第41話 リヒトの決別
破壊された家は村人たちの手で、着々と修繕されていた。
今回はナハトの家とその周辺だけなので、あと三日もあれば元通りになるだろう。
危機は完全に去ったという報せは村中に知れ渡り、村をあげての宴会が行われることになった。
しかし、村人の中にはゼルグの素顔を見ていた者もいて、そっくりな顔の恩に不信感を抱いていた。
不満を訴える村人たちを説得したのはリヒトだった。
姉と友人を失ったリヒトの言葉には説得力があったし、希少な男でもあるリヒトには誰も逆らえなかった。
翌日の夜、村の中央広場で宴会が催された。
「めぐ様、見つけたー!」
恩は広場から遠く離れた石段に座り、料理を食べていた。
リヒトが駆け寄ってきて、当然のように隣に腰掛ける。
「レンちゃんやイオちゃんは?」
「んー、二人とも、さっきどこかに行ったよ。なんか二人だけで話があるみたい」
「ふぅん、そっか」
もしや、カーレンはついに自覚したのだろうか? どうなるのかは楽しみだけれど。
リヒトはもらってきたバール酒を恩にも勧めるが、リーフェでの飲酒は成人である十八歳を過ぎてからでないと罰せられるので遠慮する。
「ここはリーフェじゃないんだし、せっかくの宴会なんだからさ」
「いや、でも……」
「一杯だけならいいでしょ。ねっ?」
「うーん、ちょっとだけな」
コップを分けてもらい、恩はちびちびと飲み始めた。結構うまい。
飲みながらリヒトは夜空を見上げた。リーフェでの月に当たる二つの衛星がよく見えた。
黄色い方がピコロア、青い方がダルテだ。その二つの光が合わさり、夜は淡い緑の光に包まれる。
今朝、空を見たら“赫月”は元の白い星に戻っていた。
禍が訪れる時に赫く染まる“赫月”と呼ばれるその星の名は、深純。
生命の輝きを象徴する深純が禍の時に赫く染まるのは、深純が太古に死んだ生命神の化身だから。
大きな争いで多くの血が流れることを報せるために、生命神の血の色に染まるのだそうだ。
しかしその伝説は、太古から残っている種族にだけ伝わる言い伝えなので、ほとんどのひとは凶兆の証、不吉の象徴だと思っているらしい。
森羅女は太古の種族なので、深純の言い伝えを知っている。リヒトはあの深純が好きだった。
太陽に紛れて小さく光る星。不吉の象徴とされながらも、常にこの星を見守っている。
皓く光る深純に祈るように、リヒトは目を閉じた。
「ねえ、めぐ様。明日にはもう、リーフェに帰っちゃうんでしょ?」
「そのつもりだよ。俺の役目はもう終わったし」
「もう少しいればいいのに。みんなだって寂しがるよ? それに、結構めぐ様のこと狙ってる娘もいるんだから」
「狙うって何を? 命?」
「命狙う子がいるなら引き止めるわけないでしょ」
目を閉じたまま苦笑する。まったく、本気なのか冗談なのか。
リヒトは目を開け、恩と目を合わせた。
「どうしても残るつもりはない? ここなら、めぐ様も居心地いいと思う。この村がいづらいなら他の村でも町でもいい」
あの戦いの後、しばらく考えていた。
村を守るという当初の目的を成し遂げた以上、恩は故郷に帰ってしまうだろう。
彼の戦いと、涙を見せぬよう堪える背中を見て、彼に課せられた重い運命を感じ取った。
恩がルカフィルを倒すため、双剣を振り上げたあの時、彼は傷つき、泣き叫んでいた。
それは目に見えるものではない、心の涙だった。
あの時に感じたのは、自分との絶対的な距離。
戦いが終わり、戻ってきた平穏の中で考えた。
「めぐ様、シェーシアに残って。ボクのそばにいてよ」
最後に一つだけ、確かめたい。君の気持ちと、自分の気持ちを。
宴会の喧騒から少し離れた林のそば。カーレンは依織にはっきりと告げた。
「依織さん、わたしは……わたしも、恩さんが好きです」
「……」
「依織さんから問いかけられた時、わたしは自分の気持ちが分かりませんでした。
ですが、ルカフィルさんにお話して、ようやく自分を知ることが出来ました。
わたしはあの人を、一人の男性として愛しています」
依織は静かな表情でその言葉を受け止めた。
カーレンの気持ちなど、初めからわかっていた。けれど、本人の口から聞くまでは、動かずにいようと。
カーレンが自覚し、宣言した今、もう遠慮する必要はない。依織はにこっと笑った。
「そうですか。では、レンちゃんはイオの恋のライバルということですね」
「ライバル……敵、ということですか?」
「そうなのです。レンちゃんはお友達ですから仲良くしたいのですよ? でも、恋と友情は別なのです。
めーちゃんのことをあきらめるつもりも、引くつもりもないのです。だから、めーちゃんの心をつかむために、遠慮はしないですよ!」
宣戦布告。カーレンは軽く目を瞠り、次いで微笑んだ。
「はい。わたしも負けません」
今ここに、密やかに新たなる戦いの火蓋が切られた。
真剣な表情のリヒト。確かに、リーフェよりもシェーシアの方が居心地がいい。この星では種族の差別などないに等しい。
だから奇異の目にさらされることも、後ろ指を指されることもなくなる。
それにここならば、靁雯の影に怯えて暮らさなくてもいいかもしれない。だけど……
恩はコップを膝の上に置き、真面目な口調で答えた。
「リヒトの言うとおり、ここは俺の理想の世界で、居心地がいいよ。ずっとここで暮らせたら幸せだと思う。
でもな、リーフェには……大切なものがたくさんあるんだ。友達や、家族、それから……」
よぎる面影がある。リヒトに少し似た、光沢のある長い髪の男性。大切なひと。
今は訳あって離れているけれど、ずっと想い続けている。
彼を残して、ここで生きていくわけにはいかない。
呼べば彼はどこにだって飛んできてくれるだろう。でも、それではいけないのだ。
甘えたくないから。自信を持って、彼を必要だと言えるように。
実家を出たのはそのためでもあったから。ここで楽な道に逃げるわけにはいかない。
「かけがえのないひとを残してきてるから……俺はリーフェに帰るよ。ごめんな、リヒト」
まっすぐなまなざしに、リヒトは泣き笑いを浮かべた。
ああ、敵わないなぁ。なんて強い想いだろう。これほどに恩に想われている相手が羨ましい。
「それに、俺はあそこでやり残したことがある。俺は自分に与えられた役割を全うする」
靁雯……あいつとはいずれ闘わなくてはいけない。きっと一度や二度では済まない。決着がつくまで、この先いつまでも。
「正直、怖いし、勝てるかもわからないけど……それが俺の宿命なら、やってやるって決めたんだ」
力強く笑う恩。この人はとても重い宿命を背負っているのだろう。
それを受け入れ、前に進もうとしている。対して自分はどうだろう?
女しか生まれない森羅女の中で、希少な男として生まれたことを、空しく感じていた。
恨めしくもあったから、子孫の繁栄と種の存続を求める周囲の女たちが疎ましかった。
だから反抗して、男を好きになろうと思った。どうせ、みんなにとってボクは、子を作る道具。
誰を好きだろうと、自分の子孫を残せればそれでいいんでしょ? ボク自身が愛されてるわけじゃないんだ。
そう言い繕って、本当は逃げていたんだ。愛してもらえる自信がなかったから。
好きになっても、子を成したらサヨナラ、なんてなったら嫌だから、自分から切り捨ててたんだ。
(こんなんじゃ、誰からも愛されるわけないよね。まずは自分を受け入れて、愛さなくちゃ)
恩の揺るがない瞳は、遥か遠い未来を見据えているようで。
なんて遠い人だろう。自分なんかでは、この人には釣り合わない。
自分の運命から目をそむけて、ぶつかろうともしない自分では。
(完敗だよ、めぐ様。ボクじゃ君を支えきれないや)
なんだか少し悔しいから、最後に悪あがきをしてみるよ。
リヒトはくすっと笑うと、すっと恩の顔に自分の顔を寄せる。
縮まっていく距離。恩は軽く目を瞠ったが、よけようとはしなかった。
「リ、リヒトさまっ!」
鼻先がかすめるくらいの距離で、誰かに声をかけられた。
声の方を見ると、リヒトより幾分か年若い少女が胸で手を組み、戸惑いがちな表情で立っていた。
この村に来た時に、最初に出会ったあの村人だった。
「琴音ちゃん」
ずっと前から自分のもとに通ってきている少女だ。一番長く、そこそこに気心が知れている相手。
「邪魔をしてすみません! でもあたし、どうしてもリヒトさまに言いたいことがあって!」
「へっ」
言われて恩はハッとし、ぶわぁーっと赤面する。何やってるんだ俺!
(うわあああああっ! おっ、お、俺、いっ、今っ。危ねぇぇぇえええっ!)
うっかり雰囲気にのまれた。これ以上、男とキスしてたまるか。
少女は恩のことを気にして、ちらちらと見ていたが、意を決してリヒトに近づいた。
「リヒトさま! あたし、リヒトさまのことが好きです!」
目を丸くする恩。目の前で告白シーンを見たのは初めてだ。なんて勇気のある子だ。
(あ、今のうちにこの場を離れればよかった……)
今さら立ち去れない。恩は気まずそうにバール酒を飲み始める。リヒトはへらっと笑った。
「うん、知ってるよ~。みんなそう言ってくれてるもんね」
「あたしは……みんなみたいに、リヒトさまが誰を好きでもいいなんて思ってません!」
今度はリヒトが目を丸くする。琴音はリヒトの服の袖を掴み、顔を見上げた。
「リヒトさまは森羅女にとって大事な男性だから、みんなが大切にするのは分かる。
多くの子孫を残すために、複数の人と交わらなくちゃいけないってことも。
でもっ、本当は嫌なんです! 話をするだけじゃなくて、抱きしめてほしいって思うし、あたしだけを好きになってほしいんです……!」
こんなことを言われたのは初めてだった。
琴音が自分を慕ってくれているのは知っていたけれど、みんなと同じ理由だと思っていたから気にも留めていなかったのに。
本当に自分は何も見えていなかった。
こんなに真剣に想いを寄せてくれていた子を、ずっとないがしろにしていたなんて。
「わがままだって分かってます。図々しいことも重々承知です。だけどっ」
「もういいよ、琴音ちゃん」
リヒトが琴音の体を抱き寄せた。誰一人、こうして自分から抱きしめたことはない。
こんなにもあたたかいぬくもりを、自分から遠ざけていた。
「バカだよねぇ、ボクは。こんなに想われてることに気づかないで、他の人を好きになろうとしてたなんて」
「リヒトさま……?」
「ありがとね、こんなボクを好きになってくれて。今度からはちゃんと応えるから……もっとボクを好きでいてくれる?」
琴音は涙を浮かべ、ぎゅっとリヒトの服を掴み、頷いた。
なんだかよく分からないが、うまくいったのか? 恩はぽかんと二人を見つめていた。
リヒトは琴音を離すと、軽く頭を撫でた。
「なんだかお腹すいちゃった。食べ物でも取りに行こうか」
「は、はいっ」
「じゃ、めぐ様、悪いけどボク行くね~」
「えっ、あ、ああ……」
別に自分は一緒にいたかったわけではないのだが。
呆けていると、「あ、そうだ。琴音ちゃん、先行ってて」とリヒトが戻ってくる。
なんだ? と思っていると、リヒトは恩の耳元で何かを囁き、頬にキスをした。
「!?」
「えへへー、ボクからの餞別」
リヒトがしてやったりといった顔でウインクする。
油断してた! 恩は頬に手を当てて顔を赤らめ、立ち上がって手を振り回した。
「なっ、何するんだエロ吸血鬼ぃー!」
「あはは~」
リヒトはひょいっとよけて、石段を飛び下りた。
――めぐ様、好きだよ。
――初めはただの反抗心からだったけれど、いつの間にか本気で好きになっていたんだ。初めて、心から他人を愛したよ。
後ろで恩が何か喚いている。でも、もう振り返らない。
「ほんとは唇にしたかったけど、そんなことしたらコノ様たちに怒られちゃうからね!」
ひらひらっと肩越しに手を振り、今度こそリヒトは喧騒の中に紛れていく。
「……こんな餞別いらないっての。バカリヒト」
恩は俯いてぽつりと呟いた。リヒトからの最後の言葉。
『もう泣いていいよ。ありがと。さよなら、めぐ様』
ルカフィルを倒してから、恩は一人になってもけして泣かなかった。泣いてはいけないと思った。
リヒトは気にしなくていいとは言ったけれど、大事な家族を奪ったことに変わりない。
だから泣けなかった。涙を我慢することが、自分への罰だと思ったから。
――泣いていいよ。
けれど、リヒトがそう言ってくれた。自分を責めないで、自分を許してあげてほしいと。
恩は膝を抱え、顔をうずめた。押し殺していた涙がとめどなく溢れてくる。
「ナハト、さん……っ、ルカァ……っ!」
恩は声をあげて哭いた。その声は夜闇と喧騒にかき消されていく。
これからも続くであろう喪う悲しみと、重い宿命を胸に刻み、少年は独り嘆き続けた。