第51話 恩の想いと決意
支えたい。だから、そばにいた。
守りたい。だから、そばにいた。
でも、このままではいけないから、離れるしかない。
あなたの悲しむ顔が見たくないから、何も言わずに行きます。
どうか、わたしのわがままを許して下さい。
あなたを傷つけることしかできなくてごめんなさい。
でも、こんなわたしにもできることがあるんです。
だからどうか、わたしのわがままを許して下さい。
* * *
カーレンがいないことに恩が気づいたのは翌日のことだった。
食事を必要としないカーレンは、食事時には同席するものの滅多に食べはしない。
そのため、カーレンが朝食に姿を現さなくても不審に思わなかった。
今日の講義は午前中のみなので、支度をして家を出る。しかし、講義が終わり、これから昼食というところで織枝から電話がかかってきた。
《恩くん? 今、大丈夫かしら?》
「はい。どうかしましたか?」
《カーレンちゃんがね、まだ帰ってこないのよ。そっちに行っていない?》
織枝の気遣わしげな声に、恩は困惑する。
「え……いえ、来ていないですけど……」
《あら、そうなの? じゃあ、まだお散歩中なのかしら》
朝方にカーレンがいないことはよくある。朝の空気が気持ちいいと言ってしょっちゅう散歩に出ているからだ。
それでも昼前には帰ってきているらしいし、体質のこともあってカーレンは散歩以外では滅多に外出しない。
出掛ける時は織枝に断りを入れているというし、こんな時間になってまで一度も姿を見せないなんて初めてだ。
(散歩が長引いてる? それとも、此武の急な呼び出しがあったとか? カーレンはヴァモバ持ってないから織枝さんに連絡できないもんな)
学校に通っているわけではないカーレンは、いつもは依頼が入った時に此武の要請に応じて、その時々で高科FWに顔を出している。
一人で事足りる事案ならカーレンだけが呼び出されることもあるので、恩が来るより早くに到着していたり先に仕事に出ていたりする。
此武の呼び出しはいつも突然だ。それに、あの此武が一時帰宅を許すわけがない。そんな暇があるならとっとと来い、と言うに決まっている。
「あの、もしかしたらバイト先で急な要請があったのかもしれないので、後で確認してみます」
《そう? それならいいんだけど……。お仕事だったら、気をつけてねってカーレンちゃんに伝えておいてちょうだい》
「はい、分かりました」
通話が終わり、恩は少し不安になった。カーレンが此武のところにいるのか、早く確かめたい。
食券を買おうと思っていたが、恩はすぐに教室に戻って帰り支度をし、高科FWに向かった。
(カーレン……!)
嫌な予感がする。昨日、大事な話があると言った時、カーレンは笑っていたが、声がいつもより沈んでいた気がした。熱で朦朧としていたから気のせいかとも思ったけれど。
思い切り高科FWのドアを開け、恩は大声で言った。
「カーレンいる!?」
「第一声がそれか、ウジ虫め」
返ってきたのは不機嫌な此武の声。彼女の姿はない。
「此武、カーレンは仕事?」
「天帝の娘など来ていない」
「え?」
冷や汗が流れる。恩は狼狽した。
「まだ呼んでないの?」
「今日は依頼がないからな、呼ぶ理由もない」
絶句する。家にもここにもいない。昨日までは確かにいたのだ。あれは幻なんかじゃない。
「そんな……じゃあ、カーレンはどこ行っちゃったんだよ! まさか、また誘拐でもされたんじゃ……っ」
「騒ぐな、鬱陶しい」
「ゴフッ!!」
ため息交じりに、此武は分厚い本を恩に投げつける。
本はどごっ! とえぐり込むように恩の腹を直撃。何かいろんなものが飛び出しかけた。
「フン。貴様はあの娘に執着しすぎだ。なぜ、そこまであの娘を気にかける」
此武の問いに、恩は硬直する。どうして、カーレンを気にするのか。脳内に、不思議な声が微かに響く。
大切だから/大切にしないといけないから
守ると決めたから/守らなくてはいけないから
彼女が**だから/********いけないから
この声はなんだろう? 確かにカーレンは大切なひと。そばにいてほしいと思うし、守りたいと思っている。でも、そうしないといけないと囁くこの声は。
「そんなにあの娘が大事か。あの娘がいなければ生きていけんとでもいうのか」
ドクッ、と恩の心臓が不自然に跳ね上がる。
カーレンがいない未来? そんなの、想像がつかない。だって、そばにいるって言った。
これからも、ずっと俺のそばにいてくれるって。
いてくれなきゃ困る。カーレンがいなくなったりしたら。
恩の空気が変わった。此武は瞠目する。
「――彼女を失ってしまったら、俺は生きていけない」
此武を見つめる紅い瞳は虚ろで、ゼルグを彷彿とさせた。
恩の言葉なのに、恩の意思ではないような印象を受ける。まるで定められた言葉のように。
(答えが決まっていたかのような口振りだな。これも計算ずくだというのか)
小さく舌打ちをする。『恩』は創造神がプロットのためだけに創った人間。
前世も来世もない、プロットの中でのみ生きる存在。
プロットという舞台上でのみ動くことを許されている。
その糸を引くのは創造神セイルシアとライフィエ。
(……気に食わん)
示されたことだけをこなす。定められた道を歩むだけなど。
しかし、いかに傍若無人で唯我独尊のクロムとて、あの二柱には敵わない。
すべてを生み出せし母であり絶対的な存在。そんな二柱が創った『恩』は、創造神の掌の上なのだ。
『だが、そんな玩具を手に入れてしまったのだから、責任は果たしてやる』
決めたのだ。これは自分の玩具だと。たとえ創造神の掌の上で転がされているものだろうと、これは自分の所有物にすると決めた。
(奴らの思い通りに動くだけなど、気に食わん!)
此武はグイッと恩の胸倉をつかんで、強烈なアッパーを喰らわせた。
「フン……貴様が死のうと壊れようとなんでもいいがな」
「!?!?!?」
正気を取り戻した恩は、突然の強烈な痛みに目を白黒させている。
「オレ様の知らんところで、オレ様の許可なく勝手に死ぬことは許さん。
貴様はオレ様の玩具だ。死ぬならオレ様の前で死ね」
「なっ……」
なぜ急にそんな話になったのか分からないが、身勝手にもほどがある。
死ぬなと言われて、それに対して努力することは出来なくもないが、死ねと言われて「はい、分かりました」と快く聞き入れられるはずがない。
反論しようと口を開きかけた時、うなだれた此武の頭が恩の胸に寄りかかってきた。
(……へっ?)
らしくない行動に、恩は動揺しつつ硬直した。
(なな何何何!? いいい今っ、何が起きて)
「もう二度と、オレ様のいないところで死ぬな」
寂しげな響きが含まれた声に、恩は目を瞠る。そして言葉の真意を理解した。
恩は一度死んでいる。靁雯との決闘の時、瑤姫の電撃を受けて。
宿命を紡ぐ者で不死の体である恩はすぐに復活したが、死を迎えた時、此武は異空間でゾルディシュと戦っていたため、死の瞬間を見ていないのだ。
だからか。自分の知らないところで、事が起きるのが許せない。そうなるくらいなら、じかに見届けたい。
勝手な言い分だが、らしいと言えばらしい。
きっと、クロムにとってはこれが最大の愛情の示し方だろうから。
恩は苦笑して、此武の背中をそっと撫でた。
「うん。分かった。俺が死ぬ時はちゃんとお前を呼ぶから、お前のいないところでは死なないよ」
見届けさせてやるよ。最期まで。だからそれまで、一緒に生きてよ。
(少しは自惚れてもいいのかな。俺は此武の心の支えになってるって)
以前、龍祀の日の贈り物としてブレスレットを渡した。けれど、此武は「下らん」と一蹴した。
あの時、自分には此武を……クロムを理解することはできないと思った。
歩み寄ることはできないとあきらめかけた時、カーレンが言ったのだ。
『少しずつですが、変わっていらっしゃるんですっ。ですから、あの方を理解することをあきらめないで下さい。あなたならあの方の支えになれます!』
『あの方にも、支えが必要なんです。そしてようやく見つけたんです。それが恩さん、あなただから』
大切な友であったチサキを喪い、同じく友だったゾルディシュと憎み合った。
孤独を知らなかった戦神が孤独を知ったことで、本人は気づかなくてもきっと心は傷ついていた。
だから、二人を失ってからはさらに他人に心を閉ざしたのだろう。
そんな彼が、ようやくまた心を開くことが出来た。そうしてもいいと思える相手に出逢えた。
それが自分であると、彼女は言っていた。
『あなたなら、宿命を紡ぐ者である恩さんだから、あの方を守ることができます』
当時は何を守ればいいのか理解できなかったが、今なら解る。
彼の、孤独ゆえの強さと弱さを。
彼らしく在れる強さ、孤独を恐れる弱さ。それらを守ることが出来るなら。
全力で守ろう。支えになろう。かけがえのない相棒を。
「やれやれ、やっと見つけたよ」
声がしたかと思うと、メキッバキィッという音と同時に、恩の上半身がありえない方向に曲がる。
恩は声にならない悲鳴を上げた。
ふわりと舞い降りるように現れたのはリアウィスだった。
現天帝の右腕であり、前天帝の斂子。
緩やかなウェーブの金髪と、エメラルドのような瞳はカーレンと少し似ている。
それもそのはず、カーレンの父である現天帝と、リアウィスの父である前天帝は親類だったのだ。
「まさか時空の狭間にいるとはね。どうりでなかなか見つからないはずだ。ところで、それは何かの健康法かい?」
恩を見て、穏やかに笑いながら小首を傾げるリアウィス。この天然さもカーレンと通じるものがある。
「何用だ、貴様。天帝の娘が消えたことと関係あるのか」
「ああ、そうそう。そのことで話をしに来たのだよ、高天 恩」
「うえ?」
体を直してもらい、恩は床に正座した。リアウィスは笑みを絶やすことなくはっきりと告げた。
「カーレンは天界に帰った。そして、二度とこちらには戻ってこない」
「…………え?」
「君が眠っている間に戻ってきたそうだから、君が心配しているだろうと言ってね、私はその旨を伝えに来たのだ。
さて役目は済んだ。それでは、これからも良き日々を送りたまえ」
「ちょ、ちょっと待って下さい!」
帰ろうとするリアウィスの服の裾を掴み、恩は慌てて引き止める。
カーレンが天界に帰った。だからいなかった。それは分かった。
でも、なんで? 理由が分からない。
「どうして、ですか? こんな突然……今までそんな素振り見せてなかったし、何も言わずにいなくなるなんて!
それに、リアウィス様、前に言っていたじゃないですか! カーレンをここに残してもいいって……」
初めてリアウィスと会った時、彼はカーレン自身に、人間界に残るか天界に帰るか選ばせた。
カーレンは人間界に残ると言った。それをリアウィスも許した。なのに。
「事は急を要するからだよ。彼女には元々、大事な役目があったが、あの時は人間界にいても問題がなかった。
しかし不測の事態が起きた。彼女にしか収めることが出来ない。だから、彼女は天界に帰ったのだ」
あまりにも突然な別れ。二度と、彼女に会えない?
恩は裾を掴んでいた手を離してへたり込んだ。
これからもずっとそばにいられると思っていた。
きちんと自分の気持ちを認めて、伝えようと思っていたその矢先に!
「気は済んだかい? では、私はこれで……」
「……です」
「?」
へたり込んでいた恩はふらっと立ち上がった。
興味なさそうに、デスクチェアで頬杖をついていた此武が小さくため息をつく。
恩がこの程度であきらめるはずがないのだから。
「俺は、カーレンに会いたいです。このまま別れるなんて嫌です!!
もし別れるんだとしても……っ、何も言えずにさよならなんてしたくない!!」
君に一目会いたい。ずっと一緒にいたい。それが叶わないのなら、せめてこの気持ちだけは伝えたい。
恩の揺るぎない意志の宿ったまなざしに、リアウィスはややあってくすっと微笑み、にっこりと笑った。
「ならば、天界に行ってみるかい?」
「え?」
――えぇぇぇぇぇっ!?
リアウィスの言葉に、さすがの恩も開いた口が塞がらなかった。天界ってあの天界か?
以前、カーレンから聞いた。天界は天帝とその斂子と天使が住まう場所。
常に人間を見守り、時に救いの手を差し伸べてくれる。
天界に行くということは、もしや他の神々や天使、あまつさえ天帝に会ったりもするのだろうか。いやまさか。
困惑している恩をよそに、リアウィスは笑顔で此武に目を向ける。
「クロム様もいらっしゃいますか?」
「愚問だな。行くわけがなかろう、あんな甘ったるい場所に」
「そうですか? 残念です。恩、行くというのなら私が連れていこう。カーレンに会えるとすればこれが最後の機会だ」
「!」
その一言で、簡単に恩の決心はついた。カーレンに会いたい。そのチャンスが目の前にあるのなら。
「行きます! 連れて行って下さい!」
それに食いつくのは当然だ。リアウィスはにっこり笑うと、ふわりと二対の羽で恩の体を包み込んだ。
「ではクロム様、しばらく恩を預かっていきます」
「好きにしろ」
リアウィスは一礼すると、恩とともに姿を消した。此武は腕組みをし、デスクチェアに深く身を沈めた。
「あの娘が天界に帰ったということは、奴の封印が緩んだということか」
神界と魔界のみを行き来していたクロムは、天界の事情などほとんど知らないが、魔界を揺るがした“ある一件”のことは知っていた。
その一件が、カーレンに重い運命を課したことは、宿命を紡ぐ者の補佐を創造神に命じられた時に、初めて聞かされたこと。
今回のことは、恩自身のこれからの人生を左右する、分岐点。
選んだ答えによって、恩の未来が決まるのだ。