第43話 鋒(フォン)家の闇との決闘
長い髪の男。血のような深紅。美しい女性と、漆黒の悪魔。
偃月刀を携えた長髪の男と戦う自分。心配そうに見守るカーレン。
場面が切り替わり、古い遺跡の前に立つ自分と此武と千咲。
遺跡の中で刃を交える男と自分。激しい戦い。
そして、空を舞う白銀の龍――
宿命の夢。目を覚ました恩は、しばらくボーっとしていた。
ついに決着をつける時が来たのか。あの男と。
恩は布団にくるまったまま、ぐっと気を引き締めた。
* * *
石壁に囲まれた薄闇の中で、炎が揺らめいた。
赤い髪がろうそくの炎に照らされ、ほのかに煌めく。
すっかり闇に慣れてしまった眼は、闇の中でも周囲を見通せる。
古い石造りの玉座らしきものに腰掛けた赤い髪の男は、肘掛けに頬杖をつき、今しがた殺した部下の一人を、愉悦に満ちた表情で見下ろした。
傍らに立てかけた偃月刀には、真新しい血が切っ先から地面へと流れ落ちている。
「また殺したのですか」
ハスキーな女性の声に、男は鼻で笑った。
「無能な奴をいつまでも生かしておく理由はねぇな」
「一応、貴方様の食事係でしょう? 今後どうなさるおつもりですか」
「貴様が作れ」
「……はい?」
「オレはそんなに食事を必要としない。そういう体になったのは知っているだろう? 数日食わんでもどうにかなる。貴様が時々、適当に作れ」
尊大な態度で命令する主に、女性は密かにため息をつきながらも跪き、頭を垂れた。
「仰せのままに」
そこへ漆黒のマントをまとった悪魔がやってくる。
両頬に十字の痣がある悪魔は玉座への階段を上ると、赤髪の男を見下ろした。
「準備は整った。計画を実行に移すぞ」
男は待っていたと言わんばかりに、楽しそうな笑みを浮かべた。
「そうか。なら肩慣らしに少し遊んでくるか。だが、その前に一つだけ言っておく」
そう言うや否や目にも留まらぬ速さで、しかし流れるような動作で、男は偃月刀の切っ先を悪魔の顔面に突きつけた。
「オレを見下ろす位置に立つな、と契約の時に言っておいたはずだぞ? ゾルディシュ」
血まみれの切っ先を突きつけられているにもかかわらず、悪魔は意に介することなく肩をすくめた。
「ふ……そうだったな、靁雯。うっかりしていた。これで許せ」
ふわりと宙に浮き、ゾルディシュは玉座から離れた。靁雯よりやや低い空中で、腰掛けるように足を組む。
靁雯は満足そうに微笑み、偃月刀についた血を舐め取った。
「くく……人間の屑どもは、このオレが抹殺してやろう」
羽織った黒いコートを翻し、靁雯は二人を連れて闇の中を闊歩していった。
ろうそくの淡い炎が消える。
その一報は瞬く間に広がった。共通点のない被害者。無差別殺人。残忍な手口。目撃者はなし。現場に残された一つのマーク。
黑牙――藍泉国を中心に事件を起こしている犯罪組織。数十年前から、時々現れる謎の集団だ。
人数も目的も不明で、唯一の手がかりは、横向きの黒い三日月を、黒い一筋の雷が貫いているマーク。奴らは殺人現場に、必ずこのマークを残す。
最近の捜査で、ようやく新たに分かったのは、首領は赤い髪の男ということだけ。
世界を震撼させる黑牙。それが再び始動したというニュースだった。
被害者は四人。ある者は道端で炭化していて、ある者は電柱に串刺しに。
ある者は全身がバラバラにされ、ある者はあらぬ方向に全身を捻じ曲げられた上に、腹が切り裂かれていた。
いずれの現場にも黑牙を示すマークが、被害者の血や、黒い塗料などで様々な形で残されていた。
しかし、今回の一件では被害者が複数だった。一度に複数の人間が黑牙の被害に遭うのは初めてだった。その上、今回の被害者の一人は――
「人外……ですか?」
警吏庁特別捜査会議の場で、誰ともなく呟いた。会場内がざわめく。
これまで被害者は人間のみだった。なのに今回は人外も被害に遭っているなんて。
今回の特別捜査会議は異例の事態ということで、警吏庁総本部内の全警吏隊士が一堂に会していた。
会議の模様は、他州の警吏庁本部や支部にもネット中継されている。
警吏庁総本部の総隊長である陽向は、ついにここまで来たのかと内心、嘆息した。
未解決事件の中で、最も警吏隊の頭を悩ませているのが黑牙だ。
黑牙はここ藍泉国内だけでなく、他国でも猛威を振るっている国際犯罪組織。
事はこの藍泉だけでは収まらないのだ。黑牙の存在が知られてからの数十年で、被害に遭ったのは数百人。
尻尾を掴んだ今こそ、捕まえなくてはいけない。あの赤い髪の首領を。
そのためにも、少々、協力してもらう方がいいだろう。
(もはや人間だけの問題ではないからねぇ)
陽向はくすりと微笑んだ。
「で、俺たちを呼んだわけですか」
「その通りだよ、恩くん」
やや半眼の恩に、陽向はにっこりと笑いかけた。
高科FWに向かう途中、自分のヴァモバに陽向から電話がかかってきた時は焦った。
なぜ陽向さんが? というかどうして俺のヴァモ番知ってるんだ!?
と思ったが、稜雲から聞いたと言われて、ふつふつと稜雲への怒りが込み上げてきた。人の番号、勝手に教えるな!
陽向の用件は、すぐに警吏庁に来てもらいたいとのこと。
『あの……すみませんが、これからバイトなのでお伺いできませ……』
『ああ、なら此武殿たちと一緒にどうぞ』
『……行かないという選択肢はないんですね』
というわけでそのことを此武に話して、一緒に来たはいいのだが。
此武は陽向を毛嫌いしているため、かなり機嫌が悪い。
来る前に、八つ当たりで思い切りいじめられた。俺は悪くないのに。
総隊長室に招かれて話を聞くと、黑牙の捜査に協力してほしいということだった。
「君は黑牙と関わりがあるんだろう?」
「!」
確かに黑牙の首領・靁雯とは浅からぬ因縁がある。
でも、陽向は首領が『顔に傷のある赤い髪の男』ということは知っていても、その素性までは知らないはず。
白を切るかどうするか……
「君が黑牙の首領と何か話しているところは見ていたよ。どんな関係かはあえて聞かないが……協力、してくれるね?」
笑顔だが断れない凄みがある。さすがは神狐。恩は此武の睨みに耐え、頷くしかなかった。
黑牙の犯行場所も時間もバラバラだが、どの被害者も一人でいた時に襲われている。
人気のない裏道を一人で歩いていたサラリーマン、一人暮らしのOL、一人で留守番をしていた子供、一人で散歩に出かけた老人……狙われるのは一人でいた時。
だから、黑牙事件が発生してからは、極力一人で出歩かないように、人気の多いところを選ぶようにと警吏隊から勧告された。
ここ数年の被害者は神京都内に限定されている。犯行時刻も夕方から深夜にかけて。
なので、恩たちは都内で夕方以降に人が少なくなり、目撃者が出そうにない場所を絞って警戒することになった。
恩はカーレンと数人の隊士たちと行動を共にしているが、これで大丈夫なのだろうか?
(いくら都内での犯行が多いとはいえ、人気の少ないところなんて都内でもたくさんあるし、もし黑牙が現れたとしても、それが靁雯とは限らない。靁雯だったとしても、捕まえられるかどうか……)
「恩さん、あまり顔色が優れないようですが、どこかで休みますか?」
「えっ?」
自分で思っている以上に緊張していたようだ。気遣わしげに覗き込んでくるカーレン。
しまった、余計な心配はかけたくないのに。
「大丈夫だよ。ただ……」
「靁雯さんと闘うことに不安を感じているんですね」
恩は軽く目を瞠る。見抜かれてしまうなんて。
靁雯と本気で闘う決意をしたことは、カーレンには言っていないのに。
どうして分かるんだろう。分かってしまうんだろう。
自分の弱さを、怖れを、彼女はすぐに見抜く。そして。
「大丈夫ですよ。恩さんには優しさと勇気があります。靁雯さんとだって向き合うことができますよ」
包み込んでくれる。あたたかい言葉で。やわらかい笑顔で。
(守りたい、って思ったんだ。強くなりたいって。君のために)
だから逃げない。立ち向かう。ずっと避けてきた闇に。靁雯に。
靁雯は強い。いつだって本気を出してなどいないだろう。
もしも奴が本気になったら……それこそ普通の人間では歯が立たない。
「闘うって決めたんだ。敵わなくても、今の俺の持てる力で、靁雯と真っ向から闘うんだ」
「ほう? なら、見せてもらおうか」
声がしたかと思うと、ぞわりと総毛立つ。この感覚。恩は後ろを振り返った。
だが、横から風が吹く。条件反射で後ろに飛び退くと、斬撃が目の前を通過する。
恩の左側にあった街路樹が、縦に真っ二つになって倒れた。
カーレンが息を呑み、隊士たちが臨戦態勢を取る。
暗がりから現れたのは顔に大きな傷を持つ、赤い長髪の男。
「オレと本気で闘り合うつもりになったようだなぁ」
「靁雯……」
「黑牙の首領だな! 今度こそ逮捕してやる!!」
隊士たちが靁雯に向かって発砲する。靁雯はにや、と口角を上げ、偃月刀で弾をすべて斬った。
驚愕する隊士の目前に、いつの間にか偃月刀の刃が迫っていた。
悲鳴を上げる間もなく、隊士の首が飛ぶ――かと思いきや、恩がケイオスフォズマで受け止めていた。
「逃げて下さい。こいつには生半可な力じゃ敵いません」
「……あ……」
恩が助けに入っていなければ、確実に自分は命を落としていたと、隊士は戦慄した。今になって体が震え出す。
「それに、いるのはこいつ一人じゃない」
呻くような恩の言葉に、隊士は一瞬、意味が分からなかったが、月影が何かに遮られ、嫌な予感がして視線を上げた。
月を背に、何者かが宙に浮いている。
黒衣が夜風ではためき、逆光で顔はよく見えないが、本能的にあれは人間ではないと感じ取った。
「ひぃ……っ」
「なんだ、あいつは!」
「あれも仲間か!」
取り囲んでいた隊士たちがおののく。そして本能で悟った。
奴らには敵わない。自分たちは殺される。
そう思った途端、彼らは逃げ出していた。自分の命を守るために。
だが、それは阻まれた。行く先に現れた一人の女に。
月光に煌めく白銀の髪。澄んだ色の双眸は清らかな泉を思わせる、絶世の美女。
だが、その美しさに見とれる暇もなく、隊士たちは美女の体から放電された電撃で気絶した。
恩は彼女の正体に気づいていた。あれは雷龍だ。靁雯が宿主なのだろう。
「カーレン、離れてて」
「はい……」
(靁雯……ゾルディシュ……雷龍……まずい状況だな)
今、ここで闘えるのは恩だけ。
(誰か呼ぶか? あいつを……いや)
一瞬、浮かんだ人物を恩はすぐさま打ち消した。一人でも平気だ。やってみせる。
あいつとの契約で得た力がある。自分一人でも、闘える。
「よくやった、瑤妃」
「お誉め頂き光栄です」
「だが、あんな屑どもは殺してしまった方がもっとよかったが」
「申し訳ございません、靁雯様」
傅き、頭を垂れる美女に、靁雯はそちらに視線も向けずに言い放つ。
「さて……邪魔な屑どもはいなくなったことだし、本気で闘り合うとしようか」
「全力で相手になってやる。お前にこれ以上、被害者は出させない!」
「くく……たいした自信だな。瑤妃、手出しはするなよ」
「心得ております」
瑤妃は一歩下がると、軽く手を組んで静止する。どうやら彼女は闘いには参加しないようだが……
ヒュ、と風を切る音がする。恩はしゃがんで偃月刀をかわし、ケイオスフォズマを双剣に変形させると、迷わず靁雯の懐に飛び込んでいく。
恩は気を集中させ、ケイオスフォズマを地面に突き刺す。
「大地よ、俺の声に応えてくれ!」
鳴動する地面。土砂が吹き上がり、狼を形作る。ルカフィルとの戦いでも見せた土狼だ。靁雯が感嘆の声を上げる。
「なかなかやるな。そう来なくちゃつまらねぇ。にしても狼とはな。逃げ出したとはいえ、腐っても鋒家の人間だぜ」
白凰は狗勇と呼ばれる人狼と共存する、絳髪緋眼の不老長寿一族。
その白凰の一つである鋒家でも、狗勇とは家族同然に暮らしていて、恩の親類やきょうだいの半数は狗勇だ。
だから恩にとって狼は思い入れの深いものだ。
「……っ、うるさい! 行け!」
土狼が靁雯に掴みかかる。靁雯は刀で土狼の前足を薙いだ。右足を斬られ、バランスを崩す土狼。
恩は土狼の陰から、双剣に変形させたケイオスフォズマで斬りかかる。
死角だったにもかかわらず、靁雯は刃を受け止めた。そのまま鍔迫り合いとなる。
どれだけ切り結んだだろうか。靁雯がつまらなそうに舌打ちをし、間合いを取ると偃月刀を肩に乗せた。
「おい、いい加減にしろよ」
「は?」
「テメェ……それのどこが本気だってんだ? そんなんじゃ昂れねぇよ」
蔑みの混じった目で言う靁雯。恩は少々焦った。
靁雯の言うとおり、本当の本気は出していない。それでも、全力で闘っているのに。
それだけ、この男に実力が届いていないということだ。
靁雯は嘆息すると、ふとカーレンに視線を向けた。
あの女は前に一度、出会っている。この男をかばって邪魔をしてきた。そして、そうだ、この男も――
いいことを思いついた。靁雯は不敵な笑みを浮かべると、駆け出して恩を足払いし、転倒させた。
呆気にとられつつも起き上がろうとした恩は、靁雯の向かう先を見て戦慄した。
「カーレン!! 靁雯! カーレンには手を出すな!」
あいつを止めなくちゃ。カーレンが危険だ。
立ち上がり、靁雯を追う。追いつけない。
靁雯は唖然としているカーレンの腕を掴むと、電撃を放った。
「……っ!」
「カーレンっ!!」
強力な電流が全身を走る。声が出ない。
異性に掴まれたことで翼が出るが、翼はあちらこちらが焦げ、カーレンは気を失った。
靁雯は気絶したカーレンを片腕で抱き上げると、恩を振り返った。
「くくっ、やはりこの女は貴様にとってよほど大事な物らしいな。この女を返してほしければ、本気でオレと闘え」
「彼女は関係ないだろ! カーレンを放せぇっ!」
土狼を出して差し向けるが、靁雯は空間にできた歪みの中へと逃げ込む。土狼の爪はむなしく空を切った。
《高天 恩。三日だ。三日以内に、オレのもとへ来い。日落つる地……そこで、今度こそ本気で闘り合おうぜ。
もし辿り着けなかったり、本気を出さなかった場合は――この女を殺す》
「!!!」
どこからともなく靁雯の声が聞こえる。妙に反響して、方向が定まらない。
《せいぜい足掻いてみせろ》
「待てよ! 待……」
嘲笑とともに気配が消えていく。気づけば、あの瑤妃とかいう雷龍の女性もいなくなっていた。
恩の手から双剣が落ちる。ガクン、と膝をつき、恩はわなわなと震えた。
どうしよう。なんでこんなことに。そばに、いたのに。
「ま……守、れたのに。守るって……決めたのに……」
今度こそ。守りたかったのに。あの時みたいに、ならないように。
彼女が誘拐された時。後悔したから、誓った。
俺が守る。君を。守らなくちゃいけなかったのに。
「……レン……カーレン…………カーレェェェェン!!!」
夜闇の中、恩は泣きながら叫んだ。