む、依織の力が必要なんだ!」
恩の切羽詰まった表情に、依織はどきんとした。
必要とされている。それはとてもうれしい。けれど。
「めーちゃんを送ってあげたいのはやまやまですけど……イオには少し難しいのです」
「どうして?」
宿命を紡ぐ者の存在は、時に時空に影響を及ぼす。
成長途中とはいえ、彼を時空移動させるとなると、時空の乱れを制御する必要がある。
自分は未熟で、力が弱い。だから、時空の扉を開くことはできても、時空の乱れを制御しきれるかどうか分からない。
以前はジルティリードがやってくれていたことだが、今は彼にそうするほどの力がない。
依織が不安げに説明すると、恩はためらうそぶりを見せた。
「何があるか分からないってこと……? そんな……」
それじゃあどうすればいい? 過去へ行って、原初の巫女を連れてくることが、今、思いつく限りの策だ。
時空移動ができなければ、カーレンを助けられない。
「それくらい、どうにかできないのか?」
困惑で責めるような言い方になってしまったせいか、依織はびくっと体を震わせた。
「ご、ごめんなさいです……」
困ったような、怯えるような依織に、恩はハッとした。
(何やってるんだ、依織を怖がらせるなんて……焦ってるとはいえ、俺のバカ!)
気持ちが急く。こうしている間にもカーレンは封印の儀式を始めてしまうかもしれないのに。
(時空移動はしたい。でも、そのために依織に無茶をさせたくない……依織だって、不安なのに)
カーレンを助けたい気持ちと、依織を困らせたくない気持ちがない交ぜになる。
「依織を責めてるわけじゃないんだ。俺はただ……」
言葉を濁す。依織は俯いた。
「イオはめーちゃんが心配なのです。めーちゃんに何かあったら、イオは悲しくなるです」
とくん、と心が動く。俯く依織を抱きしめたい衝動に駆られて、恩は依織に手を伸ばしかけたが……
――その感情は捨てろ――
魂の奥で何かが呼びかけてきて、ふっと意識が遠のいた。
ほんの刹那の出来事。恩は何事もなかったように、依織の両手を取った。
「どうしても過去の天界に行きたい。助けたいヒトがいるんだ。依織だけが頼りなんだよ」
「めーちゃん……」
手を握られ、依織は顔を赤らめた。真剣なまなざし。依織はややあって、不安げだが笑顔で頷いた。
「わかったのです。やってみるですよ」
「ありがとう、依織」
無理は承知の上だ。それでも、カーレンを助けたい。一番大事なのはカーレンだ。
そうあるべきだと、遠くで“声”が聞こえるから。
依織は静々と時空の扉へ歩いて行った。
様々な自然物のレリーフが施され、一つの絵になっている銀色の三つの扉。
一番右の扉の前で、時空の杖を掲げる。
「時空の扉よ、呼応せよ」
扉が銀色に発光する。そこへ、ジルティリードが音もなく現れ、扉に手を当てると、神力を発した。
「ジルさま?」
「構わず続けろ」
「は、はいです。時空神ジルティリードの名において、我、今ここに、時空の扉を開け放たん」
光が強まり、扉が開く。依織が乱れを制御しながら、目で入っていいと促す。
恩は「ありがとう」と返し、光の中へと歩いていった。
依織はジルティリードに尋ねた。
「あの、今、何をしたですか?」
「あれは過去の封印の巫女の元へ向かったのであろう?
過去へ行き、何処にいるともしれぬ巫女を探すのでは手間だろう。故に、直接その者のいる場所へ送った」
「そんなこともできるですか……あ、でも、そんなことをして大丈夫なのですか? ジルさま。体は……」
「問題ない。この程度ができるまでには回復している」
「よかったです」
依織はほっとした。あとは恩が無事に帰ることを祈るだけだ。
恩は見知らぬ場所に立っていた。森のようだが、ここが過去の天界だろうか?
その割にはなんだか薄暗いし、涼しい。
今までいた天界は暖かく、春のような陽気だった。
「昔はこんな感じだったのかな? さてと、原初の巫女はどこだろう。
リュミオン様が確か……桜色の長い髪の女神で、カーレンに似てるって言ってたけど」
名前はフィアーナ。リュミオンの双子の妹、だったらしい。
(リュミオン様はカーレン以外にも妹がいたんだなー。しかも双子かぁ。どんな女神なんだろう)
双子だというし、リュミオンのような厳格な女神か。それとも、顔が似ているというのでカーレンのような大人しい女神か。
森からはすぐに出られた。それでも陽の光はなく、まるで曇り空だ。
そこは丘の上のようで、眼下にはそびえ立つ黒い塔。
「どこに行けばいいんだろう。……ん? あの塔……」
なぜか惹かれた。恩は長い草を掻き分けて丘を下る。
塔は十階建てのマンションと同じくらいの高さだった。
大理石のように見えるが、ここが天界なら材質は詳しく分からない。
「ほあー。なんか綺麗だな……」
ほとんど突起はなくシンプルで、まっすぐ天へと伸びる塔。窓も上の方にしか見えない。塔のすぐそばには小川と小さな花畑がある。
その花畑に人影があった。周囲の景色には少し不釣り合いな、ピンクのドレスと二対の翼。地面につきそうなほど長い桜色の髪。
(あれ? あのヒト、もしかして……)
恩が慎重に近づいていくと、相手が振り返る。恩は目を瞠った。
面差しがどことなくカーレンに似ている。ならば彼女が……
「フィアーナ、さん?」
「……どなた?」
女神は小首を傾げ、不思議そうに問うた。
「あのっ、俺は恩って言います。人間界から来たんですけど……あなたが封印の巫女なんですよね?」
「あら、人間なのに封印の巫女のことを知っているなんて、不思議な子ね」
フィアーナはくすりと笑った。
「ええ、そうよ。私は封印の楔になるための巫女。それがどうかしたの?」
「だったら力になってもらえませんか!?」
「え?」
「今、オルヴィスの封印が……」
説明をしようとした時、ざわりと殺気を感じた。
とっさに横へ飛び退くと、恩がいたところに火の玉が落ちてきた。
恩が空を見上げると、マントを着た長い銀髪の男性が恩を睨みつけていた。
「ちっ。あれを避けるとはなかなかやるな」
「デュオ!」
フィアーナが呼ぶと、男性はフィアーナの前に降り立ち、背にかばう。
「下がっていろ、フィア。お前は何者だ? 見かけない顔だが」
恩は驚いていた。この男性から感じるもの。それは魔力。つまりこの男性は魔族だ。
神界ならいざ知らず、ここが天界ならなぜ魔族がいるのか。
「俺はフィアーナさんに用があるだけだ」
「フィアを知っている? まさか、メイプルローゼの差し金か!」
「メイプルローゼ……って、ここがそうなんじゃないのか?」
「しらばっくれるな!」
声を荒げる銀髪悪魔の言葉に引っ掛かりを感じたが、殺気に危険を感じ、恩もケイオスフォズマを顕現させて戦闘態勢を取る。
「待って!」
フィアーナが銀髪悪魔の髪を思いっきり引っ張る。
「いっ!」
銀髪悪魔は呻いてのけぞった。
「フィア、痛いぞ……」
「この子は何も知らないと思うわ」
髪を放し、フィアーナは恩に笑いかけた。
「詳しく話を聞かせてもらえないかしら?」