第44話 因縁の地、珞陽
あの後、陽向や他の隊士たちが駆けつけた。
陽向は気絶した隊士たちを、病院に緊急搬送させた。
悲しみに暮れている恩と、カーレンがいないことには気づいたが、まずは隊士たちを助けなければいけなかった。
此武が恩に近づいて行ったのが見えたので、その場は彼に任せようと思った。
悔しいが、今夜は引き上げるほかない。
恩は陽向たちが到着しても微動だにしなかった。
此武が近づいてくるのは分かっていたが、動けなかった。
様々な感情が入り混じって、心が痛かった。
「無様だな」
そう言われても、恩は無反応だった。悲嘆。後悔。憎悪。絶望。頭がぐらぐらする。
「結局、貴様は無力で、一人では何もできない。誓いさえも、たやすく壊れる」
「……るよ」
淡々とした此武の言葉に、恩はか細い声で返した。
「一人でどうにかできるとでも思ったのか? 貴様のような低能で脆弱な屑が」
「……ってる」
「その思い上がりが、天帝の娘を傷つけたんだろう」
「分かってるよ!!」
拳を強くコンクリートに叩きつける恩。血が滲んだが、痛みなど気にならなかった。
「そんなの分かってるよ! 俺が悪いんだ!! 俺が一人で無茶をしたから……っ。
俺が一人でも……此武がいなくても、大丈夫だなんて……自惚れたから……」
カーレンを傷つけてしまった。カーレンに害が及んでしまった。また。
どうしてさっき、此武を呼ばなかった。一人でもカーレンを守れるなんて思った。
そんなことできるわけがないのに。自分は弱いんだから。
分かってる。みっともない嫉妬だ。いつだって自分は此武に助けられて、守られて、此武がいるからなんとかなってる。
此武に頼れば、なんとかできる。でも、此武がいなくちゃ何もできない。
それが悔しくて、だから此武の力を借りなくても大丈夫だって、自信をつけたかった。
子供っぽいひがみとワガママだった。そのせいで、大事な人を失うことになったのに。
浅はかすぎて、愚かすぎて、自分で自分が許せない。
実力もないのにいきがるのは、本当に思い上がりも甚だしいよ。
拳を震わせ、恩は此武を振り返った。涙で歪む視界。
此武の小さな体にすがりつき、声を振り絞る。
「たすけて……カーレンを、助けて……っ」
自分だけじゃ助けられない。無様でも、みっともなくても、今は頼るしかないんだ。此武しか頼れない。
(たとえ此武が、俺のことを疎ましく思っていても)
此武は無言で眉根を顰め、顔を逸らす。
避けられても、名前を呼んでくれなくてもいい。
罵られるかもしれない。今度こそ、拒まれてしまうかもしれない。
それでも、これだけは伝えたい。
「やっぱり俺には、此武がいないとダメなんだ。
俺のこと嫌いでも、目障りでもいいから……一緒にいたい。ずっと、俺のパートナーでいてよ」
此武は瞠目する。そして思わず、恩を見返してしまった。
すがりつく手は震えて、放すまいと強く握りしめているのに、涙に濡れる瞳は弱々しく揺れて。
その眼差しが、言葉が、この存在そのものが、心を打つ。どうしようもないほどに――
『それは貴方が彼らを気にかけているから。心を寄せ始めているからでしょう』
こんな時に、千咲の言葉が蘇る。
不快だ。心を寄せるなど、下らない。そんなことをするから……
一人の女が、触手のようなものに捕らわれている光景が見える。
忘れられない過去。忌々しい記憶。
ざわりと左眼が疼いた。
此武は慌てて恩の体を引きはがし、左眼を手で覆う。
「此武?」
「近寄るな」
鋭い声音に、恩は身をすくめた。やっぱり、拒絶されてしまうのか。
もう、力を貸してはくれないのだろうか。
うなだれ、そう諦めかけた時。
「……めぐむ」
聞こえた小さな声に、恩は弾かれたように顔を上げた。
「今すぐその汚物まみれの顔をなんとかしろ」
此武は顔を逸らしたままだ。聞き間違いだったのだろうか。「此武、今……」とおそるおそる声をかけると、いつも通りの不機嫌な声が返ってきた。
「オレ様の命令が聞けんのか、恩」
「……っ」
今度は確かに聞こえた! 恩は慌てて涙を拭く。此武に名前を呼ばれるのはいつ振りだろう。
名前を呼んでもらえることが、こんなにもうれしいなんて。
(ちゃんと俺の気持ち、伝わったかな?)
パートナーでいてほしい。これからもずっと。
…………あれ?
(えーと、間違ってない、よな? クロムは俺の補佐なんだし、パートナーって確か相棒って意味だよな? 依織もそう言ってたし……)
なんだか、思っていたより少しニュアンスがおかしいような?
すると、後ろでくすくすと笑い声が聞こえた。振り向くと、陽向が口元を押さえて笑っている。
「なんとまあ……若いというのは、真っ直ぐでいいねぇ」
「は? なんの話ですか?」
「おやおや、無自覚かい? これはまた、クロム殿も苦労するねぇ」
「???」
恩が本気で分からないという表情で首を傾げるので、陽向はプルプルと肩を震わせた。
「いやね、随分と曇りないプロポーズだなと思って」
「はい??」
「だって、パートナーだろう?」
何を言ってるんだ、この人は。と思ったが、はたと気づいた。
パートナーとは、仲間。相棒。相方。伴侶など。
「!!」
恩は陽向が笑っている理由を察して赤面した。
「違います!! 今のはそういう意味じゃなくて、クロムは宿命を紡ぐ者の補佐だから相棒として! というか、いつから聞いてたんですか!?」
「やっぱり俺には……からかな? パートナーになってほしいと頼むのは、愛の告白も同然だよ?」
「だから違いますって!! それに藍泉ってそんな慣習ありましたっけ!?」
「いや、私の持論だね」
「だったら余計なこと言わんで下さいっ!!」
ものすごく焦った。本当にこの人は意地が悪い。
此武が陽向を嫌う理由がちょっとだけ分かった気がする。
深呼吸をして改めて此武を見ると、此武は左眼を押さえたままこちらに背を向けている。
(此武、左眼どうかしたのかな?)
隠された左眼。前に体が入れ替わった時は、視力がないだけでこれといった痛みなどはなかったが。
(やっぱり傷でもあるのかな? 古傷とかで、それが痛むとか?)
戸惑いながら恩が見ているのが、背を向けていても分かる。
本当に、こいつは突飛な行動を取る。調子が狂う。
(なぜ、そこまでオレ様に執着する。オレ様に何を求める)
最凶の戦神。それが自分。誰からも、同胞からも忌み嫌われ、命すら狙われる。
常に孤独で、それがごく自然なはずなのに。
誰かに心を寄せられることも、ましてや自分が心を寄せることなどありえないと思っていたのに。
(なぜ、どいつもこいつも、オレ様に心を寄せようとするのだ……)
いつのまにか、自分の周りには他人が増えた。独りではなくなった。それを、心地よいとまで感じるようになったのは。
『不変などないよ。僅かにでも、物事は変化する。環境も、ヒトも、心も。だから、お前も』
そう言ったのは誰か。誰でもいい。考えるのも億劫だ。
この痛みも、どうでもいい。
不思議と左眼の疼きが治まってきた。
「此武、大丈夫、か?」
ためらいがちに尋ねると、此武がやおら振り返った。
「まったく、何度も主の手を煩わせるとは、貴様は本当に手のかかる玩具だな」
眉間にしわは寄っていたが、いつもと変わらない眼差しだった。呆れとけだるさの混じった眼。
「だが、そんな玩具を手に入れてしまったのだから、責任は果たしてやる」
「! 此武……っ」
ぱっと表情を明るくする恩。此武は鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
「おい糞狐。たわけたことを抜かしていないでとっとと失せろ。切り刻むぞ」
「はいはい、退散しますよ。これ以上クロム殿の機嫌が悪くならないうちにね」
まだまだやることはある。陽向は苦笑しながら立ち去った。
此武は腕組みをし、傍らに立つ千咲を見上げる。千咲は此武と目を合わせることなく直立不動だ。
今回は姿を見せなかったゾルディシュ。奴とは決着をつけねばならない。此武はすうっと目を細める。
「恩、あの傷のある男はどこにいるか分かるか」
視線を戻して問いかける。恩は靁雯の言葉を思い返した。
「えっ、あー……えっと、日落つる地で待ってるとは言ってた、けど」
どこだろう。日が落ちるということは地平線とか水平線とか? ということは広い草原とか海?
「日落つる、つまり落陽か」
「!」
落陽……らくよう。その名がつく土地を知っている。鋒家にとって縁の深い地。
「珞陽……」
藍泉国西部に位置する明見州の首都。
鋒家の祖先、皚燄が高天の祖先と出逢った場所。
そして、命を落とした場所だ。
珞陽。藍泉国西部の明見州首都。
盆地になっており、周囲を山々に覆われたのどかな土地だ。
全国的に雨や雪が多い藍泉国内において、西部は比較的、降雨量・降雪量が少ない。
最も多いのは北部と東部。特に北部は豪雪地帯で、夏が短く、春や秋でも雪が降る。
東部は場所にもよるが平均的である。最も降雨、降雪が少ないのは南部。恩の住む神京都も南部だ。
恩はすぐさま珞陽へ赴いた。まさかここに来ることになるとは思わなかった。鋒家と高天家の始まりの土地。
最初に鋒家を出た時に、短い間だが滞在していたのがここだった。
ここなら多少は気が落ち着く。何せここには、白凰一族がいるから。
鋒家を出た時に不安だったのは、自分の外見だった。
この髪と眼はどこに行っても目立つ。
暁篠人は鋒家の人間で慣れているが、他国ではそうはいかない。
だから同じ白凰のいる珞陽を目指した。
けれど、珞陽は鋒家とゆかりのある土地だからすぐに見つかる恐れがあって、すぐに移動した。
珞陽の白凰は、鋒家と祖先を同じとしていて、鋒家の分家に当たる。
だが、とうの昔に疎遠になっているので、他の分家とは違い、今では鋒家とはなんの関わりもない。
靁雯の潜伏先がここであったことには何か意味があるのだろうか?
珞陽まで来たはいいが、靁雯はどこにいるのだろう。
手がかりが一切ない状態で、どう捜せと?
「どうしよう。ここでは絳髪緋眼が結構いるから、すぐには見つからないだろうなぁ……」
珞陽にはたくさんの白凰が住んでいるので、すでに何度も絳髪緋眼の人とすれ違っている。
道行く人も恩のことをさして気にしていない。
どちらかといえば、シェーシア人の顔の特徴を持つ此武と千咲の方に視線が行っているようだ。
「そもそも、奴が人目に付くところにいると思うか」
「……無いよな」
もしもこれまでに街中に住んでいたとしても『紅い長髪で顔に傷がある男』という黑牙の首領の特徴が公になった今、堂々と街中で暮らしているとは思えない。
それに、本当にここでいいのか? 日落つる地というのはここを指していたのか?
もし、違う場所だったら? もっと遠い土地、もしかしたら国外かも。
でも……。ちらりと恩は此武に視線をやった。
彼が指し示した場所だ。彼の言葉を信じるしかない。
一刻も早く見つけなければ、カーレンの命が危ない。
ダメもとで、恩は街で聞き込みを始めた。
「まさかこうもあっさり見つかるなんて……」
聞き込みをしていたら、すぐに見つかった。と言っても、単なる目撃証言だけだが。
何か月か前に、顔に大きな傷のある男が山に入っていくのを見たという人がいた。
それ以来見かけたことはなかったそうだが、見たこともないような美女と一緒だったので印象に残っていたらしい。
『身なりがよかったから登山者ではなさそうやし、不思議には思ぅたんやけど、あの山には観光スポットもあるし、観光客か思ってん。
にしてもホンマべっぴんさんやったなぁ、あの銀髪のねーちゃん』
教えてくれた男性はそう鼻の下を伸ばしていたが、一緒にいた銀髪の女性というのは瑤妃のことだろう。
それで確信を持てた。そして、男性が見たという山に入ってみた。
確かに観光スポットになっているようで、観光客や登山者がちらほらいた。
こんな賑やかなところに靁雯がいるのか。しかし、登山道を逸れて山奥へ進むとそこは別世界だった。
獣道、うっそうと茂る木々、険しい谷。心なしか重い空気。
さらに進んでいくと、見つけた。木々に隠れた小さな遺跡を。
蔓や苔に覆われ、一部崩れたその遺跡は、異様な空気を発していた。
一目見て感じた。――いる。靁雯はここにいる。
入口の前に立った恩はすぐに闘えるよう、ケイオスフォズマを顕現させた。
「絶対、カーレンを取り戻す。行こう」
「恩」
呼び止められて振り返ると、此武が本性に戻った。闘いのさなかでもないのにクロムに戻るなんて珍しい。
「今度ばかりは、生半可な闘いでは済まんぞ」
「いきなりどうしたんだ? そんなこと言うなんて」
「そろそろ思い知らせてやらんとな」
「?」
何か様子がおかしい。クロムはゾルディシュと顔見知りのようだった。それが関係しているのだろうか。
嫌な予感がする。不安げな顔をする恩を、千咲が静かな瞳で見やった時だった。
ぬわん、と空間がゆがんだ。
「! なっ……」
ザアッと闇が波のように押し寄せてくる。その闇にクロムと千咲が呑み込まれた。
「クロム! 千咲さん!」
恩の叫びは二人には届かなかった。