第52話 天界と魔界の因縁
「さあ、着いたぞ」
リアウィスが翼を広げると、穏やかなそよ風が恩の頬を撫でた。
恩は目の前に広がる光景に目を奪われた。
人間界では見たことのない花が一面に咲いている花畑。そこに自分たちは立っている。
前方に見えるのは、様々な形の四阿が点在する広場。
そこにはリアウィスのように二対の翼を持つ者や、幼児程度の大きさの天使たちがいた。
軽やかな音楽が流れ、落ち着く芳香が漂ってくる。
柔らかな光に包まれているが、太陽があるわけではない。
淡い桜色の空は、時々揺らめいて、緑や水色、黄色など様々な色に変化する。
なんて神秘的な光景だろう。まるで夢のようだ。
澄んだ空気と風。自分は今、本当に天界にいるのだと実感した。
「ようこそ、天界メイプルローゼへ」
「すっ、すごい……っ。綺麗だなぁ。ここがカーレンの生まれ故郷なんですね」
「生身の人間がメイプルローゼに来るのは彼女以来だな」
「彼女? 他にも、ここに来たことある人間が?」
問うと、リアウィスは少しだけ哀しそうに微笑んだ。
「何千年も前の話だがね」
「おーい、リア~!」
頭上から声が降ってきて、二人は空を仰ぎ見た。降りてきたのは淡いオレンジ色の髪の男神。
外見は二十二、三歳といったところだろうか。リアウィスよりも長身で逞しい体躯。
だが、表情は子供のようにまぶしい笑顔だ。
「やーっと見つけたぜ。花合わせやる約束だったろ。菓子もたーっぷり用意したっていうのに、一体全体どこに……お?」
ぽかんと見上げている恩に気づくと、男神は顎に手をやってまじまじと見つめた。
「おお? おおおー? なあ、リア! この子もしかして人間か? 人間だよな!」
「その通りだよ、ラグニール」
「へーっ、人間界ではよく見かけるけど、メイプルローゼで見るのは初めてだなぁ!」
面白いものを見つけた子供のようにはしゃぐ男神。外見のわりに子供っぽい。
「あんた、名前は?」
「え、あ、恩……です」
「メグムか……じゃあメグだな! メグ! オレと一緒に花合わせしないか?」
「は、花合わせ?」
「こらこら、ラグニール。恩は私の客だ。それに約束のことだが、違えることになりそうだ。すまない」
やんわりとリアウィスが制止する。ラグニールのペースに流されそうになっていた恩はハッとした。ラグニール恐るべし。
強引ではないが、なんとなく無下にできない雰囲気を持っている。彼の子供のような無邪気さのせいだろうか。
「えー、そうなのか? 残念だ」
がっくり肩を落とすさまも、なんだかかわいらしい。表情や態度がはっきりしていて、けれど嫌味ではない。こういう神もいるんだな。
「でも、なんで人間がメイプルローゼにいるんだ?」
「今、カーレンが戻ってきているのだ。彼女に会うために、恩は来たのだよ」
「えっ、レン見つかったのか? よかったなぁ。やっぱりフェリーの言うとおり、人間界に行ってたんだな!
オレもさっき帰ってきたんだけど、人間界のお土産とかあるかな?」
「ラグニール、カーレンが戻ってきたのは、役目を全うするためだ」
リアウィスが告げると、ラグニールはきょとんとした後、ばつが悪そうにがしがしと頭を掻いた。
「あー……そっか、そういうことか。なんだ、じゃあお土産は期待できないか」
なぜ、そんなに土産にこだわる?
彼もカーレンの役目のことを知っているようだ。どうも明るい事情ではなさそうで、不安になる。
恩の表情に気づいたリアウィスはため息をつき、笑みを浮かべた。それでも心なしか表情が暗い。
「その理由を……真実を知るために、恩はここに来たのだよ。さあ、宮殿へ行こう」
「おっ、宮殿に行くなら、オレも一緒に行っていいか? フェリーに土産渡したいし」
「ああ、構わないが、それならば恩を運んでくれないか」
ふわりと宙に浮くリアウィス。ラグニールは「いいぜー」と笑って、ひょいっと恩を抱き上げる。突然、目線が高くなって驚いた。
「うわっ! 高い……重くないですか? ラグニール様!」
「ぜーんぜん! 行っくぞー!」
飛び立つラグニール。結構スピードがあってちょっと怖い。
「ひえぇ~っ」
「気持ちいいだろー。もっと高く飛んでやろうか?」
「けけ結構です! 今でも充分高いですから!」
「そうかぁ?」
これ以上は勘弁してもらいたい。ジェットコースターよりもスリル満点だ。
「ラ、ラグニール様も天帝の斂子なんですか?」
「おう! レンはオレの妹だ! なあ、メグ。様って言うのはやめてくれよ。敬語もいらないし、オレのことはラグでいいぞー」
「ええっ? そんな恐れ多い……」
「なんでだ? オレは別に偉くもなんともないんだぞ」
きょとんとするラグニール。恩は困り顔で首を傾げる。
「だって神族ですし、天帝の子供なら身分もそれなりに高いんじゃ……」
「んー、天帝は偉いかもしれないけどな、オレ自身は偉くない。
それに、神族だとか人間だとか関係ないぞ。オレたちは友達なんだから!」
「へ?」
いつ友達に? 目を点にする恩。傍らではリアウィスがくすくすと笑っている。
「メグはレンの友達なんだろ? だったらオレの友達でもある! 妹の友達はオレの友達だ!」
そんな満面の笑みを向けられても。なんだろう、この『お前の物も俺の物』発言は。
神族というのは、マイペースというか我の強いヒトが多いのだろうか?
それに、友達、というのはいささかショックである。
(そうだよなー、きっとカーレンにしてみれば俺ってそんな存在なんだろうし……)
脱力する恩。しかし、楽しそうなラグニールに水を差すことはできなかった。
このほえほえ感は、間違いなくカーレンに通じる。やはり兄妹なんだなぁ。
早く会いたい。君に。
二人が降り立ったのは光り輝く荘厳な宮殿の前だった。
純白で傷も汚れもなく、清廉な空気が漂う。
この清廉さは時空神ジルティリードが住まう時空神の神殿と似ている。
神格が高ければ高いほど、神気が強まるためだろう。
あまりの神々しさに、恩は宮殿を見上げたまま唖然として動けない。
「ここが天帝のおわす場所。天帝宮殿。今はカーレンもここにいる」
「普段はあまり来ないんだけどな。フェリーに会う時くらいかぁ?」
「リュミオンは頻繁に通っているがね」
「リュミはフェリーが大好きだからなー! あ、リュミと言えばさ、さっき見かけた時、リュミの顔の皺がいつもより増えて……」
「誤解を招く言い方はやめてもらおうか」
低い声がして、恩がラグニールの後ろを覗き込むと、リュミオンが怒りの表情で立っていた。
「おー、リュミ! ほら、やっぱり皺増えてるぞー」
ラグニールがリュミオンの眉間をつつきながら言う。
どうやら彼の言っていた顔の皺とは眉間の皺のことらしい。
確かにそこも顔の一部ではあるが、少々、語弊がある。
「元々だ。お前のそういう幼稚で愚直なところが私は嫌いなんだ。こんなのが私の兄とは情けない」
「えっ、兄!? こっちが!?」
「む? この声は……小僧!? なぜメイプルローゼにいる!」
ラグニールの陰で見えていなかったらしい。
二メートル越えのラグニールと、百六十そこそこの恩では仕方がないかもしれないが。
「……カーレンに会いに来たんですけど……」
「妹に会いに来た、だと? そのようなこと出来ると思っているのか? あれがこれから何をすると……!」
「――リュミオン。その話はこれからするのだよ」
ラグニールの時よりも強い語気で制するリアウィス。
リュミオンは察したのか、歯噛みをして顔を逸らした。
「無知とはまったくもって愚かしいことだな」
そう吐き捨てると、リュミオンは宮殿の中に入って行ってしまった。
あのリュミオンさえも動揺させるとは、カーレンの役目とは一体なんなのか。
リアウィスに促されて宮殿内に入る。その道すがら、リアウィスは少しずつ説明をしてくれた。
「まずは六界の話をしよう。この件に関わっていることゆえ。
この次元には、六つの世界が存在することは知っているかい?」
「はい、確かここ天界と、人間界、魔界、神界……あと……」
あまり聞き慣れない言葉なので、恩は詰まった。リアウィスはくすりと優しく微笑んで後を引き継いだ。
「魔法界と冥界だ。我々の言葉では、天界はアルトテラス、神界をロジィーテラス、魔法界をジルテラス、魔界をニルズテラス、冥界をヴィソールテラス、お前たちの住む人間界はマーティンテラスと呼ぶがね」
「それって神魔語、ですよね?」
人間界以外で使われている共通言語。六界のうち、五つの世界で使われているということは、人間の言葉の方が珍しいということか。
「ああ、その通りだ。そして、各世界には名前が存在する。天界はメイプルローゼ、神界はミオウディ、魔法界がテュレーゼ、魔界がドゥノサレス、冥界はパッデモ、そして人間界は二つの惑星の形をしているリーフェとシェーシア、二つを合わせてエデンと呼んでいる」
「エデン……」
本来なら知りえない情報だ。六界があることすら、普通の人間なら知らない。
あくまでも創作上で天界や魔界があると認識しているが、実在する上に、死者が辿り着くとされている天界は、実は死者の園ではなく、そう言えるのは冥界。
さらに創作上のものとされている魔法も同じだ。遥か古代に魔法は実在し、正確には魔法術というらしい。
その魔法術を扱う者たちだけが住んでいる世界、魔法界があるという。
そしてその魔法術が変化して現代に残るのが異能。これらはすべてカーレンや依織から聞いた話だ。
それぞれの世界に名前があり、リーフェとシェーシアにもエデンという名がある。
(依織は宿命を紡ぐ者の仕事に関わるから、六界のことを覚えておいた方がいいって言ってたし、しっかり覚えておかないと)
ラグニールはもちろん、リアウィスも人間に比べればかなりの長身で歩幅も広いので、二人から離れないように小走りでついていきながら、恩は耳をそばだてる。
「それぞれの世界は異なる時空に存在し、よほどのことがなければ干渉することは少ない。
ただし、神界と魔界は同じ時空に存在し、基本的に共存関係にある」
それは此武の話でも分かっていた。神界に住む神族であるクロムと、魔界に住む魔族であるゾルディシュに交友関係があったことが何よりの証だ。
ただ、その友情は今では崩れてしまっているけれど。
「ミオウディは多くの神々が暮らす、荘厳で尊い場所だ。私も数えるほどしか行ったことはない」
「え!? そうなんですか!?」
神様なのに? その疑問がはっきり顔に出ていたようで、リアウィスは苦笑した。
「神と言っても、私やカーレン、このメイプルローゼに住む生命神のほとんどは、ミオウディではなくメイプルローゼで生まれ育った。
用向きがなければ、わざわざミオウディを訪れることもないのだ」
「オレなんか一度しか行ったことがないしな!」
「そういうものなんですか……」
「ミオウディをよく知っているのは現天帝のフェリオスと、我が父であり前天帝のセイディオル様くらいだろう。この二柱はミオウディ生まれゆえ」
神界も天界も、神が住む場所という点では同じだから、頻繁に神々が行き来しているものかと思っていたが、そうではないのか。
「あの……ちょっと質問いいですか?」
「なんだい?」
「神界には生命神以外の十七属の神々がいるんですよね? どうして天界には、生命神と天使しかいないんですか?」
「ふむ、そのような質問は初めてだな」
「す、すみませんっ」
聞いてはいけなかっただろうか。身をすくめる恩に、リアウィスはからりと笑った。
「いや、構わない。人間にこういった説明をするのは初めてだからな。
人間には明かすことのないことゆえ、問われたこと自体が初めてなのだ。
だが、お前は宿命を紡ぐ者だろう? 知っているべきことゆえ、その質問に答えよう」
ほっとする。逆鱗に触れでもしたら、カーレンに会わせてもらえなくなるかも。
リアウィスはいつでも笑みを絶やさないから、感情の変化が読み取りにくい。
リュミオンのように、無表情でも感情を表に出す方がある意味、気楽なのだ。
「メイプルローゼに生命神しかいないのは我々、クリソプレズ一族が創造神セイルシア様とライフィエ様から、メイプルローゼの管理を任されたからだ」
クリソプレズ一族は、カーレンの一族名だ。カーレンとリアウィスは親戚だと言っていたし、同じ一族なのは当然か。
「ミオウディとメイプルローゼは、例えるなら母屋と離れ屋だ。
母屋であるミオウディには様々な神が暮らしているが、離れ屋であるこのメイプルローゼには限られた神しかいないというわけだ」
「そういうことなんですか」
分かりやすい例えに納得すると、ラグニールがつけ加えた。
「ちなみに、パッデモの管理はクリソプレズ一族とは別の生命神が担っているんだぞ」
なるほど、生命を司る生命神だからこそ任されているのか。ということは、人間に関わることが多いのは生命神だけなのか。
人間界を守るのが天界、人間の魂を管理するのが冥界なら、神界の神々が人間界に関して何かすることは、実はないのでは?
神界にいる他の神々は普段、何をしているのだろう?
戦神であるクロムのことを思い浮かべる。彼は戦闘に明け暮れていたようだが、他の神々は会ったことがないので想像がつかない。
クロムが人間を下等生物と罵る理由が少し分かった。多くの神々にとって、人間は本当に取るに足らない存在なのだ。
虫けら扱いされたこともあったが、間違いではないのだろう。
人間はその辺にいる虫と同じで、興味がなければじっくり観察することもないし、世話をすることもない。
(話を聞いてたら、神様って人間とほとんど関わりがないんじゃないか。真実って残酷だよなぁ)
ある意味、魔族との方が関わりが深いような。身近にいる魔族と言えば、代表的なのは恠妖だ。
「ここからが本題だ。人間界では数万年も昔の話だが……我が父セイディオルは、とある人間に心惹かれた。
聡明で気立てがよく、純粋な心を持った、麗しい少女だった。彼女の名はコロン。のちに聖女と呼ばれた娘」
「聖女……コロン」
当時の天帝セイディオルは、人間界の様子を窺いながら、天使や斂子たちと仲睦まじく暮らしていた。
その中には自身も含まれている。あの頃はよかった。
愛する父やきょうだいとともにいられることが楽しくて、幸せだった。
「二人は心を通わせ、セイディオル様は彼女をメイプルローゼに迎え入れると決めた。
だが、それに異を唱えた者がいた。それが我が兄、オルヴィス。今は魔界ドゥノサレスを統べる魔帝だ」
リアウィスの言葉に、恩は瞠目した。魔帝。人間界では魔王と称される魔族の長。その魔帝がリアウィスの兄?
「……兄……ということは、生命神……ということですか?」
「ああ。魔道に堕ちたことで堕神となってしまったけれど。そしてこともあろうに、彼は魔帝として君臨した」
「なぜ、そんなことに……?」
リアウィスは悲しげに目を伏せた。長いまつげが震える。
「コロン嬢を受け入れることを拒み、オルヴィスはセイディオル様と何度となく、いさかいを続け……ついには、コロン嬢の命を奪ってしまったのだ」
「!!」
天帝と聖女の恋、それは悲劇の始まりだった。